一塊の土 3/4

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投稿者投稿者鳴きウサギ(鹿の声)いいね1お気に入り登録
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芥川龍之介

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(「そりゃそのほうがいいだよう。こどものなりもみよくしたり、じぶんもこぎれいに)

「そりやその方が好いだよう。子供のなりも見好くしたり、自分も小綺麗に

(なったりするはやっぱしうきよのかざりだよう。」)

なつたりするはやつぱし浮世の飾りだよう。」

(「でもさあ、いまのわけえもんはいったいにのらしごとがきらいだよう。ーーおや、なんずら、)

「でもさあ、今の若え者は一体に野良仕事が嫌ひだよう。ーーおや、何ずら、

(いまのおとは?」)

今の音は?」

(「いまのおとはえ?ありゃおめえさん、うしのへだわね。」)

「今の音はえ? ありやお前さん、牛の屁だわね。」

(「うしのへかえ?ふんとうにまあ。ーーもっともえんてんに こうらをほしほし、あわのくさとり)

「牛の屁かえ? ふんとうにまあ。ーー尤も炎天に甲羅を干し干し、粟の草取り

(をするのなんか、わけえときにゃつらいからね。」)

をするのなんか、若え時にや辛いからね。」

(ふたりのろうばはこういうふうにたいていへいわにはなしあうのだった。)

二人の老婆はかう云ふ風に大抵平和に話し合ふのだつた。

(にたろうのしごはちねんあまり、おたみはおんなのてひとつにいっかのくらしをささえつづけた。)

仁太郎の死後八年余り、お民は女の手一つに一家の暮らしを支へつづけた。

(どうじにまたいつかおたみのなはいっそんのそとへもひろがりだした。おたみはもう「かせぎびょう」に)

同時に又いつかお民の名は一村の外へも弘がり出した。お民はもう「稼ぎ病」に

(よもひもあけないわかごけではなかった。いわんやむらのわかしゅなどの「わかいおばさん」)

夜も日も明けない若後家ではなかつた。況や村の若衆などの「若い小母さん」

(ではなおさらなかった。そのかわりによめのてほんだった。いまのよのていじょのかがみだった。)

ではなほ更なかつた。その代りに嫁の手本だつた。今の世の貞女の鑑だつた。

(「さわむこうのおたみさんをみろ。」ーーそういうことばはこごとといっしょにだれのくちからも)

「沢向うのお民さんを見ろ。」ーーさう云ふ言葉は小言と一しよに誰の口からも

(でるくらいだった。おすみはかのじょのくるしみをとなりのばあさんにさえうったえなかった。うったえたい)

出る位だつた。お住は彼女の苦しみを隣の婆さんにさへ訴へなかつた。訴へたい

(ともまたおもわなかった。しかしかのじょのこころのそこに、はっきりいしきしなかったにしろ、)

とも亦思はなかつた。しかし彼女の心の底に、はつきり意識しなかつたにしろ、

(どこかてんどうをあてにしていた。そのたのみもとうとうみずのあわになった。いまはもうまごの)

何処か天道を当にしてゐた。その頼みもとうとう水の泡になつた。今はもう孫の

(ひろつぐよりほかにたのみになるものはひとつもなかった。おすみはじゅうにさんになったまごへ)

広次より外に頼みになるものは一つもなかつた。お住は十二三になつた孫へ

(ひっしのあいをかたむけかけた。けれどもこのさいごのたのみもとだえそうになることは)

必死の愛を傾けかけた。けれどもこの最後の頼みも途絶えさうになることは

(たびたびだった。)

度たびだつた。

(あるあきばれのつづいたごご、ほんづつみをかかえたまごのひろつぐは、あたふたがっこうからかえって)

或秋晴のつづいた午後、本包みを抱へた孫の広次は、あたふた学校から帰つて

など

(きた。おすみはちょうどなやのまえにきようにほうちょうをうごかしながら、はちやがきをつるしがきに)

来た。お住は丁度納屋の前に器用に庖丁を動かしながら、蜂屋柿を吊し柿に

(こしらえていた。ひろつぐはあわのもみをほしたむしろをみがるにいちまいとびこえたとおもうと、)

拵へてゐた。広次は粟の籾を干した筵を身軽に一枚飛び越えたと思ふと、

(ちゃんとりょうあしをそろえたまま、ちょっとそぼにきょしゅのれいをした。それからなんの)

ちやんと両足を揃へたまま、ちよつと祖母に挙手の礼をした。それから何の

(つぎほもなしに、こうまじめにたずねかけた。)

次穂もなしに、かう真面目に尋ねかけた。

(「ねえ、おばあさん。おらのおかあさんはうんとえらいひとかい?」)

「ねえ、おばあさん。おらのお母さんはうんと偉い人かい?」

(「なぜや?」)

「なぜや?」

(おすみはほうちょうのてをやすめるなり、まごのかおをみつめずにはいられなかった。)

お住は庖丁の手を休めるなり、孫の顔を見つめずにはゐられなかつた。

(「だってせんせいがの、しゅうしんのじかんにそういったぜ。ひろつぐのおかあさんはこのきんざいに)

「だつて先生がの、修身の時間にさう云つたぜ。広次のお母さんはこの近在に

(ふたりとないえらいひとだって。」)

二人とない偉い人だつて。」

(「せんせいがの?」)

「先生がの?」

(「うん、せんせいが。うそだのう?」)

「うん、先生が。譃だのう?」

(おすみはまずろうばいした。まごさえがっこうのせんせいなどにそんなおおうそをおしえられている、)

お住はまづ狼狽した。孫さへ学校の先生などにそんな大譃を教へられてゐる、

(ーーじっさいおすみにはこのくらいいがいなできごとはないのだった。が、いっしゅんのろうばいののち、)

ーー実際お住にはこの位意外な出来事はないのだつた。が、一瞬の狼狽の後、

(ほっさてきのいかりにおそわれたおすみはべつじんのようにおたみをののしりだした。)

発作的の怒に襲はれたお住は別人のやうにお民を罵り出した。

(「おお、うそだとも、うそのかわだわ。おまえのおかあさんというひとはな、そとでばっかはたらく)

「おお、譃だとも、譃の皮だわ。お前のお母さんと云ふ人はな、外でばつか働く

(せえに、ひとまえはえらくいいけんどな、こころはうんとわるなひとだわ。おばあさんばっか)

せえに、人前は偉く好いけんどな、心はうんと悪な人だわ。おばあさんばつか

(おいまわしてな、きばっかむやみとつよくってな、・・・・・・」)

追ひ廻してな、気ばつか無暗と強くつてな、……」

(ひろつぐはただおどろいたように、いろをかえたそぼをながめていた。そのうちにおすみは)

広次は唯驚いたやうに、色を変へた祖母を眺めてゐた。そのうちにお住は

(はんどうのきたのか、たちまちまたなみだをこぼしはじめた。)

反動の来たのか、忽ち又涙をこぼしはじめた。

(「だからな、このおばあさんはな、われひとりをたのみにいきているだぞ。わりゃ)

「だからな、このおばあさんはな、われ一人を頼みに生きてゐるだぞ。わりや

(それをわすれるじゃねえぞ。われもやがてじゅうしちになったら、すぐによめをもらってな、)

それを忘れるぢやなえぞ。われもやがて十七になつたら、すぐに嫁を貰つてな、

(おばあさんにいきをさせるようにするんだぞ。おかあさんは ちょうへいがすむまぢやあ)

おばあさんに息をさせるやうにするんだぞ。お母さんは徴兵がすむまぢやあ

(なんか、きのなげえことをいってるがな、どうしてどうしてまてるもんか!)

なんか、気の長えことを云つてるがな、どうしてどうして待てるもんか!

(いいか?わりゃおばあさんにおとうさんとふたりぶんこうこうするだぞ。そうすりゃ)

好いか? わりやおばあさんにお父さんと二人分孝行するだぞ。さうすりや

(おばあさんもわるいようにゃしねえ。なんでもわれにくれてやるからな。・・・・・・」)

おばあさんも悪いやうにやしなえ。何でもわれにくれてやるからな。……」

(「このかきもうんだら、おらにくれる?」)

「この柿も熟んだら、おらにくれる?」

(ひろつぐはもうものほしそうにかごのなかのかきをいじっていた。)

広次はもうもの欲しさうに籠の中の柿をいぢつてゐた。

(「おおさえ。くれねえで。わりゃとしはいかねえでも、なんでもよくわかってる。)

「おおさえ。くれなえで。わりや年は行かなえでも、何でもよくわかつてる。

(いつまでもそのきをなくすじゃねえぞ。」)

いつまでもその気をなくすぢやなえぞ。」

(おすみはなみだをながしながし、しゃくりをするようにわらいだした。・・・・・・)

お住は涙を流し流し、吃逆をするやうに笑ひ出した。……

(こういうしょうじけんのあったよくばん、おすみはとうとう ちょっとしたことから、おたみとも)

かう云ふ小事件のあつた翌晩、お住はとうとうちよつとしたことから、お民とも

(はげしいいさかいをした。ちょっとしたこととはおたみのくういもをおすみのくったとか)

烈しいいさかひをした。ちよつとしたこととはお民の食ふ藷をお住の食つたとか

(いうことだけだった。しかしだんだんいいつのるうちに、おたみはれいしょうをうかべ)

云ふことだけだつた。しかしだんだん云ひ募るうちに、お民は冷笑を浮べ

(ながら、「おまえさんはたらくのがいやになったら、しぬよりほかはねえよ」といった。)

ながら、「お前さん働くのが厭になつたら、死ぬより外はなえよ」と云つた。

(するとおすみはひごろににあわず、きちがいのようにたけりだした。ちょうどこのときまごのひろつぐ)

するとお住は日頃に似合はず、気違ひのやうに吼り出した。丁度この時孫の広次

(はそぼのひざをまくらにしたまま、とうにすやすやねいっていた。が、おすみはそのまご)

は祖母の膝を枕にしたまま、とうにすやすや寝入つてゐた。が、お住はその孫

(さえ、「ひろ、こう、おきろ」とゆすりおこしたうえ、いつまでもこうののしりつづけた。)

さへ、「広、かう、起きろ」と揺すり起した上、いつまでもかう罵りつづけた。

(「ひろ、こう、おきろ。ひろ、こう、おきて、おかあさんのいいぐさをきいてくよう。)

「広、かう、起きろ。広、かう、起きて、お母さんの云ひ草を聞いてくよう。

(おかあさんはおらにしねっていっているぞ。な、よくきけ。 そりゃおかあさんのだいに)

お母さんはおらに死ねつて云つてゐるぞ。な、よく聞け。そりやお母さんの代に

(なって、ぜにはすこしはふえつらけんど、いっちょうさんたんのはたけはな、ありゃみんなおじい)

なつて、銭は少しは殖えつらけんど、一町三段の畠はな、ありやみんなおぢい

(さんとおばあさんとのかいこんしたもんだぞ。そりょうどうだ?おかあさんはらくが)

さんとおばあさんとの開墾したもんだぞ。そりようどうだ? お母さんは楽が

(したけりゃしねっていってるぞ。ーーおたみ、おらはしぬべえよう。なんのしぬこと)

したけりや死ねつて云つてるぞ。ーーお民、おらは死ぬべえよう。何の死ぬこと

(がこわいもんじゃ。いいや、てめえのさしずなんかうけねえ。おらはしぬだ。)

が怖いもんぢや。いいや、手前の指図なんか受けなえ。おらは死ぬだ。

(どうあってもしぬだ。しんでてめえにとっついてやるだ。・・・・・・」)

どうあつても死ぬだ。死んで手前にとつ着いてやるだ。……」

(おすみはおおごえにののしりののしり、なきだしたまごとだきあっていた。が、おたみはあいかわらず)

お住は大声に罵り罵り、泣き出した孫と抱き合つてゐた。が、お民は不相変

(ごろりとろばたへねころんだなり、そらみみをはしらせているばかりだった。)

ごろりと炉側へ寝ころんだなり、そら耳を走らせてゐるばかりだつた。

(けれどもおすみはしななかった。そのかわりによくとしのどようあけまえ、じょうぶじまんのおたみは)

けれどもお住は死ななかつた。その代りに翌年の土用明け前、丈夫自慢のお民は

(ちょうちぶすにかかり、はつびょうごようかめにしんでしまった。もっともとうじちょうちぶすかんじゃはこの)

腸チブスに罹り、発病後八日目に死んでしまつた。尤も当時腸チブス患者はこの

(ちいさいいっそんのなかにもなんにんでたかわからなかった。しかもおたみははつびょうするまえに、)

小さい一村の中にも何人出たかわからなかつた。しかもお民は発病する前に、

(やはりちぶすのためにたおれたかじやのそうしきのあなほりやくにいった。かじやにはまだ)

やはりチブスの為に倒れた鍛冶屋の葬式の穴掘り役に行つた。鍛冶屋にはまだ

(そうしきのひにやっとひびょういんへおくられるでしのこぞうものこっていた。「あのときにきっと)

葬式の日にやつと避病院へ送られる弟子の小僧も残つてゐた。「あの時にきつと

(うつったずら」ーーおすみはいしゃのかえったあと、かおを まっかにしたかんじゃのおたみにこう)

移つたずら」ーーお住は医者の帰つた後、顔をまつ赤にした患者のお民にかう

(ひなんをほのめかせたりした。)

非難を仄かせたりした。

(おたみのそうしきのひはあめふりだった。しかしむらのものはそんちょうをはじめ、ひとりものこらず)

お民の葬式の日は雨降りだつた。しかし村のものは村長を始め、一人も残らず

(かいそうした。かいそうしたものはまたひとりものこらずわかじにしたおたみをおしんだり、だいじの)

会葬した。会葬したものは又一人も残らず若死したお民を惜しんだり、大事の

(かせぎにんをうしなったひろつぐやおすみをあわれんだりした。ことにむらのそうだいやくはぐんでもちかぢかに)

稼ぎ人を失つた広次やお住を憐んだりした。殊に村の総代役は郡でも近々に

(おたみのきんろうをひょうしょうするはずだったということをはなした。おすみはただそういうことばに)

お民の勤労を表彰する筈だつたと云ふことを話した。お住は唯さう云ふ言葉に

(あたまをさげるよりほかはなかった。「まあうんだとあきらめるだよ。わしらもおたみさん)

頭を下げるより外はなかつた。「まあ運だとあきらめるだよ。わし等もお民さん

(のひょうしょうについちゃ、きょねんからぐんやくしょへねがいじょうをだすしさ、そんちょうさんやわしは)

の表彰に就いちや、去年から郡役所へ願ひ状を出すしさ、村長さんやわしは

(きしゃちんをつかってごどもぐんちょうさんにあいにいくしさ、やさしいほねをおったことじゃ)

汽車賃を使つて五度も郡長さんに会ひに行くしさ、やさしい骨を折つたことぢや

(ねえ。だがの、わしらもあきらめるだから、おまえさんもひとつあきらめるだ。」)

なえ。だがの、わし等もあきらめるだから、お前さんも一つあきらめるだ。」

(ーーひとのいいはげあたまのそうだいやくはこうじょうだんなどもつけくわえた。それをまたわかい)

ーー人の好い禿げ頭の総代役はかう常談などもつけ加へた。それを又若い

(しょうがくきょういんはふかいそうにじろじろながめたりした。)

小学教員は不快さうにじろじろ眺めたりした。

(おたみのそうしきをすましたよる、おすみはぶつだんのあるおくべやのすみにひろつぐとひとつかやへ)

お民の葬式をすました夜、お住は仏壇のある奥部屋の隅に広次と一つ蚊帳へ

(はいっていた。ふだんはもちろんふたりともまっくらにしたなかにねむるのだった。が、)

はひつてゐた。ふだんは勿論二人ともまつ暗にした中に眠るのだつた。が、

(こんやはぶつだんにはまだとうみょうもともっていた。そのうえみょうなしょうどくやくのにおいもふるだたみに)

今夜は仏壇にはまだ燈明もともつてゐた。その上妙な消毒薬の匂も古畳に

(しみこんでいるらしかった。おすみはそんなこんなのせいか、いつまでもよういに)

しみこんでゐるらしかつた。お住はそんなこんなのせゐか、いつまでも容易に

(ねつかれなかった。おたみのしはたしかにかのじょのうえへおおきいこうふくをもたらしていた。)

寝つかれなかつた。お民の死は確かに彼女の上へ大きい幸福を齎してゐた。

(かのじょはもうはたらかずともよかった。こごとをいわれるしんぱいもなかった。そこへちょきんは)

彼女はもう働かずとも好かつた。小言を云はれる心配もなかつた。其処へ貯金は

(さんぜんえんもあり、はたけはいっちょうさんたんばかりあった。これからはまいにちまごといっしょに)

三千円もあり、畠は一町三段ばかりあつた。これからは毎日孫と一しよに

(こめのめしをくうのもかってだった。ひごろこうぶつのしおますをたわらでとるのもまたかってだった。)

米の飯を食ふのも勝手だつた。日頃好物の塩鱒を俵で取るのも亦勝手だつた。

(おすみはまだいっしょうのうちにこのくらいほっとしたおぼえはなかった。このくらいほっとした?)

お住はまだ一生のうちにこの位ほつとした覚えはなかつた。この位ほつとした?

(ーーしかしきおくははっきりとくねんまえのあるよるをよびおこした。あのよるもひといきついた)

ーーしかし記憶ははつきりと九年前の或夜を呼び起した。あの夜も一息ついた

(ことをおもえば、ほとんどこんやにかわらなかった。あれはげんざいちをわけたせがれのそうしきの)

ことを思へば、殆ど今夜に変らなかつた。あれは現在血をわけた倅の葬式の

(すんだよるだった。こんやは?ーーこんやもひとりのまごをうんだよめのそうしきのすんだ)

すんだ夜だつた。今夜は?ーー今夜も一人の孫を産んだ嫁の葬式のすんだ

(ばかりだった。)

ばかりだつた。

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