陰翳礼讃 8

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谷崎潤一郎
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問題文

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(わたしはけんちくのことについてはまったくもんがいかんであるが、せいようのじいんのごしっくけんちくと)

私は建築のことについては全く門外漢であるが、西洋の寺院のゴシック建築と

(いうものはやねがたかくたかくとがって、そのさきがてんにひひせんとしているところに)

云うものは屋根が高く/\尖って、その先が天に冲せんとしているところに

(びかんがぞんするのだという。これにかえして、われわれのくにのがらんではたてもののうえに)

美観が存するのだと云う。これに反して、われ/\の国の伽藍では建物の上に

(まずおおきないらかをふせて、そのひさしがつくりだすふかいひろいかげのなかへぜんたいのこうぞうを)

まず大きな甍を伏せて、その庇が作り出す深い廣い蔭の中へ全体の構造を

(とりこんでしまう。じいんのみならず、きゅうでんでも、しょみんのじゅうたくでも、)

取り込んでしまう。寺院のみならず、宮殿でも、庶民の住宅でも、

(そとからみてもっともめだつものは、あるばあいにはかわらぶき、あるばあいにはかやぶきの)

外から見て最も眼立つものは、或る場合には瓦葺き、或る場合には茅葺きの

(おおきなやねと、そのひさしのしたにただようこいやみである。ときとすると、)

大きな屋根と、その庇の下にたゞよう濃い闇である。時とすると、

(はくちゅうといえどものきからしたにはどうけつのようなやみがめぐっていてとぐちもとびらもかべもはしらも)

白昼といえども軒から下には洞穴のような闇が繞っていて戸口も扉も壁も柱も

(ほとんどみえないことすらある。これはちおんいんやほんがんじのようなこうそうなけんちくでも、)

殆ど見えないことすらある。これは知恩院や本願寺のような宏壮な建築でも、

(くさぶかいいなかのひゃくしょうやでもどうようであって、むかしのたいがいなたてものがのきからしたと)

草深い田舎の百姓家でも同様であって、昔の大概な建物が軒から下と

(のきからうえのやねのぶぶんとをくらべると、すくなくともめでみたところでは、)

軒から上の屋根の部分とを比べると、少くとも眼で見たところでは、

(やねのほうがおもく、うずたかく、めんせきがおおきくかんぜられる。)

屋根の方が重く、堆く、面積が大きく感ぜられる。

(さようにわれわれがじゅうきょをいとなむには、なによりもやねというかさをひろげてだいちに)

左様にわれ/\が住居を営むには、何よりも屋根と云う傘を拡げて大地に

(いっかくのひかげをおとし、そのうすぐらいいんえいのなかにいえづくりをする。)

一廓の日かげを落し、その薄暗い陰翳の中に家造りをする。

(もちろんせいようのかおくにもやねがないわけではないが、それはにっこうをしゃへいするよりも)

もちろん西洋の家屋にも屋根がない訳ではないが、それは日光を遮蔽するよりも

(うろをしのぐためのほうがおもであって、かげはなるべくつくらないようにし、)

雨露をしのぐための方が主であって、蔭はなるべく作らないようにし、

(すこしでもおおくないぶをあかりにさらすようにしていることは、がいけいをみてもうなずかれる。)

少しでも多く内部を明りに曝すようにしていることは、外形を見ても頷かれる。

(にほんのやねをかさとすれば、せいようのそれはぼうしでしかない。)

日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。

(しかもとりうちぼうしのようにできるだけつばをちいさくし、にっこうのちょくしゃをちかぢかと)

しかも鳥打帽子のように出来るだけ鍔を小さくし、日光の直射を近々と

(のきばにうける。けだしにほんいえのやねのひさしがながいのは、きこうふうどや、けんちくざいりょうや、)

軒端に受ける。けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、

など

(そのたいろいろのかんけいがあるのであろう。たとえばれんがやがらすや)

その他いろ/\の関係があるのであろう。たとえば煉瓦やガラスや

(せめんとのようなものをつかわないところから、よこなぐりのふううをふせぐためには)

セメントのようなものを使わないところから、横なぐりの風雨を防ぐためには

(ひさしをふかくするひつようがあったであろうし、にほんじんとてくらいへやよりはあかるいへやを)

庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を

(べんりとしたにちがいないが、ぜひなくああなったのでもあろう。)

便利としたに違いないが、是非なくあゝなったのでもあろう。

(が、びというものはつねにせいかつのじっさいからはったつするもので、くらいへやにすむことを)

が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを

(よぎなくされたわれわれのせんぞは、いつしかいんえいのうちにびをはっけんし、)

餘儀なくされたわれ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、

(やがてはびのもくてきにそうようにいんえいをりようするにいたった。)

やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。

(じじつ、にほんざしきのびはまったくいんえいののうたんによってうまれているので、それいがいになにも)

事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何も

(ない。せいようじんがにほんざしきをみてそのかんそなのにおどろき、ただはいいろのかべが)

ない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、たゞ灰色の壁が

(あるばかりでなんのそうしょくもないというふうにかんじるのは、かれらとしてはいかさま)

あるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま

(もっともであるけれども、それはいんえいのなぞをかいしないからである。われわれは、)

尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。われ/\は、

(それでなくてもたいようのこうせんのはいりにくいざしきのそとがわへ、)

それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、

(とびさしをだしたりえんがわをつけたりしていっそうにっこうをとおのける。そしてしつないへは、)

土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、

(にわからのはんしゃがしょうじをすかしてほのあかるくしのびこむようにする。)

庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。

(われわれのざしきのびのようそは、このかんせつのにぶいこうせんにほかならない。)

われ/\の座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。

(われわれは、このちからのない、わびしい、かかんはかないこうせんが、しんみり)

われ/\は、この力のない、わびしい、果敢はかない光線が、しんみり

(おちついてざしきのかべへしみこむように、わざとちょうしのよわいいろのすなかべをぬる。)

落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。

(どぞうとか、くりやとか、ろうかのようなところへぬるにはてりをつけるが、)

土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには照りをつけるが、

(ざしきのかべはほとんどすなかべで、めったにひからせない。もしひからせたら、)

座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、

(そのとぼしいこうせんの、やわらかいよわいあじがきえる。われらはどこまでも、)

その乏しい光線の、柔かい弱い味が消える。われ等は何処までも、

(みるからにおぼつかなげながいこうが、たそがれしょくのかべのめんにとりついてからくも)

見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて辛くも

(よめいをたもっている、あのせんさいなあかるさをたのしむ。われらにとっては)

餘命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。我等に取っては

(このかべのうえのあかるさあるいはほのぐらさがなにもののそうしょくにもまさるのであり、)

この壁の上の明るさ或はほのぐらさが何物の装飾にも優るのであり、

(しみじみとみあきがしないのである。さればそれらのすなかべがそのあかるさを)

しみ/″\と見飽きがしないのである。さればそれらの砂壁がその明るさを

(みださないようにとただいちといろのむじにぬってあるのもとうぜんであって、)

乱さないようにとたゞ一と色の無地に塗ってあるのも当然であって、

(ざしきごとにすこしずつじいろはちがうけれども、なんとそのちがいのかすかであることよ。)

座敷毎に少しずつ地色は違うけれども、何とその違いの微かであることよ。

(それはいろのちがいというよりもほんのわずかなのうたんのさい、)

それは色の違いと云うよりもほんの僅かな濃淡の差異、

(みるひとのきぶんのそういというほどのものでしかない。しかも)

見る人の気分の相違と云う程のものでしかない。しかも

(そのかべのいろのほのかなちがいによって、またいくらかずつおのおののへやの)

その壁の色のほのかな違いに依って、また幾らかずつ各々の部屋の

(いんえいがことなったしきちょうをおびるのである。もっともわれらのざしきにも)

陰翳が異なった色調を帯びるのである。尤も我等の座敷にも

(とこのまというものがあって、かけじくをかざりばなをいけるが、)

床の間と云うものがあって、掛け軸を飾り花を活けるが、

(しかしそれらのじくやはなもそれじたいがそうしょくのやくをしているよりも、)

しかしそれらの軸や花もそれ自体が装飾の役をしているよりも、

(いんえいにふかみをそえるほうがしゅになっている。われらはひとつのじくをかけるにも、)

陰翳に深みを添える方が主になっている。われらは一つの軸を掛けるにも、

(そのじくものとそのとこのまのかべとのちょうわ、すなわち「ゆかうつり」をだいいちにたっとぶ。)

その軸物とその床の間の壁との調和、即ち「床うつり」を第一に貴ぶ。

(われらがかけじくのないようをなすしょやえのこうせつとどうようのじゅうようさをひょうぐにおくのも、)

われらが掛け軸の内容を成す書や絵の巧拙と同様の重要さを表具に置くのも、

(じつにそのためであって、ゆかうつりがわるかったらいかなるめいしょがもかけじくとしての)

実にそのためであって、床うつりが悪かったら如何なる名書画も掛け軸としての

(かちがなくなる。それとはんたいにひとつのどくりつしたさくひんとしてはたいしたけっさくでも)

価値がなくなる。それと反対に一つの独立した作品としては大した傑作でも

(ないようなしょがが、ちゃのまのゆかにかけてみると、ひじょうにそのへやとのちょうわがよく)

ないような書画が、茶の間の床に掛けてみると、非常にその部屋との調和がよく

(じくもざしきもにわかにひきたつばあいがある。そしてそういうしょが、)

軸も座敷も俄かに引き立つ場合がある。そしてそう云う書画、

(それじしんとしてはかくべつのものでもないじくもののどこがちょうわするのかといえば、)

それ自身としては格別のものでもない軸物の何処が調和するのかと云えば、

(それはつねにそのじがみや、すみいろや、ひょうぐのきれがもっているこしょくにあるのだ。)

それは常にその地紙や、墨色や、表具の裂が持っている古色にあるのだ。

(そのこしょくがそのとこのまやざしきのくらさとてきぎなつりあいをたもつのだ。)

その古色がその床の間や座敷の暗さと適宜な釣り合いを保つのだ。

(われわれはよくきょうとやならのめいさつをたずねて、そのてらのたからものといわれるじくものが、)

われ/\はよく京都や奈良の名刹を訪ねて、その寺の宝物と云われる軸物が、

(おくふかいだいしょいんのとこのまにかかっているのをみせられるが、そういうとこのまは)

奥深い大書院の床の間にかゝっているのを見せられるが、そう云う床の間は

(たいがいひるもうすぐらいので、ずがらなどはみわけられない、ただあんないにんのせつめいを)

大概昼も薄暗いので、図柄などは見分けられない、たゞ案内人の説明を

(ききながらきえかかったすみいろのあとをたどってたぶんりっぱなえなのであろうと)

聞きながら消えかゝった墨色のあとを辿って多分立派な絵なのであろうと

(そうぞうするばかりであるが、しかしそのぼやけたこがとくらいとこのまとの)

想像するばかりであるが、しかしそのぼやけた古画と暗い床の間との

(とりあわせがどうにもしっくりしていて、ずがらのふせんめいなどはいささかももんだいでない)

取り合わせが如何にもしっくりしていて、図柄の不鮮明などは聊かも問題でない

(ばかりか、かえってこのくらいなふせんめいさがちょうどてきしているようにさえ)

ばかりか、却ってこのくらいな不鮮明さがちょうど適しているようにさえ

(かんじる。つまりこのばあい、そのえはおぼつかないよわいひかりをうけとめるための)

感じる。つまりこの場合、その絵は覚束ない弱い光りを受け留めるための

(ひとつのおくゆかしい「めん」にすぎないのであって、まったくすなかべとおなじさようを)

一つの奥床しい「面」に過ぎないのであって、全く砂壁と同じ作用を

(しかしていないのである。われらがかけじくをえらぶのにじだいや)

しかしていないのである。われらが掛け軸を択ぶのに時代や

(「さび」をちんちょうするりゆうはここにあるので、しんえはすいぼくやたんさいのものでも、)

「さび」を珍重する理由はここにあるので、新画は水墨や淡彩のものでも、

(よほどちゅういしないととこのまのいんえいをうちこわすのである。)

よほど注意しないと床の間の陰翳を打ち壊すのである。

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