『犬と古洋傘』小川未明1【完】
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問題文
(まいにち、あるむらからまちへしごとにいくおとこがおりました。)
毎日、ある村から町へ仕事に行く男がおりました。
(どんなひでも、さびしいみちをあるかなければならなかったのです。)
どんな日でも、さびしい道を歩かなければならなかったのです。
(あるひのこと、おとこはいつものごとく、かんがえながらあるいておりました。)
ある日のこと、男はいつものごとく、考えながら歩いておりました。
(さむいあさで、じぶんのくちや、はなからでるいきがしろくこおってみえました。)
寒い朝で、自分の口や、鼻から出る息が白く凍って見えました。
(またたんぼには、しもがまっしろにおりていて、)
また田んぼには、霜が真っ白に降りていて、
(ちょうどゆきのふったような、ながめでありました。)
ちょうど雪の降ったような、ながめでありました。
(このとき、どこからかあかんぼうのなくこえが、きこえてきました。)
このとき、どこからか赤ん坊の泣く声が、聞こえて来ました。
(おとこはおもわずあるくのをやめて、あたりをみまわしました。)
男は思わず歩くのをやめて、あたりを見回しました。
(「はて、あかんぼうのなくこえがきこえるぞ」)
「はて、赤ん坊の泣く声が聞こえるぞ」
(しかし、ひとのかげはないし、ちかくにいえもなかったので、)
しかし、人の影はないし、近くに家もなかったので、
(たぶんそらみみだろうとおもって、またあるきだしました。)
多分そら耳だろうと思って、また歩きだしました。
(するとこんどは、まえよりもっとちかく、あかんぼうのなくこえがきこえてきたのです。)
すると今度は、前よりもっと近く、赤ん坊の泣く声が聞こえて来たのです。
(「たしかにあかんぼうのこえだ。どこだろう」)
「確かに赤ん坊の声だ。どこだろう」
(かれは、もうじぶんのみみをうたがいませんでした。)
彼は、もう自分の耳を疑いませんでした。
(きっと、このちかくのそばに、だれかがあかんぼうをすてたにちがいないとおもいました。)
きっと、この近くのそばに、誰かが赤ん坊を捨てたに違いないと思いました。
(「そんなわるいことをするやつは、どこのやつだろう」と、)
「そんな悪いことをする奴は、どこの奴だろう」と、
(おとこは、このさむいなかにすてられた、かわいそうなあかんぼうを、)
男は、この寒い中に捨てられた、可哀想な赤ん坊を、
(はやくさがしだして、どうにかしてやらなければとおもって、)
早く探しだして、どうにかしてやらなければと思って、
(こえのきこえるほうへちかづいていきました。)
声の聞こえるほうへ近づいて行きました。
(みると、それはあかんぼうではなく、やぶのなかに、まだうまれてからまもない、)
見ると、それは赤ん坊ではなく、やぶの中に、まだ生まれてから間もない、
(やっとめがあいたばかりのこいぬがさんびき、はこのなかにすててありました。)
やっと目があいたばかりの子犬が三匹、箱の中に捨ててありました。
(かれは、あかんぼうではなく、こいぬでよかったとおもいましたが、)
彼は、赤ん坊ではなく、子犬でよかったと思いましたが、
(そのすてられたこいぬの、かわいそうなようすをみると、)
その捨てられた子犬の、可哀想な様子を見ると、
(またべつのふびんさがこころのなかにわいてきて、)
また別の不憫さが心の中に湧いてきて、
(「こんな、まだあるくことのできぬこいぬを、だれがすてたのだろう。)
「こんな、まだ歩くことのできぬ子犬を、誰が捨てたのだろう。
(なさけしらずのにんげんだ」とおもいましたが、どうすることもできませんでした。)
情け知らずの人間だ」と思いましたが、どうすることも出来ませんでした。
(「ああ、かわいそうなものをみたな」と、ただきもちをくらくして、)
「ああ、可哀想なものを見たな」と、ただ気持ちを暗くして、
(かわいそうとはおもいながらも、そのままおとこはいってしまいました。)
可哀想とは思いながらも、そのまま男は行ってしまいました。
(「こんなさむいなかに、たべものもないのでは、きっとしんでしまうだろう」と、)
「こんな寒い中に、食べ物も無いのでは、きっと死んでしまうだろう」と、
(さんびきのこいぬのことをおもいながら、かいしゃまでのみちをいそぎました。)
三匹の子犬のことを思いながら、会社までの道を急ぎました。
(しかし、いくらかんがえないようにしても、しろいろとくろいろのさんびきのこいぬが、)
しかし、いくら考えないようにしても、白色と黒色の三匹の子犬が、
(いっせいにかれのかおをみたとき、しっぽをぴちぴちとふって、)
一斉に彼の顔を見たとき、しっぽをピチピチと振って、
(たすけてくれといわんばかりにないているかわいそうなすがたを、)
助けてくれといわんばかりに鳴いている可哀想な姿を、
(いつまでもあたまからけすことができませんでした。)
いつまでも頭から消すことが出来ませんでした。
(かれはまちへつくと、いつものようにしごとにとりかかりました。)
彼は町へ着くと、いつものように仕事にとりかかりました。
(しごとをしているあいだは、いぬのことをわすれていましたが、)
仕事をしている間は、犬のことを忘れていましたが、
(そのひのしごとがおわってかえりみちにさしかかると、)
その日の仕事が終わって帰り道にさしかかると、
(あさにみたいぬのことがおもいだされて、「どうなったろう」という、)
朝に見た犬のことが思い出されて、「どうなったろう」という、
(こうきしんもおこって、なんだか、そのやぶのちかくになると、)
好奇心も起こって、なんだか、そのやぶの近くになると、
(おもくくるしいようなきさえしました。)
重く苦しいような気さえしました。
(かれは、やぶのそばへきて、みみをすましました。もうなきごえは、きこえません。)
彼は、やぶのそばへ来て、耳をすましました。もう泣き声は、聞こえません。
(「はて、みんなしんでしまったのかな」)
「はて、みんな死んでしまったのかな」
(おそろしいものでもみるようにして、のぞいてみると、)
恐ろしいものでも見るようにして、のぞいてみると、
(さんびきのうちにひきはしんでおり、いっぴきだけがはこからでて、)
三匹のうち二匹は死んでおり、一匹だけが箱から出て、
(しんだきょうだいのまわりをまわっていました。)
死んだ兄弟の周りを回っていました。
(このいっぴきも、ばんにはしぬであろうと、おとこはおもいました。)
この一匹も、晩には死ぬであろうと、男は思いました。
(おとこは、むねのなかがくるしくなりました。)
男は、胸の中が苦しくなりました。
(このいっぴきをいえへつれてかえって、たすけてやろうかともかんがえました。)
この一匹を家へ連れて帰って、助けてやろうかとも考えました。
(だが、そのせわが、またたいへんだともおもいました。)
だが、その世話が、また大変だとも思いました。
(みなかったことにすれば、すむはなしだ。そうだ、おれはみなかったことにして、)
見なかったことにすれば、済む話だ。そうだ、おれは見なかったことにして、
(このままいってしまおうと、きのよわいかれはじぶんのこころをはげまして、)
このまま行ってしまおうと、気の弱い彼は自分の心をはげまして、
(そのままこいぬをみすてて、いえへかえってしまいました。)
そのまま子犬を見捨てて、家へ帰ってしまいました。
(そのよるは、まえのばんよりもさむく、それにかぜもはげしかったです。)
その夜は、前の晩よりも寒く、それに風も激しかったです。
(おとこはたびたびめをさまして、ふとんのなかで、いっぴきだけいきのこった、)
男は度々目をさまして、布団の中で、一匹だけ生き残った、
(かわいそうないぬのすがたをおもいだしていました。)
可哀想な犬の姿を思い出していました。
(かれはよくじつ、そのみちをとおるのが、なんとなくこころがいたくて、)
彼は翌日、その道を通るのが、なんとなく心が痛くて、
(ほかのみちをとおまわりして、しごとにいきました。かえるときも、おなじでした。)
ほかの道を遠回りして、仕事に行きました。帰るときも、同じでした。
(に、さんにちのあいだ、そのみちをとおることができなかったのです。)
二、三日の間、その道を通ることが出来なかったのです。
(あるひ、あめがふりそうだったので、おとこはいそぐために、そのみちをとおりました。)
ある日、雨が降りそうだったので、男は急ぐために、その道を通りました。
(「あのあと、どうなったのだろう。きっと、さんびきともしんでいるにちがいない。)
「あのあと、どうなったのだろう。きっと、三匹とも死んでいるに違いない。
(それか、しんせつなひとがどこかへうめてやったのかもしれないが」と、)
それか、親切な人がどこかへ埋めてやったのかもしれないが」と、
(いぬがすてられていたばしょにちかづくにつれて、おとこはおもったのでした。)
犬が捨てられていた場所に近づくにつれて、男は思ったのでした。
(そして、そのままとおりすぎることができずに、)
そして、そのまま通り過ぎることが出来ずに、
(ついやぶのかげをのぞいてみると、いぬのしがいもなければ、)
ついやぶの影をのぞいてみると、犬の死骸もなければ、
(いぬのはいっていたはこもみえませんでした。)
犬の入っていた箱も見えませんでした。
(そして、そのばしょには、いっぽんのかさがおいてありました。)
そして、その場所には、一本の傘が置いてありました。
(おとこは、そのかさをひろってあけてみると、まだりっぱにさせるしなものでした。)
男は、その傘を拾ってあけてみると、まだ立派にさせる品物でした。
(「このままくさらせてしまうのは、おしいものだ。)
「このまま腐らせてしまうのは、惜しいものだ。
(さいわい、あめがふりそうだから、ひろっていこう」と、)
さいわい、雨が降りそうだから、拾っていこう」と、
(おとこは、そのふるいかさをもって、たちさりました。)
男は、その古い傘を持って、立ち去りました。
(すると、いえにつかぬうちに、あめがぽつぽつふりだしてきました。)
すると、家に着かぬうちに、雨がポツポツ降りだして来ました。
(「いわんこっちゃない、いいものをひろってきた」といって、)
「言わんこっちゃない、いいものを拾ってきた」と言って、
(かさをさしてあるきますと、あたまのうえからくんくんとこいぬのなくこえがしました。)
傘をさして歩きますと、頭の上からクンクンと子犬の鳴く声がしました。
(かれはおどろいて、かさをなげだすと、いっしょうけんめいにかけだしました。)
彼は驚いて、傘を投げ出すと、一生懸命に駆け出しました。
(しかし、そのこいぬもたすかりませんでした。)
しかし、その子犬も助かりませんでした。
(「あのとき、おれがひろってやれば、いっぴきでもいぬのいのちはたすかったのだ。)
「あのとき、おれが拾ってやれば、一匹でも犬の命は助かったのだ。
(いっぽんのかさよりも、いきもののいのちのほうが、たいせつにちがいないのだから」と、)
一本の傘よりも、生き物の命のほうが、大切に違いないのだから」と、
(しょうじきなおとこだけに、はっきりとりかいしたのでした。)
正直な男だけに、はっきりと理解したのでした。