戯作三昧(四)
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問題文
(よん)
四
(ざくろぐちのなかは、ゆうがたのようにうすぐらい。それにゆげが、きりよりもふかく)
柘榴口の中は、夕方のようにうす暗い。それに湯気が、霧よりも深く
(こめている。めのわるいばきんは、そのなかにいるひとびとのあいだを、あぶなそうに)
こめている。眼の悪い馬琴は、その中にいる人々の間を、あぶなそうに
(おしわけながら、どうにかふろのすみをさぐりあてると、)
押しわけながら、どうにか風呂の隅をさぐり当てると、
(やっとそこへしわだらけなからだをひたした。)
やっとそこへ皺だらけな体を浸した。
(ゆかげんはすこしあついくらいである。かれはそのあついゆがつめのさきにしみこむのを)
湯加減は少し熱いくらいである。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを
(かんじながら、ながいいきをして、おもむろにふろのなかをみまわした。)
感じながら、長い呼吸をして、おもむろに風呂の中を見廻した。
(うすぐらいなかにうかんでいるあたまのかずは、ななつやっつもあろうか。)
うす暗い中に浮んでいる頭の数は、七つ八つもあろうか。
(それがみなはなしをしたり、うたをうたったりしているまわりには、)
それが皆話しをしたり、唄をうたったりしているまわりには、
(にんげんのあぶらをとかした、なめらかなゆのおもてが、ざくろぐちからさすにごったひかりにはんしゃして、)
人間の脂を溶かした、滑らかな湯の面が、柘榴口からさす濁った光に反射して、
(たいくつそうにたぶたぶとうごいている。)
退屈そうにたぶたぶと動いている。
(そこへむねのわるい「せんとうのにおい」がむんとひとのはなをついた。)
そこへ胸の悪い「銭湯の匂い」がむんと人の鼻をついた。
(ばきんのくうそうには、むかしからろまんてぃくなけいこうがある。かれはこのふろのゆげのなかに、)
馬琴の空想には、昔から羅曼的な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、
(かれがえがこうとするしょうせつのじょうけいのひとつを、おもいうかべるともなくおもいうかべた。)
彼が描こうとする小説の場景の一つを、思い浮べるともなく思い浮べた。
(そこにはおもいふなひおいがある。ひおいのそとのうみは、ひのくれとともにかぜがでた)
そこには重い舟日覆がある。日覆の外の海は、日の暮れとともに風が出た
(らしい。ふなべりをうつなみのおとが、まるであぶらをゆするように、おもくるしくきこえてくる。)
らしい。舷をうつ浪の音が、まるで油を揺するように、重苦しく聞えて来る。
(そのおととともに、ひおいをはためかすのは、おおかたこうもりのはおとであろう。)
その音とともに、日覆をはためかすのは、おおかた蝙蝠の羽音であろう。
(かこのひとりは、それをきにするように、そっとふなべりからそとをのぞいてみた。)
舟子の一人は、それを気にするように、そっと舷から外をのぞいてみた。
(きりのおりたうみのうえには、あかいみかづきがいんいんとそらにかかっている。すると・・・・・・)
霧の下りた海の上には、赤い三日月が陰々と空にかかっている。すると……
(かれのくうそうは、ここまできて、きゅうにやぶられた。おなじざくろぐちのなかで、だれかかれのよみほんの)
彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の読本の
(ひひょうをしているのが、ふとかれのみみへはいったからである。しかも、それは)
批評をしているのが、ふと彼の耳へはいったからである。しかも、それは
(こえといい、はなしようといい、ことさらかれにきかせようとして、しゃべりたてて)
声といい、話しようといい、ことさら彼に聞かせようとして、しゃべり立てて
(いるらしい。ばきんはいったんふろをでようとしたが、やめて、)
いるらしい。馬琴はいったん風呂を出ようとしたが、やめて、
(じっとそのひひょうをききすました。)
じっとその批評を聞き澄ました。
(「きょくていせんせいの、ちょさくどうしゅじんのと、おおきなことをいったって、ばきんなんぞの)
「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きなことを言ったって、馬琴なんぞの
(かくものは、みんなありゃやきなおしでげす。はやいはなしがはっけんでんは、てもなく)
書くものは、みんなありゃ焼き直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく
(すいこでんのひきうつしじゃげえせんか。が、そりゃまあおおめにみても、いいすじが)
水滸伝の引き写しじゃげえせんか。が、そりゃまあ大目に見ても、いい筋が
(ありやす。なにしろさきがからのものでげしょう。そこで、まずそれをよんだという)
ありやす。なにしろ先が唐の物でげしょう。そこで、まずそれを読んだという
(だけでも、ひとてがらさ。ところがそこへまたずぶきょうでんのにばんせんじときちゃ、)
だけでも、一手柄さ。ところがそこへまたずぶ京伝の二番煎じと来ちゃ、
(あきれかえってはらもたちやせん。」)
呆れ返って腹も立ちやせん。」
(ばきんはかすむめで、このあっこうをいっているおとこのほうをすかしてみた。)
馬琴はかすむ眼で、この悪口を言っている男の方を透して見た。
(ゆげにさえぎられて、はっきりとみえないが、どうもさっきそばにいた)
湯気にさえぎられて、はっきりと見えないが、どうもさっき側にいた
(すがめのこいちょうででもあるらしい。そうとすればこのおとこは、さっきへいきちがはっけんでんを)
眇の小銀杏ででもあるらしい。そうとすればこの男は、さっき平吉が八犬伝を
(ほめたのにごうをにやして、わざとばきんにあたりちらしているのであろう。)
褒めたのに業を煮やして、わざと馬琴に当りちらしているのであろう。
(「だいいちばきんのかくものは、ほんのふでさきいってんばりでげす。まるではらには、なんにも)
「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで腹には、何にも
(ありやせん。あればまずてらこやのししょうでもいいそうな、ししょごきょうのこうしゃくだけ)
ありやせん。あればまず寺子屋の師匠でも言いそうな、四書五経の講釈だけ
(でげしょう。だからまたとうせいのことは、とんとごぞんじなしさ。)
でげしょう。だからまた当世のことは、とんと御存じなしさ。
(それがしょうこにゃ、むかしのことでなけりゃ、かいたというためしはとんとげえせん。)
それが証拠にゃ、昔のことでなけりゃ、書いたというためしはとんとげえせん。
(おそめひさまつがおそめひさまつじゃかけねえもんだから、そらしょうせんじょうしあきのななくささ。)
お染久松がお染久松じゃ書けねえもんだから、そら松染情史秋七草さ。
(こんなことは、ばきんうしのくちまねをすれば、そのためしさわにおおかりでげす。」)
こんなことは、馬琴大人の口真似をすれば、そのためしさわに多かりでげす。」
(ぞうおのかんじょうは、どっちかゆうえつのいしきをもっているいじょう、おこしたくもおこされない。)
憎悪の感情は、どっちか優越の意識を持っている以上、起したくも起されない。
(ばきんもあいてのいいぐさがしゃくにさわりながら、みょうにそのあいてがにくめなかった。)
馬琴も相手の言いぐさが癪にさわりながら、妙にその相手が憎めなかった。
(そのかわりにかれじしんのけいべつを、ひょうはくしてやりたいというよくぼうがある。それが)
その代りに彼自身の軽蔑を、表白してやりたいという欲望がある。それが
(じっこうにうつされなかったのは、おそらくねんれいがはどめをかけたせいであろう。)
実行に移されなかったのは、おそらく年齢が歯止めをかけたせいであろう。
(「そこへいくと、いっくやさんばはたいしたものでげす。あのてあいのかくものには)
「そこへ行くと、一九や三馬はたいしたものでげす。あの手合いの書くものには
(てんねんしぜんのにんげんがでていやす。けっしてこてさきのきようやなまかじりのがくもんで、)
天然自然の人間が出ていやす。決して小手先の器用や生かじりの学問で、
(でっちあげたものじゃげえせん。そこがおおきにさりゅうけんいんじゃなんぞとは、)
でっちあげたものじゃげえせん。そこが大きに蓑笠軒隠者なんぞとは、
(ちがうところさ。」)
ちがうところさ。」
(ばきんのけいけんによると、じぶんのよみほんのあくひょうをきくということは、たんにふかいである)
馬琴の経験によると、自分の読本の悪評を聞くということは、単に不快である
(ばかりでなく、きけんもまたすくなくない。というのは、)
ばかりでなく、危険もまた少なくない。というのは、
(そのあくひょうをぜにんするために、ゆうきが、そそうするといういみではなく、)
その悪評を是認するために、勇気が、沮喪するという意味ではなく、
(それをひにんするために、そのあとのそうさくてきどうきに、はんどうてきなものがくわわる)
それを否認するために、その後の創作的動機に、反動的なものが加わる
(といういみである。そうしてそういうふじゅんなどうきからしゅっぱつするけっか、)
という意味である。そうしてそういう不純な動機から出発する結果、
(しばしばきけいなげいじゅつをそうぞうするおそれがあるといういみである。)
しばしば畸形な芸術を創造する惧れがあるという意味である。
(じこうにとうずることのみをもくてきとしているさくしゃはべつとして、すこしでもきはくのある)
時好に投ずることのみを目的としている作者は別として、少しでも気魄のある
(さくしゃなら、このきけんにはぞんがいおちいりやすい。だからばきんは、このとしまでじぶんの)
作者なら、この危険には存外おちいりやすい。だから馬琴は、この年まで自分の
(よみほんにたいするあくひょうは、なるべくよまないようにこころがけてきた。が、そうおもい)
読本に対する悪評は、なるべく読まないように心がけて来た。が、そう思い
(ながらもまた、いっぽうには、そのあくひょうをよんでみたいというゆうわくがないでもない。)
ながらもまた、一方には、その悪評を読んでみたいという誘惑がないでもない。
(いま、このふろで、このこいちょうのあっこうをきくようになったのも、なかばはそのゆうわくに)
今、この風呂で、この小銀杏の悪口を聞くようになったのも、半ばはその誘惑に
(おちいったからである。)
おちいったからである。
(こうきのついたかれは、すぐにべんべんとまだゆにひたっているじぶんのぐをせめた。)
こう気のついた彼は、すぐに便々とまだ湯に浸っている自分の愚を責めた。
(そうして、かんだかいこいちょうのこえをききながしながら、ざくろぐちをそとへいきおいよくまたいで)
そうして、癇高い小銀杏の声を聞き流しながら、柘榴口を外へ勢いよくまたいで
(でた。そとには、ゆげのあいだにまどのあおぞらがみえ、そのあおぞらにはあたたかくひをあびたかきが)
出た。外には、湯気の間に窓の青空が見え、その青空には暖かく日を浴びた柿が
(みえる。ばきんはみずぶねのまえへきて、こころしずかにあがりゆをつかった。)
見える。馬琴は水槽の前へ来て、心静かに上がり湯を使った。
(「とにかく、ばきんはくわせものでげす。にほんのらかんちゅうもよくできやした。」)
「とにかく、馬琴は食わせ物でげす。日本の羅貫中もよく出来やした。」
(しかしふろのなかではさっきのおとこが、まだばきんがいるとでもおもうのか、いぜんとして)
しかし風呂の中ではさっきの男が、まだ馬琴がいるとでも思うのか、依然として
(もうれつなふぃりっぴくすをはっしつづけている。ことによると、これはそのすがめに)
猛烈なフィリッピクスを発しつづけている。ことによると、これはその眇に
(わざわいされて、かれのざくろぐちをまたいででるすがたが、みえなかったからかもしれない。)
災いされて、彼の柘榴口をまたいで出る姿が、見えなかったからかも知れない。