戯作三昧(九)

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投稿者投稿者鳴きウサギ(鹿の声)いいね1お気に入り登録
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問題文

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(きゅう)

(いずみやいちべえをおいかえすと、ばきんはひとりえんがわのはしらへよりかかって、せまいにわの)

和泉屋市兵衛を逐い帰すと、馬琴は独り縁側の柱へよりかかって、狭い庭の

(けしきをながめながら、まだおさまらないはらのむしを、むりにおさめようとして、)

景色を眺めながら、まだおさまらない腹の虫を、むりにおさめようとして、

(ほねをおった。)

骨を折った。

(ひのひかりをいっぱいにあびたにわさきには、はのさけたばしょうや、ぼうずになりかかった)

日の光をいっぱいに浴びた庭先には、葉の裂けた芭蕉や、坊主になりかかった

(あおぎりが、まきやたけのみどりといっしょになって、あたたかくなんつぼかのあきをりょうしている。)

梧桐が、槇や竹の緑といっしょになって、暖かく何坪かの秋を領している。

(こっちのちょうずばちのかたわらにあるふようは、もうはながまばらになったが、むこうの、そでがきの)

こっちの手水鉢の側にある芙蓉は、もう花が疎になったが、向うの、袖垣の

(そとにうえたもくせいは、まだそのあまいにおいがおとろえない。そこへれいのとびのこえが)

外に植えた木犀は、まだその甘い匂いが衰えない。そこへ例の鳶の声が

(はるかなあおぞらのむこうから、ときどきふえをふくようにおちてきた。)

はるかな青空の向うから、時々笛を吹くように落ちて来た。

(かれは、このしぜんとたいしょうさせて、いまさらのようにせけんのかとうさをおもいだした。)

彼は、この自然と対照させて、今さらのように世間の下等さを思い出した。

(かとうなせけんにすむにんげんのふこうは、そのかとうさにわずらわされて、じぶんもまたかとうな)

下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩わされて、自分もまた下等な

(げんどうをよぎなくさせられるところにある。げんにいまじぶんは、いずみやいちべえを)

言動を余儀なくさせられるところにある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を

(おいはらった。おいはらうということは、もちろんこうとうなことでもなんでもない。)

逐い払った。逐い払うということは、もちろん高等なことでもなんでもない。

(が、じぶんはあいてのかとうさによって、じぶんもまたそのかとうなことを、しなくては)

が、自分は相手の下等さによって、自分もまたその下等なことを、しなくては

(ならないところまでおしつめられたのである。そうして、した。)

ならないところまで押しつめられたのである。そうして、した。

(したといういみはいちべえとおなじていどまで、じぶんをいやしくしたというのに)

したという意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑しくしたというのに

(ほかならない。つまりじぶんは、それだけだらくさせられたわけである。)

ほかならない。つまり自分は、それだけ堕落させられたわけである。

(ここまでかんがえたときに、かれはそれとおなじようなできごとを、ちかいかこのきおくに)

ここまで考えた時に、彼はそれと同じような出来事を、近い過去の記憶に

(はっけんした。それはきょねんのはる、かれのところへでしいりをしたいといっててがみを)

発見した。それは去年の春、彼のところへ弟子入りをしたいと言って手紙を

(よこした、そうしゅうくちきかみしんでんとかのながしままさべえというおとこである。このおとこは)

よこした、相州朽木上新田とかの長島政兵衛という男である。この男は

など

(そのてがみによると、にじゅういちのとしにつんぼになっていらい、にじゅうしのきょうまでぶんぴつを)

その手紙によると、二十一の年につんぼになって以来、二十四の今日まで文筆を

(もっててんかにしられたいというけっしんで、もっぱらよみほんのちょさくにせいをだした。)

もって天下に知られたいという決心で、もっぱら読本の著作に精を出した。

(はっけんでんやじゅんとうきのあいどくしゃであることはいうまでもない。ついてはこういういなかに)

八犬伝や巡島記の愛読者であることは言うまでもない。ついてはこういう田舎に

(いては、なにかとしゅぎょうのさまたげになる。だから、あなたのところへ、しょっかくに)

いては、何かと修業の妨げになる。だから、あなたのところへ、食客に

(おいてもらうわけにはいくまいか。それからまた、じぶんはろくさつもののよみほんのげんこうを)

置いて貰うわけには行くまいか。それからまた、自分は六冊物の読本の原稿を

(もっている。これもあなたのひっさくをうけて、しかるべきほんやからしゅっぱんしたい。)

持っている。これもあなたの筆削を受けて、しかるべき本屋から出版したい。

(ーーだいたいこんなことをかいてよこした。むこうのようきゅうは、もちろんみなばきんに)

ーー大体こんなことを書いてよこした。向うの要求は、もちろんみな馬琴に

(とって、あまりにむしのいいことばかりである。が、みみのとおいということが、)

とって、あまりに虫のいいことばかりである。が、耳の遠いということが、

(めのわるいのをくにしているかれにとって、いくぶんのどうじょうをつなぐくさびになったので)

眼の悪いのを苦にしている彼にとって、幾分の同情をつなぐ楔子になったので

(あろう。せっかくだがごいらいどおりになりかねるというかれのへんじは、むしろ)

あろう。せっかくだが御依頼通りになりかねるという彼の返事は、むしろ

(かれとしては、ていちょうをきわめていた。すると、おりかえしてきたてがみには、)

彼としては、鄭重を極めていた。すると、折り返して来た手紙には、

(はじめからしまいまでもうれつなひなんのもんくのほかに、なにひとつかいてない。)

始めからしまいまで猛烈な非難の文句のほかに、何一つ書いてない。

(じぶんはあなたのはっけんでんといい、じゅんとうきといい、あんなながたらしい、せつれつなよみほんを)

自分はあなたの八犬伝といい、巡島記といい、あんな長たらしい、拙劣な読本を

(こんきよくよんであげたが、あなたはわたしのたったろくさつもののよみほんにめをとおすのさえ)

根気よく読んであげたが、あなたは私のたった六冊物の読本に眼を通すのさえ

(こばまれた。もってあなたのじんかくのかとうさがわかるではないか。ーーてがみは)

拒まれた。もってあなたの人格の下等さがわかるではないか。ーー手紙は

(こういうもんくではじまって、せんぱいとしてこうはいをしょっかくにおかないのは、ひりんの)

こういう文句ではじまって、先輩として後輩を食客に置かないのは、鄙吝の

(なすところだというこうげきで、わずかにきょくをむすんでいる。ばきんははらがたったから、)

なすところだという攻撃で、わずかに局を結んでいる。馬琴は腹が立ったから、

(すぐにへんじをかいた。そうしてそのなかに、じぶんのよみほんがきこうのようなけいはくじに)

すぐに返事を書いた。そうしてその中に、自分の読本が貴公のような軽薄児に

(よまれるのは、いっしょうのちじょくだというもんくをいれた。そのあとようとしてしょうそくを)

読まれるのは、一生の恥辱だという文句を入れた。その後杳として消息を

(きかないが、かれはまだいままで、よみほんのこうをおこしているだろうか。そうしてそれが)

聞かないが、彼はまだ今まで、読本の稿を起しているだろうか。そうしてそれが

(いつかにほんじゅうのにんげんによまれることを、むそうしているだろうか。・・・・・・・・・・・・)

いつか日本中の人間に読まれることを、夢想しているだろうか。…………

(ばきんはこのきおくのなかに、ながしままさべえなるものにたいするなさけなさと、かれじしんに)

馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情けなさと、彼自身に

(たいするなさけなさとをどうじにかんぜざるをえなかった。そうしてそれはまたかれを、)

対する情けなさとを同時に感ぜざるを得なかった。そうしてそれはまた彼を、

(いいようのないさびしさにみちびいた。が、ひはむしんにもくせいのにおいをとかしている。)

言いようのない寂しさに導いた。が、日は無心に木犀の匂いを融かしている。

(ばしょうやあおぎりも、ひっそりとしてはをうごかさない。とびのこえさえいぜんのとおり)

芭蕉や梧桐も、ひっそりとして葉を動かさない。鳶の声さえ以前の通り

(ほがらかである。このしぜんとあのにんげんとーーじっぷんのあと、げじょのすぎがひるめしのしたくの)

朗かである。この自然とあの人間とーー十分の後、下女の杉が昼飯の支度の

(できたことをしらせにきたときまで、かれはまるでゆめでもみているように、ぼんやり)

出来たことを知らせに来た時まで、彼はまるで夢でも見ているように、ぼんやり

(えんがわのはしらによりつづけていた。)

縁側の柱に倚りつづけていた。

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