古い家-2-
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問題文
(そのこうしのわずかなすきまから、なかでなにかがうごいたような)
その格子のわずかな隙間から、中で何かが動いたような
(くうきのながれがみえたきがした。めをするが、すぐににかいはもとのやみにつつまれる。)
空気の流れが見えた気がした。目を擦るが、すぐに2階はもとの闇に包まれる。
(ししょうがあかりをさげて「どこからはいれるかな」とつぶやきながら)
師匠が明かりを下げて「どこから入れるかな」と呟きながら
(うらてへまわろうとしていた。なんだろう。すごくいやなかんじがした。)
裏手へ回ろうとしていた。なんだろう。すごく嫌な感じがした。
(もういちどみみをすます。やっぱりかえるとかぜのおとだけだ。)
もう一度耳を澄ます。やっぱり蛙と風の音だけだ。
(まわりこむとどべいがぐるりとかこんでいたが、ひとがとおれそうなくぐりどがみつかった。)
回り込むと土塀がぐるりと囲んでいたが、人が通れそうな潜り戸が見つかった。
(はんぶんくずれたきどをおすと、なかはたけのながいざっそうがぐんせいするくうかんになっている。)
半分崩れた木戸を押すと、中は丈の長い雑草が群生する空間になっている。
(「うらにわか」ししょうがそのなかへあしをふみこんでいく。)
「裏庭か」師匠がその中へ足を踏み込んでいく。
(しゅうへんをかいちゅうでんとうでてらすと、たおれたとうろうのひぶくろやうめられたいけのあと、)
周辺を懐中電灯で照らすと、倒れた灯篭の火袋や埋められた池の跡、
(とうかいしたどぞうやべんじょとおぼしきこやのこんせきなどがひんやりとうかびあがってくる。)
倒壊した土蔵や便所と思しき小屋の痕跡などがひんやりと浮かび上がってくる。
(ざっそうをかきわけてかおくのうらてのほうへあしをむけると、)
雑草を掻き分けて家屋の裏手の方へ足を向けると、
(いたるところがはげかけているしっくいのかべにといたがげんじゅうにはられたかしょがあった。)
いたるところが剥げかけている漆喰の壁に戸板が厳重に張られた箇所があった。
(「うらぐちか。でもひらかないかな、これは」ししょうがごんごんといたをたたく。)
「裏口か。でも開かないかな、これは」師匠がゴンゴンと板を叩く。
(ぱらぱらときくずがおちるおとがする。「こっち、えんがわがありますよ」)
パラパラと木屑が落ちる音がする。「こっち、縁側がありますよ」
(うっすらとしたつきのひかりにかすかにぬれてみえるえんがわがやいんにたたずんでいる。)
うっすらとした月の光にかすかに濡れて見える縁側が夜陰に佇んでいる。
(しかし、そのむこうにはやはりあまどらしききのいたがいちめんをおおっている。)
しかし、その向こうにはやはり雨戸らしき木の板が一面を覆っている。
(ごとごととふたりしてゆすってみるが、なかからつっかえぼうでもしているのだろう、)
ゴトゴトと二人して揺すってみるが、中からつっかえ棒でもしているのだろう、
(まったくひらくけはいはなかった。したうちをしながらししょうはそこからはなれ、)
まったく開く気配はなかった。舌打ちをしながら師匠はそこから離れ、
(うらにわのはしまでいくとどべいといえのがいへきのすきまにからだをすべりこませて、)
裏庭の端まで行くと土塀と家の外壁の隙間に身体を滑り込ませて、
(おくへとしんにゅうしていった。)
奥へと侵入していった。
(ばきばきとなにかをふみこわすようないやなおとだけがきこえてくる。)
バキバキとなにかを踏み壊すような嫌な音だけが聞こえてくる。
(のこされたぼくのあたりにやみがおりてくる。すこしこころぼそくなる。)
残された僕の辺りに闇が降りて来る。少し心細くなる。
(やがてあくたいをつきながらししょうがそのすきまからもどってきた。)
やがて悪態をつきながら師匠がその隙間から戻って来た。
(「ぺっ、ぺっ。なんだよこれ。ぜんぜんはいれるとこないじゃん」そうですね。)
「ぺっ、ぺっ。なんだよこれ。全然入れるトコないじゃん」そうですね。
(そんなことばをはきながら、ぼくはにかいだてのそのかおくをみあげた。)
そんな言葉を吐きながら、僕は2階建てのその家屋を見上げた。
(どれほどのじかん、このこうぞうぶつはここにたっているのだろう。)
どれほどの時間、この構造物はここに建っているのだろう。
(めいじじだいから?えどじだいから?いま、じんこうのむきしつなひかりにてらされる)
明治時代から? 江戸時代から?今、人工の無機質な光に照らされる
(うすよごれたしらかべは、ほろびたいえのものがなしさをまとっているようにみえた。)
薄汚れた白壁は、滅びた家の物悲しさを纏っているように見えた。
(りー、りー、とむしがなく。)
リー、リー、と虫が鳴く。
(ししょうが「きんぞくばっと、もってくればよかったな」といった。)
師匠が「金属バット、持ってくればよかったな」と言った。
(いやなよかんがしたぼくに、かんぱついれずようしゃのないことばがふってくる。)
嫌な予感がした僕に、間髪要れず容赦のない言葉が降って来る。
(「たいあたり」え?とききかえすが、かのじょはもういちどそれをくりかえしながら)
「体当たり」え? と聞き返すが、彼女はもう一度それを繰り返しながら
(かいちゅうでんとうでうらぐちのとをしめす。なにかいろいろと、いいたいことがあったきがしたが、)
懐中電灯で裏口の戸を示す。なにか色々と、言いたいことがあった気がしたが、
(すべてぼくのなかでかいけつがついてしまい、うなたれながらもだくだくとしたがうこととした。)
すべて僕の中で解決がついてしまい、うな垂れながらも諾々と従うこととした。
(さいしょはかるくかたからぶつかってみたが、ずしんというしょうげきが)
最初は軽く肩からぶつかってみたが、ズシンという衝撃が
(からだのしんにはしっただけで、とはゆがみさえしなかった。)
身体の芯に走っただけで、戸は歪みさえしなかった。
(「ちゅうとはんぱはよけいいたいだけだぞ」というししょうのむせきにんなはつげんを)
「中途半端は余計痛いだけだぞ」という師匠の無責任な発言を
(せにうけて、ぼくはかくごをきめると、こんどはじゅうぶんにいきおいをつけて)
背に受けて、僕は覚悟を決めると、今度は十分に勢いをつけて
(ぜんしんでぶつかっていった。ばきっ、というなにかがおれるおととともに)
全身でぶつかっていった。バキッ、という何かが折れる音とともに
(とがうちがわにやぶれ、ぼくはいきおいあまってなかにころがりこむ。)
戸が内側に破れ、僕は勢いあまって中に転がり込む。
(そのしゅんかんにかびくさいにおいがびこうにはいりこんできてあたまがくらくらした。)
その瞬間にカビ臭い匂いが鼻腔に入り込んできて頭がクラクラした。
(とはくだけたというよりは、うちかぎのかわりとなるさしばんがおれただけのようだ。)
戸は砕けたというよりは、内鍵の代わりとなる差し板が折れただけのようだ。
(ぎいぎいというおとをたてながらはんどうでゆれている。)
ギイギイという音を立てながら反動で揺れている。
(ぼくをひきおこし、ししょうはあかりでいえのなかをてらした。)
僕を引き起こし、師匠は明かりで家の中を照らした。
(あしもとはどまだ。ながしだいのようなところにかめがいくつかならんでいる。)
足元は土間だ。流し台のようなところに甕がいくつか並んでいる。
(もくせいのいすがつみあげられたいっかくに、かまのあとらしきものがみえる。)
木製の椅子が積みあげられた一角に、竈の跡らしきものが見える。
(そしてあしのふみばもないほどさんらんしたたきぎのたば。)
そして足の踏み場もないほど散乱した薪の束。
(「おまえ、こういういえくわしいんだろう」ししょうのことばにかぶりをふる。)
「おまえ、こういう家詳しいんだろう」師匠の言葉にかぶりを振る。
(せんもんはぶっきょうびじゅつだ。ふるいしょうかなどしゅびはんいではない。)
専門は仏教美術だ。古い商家など守備範囲ではない。
(「でもたしかこういうの、とおりにわ、っていうんですよ。)
「でもたしかこういうの、通りにわ、っていうんですよ。
(それでこっちがざしきで」と、ぼくはほねだらけになったしょうじをゆびさし、)
それでこっちが座敷で」と、僕は骨だらけになった障子を指差し、
(ついではいってきたうらぐちとぎゃくのほうこうのおくをさして、)
次いで入ってきた裏口と逆の方向の奥を指して、
(「あっちがみせのまですね」といった。「ほう」といいながらししょうは)
「あっちが店の間ですね」と言った。「ほう」と言いながら師匠は
(しょうじをあけはなち、ほこりがつもったたたみじきのざしきにあしをふみいれた。)
障子を開け放ち、埃が積もった畳敷きの座敷に足を踏み入れた。
(もちろんどそくだ。ちょうどひんのるいはまったくない。がらんとしたへやだった。)
もちろん土足だ。調度品の類はまったくない。ガランとした部屋だった。
(ただくさったたたみがいやなにおいとほこりをまいたたせているだけだった。)
ただ腐った畳が嫌な匂いと埃を舞い立たせているだけだった。
(「これいじょうすすむと、ずぼっといきそう」ししょうはそのばでかべをてらす。)
「これ以上進むと、ズボッといきそう」師匠はその場で壁を照らす。
(つちけいろのかべにはいたばりのかみざのじょうぶにかけじくが)
土気色の壁には板張りの上座の上部に掛け軸が
(かかっていたようなこんせきがあったが、いまはかべつちがはがれてむざんなありさまだった。)
掛かっていたような痕跡があったが、今は壁土が剥がれて無残な有様だった。
(うえをみると、てんじょうのすみにおおきなくものすがあった。ががなんびきもかかっている。)
上を見ると、天井の隅に大きな蜘蛛の巣があった。蛾が何匹もかかっている。
(「うそっ」とししょうがいきをのむ。)
「うそっ」と師匠が息を呑む。
(しんじられないくらいきょだいなくもがひかりをよけてはりにみをかくすしゅんかんがたしかにみえた。)
信じられないくらい巨大な蜘蛛が光をよけて梁に身を隠す瞬間が確かに見えた。
(きもちわるい。ひとのすまなくなったかおくのなかで、むしたちのいとなみは)
気持ち悪い。人の住まなくなった家屋の中で、虫たちの営みは
(かわらずつづいているのだ。つづきのとなりのへやもにたようなようすだった。)
変わらず続いているのだ。続きの隣の部屋も似たような様子だった。
(つぎにぼくとししょうはみせのまにおそるおそるはいりこんだ。「くも、いる?」)
次に僕と師匠は店の間に恐る恐る入り込んだ。「蜘蛛、いる?」
(きゅうにこしがひけたししょうが、くらやみにぼくをおしこもうとする。)
急に腰が引けた師匠が、暗闇に僕を押し込もうとする。
(おしたおさないのもんどうのすえ、ふたりしていりぐちからなかをのぞきこむと、)
押した押さないの問答の末、二人して入り口から中を覗き込むと、
(せのひくいちんれつだいのようなものがいくつかあるだけで、)
背の低い陳列台のようなものがいくつかあるだけで、
(ほとんどなにものこっていなかった。)
ほとんどなにも残っていなかった。