古い家-1-
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問題文
(きいたはなしである。「おもしろいはなしをしいれたよ」ししょうはこえをひそめてそういった。)
聞いた話である。「面白い話を仕入れたよ」師匠は声を顰めてそう言った。
(ぼくのおかるとどうのししょうだ。)
僕のオカルト道の師匠だ。
(おもしろいはなし、などというものはがくめんどおりうけとってはならない。)
面白い話、などというものは額面どおり受け取ってはならない。
(「けんざかいのまちに、ふるいしょうかのあとがあってね。)
「県境の町に、古い商家の跡があってね。
(はいきょどうぜんだけど、まだたてものはのこってるんだ。)
廃墟同然だけど、まだ建物は残ってるんだ。
(だれがしょゆうしてるのかわからないけど、とりこわしもせずにほうちされてる。)
誰が所有してるのかわからないけど、取り壊しもせずに放置されてる。
(だれもすんでいないはずのそのいえからよなか、このよのものとはおもえない)
誰も住んでいないはずのその家から夜中、この世のものとは思えない
(うめきごえがきこえるっていううわさがたってね。こわがってじもとのひとはだれもちかよらない。)
呻き声が聞こえるっていう噂が立ってね。怖がって地元の人は誰も近寄らない。
(どう、きょうみある?」)
どう、興味ある?」
(だいがくにかいせいのなつだった。きょうみがあるのないのというはなしではない。)
大学2回生の夏だった。興味があるのないのというハナシではない。
(ただそのときのぼくは、(ああ、こんかいはとおでか)とおもっただけだ。)
ただその時の僕は、(ああ、今回は遠出か)と思っただけだ。
(そのなつは、いちねんまえのなつとどうようにいやそれいじょうに、)
その夏は、1年前の夏と同様にいやそれ以上に、
(こわいもの、おそろしいものにむやみやたらとちかづくまいにちだった。)
怖いもの、恐ろしいものにむやみやたらと近づく毎日だった。
(そのにちじょうはなだらかにくだるしゃめんのようにくるっていた。)
その日常はなだらかに下る斜面の様に狂っていた。
(ふつうのひとにはふれられないきかいなせかいをかいまみて、)
普通の人には触れられない奇怪な世界を垣間見て、
(おそろしいおもいをするたびに、めにみえないかぎをわたされたようなきがした。)
恐ろしい思いをするたびに、目に見えない鍵を渡されたような気がした。
(そのかぎはいったいどんなとびらをあけるものなのかもわからない。)
その鍵は一体どんな扉を開けるものなのかも分からない。
(つかうべきときもわからないまま、かぎだけがたまっていった。)
使うべき時も分からないまま、鍵だけが溜まっていった。
(ぼくはそれをもてあまして、ひたすらまちを、やまを、もりを、みちを、)
僕はそれを持て余して、ひたすら街を、山を、森を、道を、
(そしてひとのつくったくらやみをうろついた。)
そして人の作った暗闇をうろついた。
(そのひびはあたまのどこかだいじなぶぶんをまひさせて、)
その日々は頭のどこか大事な部分を麻痺させて、
(せいじょうといじょうのさかいをあいまいにする。)
正常と異常の境をあいまいにする。
(どこかげんじつかんのない、まるですいそうのなかにいるようななつだった。)
どこか現実感のない、まるで水槽の中にいるような夏だった。
(ごとごととけいよんのじょしゅせきでゆられ、ぼくはまどのむこうのけしきをみていた。)
ゴトゴトと軽四の助手席で揺られ、僕は窓の向こうの景色を見ていた。
(ししょうのいえをゆうがたにしゅっぱつしたのであるが、いまはすっかりひがくれ、)
師匠の家を夕方に出発したのであるが、今はすっかり日が暮れ、
(そそりたつやまやまがくろいきょじんのようなかげとなってぶきみなつらなりをみせている。)
そそり立つ山々が黒い巨人のような影となって不気味な連なりを見せている。
(さいごにこんびにをみてからどれくらいだろうか。)
最後にコンビニを見てからどれくらいだろうか。
(さびれたいなかのみちはまがりくねり、やまあいのはたけのむこうがわに)
寂れた田舎の道は曲がりくねり、山あいの畑の向こう側に
(ときどきみんかのあかりがみえるだけで、あとはおもいだしたように)
時々民家の明かりが見えるだけで、あとは思い出したように
(あらわれるこころぼそいがいとうのひかりばかりだ。)
現れる心細い街灯の光ばかりだ。
(かーすてれおはさっきからいながわじゅんじのかいだんばなしばかりをささやいている。)
カーステレオはさっきから稲川順二の怪談話ばかりを囁いている。
(ときどきししょうがくすりとわらう。ぼくはそのよこがおをみる。)
時々師匠がクスリと笑う。僕はその横顔を見る。
(はんどるをにぎったまま、ふいにししょうがこちらをむいていった。)
ハンドルを握ったまま、ふいに師匠がこちらを向いて言った。
(「こないだ、くだんをみたよ」)
「こないだ、くだんを見たよ」
(え?とききかえしたがかのじょはくりかえしてくれなかった。)
え? と聞き返したが彼女は繰り返してくれなかった。
(かわりにぷいとしせんをそらして、「やっぱどんかんなやつにはおしえない」といった。)
代わりにぷいと視線を逸らして、「やっぱ鈍感なやつには教えない」と言った。
(なんだかしゃくぜんとしないおもいだけがのこったが、)
なんだか釈然としない思いだけが残ったが、
(ししょうのげんどうはかいしゃくがつくものばかりではない。)
師匠の言動は解釈がつくものばかりではない。
(きがつくとみちがひろくなり、やまがすこしとおくへしりぞいてみえる。)
気がつくと道が広くなり、山が少し遠くへ退いて見える。
(みちのそばのぼうさいはしらがめにはいると、ときをおかずにのうきょうのかんばんがあらわれた。)
道の傍の防災柱が目に入ると、時を置かずに農協の看板が現れた。
(ぽつりぽつりとみんかや、ちいさなこうきょうしせつがみえはじめる。)
ポツリポツリと民家や、小さな公共施設が見え始める。
(「このへんにとめよう」といって、ししょうはどけんがいしゃのしざいおきばのような)
「この辺に停めよう」と言って、師匠は土建会社の資材置き場のような
(すぺーすにくるまをのりいれて、えんじんをきった。ひとけはまったくない。)
スペースに車を乗り入れて、エンジンを切った。人気はまったくない。
(ししょうはだっしゅぼーどからかいちゅうでんとうをとりだして、てもとをてらす。)
師匠はダッシュボードから懐中電灯を取り出して、手元を照らす。
(てがきのちずのようだ。「こっち」ばたんとどあをしめながら)
手描きの地図のようだ。「こっち」バタンとドアを閉めながら
(ししょうはあるきだした。ぼくはうしろをついていく。)
師匠は歩き出した。僕は後ろをついていく。
(しんだようにしずまりかえるふるいいなかまちのなかをすすむあいだ、)
死んだように静まりかえる古い田舎町の中を進むあいだ、
(うごくもののかげすらみなかった。)
動くものの影すら見なかった。
(かいちゅうでんとうにてらしだされたみちにはときどきなにかのひょうごがかかれたかんばんがみえ、)
懐中電灯に照らし出された道には時々なにかの標語が書かれた看板が見え、
(どこかとおくでぎゃあぎゃあとなくとりのこえばかりが)
どこか遠くでギャアギャアと鳴く鳥の声ばかりが
(まをもたせるようにきこえてくる。)
間を持たせるように聞こえて来る。
(うでどけいをみると、まだしんや12じにもなっていない。)
腕時計を見ると、まだ深夜12時にもなっていない。
(ここではぼくらがしるそれよりもよるがながいのだ、とかんじた。)
ここでは僕らが知るそれよりも夜が長いのだ、と感じた。
(こうもさびしいとぎゃくにひととすれちがうのがこわいな、)
こうも寂しいと逆に人とすれ違うのが怖いな、
(とおもってないしんぞくぞくしていたが、だれともあわなかった。)
と思って内心ゾクゾクしていたが、誰とも会わなかった。
(かすかにきこえてきたかえるのなきごえがおおきくなり、)
かすかに聞こえてきた蛙の鳴き声が大きくなり、
(やがてようすいろのそばのあぜみちにいきあたった。)
やがて用水路のそばの畦道に行き当たった。
(そこをみちなりにすすんでいくときいろいがいとうがぽつりとたっていて、)
そこを道なりに進んでいくと黄色い街灯がポツリと立っていて、
(そのむこうにくらいたてもののかげがみえた。)
その向こうに暗い建物の影が見えた。
(「あれかな」ししょうがかいちゅうでんとうをむける。)
「あれかな」師匠が懐中電灯を向ける。
(ちかづくにつれ、そのうちすてられたかおくのようすがわかってくる。)
近づくにつれ、その打ち捨てられた家屋の様子が分かってくる。
(いったいどれほどむかしからここにたっているのか。)
一体どれほど昔からここに建っているのか。
(はいごのぞうきばやしもまったくていれがされたようすはなく、)
背後の雑木林もまったく手入れがされた様子はなく、
(くろぐろとしたきょだいなてのようにそのいえのしきちへえだをのばしている。)
黒々とした巨大な手のようにその家の敷地へ枝を伸ばしている。
(しゅういにはかつていえがたっていたらしいどだいや、)
周囲にはかつて家が建っていたらしい土台や、
(ぼろぼろでやねもないこやなどがさんけんできたが、)
ボロボロで屋根もない小屋などが散見できたが、
(かつてしょうやがあったいっかくのおもかげはまったくない。)
かつて商家があった一角の面影はまったくない。
(このよのものとはおもえないうめきごえがきこえる、といううわさをおもいだし)
この世のものとは思えない呻き声が聞こえる、という噂を思い出し
(しぜんみみをそばだてたが、きこえるのはかえるのなきごえとかぜのおとだけだった。)
自然耳をそばだてたが、聞こえるのは蛙の鳴き声と風の音だけだった。
(だんだんとこころぼそくなっていたぼくは、「なにもないみたいだし、もうかえりましょう」)
段々と心細くなっていた僕は、「何もないみたいだし、もう帰りましょう」
(とししょうにていあんしようとしたが、かのじょがじぶんのめのしたのあたりを)
と師匠に提案しようとしたが、彼女が自分の目の下のあたりを
(ゆびでかいているのをみてくちをとざした。)
指で掻いているのを見て口を閉ざした。
(そこにはふるいきずがあり、こうふんしたときにはうすっすらと)
そこには古い傷があり、興奮した時には薄っすらと
(ひふじょうにうかびあがるとともにちくちくといたむのだという。)
皮膚上に浮かび上がるとともにチクチクと痛むのだという。
(ぼくにとってかのじょがそれをさわるときは、あるべき、いや、そうあるはずだと)
僕にとって彼女がそれを触る時は、あるべき、いや、そうあるはずだと
(たわいなくぼくらがおもいこんでいるこのせかいのこうぞうが、ねじまがるときなのだ。)
他愛なく僕らが思い込んでいるこの世界の構造が、捻じ曲がる時なのだ。
(がさがさと、おいしげるざっそうをかきわけてししょうはそのいえにちかづいていく。)
ガサガサと、生い茂る雑草を掻き分けて師匠はその家に近づいていく。
(やがてしょうゆの「ひしお」というじのようないしょうがかすかにのこるいえの)
やがて醤油の『醤』という字のような意匠がかすかに残る家の
(しょうめんのいたばりをかいちゅうでんとうがてらす。かつてはしょうゆどんやだったのかもしれない。)
正面の板張りを懐中電灯が照らす。かつては醤油問屋だったのかも知れない。
(ししょうがそのいたばりをがたがたとゆらすがひらきそうになかった。)
師匠がその板張りをガタガタと揺らすが開きそうになかった。
(あかりをうえにむけると、にかいぶぶんのしょうめんのまどがてらしだされる。)
明かりを上に向けると、2階部分の正面の窓が照らし出される。
(こうしどがはめこまれているそこは、)
格子戸がはめ込まれているそこは、
(したにあしばもなくはいりこめそうなかんじではない。)
下に足場もなく入り込めそうな感じではない。
(と)
と