山本周五郎 赤ひげ診療譚 徒労に賭ける 7

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プレイ回数759難易度(4.3) 3526打 長文
映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第五話です。

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問題文

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(そのよる、ーーれいによっておそいばんめしがすんでから、)

その夜、ーー例によっておそい晩飯が済んでから、

(のぼるはきょじょうによばれてそのへやへいった。)

登は去定に呼ばれてその部屋へいった。

(きょじょうはつくえのわきにあるつつみをとって、のぼるのほうへさしだし、)

去定は机の脇にある包みを取って、登のほうへ差出し、

(ながいあいだすまなかったといった。)

長いあいだ済まなかったと云った。

(「なんでしょうか」とのぼるはきいた。)

「なんでしょうか」と登は訊いた。

(「いつかかりたひっきとずろくだ」)

「いつか借りた筆記と図録だ」

(のぼるはうなずいた。)

登は頷いた。

(それはかれがながさきへゆうがくしたときのもので、)

それは彼が長崎へ遊学したときのもので、

(かくかのびょうりやかいぼう、ちりょう、ちょうざいにわたるきろくで、)

各科の病理や解剖、治療、調剤にわたる記録で、

(このようじょうしょのみならいいになったとき、きょじょうにもとめられてていしゅつしたものであった。)

この養生所の見習医になったとき、去定に求められて呈出したものであった。

(「ひつようなところをひっしゃさせてもらった」ときょじょうはいった、)

「必要なところを筆写させてもらった」と去定は云った、

(「これはじしんのためではなく、びょうにんたちのためにやくだてるのだ、)

「これは自身のためではなく、病人たちのために役立てるのだ、

(ふふくかもしれないがりょうかいしてくれ」)

不服かもしれないが了解してくれ」

(のぼるはわきのしたにあせのにじむのをかんじた。)

登は腋の下に汗のにじむのを感じた。

(それは、はじめにそのひっきずろくをだせといわれたとき、)

それは、初めにその筆記図録を出せと云われたとき、

(かれはがんきょうに「これはわたしのものだ」とこばんだ。)

彼は頑強に「これは私のものだ」と拒んだ。

(とくにほんどう(ないか)のぶもんには、)

特に本道(内科)の部門には、

(かれなりにくふうしたしんだんほうやちりょうほうがあり、)

彼なりにくふうした診断法や治療法があり、

(それによっていかいになをあげることができる、としんじていたからである。)

それによって医界に名を挙げることができる、と信じていたからである。

(のぼるは「そこひのちりょうほうだけで)

登は「内障眼(そこひ)の治療法だけで

など

(てんかのめいいといわれたひとさえあるではないか」とまでいったものだ。)

天下の名医といわれた人さえあるではないか」とまで云ったものだ。

(「おれはきょう、ぬすみもやったといったが」ときょじょうはくしょうしながらいった、)

「おれは今日、盗みもやったと云ったが」と去定は苦笑しながら云った、

(「これもぬすみのひとつだろうな」)

「これも盗みの一つだろうな」

(「どうぞおゆるしください」のぼるはていとうした、)

「どうぞおゆるし下さい」登は低頭した、

(「あのときはふんべつがなかったのです、)

「あのときは分別がなかったのです、

(いまかんがえるとはずかしくってたまりません、)

いま考えると恥ずかしくってたまりません、

(おねがいですからもうおっしゃらないでください」)

お願いですからもう仰しゃらないで下さい」

(「おれもきょうのじぶんがはずかしい」きょじょうはひげをごしごしこすった、)

「おれも今日の自分が恥ずかしい」去定は髯をごしごし擦った、

(「すじもとおらぬあんなたわごとをならべ、)

「筋もとおらぬあんなたわ言を並べ、

(ひとりえらそうにいきりたったことをおもうとわれながらあさましくなる」)

独り偉そうにいきり立ったことを思うとわれながらあさましくなる」

(「せんせいはおこっていらしったのです」とのぼるがいった、)

「先生は怒っていらしったのです」と登が云った、

(「あのおとよというむすめのいえでふたりのならずものがぼうげんをはいた、)

「あのおとよという娘の家で二人のならず者が暴言を吐いた、

(そのときがまんなすったいかりが、)

そのときがまんなすった怒りが、

(したやへゆくとちゅうからではじめたのだとおもいます」)

下谷へゆく途中から出はじめたのだと思います」

(「それはすこしちがう、おれはあのふたりにはどうじょうこそしたが、)

「それは少し違う、おれはあの二人には同情こそしたが、

(けっしていかりはかんじなかった」)

決して怒りは感じなかった」

(「ーーどうじょうですって」)

「ーー同情ですって」

(「すうねんまえから、ああいうわかいやくざがふえるばかりだ」といって、)

「数年まえから、ああいう若いやくざがふえるばかりだ」と云って、

(きょじょうはたいそくをついた、)

去定は太息をついた、

(「そのげんいんのひとつはばくふのけんやくれいにある、)

「その原因の一つは幕府の倹約令にある、

(むようのがんぶつとぜいたくをきんじたのはいいが、)

無用の翫物(がんぶつ)と贅沢を禁じたのはいいが、

(そのとりしまりがどをこしたために、しょうとりひきがていたいし、)

その取締りが度を越したために、商取引が停滞し、

(とうさんするものやしょくをうしなうものがたすうにでた、)

倒産する者や職を失う者が多数に出た、

(またおおきなうめたてこうじや、かわぼりのふしんのちゅうしなどで、)

また大きな埋立て工事や、川堀の普請の中止などで、

(かせぎばをなくしたものもすくなくない、)

稼ぎ場をなくした者も少なくない、

(ーーそれでもねんぱいのかぞくもちや、)

ーーそれでも年配の家族持ちや、

(さいかくのあるものならなんとかいきるみちをつかむだろうが、)

才覚のある者ならなんとか生きるみちを掴むだろうが、

(まだきもちのかたまらないわかものなどはぐれてしまいやすい、)

まだ気持のかたまらない若者などはぐれてしまい易い、

(うまれつきやくざなしょうぶんをもっているものはべつとして、)

生れつきやくざな性分を持っている者はべつとして、

(ふつうのにんげんならだれしもまっとうにいきたいだろう、)

ふつうの人間なら誰しもまっとうに生きたいだろう、

(やくざ、ならずものなどといわれ、)

やくざ、ならず者などといわれ、

(このんでひとにきらわれるようなにんげんなどいるはずはない」)

好んで人に嫌われるような人間などいる筈はない」

(おれはきょうのふたりにかぎらず、まちをうろついているわかものたちをみると、)

おれは今日の二人に限らず、街をうろついている若者たちを見ると、

(かわいそうでたまらないきもちになる、ときょじょうはいった。)

可哀そうでたまらない気持になる、と去定は云った。

(「しょうかのしゅじんたちもどうようだ、おんなたちをあつかうむじょうでれいこくなやりかたをみると、)

「娼家の主人たちも同様だ、女たちを扱う無情で冷酷なやりかたを見ると、

(つかまえてさかづりにでもしてやりたいとおもう、)

捉まえて逆吊りにでもしてやりたいと思う、

(はじめのうちはいつもそうだったし、)

初めのうちはいつもそうだったし、

(いまでもしばしばそういういかりにおそわれるが、よくちゅういしてみると、)

いまでもしばしばそういう怒りにおそわれるが、よく注意してみると、

(かれらもどんよくだけでやっているとはかぎらない、やはりまずしさというてんでは、)

かれらも貪欲だけでやっているとは限らない、やはり貧しさという点では、

(やとっているおんなたちにおとらないようなれいがすくなくないことがわかる」)

雇っている女たちに劣らないような例が少なくないことがわかる」

(きょじょうはそこでちょっとくちをつぐみ、こんどはじぶんをせめるようなちょうしでつづけた、)

去定はそこでちょっと口をつぐみ、こんどは自分を責めるような調子で続けた、

(「ーーせけんからはみだし、せけんからうとまれきらわれ、)

「ーー世間からはみだし、世間から疎まれ嫌われ、

(にくまれたりけいぶされたりするものたちは、)

憎まれたり軽侮されたりする者たちは、

(むしろしょうじきできのよわい、ぜんりょうではあるがさいちにかけたにんげんがおおい、)

むしろ正直で気の弱い、善良ではあるが才知に欠けた人間が多い、

(これらがせっぱつまったじょうたいにぶっつかると、)

これらがせっぱ詰まった状態にぶっつかると、

(じめつするか、ぜひのはんだんをうしなってひどいことをする、)

自滅するか、是非の判断を失ってひどいことをする、

(かれらにはつねにせっぱつまるじょうけんがついてまわるし、)

かれらにはつねにせっぱ詰まる条件が付いてまわるし、

(そのおおくはじめつしてしまうけれども、やけになってひどうなことをするにんげんは、)

その多くは自滅してしまうけれども、やけになって非道なことをする人間は、

(さいちにかけているだけにそのやりかたもけたはずれになりがちだ、)

才知に欠けているだけにそのやりかたも桁外れになりがちだ、

(それはやすもともずいぶんみてきたことだろう」)

それは保本もずいぶん見て来たことだろう」

(このよからはいとくやざいあくをなくすることはできないかもしれない。)

この世から背徳や罪悪を無くすることはできないかもしれない。

(しかし、それらのだいぶぶんがひんこんとむちからきているとすれば、)

しかし、それらの大部分が貧困と無知からきているとすれば、

(すくなくともひんこんとむちをこくふくするようなどりょくがはらわれなければならないはずだ。)

少なくとも貧困と無知を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。

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