トイレ-2-(完)

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師匠シリーズ
マイタイピングに師匠シリーズが沢山あったと思ったのですが、なくなってまっていたので、作成しました。

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問題文

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(ぼくはしせんをゆかにおとした。たいるのまんなかに、はいすいこうのぎんいろのふたがはまっている。)

僕は視線を床に落とした。タイルの真ん中に、排水溝の銀色の蓋が嵌っている。

(べんざからたちあがり、かがんでそのはいすいこうをのぞきこむ。)

便座から立ち上がり、屈んでその排水溝を覗き込む。

(なかはくらい。しょうめいをさえぎるぼくじしんのかげのしたで、なにもみえない。)

中は暗い。照明を遮る僕自身の影の下で、何も見えない。

(・・・・・・ぼそ・・・・・・ぼそ・・・・・・ぼそ・・・・・・)

……ボソ……ボソ……ボソ……

(ささやきごえは、このしたからきこえてくる。)

囁き声は、この下から聞こえてくる。

(ぼくはたいるにてをついて、はいすいこうにみみをつけた。)

僕はタイルに手をついて、排水溝に耳をつけた。

(しょうめんのしろいむじのかべをみながら、こころはまくしたにむけてみみをすます。)

正面の白い無地の壁を見ながら、心は真下に向けて耳を澄ます。

(・・・・・・・・・・・・ぼそ・・・・・・・・・・・・ぼそ・・・・・・・・・・・・)

…………ボソ…………ボソ…………

(とおい。ききとれない。さっきよりももっととおい。)

遠い。聞き取れない。さっきよりももっと遠い。

(なにもききとれないまま、やがておとはきえた。)

何も聞き取れないまま、やがて音は消えた。

(ぼくはみをおこし、そのばにしゃがみこむ。)

僕は身を起こし、その場にしゃがみ込む。

(なんだ?なにごともおきないまま、かいいはさった。)

なんだ?何事も起きないまま、怪異は去った。

(いや、そもそもかいいだったのかすらよくわからない。)

いや、そもそも怪異だったのかすらよく分からない。

(ただちいさなこえ、いや、おとがきこえたというだけだ。)

ただ小さな声、いや、音が聞こえたというだけだ。

(そのときぼくのあたまに、あるひらめきがはしった。もういちど、「せんじょう」のぼたんをおす。)

その時僕の頭に、ある閃きが走った。もう一度、『洗浄』のボタンを押す。

(みずがながれるおとがして、やがてそのいちれんのおともおさまる。そしてきこえてきた。)

水が流れる音がして、やがてその一連の音も収まる。そして聞こえてきた。

(・・・・・・ぼそ・・・・・・ぼそ・・・・・・ぼそ・・・・・・)

……ボソ……ボソ……ボソ……

(もういちど、はいすいこうにみみをつける。)

もう一度、排水溝に耳をつける。

(こんどはくうきのながれを、みみのおくにはっきりとかんじる。)

今度は空気の流れを、耳の奥にはっきりと感じる。

(どういうしくみかわからないが、べんざせんじょうをするためのみずがながれると、)

どういう仕組みかわからないが、便座洗浄をするための水が流れると、

など

(しんどうだかすいあつだかのせいで、はいすいこうからこんなおとがきこえてくるのだ。)

振動だか水圧だかのせいで、排水溝からこんな音が聞こえてくるのだ。

(くだらない。かたのちからがぬけた。ししょうもこんなたんじゅんなおちにきづかないなんて)

くだらない。肩の力が抜けた。師匠もこんな単純なオチに気づかないなんて

(たいしたことないな。そんなことをかんがえていると、わらいがこみあげてくる。)

大したことないな。そんなことを考えていると、笑いが込み上げてくる。

(このといれのはなしをしたときの、かれのしんけんなかおがどうけじみておもいだされる。)

このトイレの話をした時の、彼の真剣な顔が道化じみて思い出される。

((そういえば、さいごにへんなことをいってたな))

(そういえば、最後に変なことを言ってたな)

(たしか・・・・・・「ききみみはだめだ。ききみみは、げんじつのおとをきくために)

確か……『利き耳はだめだ。利き耳は、現実の音を聞くために

(しんかしたみみだからだ。いつだって、)

進化した耳だからだ。いつだって、

(このよのものではないおとをきくのは、はんたいがわのみみさ」)

この世のものではない音を聞くのは、反対側の耳さ』

(ばかばかしい。ししょうのはったりもやきがまわったってものだ。)

バカバカしい。師匠のハッタリもヤキが回ったってものだ。

(ぼくはうすわらいをうかべながら、ひだりのみみたぶをさわる。)

僕は薄笑いを浮かべながら、左の耳たぶを触る。

(いままでたしかになんのいしきもせずにみぎのみみをはいすいこうにちかづけていた。)

今まで確かになんの意識もせずに右の耳を排水溝に近づけていた。

(かんがえたことはなかったが、みぎがぼくのききみみだったのだろう。)

考えたことはなかったが、右が僕の利き耳だったのだろう。

(だけどひだりできいたからってどうなるっていうんだ?)

だけど左で聞いたからってどうなるっていうんだ?

(ししょうをばかにしたいきもちで、ぼくはもういちどゆかのたいるにりょうてをついた。)

師匠を馬鹿にしたい気持ちで、僕はもう一度床のタイルに両手をついた。

(さっきとおなじかっこうだ。いりぐちのどあがわからからだをたおしてゆかにはいつくばっている。)

さっきと同じ格好だ。入り口のドア側から体を倒して床に這いつくばっている。

(はいすいこうはこしつのまんなかにある。おくがわはべんざがあるぶん、)

排水溝は個室の真ん中にある。奥側は便座がある分、

(はいつくばるようなすぺーすがないからだ。すっとひだりのみみをゆかにむけたとき、)

這いつくばるようなスペースがないからだ。スッと左の耳を床に向けた時、

(えたいのしれないおかんがせすじをはしりぬけた。)

得体の知れない悪寒が背筋を走りぬけた。

(なんだろう。たいるについたひざがふるえる。だけどとまらない。)

何だろう。タイルについた膝が震える。だけど止まらない。

(ぼくのあたまははいすいこうのぎんいろのふたにちかづき、そのあなにひだりのみみが)

僕の頭は排水溝の銀色の蓋に近づき、その穴に左の耳が

(ぴったりとくっついた。さっきとはちがう。みぎと、ひだりではあきらかなちがいがある。)

ぴったりとくっついた。さっきとは違う。右と、左では明らかな違いがある。

(どうしてこんなことにきがつかなかったのか。)

どうしてこんなことに気がつかなかったのか。

(しんぞうはいたいくらいしゅうしゅくして、はりのようなさむけをぜんしんにはりめぐらせていく。)

心臓は痛いくらい収縮して、針のような寒気を全身に張り巡らせていく。

(いま、ぼくのめのまえにはかべがない。)

今、僕の目の前には壁がない。

(みぎみみをはいすいこうにくっつけたときにはあった、あのしろいむきしつなかべが、いまはない。)

右耳を排水溝にくっつけた時にはあった、あの白い無機質な壁が、今はない。

(ひだりみみできこうとしているぼくのめのまえにはいま、)

左耳で聞こうとしている僕の目の前には今、

(せんめんだいのきぶとゆかとのあいだにできたわずかなすきまがある。)

洗面台の基部と床との間にできたわずかな隙間がある。

(もっぷさえはいりそうもないそのすきまのおく、ひかりのとどかないくらやみから、)

モップさえ入りそうもないその隙間の奥、光の届かない暗闇から、

(だれかのひとみがのぞいている。くらくかがやくがんきゅうが、たしかにこちらをみている。)

誰かの瞳が覗いている。暗く輝く眼球が、確かにこちらを見ている。

(・・・・・・ぼそ・・・・・・ぼそ・・・・・・ぼそ・・・・・・ひだりみみがささやきをとらえる。)

……ボソ……ボソ……ボソ……左耳が囁きを捉える。

(じめんのおくそこからはいあがってくるようなこえを。)

地面の奥底から這い上がってくるような声を。

(ぼくはそのちいさなこえが、ことばをむすぶまえにはねおきてどあをあけ、)

僕はその小さな声が、言葉を結ぶ前に跳ね起きてドアを開け、

(そとにころがりでた。どあからでるしゅんかん、しせんのはしにせんめんだいのかがみがみえた。)

外に転がり出た。ドアから出る瞬間、視線の端に洗面台の鏡が見えた。

(かおのないぼく。あれはほんとうにぼくなのか。ふりかえりもせずにかけだす。)

顔のない僕。あれは本当に僕なのか。振り返りもせずに駆け出す。

(かどをなんどかまがる。ふろあにでたとき、そうぞうしい、)

角を何度か曲がる。フロアに出た時、騒々しい、

(でぱーととくゆうのさまざまなおとがみみにとびこんできた。)

デパート特有の様々な音が耳に飛び込んで来た。

(つめたいあせがむなもとにすべりこんでいく。いまみたものがのうりにやきついてはなれない。)

冷たい汗が胸元に滑り込んでいく。今見たものが脳裏に焼きついて離れない。

(ぼくはかべぎわのべんちのよこで、さむけのするあんどをおぼえていた。)

僕は壁際のベンチの横で、寒気のする安堵を覚えていた。

(たぶん、ゆかのすきまのあのめをみてしまったあと、)

たぶん、床の隙間のあの眼を見てしまった後、

(あのこしつからにげだすまでのあいだに、)

あの個室から逃げ出すまでの間に、

(いっしゅんでも「このどあはひらかないんじゃないか」とおもってしまっていたら、)

一瞬でも『このドアは開かないんじゃないか』と思ってしまっていたら、

(きっとあのどあはあかなかったんじゃないかという、うすきみのわるいそうぞう。)

きっとあのドアは開かなかったんじゃないかという、薄気味の悪い想像。

(そんなそうぞうがわいてくるのを、とめられなかった。)

そんな想像が沸いてくるのを、止められなかった。

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