怪物 「結」下-8-
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問題文
(ぶらんこがとまり、そちらからいくつかのかげがあゆみよってくる。)
ブランコが止まり、そちらからいくつかの影が歩み寄ってくる。
(「よかった。なかなかきがつかないからどうしようかとおもったのよ」)
「良かった。なかなか気がつかないからどうしようかと思ったのよ」
(おばさんがほっとしたようなかおでいった。)
おばさんがホッとしたような顔で言った。
(「だからいったろ。ねてるだけだって」)
「だから言ったろ。寝てるだけだって」
(きゃっぷおんながつかれたようなうごきでみぎてをひろげる。)
キャップ女が疲れたような動きで右手を広げる。
(じわじわときおくがよみがえってきた。そうだ。わたしは、はだかじめでおとされたのだ。)
じわじわと記憶が蘇って来た。そうだ。私は、裸締めで落とされたのだ。
(かのじょに。わたしはめをとじ、どすぐろいかんじょうがからだのなかにのこっていないのをかくにんする。)
彼女に。私は目を閉じ、ドス黒い感情が身体の中に残っていないのを確認する。
(あれほどもくひょうをはかいしたかったしょうどうが)
あれほど目標を破壊したかった衝動が
(すべてたいがいにながれだしてしまったかのように、すっきりとしたきぶんだった。)
すべて体外に流れ出してしまったかのように、すっきりとした気分だった。
(「ぼ、ぼくたちはあのこのしねんにどうちょうしすぎたんだ」とめがねのおとこがいった。)
「ぼ、僕たちはあの子の思念に同調しすぎたんだ」と眼鏡の男が言った。
(「あ、あやうく、ひとごろしをさせられるところだった」)
「あ、あやうく、人殺しをさせられるところだった」
(「ほんとかんべんしてほしいよ。さんたいいちだったんだから。)
「ほんと勘弁して欲しいよ。3対1だったんだから。
(おっと、あのあおいめのおじょうちゃんもいれてさんたいにか。)
おっと、あの青い眼のお嬢ちゃんも入れて3対2か。
(まあてあらなまねしてわるかったな」)
まあ手荒な真似して悪かったな」
(ちからなくわらうきゃっぷおんなにめがねのおとこがあたまをさげる。)
力なく笑うキャップ女に眼鏡の男が頭を下げる。
(「いや、おかげでたすかった。ありがとう」)
「いや、おかげで助かった。ありがとう」
(そのめがねのふれーむはすこしゆがんでしまっている。)
その眼鏡のフレームは少し歪んでしまっている。
(わたしはそのとき、きゃっぷおんなのほおをつたうくろいすじにきがついた。)
私はそのとき、キャップ女の頬を伝う黒い筋に気がついた。
(こめかみからのびるかわいたちのあとだ。)
こめかみから伸びる乾いた血の跡だ。
(てんとうしたときにかいだんのきぶでうったぶぶんか。「ああ、これか。かすりきずだ」)
転倒したときに階段の基部で打った部分か。「ああ、これか。カスリ傷だ」
(「あとにならないといいけど」とおばさんがしんぱいげにいう。)
「痕にならないといいけど」とおばさんが心配げに言う。
(「ほかにもいっぱいあるし、いいよべつに」)
「他にもいっぱいあるし、いいよ別に」
(そんなやりとりをききながら、わたしはかんじんなことをおもいだした。)
そんなやり取りを聞きながら、私は肝心なことを思い出した。
(「あのこは、どうなったんですか」いっしゅん、かぜがつめたくなる。)
「あの子は、どうなったんですか」一瞬、風が冷たくなる。
(きゃっぷおんながゆっくりとくちをひらく。)
キャップ女がゆっくりと口を開く。
(「げんばいじのまま、てったいしてきた。・・・・・・おい、ここでまたきれんなよ。)
「現場維持のまま、撤退して来た。……おい、ここでまたキレんなよ。
(とにかく、ここからさきはけいさつのしごとだ。わたしたちがうごいていいだんかいは)
とにかく、ここから先は警察の仕事だ。わたしたちが動いていい段階は
(おわったんだ」あのこを、あのこのしたいを、ごみぶくろにいれられたじょうたいのまま)
終わったんだ」あの子を、あの子の死体を、ゴミ袋に入れられた状態のまま
(ほうちしたのか。おもわずかっとしかける。)
放置したのか。思わずカッとしかける。
(「あのこは、ははおやをころさなかった。ころすゆめをみても、ころさなかった。)
「あの子は、母親を殺さなかった。殺す夢を見ても、殺さなかった。
(さいごまで、ころされるまで、ころさなかった。ぎりぎりのところで、)
最後まで、殺されるまで、殺さなかった。ギリギリのところで、
(そんなせんたくをした。わたしたちが、このまちのひとたちが、)
そんな選択をした。わたしたちが、この街の人たちが、
(こうしてしずかなよるのなかにいられるのもそのおかげだ」)
こうして静かな夜の中にいられるのもそのおかげだ」
(めにうつるじゅうたくがいのあかりはほとんどなく、)
目に映る住宅街の明かりはほとんどなく、
(めにうつるすべてがなつのよるのそこにねむっている。)
目に映るすべてが夏の夜の底に眠っている。
(「ここにくるべきじゃなかった。そんなけいこくすら、あのこはしていたような)
「ここに来るべきじゃなかった。そんな警告すら、あの子はしていたような
(きがする。もうおわったことだ。まねかれざるしんにゅうしゃは。めをとじてさるべきだ」)
気がする。もう終わったことだ。招かれざる侵入者は。目を閉じて去るべきだ」
(きゃっぷのしたのしんけんなめがそっとふせられた。)
キャップの下の真剣な目がそっと伏せられた。
(けいこく。そうか、あのこーんやどうろひょうしきはそのためなのか。)
警告。そうか、あのコーンや道路標識はそのためなのか。
(ではあの、からすとひとがくっついたようなぶきみないきものは?)
ではあの、カラスとヒトがくっついたような不気味な生き物は?
(だれもそのこたえはもっていなかった。わからない。わからないことだらけだ。)
誰もその答えは持っていなかった。分からない。分からないことだらけだ。
(わたしはじぶんのすむせかいのすぐそばで、めをこらしてもみえない)
私は自分の住む世界のすぐそばで、目を凝らしても見えない
(きみょうなものたちがうごめいていることをみとめざるをえないのだろうか。)
奇妙なものたちが蠢いていることを認めざるを得ないのだろうか。
(こどものころからうらないはすきだったけれど、こころのどこかではこんなもの)
子どものころから占いは好きだったけれど、心のどこかではこんなもの
(あたるわけないとおもっていた。)
当たるわけないと思っていた。
(それでもつづけたのは、よかんのようなものがあったからなのかもしれない。)
それでも続けたのは、予感のようなものがあったからなのかも知れない。
(100かいひていされても、101かいめがしんじつのそうぼうをのぞかせれば、)
100回否定されても、101回目が真実の相貌を覗かせれば、
(わたしたちのせかいのありかたははんてんする。そんなきたいをもっていたのかもしれない。)
私たちの世界のあり方は反転する。そんな期待を持っていたのかも知れない。
(「かわってるとちゅう、みたいな」そうだ。わたしはかわりつつある。)
『変わってる途中、みたいな』そうだ。私は変わりつつある。
(なぜだか、からだがむしゃぶるいのようなざわめきにつつまれる。)
何故だか、身体が武者震いのようなざわめきに包まれる。
(そのしゅんかん、せすじにだれかのしせんをかんじた。それもきょうれつに。)
その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた。それも強烈に。
(だれもいないはずのはいごのくうかんから。)
誰もいないはずの背後の空間から。
(きゃっぷおんなのからだがめにもとまらないすぴーどでうごき、)
キャップ女の身体が目にもとまらないスピードで動き、
(わたしのすわるべんちのはしにあしをかけたかとおもうと、ぜんしんのばねをつかって)
私の座るベンチの端に足を掛けたかと思うと、全身のバネを使って
(こくうにちょうやくした。そしてやみのいちぶをもぎとるようにそのみぎてがちゅうをひきさく。)
虚空に跳躍した。そして闇の一部をもぎ取るようにその右手が宙を引き裂く。
(いっしゅんくうきがはじけるようなかんかくがあり、みみなりがあたまのなかであれくるい、)
一瞬空気が弾けるような感覚があり、耳鳴りが頭の中で荒れ狂い、
(そしてすぐにきえさる。)
そしてすぐに消え去る。
(きゃっぷおんなのからだがおちてくる。そしてつちのうえでうけみをとる。)
キャップ女の身体が落ちて来る。そして土の上で受身を取る。
(「にがした」おきあがりながらゆびをならす。)
「逃がした」起き上がりながら指を鳴らす。
(なにがおこったのかわからず、みんなあぜんとしていた。)
なにが起こったのか分からず、みんな唖然としていた。
(「いま、くうちゅうにがんきゅうがうかんでたろ?」)
「今、空中に眼球が浮かんでたろ?」
(だれもみていない。あたまをふるみんなにかまわずかのじょはつづける。)
誰も見ていない。頭を振るみんなに構わず彼女は続ける。
(「あれは、こんかいのけんとはべつだな。こじんてきなもの。あんたについてたんだ。)
「あれは、今回の件とは別だな。個人的なもの。あんたについてたんだ。
(こころあたり、あるか」なざしされてわたしはこんらんする。)
心当たり、あるか」名指しされて私は混乱する。
(だれかにみられているようなかんかくはたしかにあった。)
誰かに見られているような感覚は確かにあった。
(せんぱいのいえでぽるたーがいすとげんしょうのはなしをきいたよる。)
先輩の家でポルターガイスト現象の話を聞いた夜。
(いや、そのかんかくはそのまえからしっている。)
いや、その感覚はその前から知っている。
(なんだ?しせん。つめたいしせん。わらっているようなしせん。ひょうじょうをかえずに、)
なんだ? 視線。冷たい視線。笑っているような視線。表情を変えずに、
(びしょうがちょうしょうにかわっていくような・・・・・・)
微笑が嘲笑に変わって行くような……
(わたしのなかにあるおんなのかおがうかぶ。)
私の中にある女の顔が浮かぶ。
(そのおんなは、わたしのことはなんでもしっているといった。)
その女は、私のことはなんでも知っていると言った。
(そしてわたしがかけずりまわってしらべたようなことを、まるでさきまわりでもするように)
そして私が駆けずり回って調べたようなことを、まるで先回りでもするように
(すべてしっていた。はっきりとはいわないが、まちがいなく。)
すべて知っていた。はっきりとは言わないが、間違いなく。
(「きにいらないな。ああいう、けんびきょうのぞいてますかいてるようなやからは」)
「気に入らないな。ああいう、顕微鏡覗いてマスかいてるような輩は」
(きゃっぷおんなはくちのはをあげてけんしをのぞかせた。)
キャップ女は口の端を上げて犬歯を覗かせた。
(「めいわくなやつなら、しめてやろうか」)
「迷惑なやつなら、シメてやろうか」
(つよいいしをひめたほのおがひとみのなかでゆらめいている。)
強い意志を秘めた炎が瞳の中で揺らめいている。
(わたしはそれにひとときのあいだ、みとれてしまった。)
私はそれにひとときの間、見とれてしまった。
(「ま、こまったことになったらいえよ。わたしはいつでも」)
「ま、困ったことになったら言えよ。私はいつでも」
(よるをうろついているから。)
夜をうろついているから。
(かのじょはそういって、ずれてしまったきゃっぷをふかくかぶりなおし、)
彼女はそう言って、ずれてしまったキャップを深く被り直し、
(わたしたちにせをむけてあるきはじめた。「そういやさ」)
私たちに背を向けて歩き始めた。「そういやさ」
(おもいついたようにきゅうにたちどまってふりむく。)
思いついたように急に立ち止まって振り向く。
(「こんくらいのせの、わかいにいちゃん、だれかみなかった?」)
「こんくらいの背の、若いニイちゃん、誰か見なかった?」
(わたしたちのようにこのじゅうたくがいまでたどりついたにんげんといういみだろうか?)
私たちのようにこの住宅街までたどり着いた人間という意味だろうか?
(ぜんいんがくびをよこにふる。)
全員が首を横に振る。