あばばばば 3/3

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投稿者投稿者鳴きウサギ(鹿の声)いいね2お気に入り登録
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芥川龍之介

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問題文

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(あるあきもふかまったごご、やすきちはたばこをかったついでにこのみせのでんわをしゃくようした。)

或秋も深まつた午後、保吉は煙草を買つた次手にこの店の電話を借用した。

(しゅじんはひのあたったみせのまえにくうきぽんぷをうごかしながら、じてんしゃのしゅうぜんにとり)

主人は日の当つた店の前に空気ポンプを動かしながら、自転車の修繕に取り

(かかっている。こぞうもきょうはつかいにでたらしい。おんなはあいかわらずかんじょうだいのまえに)

かかつてゐる。小僧もけふは使ひに出たらしい。女は不相変勘定台の前に

(うけとりかなにかせいりしている。こういうみせのこうけいはいつみてもわるいものではない。)

受取りか何か整理してゐる。かう云ふ店の光景はいつ見ても悪いものではない。

(どこかおらんだのふうぞくがじみた、ものしずかなこうふくにあふれている。やすきちはおんなの)

何処か阿蘭陀のふうぞく画じみた、もの静かな幸福に溢れてゐる。保吉は女の

(すぐうしろにじゅわきをみみへあてたまま、かれのあいぞうするしゃしんばんの)

すぐ後ろに受話器を耳へ当てたまま、彼の愛蔵する写真版の

(dehoogheのいちまいをおもいだした。)

De Hoogheの一枚を思ひ出した。

(しかしでんわはいつになっても、よういにせんぽうへつうじないらしい。のみならず)

しかし電話はいつになつても、容易に先方へ通じないらしい。のみならず

(こうかんしゅもどうしたのか、いちにど「なんばんへ?」をくりかえしたあとはぜんぜんちんもくをまもって)

交換手もどうしたのか、一二度「何番へ?」を繰り返した後は全然沈黙を守つて

(いる。やすきちはなんどもべるをならした。が、じゅわきはかれのみみへぶつぶついうおとを)

ゐる。保吉は何度もベルを鳴らした。が、受話器は彼の耳へぶつぶつ云ふ音を

(つたえるだけである。こうなればもうdehoogheなどをおもいだしている)

伝へるだけである。かうなればもうDe Hoogheなどを思ひ出してゐる

(ばあいではない。やすきちはまずぽけっとからspargoの「しゃかいしゅぎ)

場合ではない。保吉はまづポケツトから Spargo の「社会主義

(はやわかり」をだした。さいわいでんわにはけんだいのようにふたのなぞえになったはこも)

早わかり」を出した。幸ひ電話には見台のやうに蓋のなぞへになつた箱も

(ついている。かれはそのはこにほんをのせると、めはかつじをひろいながら、ては)

ついてゐる。彼はその箱に本を載せると、目は活字を拾ひながら、手は

(できるだけゆっくりとごうじょうにべるをならしだした。これはおうちゃくなこうかんしゅにたいする)

出来るだけゆつくりと強情にベルを鳴らし出した。これは横着な交換手に対する

(かれのせんぽうのひとつである。いつかぎんざおわりちょうのじどうでんわへはいったときにはやはり)

彼の戦法の一つである。いつか銀座尾張町の自働電話へはひつた時にはやはり

(べるをならしならし、とうとう「さはしじんごろう」をかんぜんにいっぺんよんでしまった。)

ベルを鳴らし鳴らし、とうとう「佐橋甚五郎」を完全に一篇読んでしまつた。

(きょうもこうかんしゅのでないうちはだんじてべるのてをやめないつもりである。)

けふも交換手の出ない中は断じてベルの手をやめないつもりである。

(さんざんこうかんしゅとけんかしたあげく、やっとでんわをかけおわったのはにじゅっぷんばかりののち)

さんざん交換手と喧嘩した挙句、やつと電話をかけ終つたのは二十分ばかりの後

(である。やすきちはれいをいうためにうしろのかんじょうだいをふりかえった。するとそこにはだれも)

である。保吉は礼を云ふ為に後ろの勘定台をふり返つた。すると其処には誰も

など

(いない。おんなはいつかみせのとぐちになにかしゅじんとはなしている。しゅじんはまだあきのひなたに)

ゐない。女はいつか店の戸口に何か主人と話してゐる。主人はまだ秋の日向に

(じてんしゃのしゅうぜんをつづけているらしい。やすきちはそちらへあるきだそうとした。が、)

自転車の修繕をつづけてゐるらしい。保吉はそちらへ歩き出さうとした。が、

(おもわずあしをとめた。おんなはかれにせをむけたまま、こんなことをしゅじんにたずねている。)

思はず足を止めた。女は彼に背を向けたまま、こんなことを主人に尋ねてゐる。

(「さっきね、あなた、ぜんまいこーひーとかっておきゃくがあったんですがね、ぜんまい)

「さつきね、あなた、ゼンマイ珈琲とかつてお客があつたんですがね、ゼンマイ

(こーひーってあるんですか?」)

珈琲つてあるんですか?」

(「ぜんまいこーひー?」)

「ゼンマイ珈琲?」

(しゅじんのこえはさいくんにもきゃくにたいするようなぶあいそうである。)

主人の声は細君にも客に対するやうな無愛想である。

(「げんまいこーひーのききちがえだろう。」)

「玄米珈琲の聞き違へだらう。」

(「げんまいこーひー?ああ、げんまいからこしらえたこーひー。ーーなんだかおかしいと)

「ゲンマイ珈琲? ああ、玄米から拵へた珈琲。ーー何だか可笑しいと

(おもっていた。ぜんまいってやおやにあるものでしょう?」)

思つてゐた。ゼンマイつて八百屋にあるものでせう?」

(やすきちはふたりのうしろすがたをながめた。どうじにまたてんしのきているのをかんじた。てんしは)

保吉は二人の後ろ姿を眺めた。同時に又天使の来てゐるのを感じた。天使は

(はむのぶらさがったてんじょうのあたりをひようしたまま、なんにもしらぬふたりのうえへしゅくふくを)

ハムのぶら下つた天井のあたりを飛揚したまま、何にも知らぬ二人の上へ祝福を

(さずけているのにちがいない。もっともくんせいのにしんのにおいにかおだけはちょいとしかめている。)

授けてゐるのに違ひない。尤も燻製の鯡の匂に顔だけはちよいとしかめてゐる。

(ーーやすきちはとつぜんくんせいのにしんをかいわすれたことをおもいだした。にしんはかれのはなのさきに)

ーー保吉は突然燻製の鯡を買ひ忘れたことを思ひ出した。鯡は彼の鼻の先に

(あさましいけいがいをかさねている。)

浅ましい形骸を重ねてゐる。

(「おい、きみ、このにしんをくれたまえ。」)

「おい、君、この鯡をくれ給へ。」

(おんなはたちまちふりかえった。ふりかえったのはちょうどぜんまいのやおやにあることをさっした)

女は忽ち振り返つた。振り返つたのは丁度ゼンマイの八百屋にあることを察した

(ときである。おんなはもちろんそのはなしをきかれたとおもったのにちがいない。ねこににたかおは)

時である。女は勿論その話を聞かれたと思つたのに違ひない。猫に似た顔は

(めをあげたとおもうとみるみるはずかしそうにそまりだした。やすきちはまえにも)

目を挙げたと思ふと見る見る羞かしさうに染まり出した。保吉は前にも

(いうとおり、おんながかおをあかめるのにはいままでにもたびたびであっている。けれどもまだ)

云ふ通り、女が顔を赤めるのには今までにも度たび出合つてゐる。けれどもまだ

(このときほど、まっかになったのをみたことはない。)

この時ほど、まつ赤になつたのを見たことはない。

(「は、にしんを?」)

「は、鯡を?」

(おんなはこごえにといかえした。)

女は小声に問ひ返した。

(「ええ、にしんを。」)

「ええ、鯡を。」

(やすきちもぜんごにこのときだけははなはだしゅしょうにへんじをした。)

保吉も前後にこの時だけは甚だ殊勝に返事をした。

(こういうできごとのあったのち、ふたつきばかりたったころであろう、たしかよくとしのしょうがつの)

かう云ふ出来事のあつた後、二月ばかりたつた頃であらう、確か翌年の正月の

(ことである。おんなはどこへどうしたのか、ぱったりすがたをかくしてしまった。それも)

ことである。女は何処へどうしたのか、ぱつたり姿を隠してしまつた。それも

(みっかやいつかではない。いつかいものにはいってみても、ふるいすとおヴをすえたみせ)

三日や五日ではない。いつ買ひ物にはひつて見ても、古いストオヴを据ゑた店

(にはれいのすがめのしゅじんがひとり、たいくつそうにすわっているばかりである。やすきちはちょいと)

には例の眇の主人が一人、退屈さうに坐つてゐるばかりである。保吉はちよいと

(ものたらなさをかんじた。またおんなのみえないりゆうにいろいろそうぞうをくわえなどもした。)

もの足らなさを感じた。又女の見えない理由にいろいろ想像を加へなどもした。

(が、わざわざぶあいそうなしゅじんに「おかみさんは?」とたずねるこころもちにもならない。)

が、わざわざ無愛想な主人に「お上さんは?」と尋ねる心もちにもならない。

(またじっさいしゅじんはもちろんあのはにかみやのおんなにも、「なになにをくれたまえ」というほかには)

又実際主人は勿論あのはにかみ屋の女にも、「何々をくれ給へ」と云ふ外には

(あいさつさえかわしたことはなかったのである。)

挨拶さへ交したことはなかつたのである。

(そのうちにふゆざれたみちのうえにも、たまにいちにちかふつかずつあたたかいひかげがさすように)

その内に冬ざれた路の上にも、たまに一日か二日づつ暖い日かげがさすやうに

(なった。けれどもおんなはかおをみせない。みせはやはりしゅじんのまわりにこうりょうとした)

なつた。けれども女は顔を見せない。店はやはり主人のまはりに荒涼とした

(くうきをただよわせている。やすきちはいつかすこしずつおんなのいないことをわすれだした。・・・・・・)

空気を漂はせてゐる。保吉はいつか少しづつ女のゐないことを忘れ出した。……

(するとにがつのすえのあるよる、がっこうのいぎりすごこうえんかいをやっときりあげたやすきちは)

すると二月の末の或夜、学校の英吉利語講演会をやつと切り上げた保吉は

(なまあたたかいなんぷうにふかれながら、かくべつかいものをするきもなしにふとこのみせのまえを)

生暖い南風に吹かれながら、格別買ひ物をする気もなしにふとこの店の前を

(とおりかかった。みせにはでんとうのともったうちにせいようしゅのびんやかんづめなどがきらびやか)

通りかかつた。店には電燈のともつた中に西洋酒の罎や罐詰めなどがきらびやか

(にならんでいる。これはもちろんふしぎではない。しかしふときがついてみると、みせの)

に並んでゐる。これは勿論不思議ではない。しかしふと気がついて見ると、店の

(まえにはおんながひとり、りょうてにあかごをかかえたまま、たわいもないことをしゃべっている。)

前には女が一人、両手に赤子を抱へたまま、多愛もないことをしやべつてゐる。

(やすきちはみせからおうらいへさした、はばのひろいでんとうのひかりにたちまちそのわかいははの)

保吉は店から往来へさした、幅の広い電燈の光りに忽ちその若い母の

(だれであるかをはっけんした。)

誰であるかを発見した。

(「あばばばばばば、ばあ!」)

「あばばばばばば、ばあ!」

(おんなはみせのまえをあるきあるき、おもしろそうにあかごをあやしている。それがあかごを)

女は店の前を歩き歩き、面白さうに赤子をあやしてゐる。それが赤子を

(ゆりあげるひょうしにぐうぜんやすきちとめをあわした。やすきちはとっさにおんなのめのしゅんじゅんするようす)

揺り上げる拍子に偶然保吉と目を合はした。保吉は咄嗟に女の目の逡巡する容子

(をそうぞうした。それからよめにもおんなのかおのあかくなるようすをそうぞうした。しかしおんなは)

を想像した。それから夜目にも女の顔の赤くなる容子を想像した。しかし女は

(すましている。めもしずかにほほえんでいれば、かおもきょうしゅうなどはうかべていない。)

澄ましてゐる。目も静かに頬笑んでゐれば、顔も嬌羞などは浮べてゐない。

(のみならずいがいないっしゅんかんののち、ゆりあげたあかごへめをおとすと、ひとまえもはじずに)

のみならず意外な一瞬間の後、揺り上げた赤子へ目を落すと、人前も羞ぢずに

(くりかえした。)

繰り返した。

(「あばばばばばば、ばあ!」)

「あばばばばばば、ばあ!」

(やすきちはおんなをうしろにしながら、われしらずにやにやわらいだした。おんなはもう)

保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑ひ出した。女はもう

(「あのおんな」ではない。どきょうのいいははのひとりである。ひとたびこのためになったが)

「あの女」ではない。度胸の好い母の一人である。一たび子の為になつたが

(さいご、こらいいかなるあくじをもおかした、おそろしい「はは」のひとりである。このへんかは)

最後、古来如何なる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化は

(もちろんおんなのためにはあらゆるしゅくふくをあたえてもいい。しかしむすめじみたさいくんのかわりに)

勿論女の為にはあらゆる祝福を与へても好い。しかし娘じみた細君の代りに

(ずうずうしいははをみだしたのは、・・・・・・やすきちはあゆみつづけたまま、ぼうぜんといえいえのそらを)

図々しい母を見出したのは、……保吉は歩みつづけたまま、茫然と家々の空を

(みあげた。そらにはなんぷうのわたるうちにまるいはるのつきがひとつ、しろじろとかすかに)

見上げた。空には南風の渡る中に円い春の月が一つ、白じろとかすかに

(かかっている。・・・・・・)

かかつてゐる。……

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