戯作三昧(十五)
関連タイピング
-
プレイ回数10万歌詞200打
-
プレイ回数4044かな314打
-
プレイ回数96万長文かな1008打
-
プレイ回数3.2万歌詞1030打
-
プレイ回数2052歌詞1426打
-
プレイ回数36長文2816打
-
プレイ回数25万長文786打
-
プレイ回数3031歌詞かな155打
問題文
(じゅうご)
十五
(そのよるのことである。)
その夜のことである。
(ばきんはうすぐらいまるあんどうのひかりのもとで、はっけんでんのこうをつぎはじめた。しっぴつちゅうは)
馬琴は薄暗い円行燈の光のもとで、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は
(かないのものも、このしょさいへははいってこない。ひっそりしたへやのなかでは、)
家内のものも、この書斎へははいって来ない。ひっそりした部屋の中では、
(とうしんのあぶらをすうおとが、こおろぎのこえとともに、むなしくよながのさびしさをかたっている。)
燈心の油を吸う音が、蟋蟀の声とともに、むなしく夜長の寂しさを語っている。
(はじめふでをおろしたとき、かれのあたまのなかには、かすかなひかりのようなものがうごいていた。)
始め筆を下した時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。
(が、じゅうぎょうにじゅうぎょうと、ふでがすすむのにしたがって、そのひかりのようなものは、しだいに)
が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に
(おおきさをましてくる。けいけんじょう、そのなにであるかをしっていたばきんは、)
大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知っていた馬琴は、
(ちゅういにちゅういをして、ふでをはこんでいった。しんらいのきょうはひとすこしもかわりがない。)
注意に注意をして、筆を運んで行った。神来の興は火と少しも変りがない。
(おこすことをしらなければ、いちどもえても、すぐにまたきえてしまう。・・・・・・)
起すことを知らなければ、一度燃えても、すぐにまた消えてしまう。……
(「あせるな。そうしてできるだけ、ふかくかんがえろ。」)
「あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ。」
(ばきんはややもすればはしりそうなふでをいましめながら、なんどもこうじぶんに)
馬琴はややもすれば走りそうな筆をいましめながら、何度もこう自分に
(ささやいた。が、あたまのなかにはもうさっきのほしをくだいたようなものが、)
ささやいた。が、頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、
(かわよりもはやくながれている。そうしてそれがこくこくにちからをくわえてきて、)
川よりも早く流れている。そうしてそれが刻々に力を加えて来て、
(いやおうなしにかれをおしやってしまう。)
否応なしに彼を押しやってしまう。
(かれのみみにはいつか、こおろぎのこえがきこえなくなった。かれのめにも、まるあんどうのかすかな)
彼の耳にはいつか、蟋蟀の声が聞えなくなった。彼の眼にも、円行燈のかすかな
(ひかりが、いまはすこしもくにならない。ふではおのずからいきおいをしょうじて、いっきにかみのうえを)
光が、今は少しも苦にならない。筆はおのずから勢いを生じて、一気に紙の上を
(すべりはじめる。かれはしんじんとあいうつようなたいどで、ほとんどひっしに)
すべりはじめる。彼は神人と相搏つような態度で、ほとんど必死に
(かきつづけた。)
書きつづけた。
(あたまのなかのながれは、ちょうどそらをはしるぎんがのように、こんこんとしてどこからかあふれて)
頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々としてどこからか溢れて
(くる。かれはそのすさまじいいきおいをおそれながら、じぶんのにくたいのちからがまんいちそれに)
来る。彼はそのすさまじい勢いを恐れながら、自分の肉体の力が万一それに
(たえられなくなるばあいをきづかった。そうして、かたくふでをにぎりながら、)
耐えられなくなる場合を気づかった。そうして、かたく筆を握りながら、
(なんどもこうじぶんによびかけた。)
何度もこう自分に呼びかけた。
(「こんかぎりかきつづけろ。いまおれがかいていることは、いまでなければかけないこと)
「根かぎり書きつづけろ。今己が書いていることは、今でなければ書けないこと
(かもしれないぞ。」)
かも知れないぞ。」
(しかしひかりのもやににたながれは、すこしもそのそくりょくをゆるめない。かえって)
しかし光の靄に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって
(めまぐるしいひやくのうちに、あらゆるものをおぼらせながら、ほうはいとしてかれを)
目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を
(おそってくる。かれはついにまったくそのとりこになった。そうしていっさいをわすれながら、)
襲って来る。彼は遂に全くその虜になった。そうして一切を忘れながら、
(そのながれのほうこうに、あらしのようないきおいでふでをかった。)
その流れの方向に、嵐のような勢いで筆を駆った。
(このときかれのおうじゃのようなめにうつっていたものは、りがいでもなければ、あいぞうでも)
この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でも
(ない。ましてきよにわずらわされるこころなどは、とうにがんていをはらってきえてしまった。)
ない。まして毀誉に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。
(あるのは、ただふかしぎなよろこびである。あるいはこうこつたるひそうのかんげきである。)
あるのは、ただ不可思議な悦びである。あるいは恍惚たる悲壮の感激である。
(このかんげきをしらないものに、どうしてげさくざんまいのしんきょうがみとうされよう。どうして)
この感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして
(げさくしゃのおごそかなたましいがりかいされよう。ここにこそ「じんせい」は、あらゆるそのざんしを)
戯作者の厳かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓を
(あらって、まるであたらしいこうせきのように、うつくしくさくしゃのまえに、かがやいているでは)
洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているでは
(ないか。・・・・・・)
ないか。……
(そのあいだもちゃのまのあんどうのまわりでは、しゅうとのおひゃくと、よめのおみちとが、むかいあって)
その間も茶の間の行燈のまわりでは、姑のお百と、嫁のお路とが、向い合って
(ぬいものをつづけている。たろうはもうねかせたのであろう。すこしはなれたところには)
縫い物を続けている。太郎はもう寝かせたのであろう。少し離れたところには
(おうじゃくらしいそうはくが、さっきからがんやくをまろめるのにいそがしい。)
尫弱らしい宗伯が、さっきから丸薬をまろめるのに忙しい。
(「おとっさんはまだねないかねえ。」)
「お父様はまだ寝ないかねえ。」
(やがておひゃくは、はりへかみのあぶらをつけながら、ふふくらしくつぶやいた。)
やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。
(「きっとまたおかきもので、むちゅうになっていらっしゃるのでしょう。」)
「きっとまたお書きもので、夢中になっていらっしゃるのでしょう。」
(おみちはめをはりからはなさずに、へんじをした。)
お路は眼を針から離さずに、返事をした。
(「こまりものだよ。ろくなおかねにもならないのにさ。」)
「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」
(おひゃくはこういって、せがれとよめとをみた。そうはくはきこえないふりをして、こたえない。)
お百はこう言って、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答えない。
(おみちもだまってはりをはこびつづけた。こおろぎはここでも、しょさいでも、かわりなく)
お路も黙って針を運びつづけた。蟋蟀はここでも、書斎でも、変りなく
(あきをなきつくしている。)
秋を鳴きつくしている。