谷崎潤一郎 痴人の愛 13
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問題文
(「ああ、あんまりいうとかえっておまえがいじをつっぱるようになって、けっかが)
「ああ、あんまり云うと却ってお前が意地を突ッ張るようになって、結果が
(よくないとおもったから、ほうしんをかえることにしたのさ」)
よくないと思ったから、方針を変えることにしたのさ」
(「ふん」)
「ふん」
(と、かのじょははなさきでわらって、)
と、彼女は鼻先で笑って、
(「そりゃあそうよ、あんなにむやみにばかばかっていわれりゃ、あたしけっして)
「そりゃあそうよ、あんなに無闇に馬鹿々々ッて云われりゃ、あたし決して
(いうことなんかききやしないわ。あたし、ほんとうはね、たいがいなもんだいはちゃんと)
云う事なんか聴きやしないわ。あたし、ほんとうはね、大概な問題はちゃんと
(かんがえられたんだけど、わざとじょうじさんをこまらしてやろうとおもって、できない)
考えられたんだけど、わざと譲治さんを困らしてやろうと思って、出来ない
(ふりをしてやったの、それがじょうじさんにはわからなかった?」)
ふりをしてやったの、それが譲治さんには分らなかった?」
(「へえ、ほんとうかね?」)
「へえ、ほんとうかね?」
(わたしはなおみのいうことがからいばりのまけおしみであるのをしっていながら、)
私はナオミの云うことが空威張りの負け惜しみであるのを知っていながら、
(こいにそういっておどろいてみせました。)
故意にそう云って驚いて見せました。
(「あたりまえさ、あんなもんだいができないやつはありゃしないわ。それをほんきで)
「当り前さ、あんな問題が出来ない奴はありゃしないわ。それを本気で
(できないとおもっているんだから、じょうじさんのほうがよっぽどばかだわ。あたし)
出来ないと思っているんだから、譲治さんの方がよっぽど馬鹿だわ。あたし
(じょうじさんがいかるたんびに、おかしくっておかしくってしようがなかったわ」)
譲治さんが怒るたんびに、可笑しくッて可笑しくッて仕様がなかったわ」
(「あきれたもんだね、すっかりぼくをいっぱいくわせていたんだね」)
「呆れたもんだね、すっかり僕を一杯喰わせていたんだね」
(「どう?あたしのほうがすこしりこうでしょ」)
「どう?あたしの方が少し悧巧でしょ」
(「うん、りこうだ、なおみちゃんにはかなわないよ」)
「うん、悧巧だ、ナオミちゃんには敵わないよ」
(するとかのじょはとくいになって、はらをかかえてわらうのでした。)
すると彼女は得意になって、腹を抱えて笑うのでした。
(どくしゃしょくんよ、ここでわたしがとつぜんみょうなはなしをしだすのを、どうかわらわないできいて)
読者諸君よ、ここで私が突然妙な話をし出すのを、どうか笑わないで聞いて
(ください。というのは、かつてわたしはちゅうがっこうにいたじぶん、れきしのじかんにあんとにーと)
下さい。というのは、嘗て私は中学校にいた時分、歴史の時間にアントニーと
(くれおぱとらのくだりをおそわったことがあります。しょくんもごしょうちのことでしょうが、)
クレオパトラの条を教わったことがあります。諸君も御承知のことでしょうが、
(あのあんとにーがおくたヴぃあぬすのぐんぜいをむかえてないるのかじょうでふないくさをする、)
あのアントニーがオクタヴィアヌスの軍勢を迎えてナイルの河上で船戦をする、
(と、あんとにーについてきたくれおぱとらは、みかたのけいせいがひなりとみるや、)
と、アントニーに附いて来たクレオパトラは、味方の形勢が非なりとみるや、
(たちまちちゅうとからふねをかえしてにげだしてしまう。しかるにあんとにーはこのはくじょうな)
忽ち中途から船を返して逃げ出してしまう。然るにアントニーはこの薄情な
(じょおうのふねがじぶんをすててさるのをみると、ききゅうそんぼうのさいであるにもかかわらず、)
女王の船が自分を捨てて去るのを見ると、危急存亡の際であるにも拘わらず、
(せんそうなどはそっちのけにして、じぶんもすぐにおんなのあとをおいかけていきます。)
戦争などは其方除けにして、自分も直ぐに女のあとを追い駆けて行きます。
(「しょくん」と、れきしのきょうしはそのときわたしたちにいいました。)
「諸君」と、歴史の教師はその時私たちに云いました。
(「このあんとにーというおとこはおんなのしりをおっかけまわして、いのちをおとしてしまった)
「このアントニーと云う男は女の尻を追っ駆け廻して、命をおとしてしまった
(ので、れきしのうえにこのくらいばかをさらしたにんげんはなく、じつにどうも、)
ので、歴史の上にこのくらい馬鹿を曝した人間はなく、じつにどうも、
(ここんむるいのものわらいのたねであります。えいゆうごうけつもいやはやこうなって)
古今無類の物笑いの種であります。英雄豪傑もいやはやこうなって
(しまっては、・・・・・・・・・」)
しまっては、・・・・・・・・・」
(そのいいかたがおかしかったので、がくせいたちはきょうしのかおをながめながらいちどにどっと)
その云い方が可笑しかったので、学生たちは教師の顔を眺めながら一度にどっと
(わらったものです。そしてわたしも、わらったなかまのひとりであったことはいうまでも)
笑ったものです。そして私も、笑った仲間の一人であったことは云うまでも
(ありません。)
ありません。
(が、たいせつなのはここのところです。わたしはとうじ、あんとにーともあろうものがどうして)
が、大切なのはここの処です。私は当時、アントニーともあろう者がどうして
(そんなはくじょうなおんなにまよったのか、ふしぎでなりませんでした。いや、あんとにー)
そんな薄情な女に迷ったのか、不思議でなりませんでした。いや、アントニー
(ばかりではない、すぐそのまえにもじゅりあす・しーざーのごときえいけつが、)
ばかりではない、すぐその前にもジュリアス・シーザーの如き英傑が、
(くれおぱとらにひっかかってきりょうをさげている。そういうれいはまだそのほかに)
クレオパトラに引っかかって器量を下げている。そう云う例はまだその外に
(いくらでもある。とくがわじだいのおいえそうどうや、いっこくのちらんこうはいのあとをたずねると、かならず)
いくらでもある。徳川時代のお家騒動や、一国の治乱興廃の跡を尋ねると、必ず
(かげにものすごいようふのてくだがないことはない。ではそのてくだというものは、いったん)
蔭に物凄い妖婦の手管がないことはない。ではその手管と云うものは、一旦
(それにひっかかればだれでもころりとだまされるほど、ひじょうにいんけんに、こうみょうに)
それに引っかかれば誰でもコロリと欺されるほど、非常に陰険に、巧妙に
(しくまれているかというのに、どうもそうではないようなきがする。)
仕組まれているかと云うのに、どうもそうではないような気がする。
(くれおぱとらがどんなにりこうなおんなだったとしたことろでまさかしーざーや)
クレオパトラがどんなに悧巧な女だったとしたことろでまさかシーザーや
(あんとにーよりちえがあったとはかんがえられない。たといえいゆうでなくっても、その)
アントニーより智慧があったとは考えられない。たとい英雄でなくっても、その
(おんなにまごころがあるか、かのじょのことばがうそかほんとかぐらいなことは、ようじんすればどうさつ)
女に真心があるか、彼女の言葉が嘘かほんとかぐらいなことは、用心すれば洞察
(できるはずである。にもかかわらず、げんにじぶんのみをほろぼすのがわかっていながら)
出来る筈である。にも拘わらず、現に自分の身を亡ぼすのが分っていながら
(だまされてしまうというのは、あまりといえばふがいないことだ、じじつそのとおり)
欺されてしまうと云うのは、余りと云えば腑甲斐ないことだ、事実その通り
(だったとすると、えいゆうなんてなにもそれほどえらいものではないかもしれない、わたしは)
だったとすると、英雄なんて何もそれほど偉い者ではないかも知れない、私は
(ひそかにそうおもって、まーく・あんとにーが「ここんむるいのものわらいのたね」であり、)
ひそかにそう思って、マーク・アントニーが「古今無類の物笑いの種」であり、
(「このくらいれきしのうえにばかをさらしたにんげんはない」というきょうしのひひょうを、)
「このくらい歴史の上に馬鹿を曝した人間はない」と云う教師の批評を、
(そのままこうていしたものでした。)
そのまま肯定したものでした。
(わたしはいまでもあのときのきょうしのことばをむねにうかべ、みんなといっしょにげらげらわらった)
私は今でもあの時の教師の言葉を胸に浮べ、みんなと一緒にゲラゲラ笑った
(じぶんのすがたをおもいだすことがあるのです。そしておもいだすたびごとに、もうきょうでは)
自分の姿を想い出すことがあるのです。そして想い出す度毎に、もう今日では
(わらうしかくがないことをつくづくとかんじます。なぜならわたしは、どういうわけでろーまの)
笑う資格がないことをつくづくと感じます。なぜなら私は、どういう訳で羅馬の
(えいゆうがばかになったか、あんとにーといわれるものがなぜたわいなくようふの)
英雄が馬鹿になったか、アントニーと云われるものが何故たわいなく妖婦の
(てくだにまきこまれてしまったか、そのこころもちがげんざいとなってははっきりうなずける)
手管に巻き込まれてしまったか、その心持が現在となってはハッキリ頷ける
(ばかりでなく、それにたいしてどうじょうをさえきんじえないくらいですから。「だます」の)
ばかりでなく、それに対して同情をさえ禁じ得ないくらいですから。「欺す」の
(ではありません。さいしょはおとこがみずからすすんで「だまされる」のをよろこぶのです。ほれた)
ではありません。最初は男が自ら進んで「欺される」のを喜ぶのです。惚れた
(おんなができてみると、かのじょのいうことがうそであろうとしんじつであろうと、おとこのみみには)
女が出来て見ると、彼女の云うことが嘘であろうと真実であろうと、男の耳には
(すべてかわいい。たまたまかのじょがそらなみだをながしながらもたれかかってきたりすると、)
総べて可愛い。たまたま彼女が空涙を流しながら靠れかかって来たりすると、
(「ははあ、こいつ、このてでおれをだまそうとしているな。でもおまえはおかしなやつだ、)
「ははあ、此奴、この手で己を欺そうとしているな。でもお前は可笑しな奴だ、
(かわいいやつだ、おれにはちゃんとおまえのはらはわかってるんだが、せっかくだからだまされて)
可愛い奴だ、己にはちゃんとお前の腹は分ってるんだが、折角だから欺されて
(やるよ。まあまあたんとおれをおだまし・・・・・・・・・」)
やるよ。まあまあたんと己をお欺し・・・・・・・・・」
(と、そんなふうにおとこはだいふくちゅうにかまえて、いわばこどもをうれしがらせるようなきもちで、)
と、そんな風に男は大腹中に構えて、云わば子供を嬉しがらせるような気持で、
(わざとそのてにのってやります。ですからおとこはおんなにだまされるつもりはない。かえって)
わざとその手に乗ってやります。ですから男は女に欺される積りはない。却って
(おんなをだましてやっているのだと、そうかんがえてこころのなかでわらっています。)
女を欺してやっているのだと、そう考えて心の中で笑っています。
(そのしょうこにはわたしとなおみがやはりそうでした。)
その証拠には私とナオミが矢張そうでした。
(「あたしのほうがじょうじさんよりりこうだわね」)
「あたしの方が譲治さんより悧巧だわね」
(と、そういって、なおみはわたしをだましおおせたきになっている。わたしはじぶんを)
と、そう云って、ナオミは私を欺し終せた気になっている。私は自分を
(まぬけしゃにして、だまされたていをよそおってやる。わたしにとってはあさはかなかのじょのうそを)
間抜け者にして、欺された体を装ってやる。私に取っては浅はかな彼女の嘘を
(あばくよりか、むしろかのじょをとくいがらせ、そうしてかのじょのよろこぶかおをみてやった)
発くよりか、寧ろ彼女を得意がらせ、そうして彼女のよろこぶ顔を見てやった
(ほうが、じぶんもどんなにうれしいかしれない。のみならずわたしは、そこにじぶんの)
方が、自分もどんなにうれしいか知れない。のみならず私は、そこに自分の
(りょうしんをまんぞくさせるいいわけさえももっていました。というのは、たといなおみが)
良心を満足させる言訳さえも持っていました。と云うのは、たといナオミが
(りこうなおんなでないとしても、りこうだというじしんをもたせるのはわるくないことだ。)
悧巧な女でないとしても、悧巧だという自身を持たせるのは悪くないことだ。
(にほんのおんなのだいいちのたんしょはかっこたるじしんのないてんにある。だからかれらはせいようのおんなに)
日本の女の第一の短所は確乎たる自身のない点にある。だから彼等は西洋の女に
(くらべていじけてみえる。きんだいてきのびじんのしかくは、かおだちよりもさいきかんぱつなひょうじょうと)
比べていじけて見える。近代的の美人の資格は、顔だちよりも才気煥発な表情と
(たいどとにあるのだ。よしやじしんというほどでなく、たんなるうぬぼれであっても)
態度とにあるのだ。よしや自身と云う程でなく、単なる己惚れであっても
(いいから、「じぶんはかしこい」「じぶんはびじんだ」とおもいこむことが、けっきょくそのおんなを)
いいから、「自分は賢い」「自分は美人だ」と思い込むことが、結局その女を
(びじんにさせる。わたしはそういうかんがえでしたから、なおみのりこうがるくせをいましめ)
美人にさせる。私はそう云う考でしたから、ナオミの悧巧がる癖を戒しめ
(なかったばかりでなく、かえっておおいにたきつけてやりました。つねにこころよくかのじょに)
なかったばかりでなく、却って大いに焚きつけてやりました。常に快く彼女に
(だまされ、かのじょのじしんをいよいよつよくするようにしむけてやりました。)
欺され、彼女の自信をいよいよ強くするように仕向けてやりました。
(いちれいをあげると、わたしとなおみとはそのころしばしばへいたいしょうぎやとらんぷをして)
一例を挙げると、私とナオミとはその頃しばしば兵隊将棋やトランプをして
(あそびましたが、ほんきでやればわたしのほうがかてるわけだのに、なるべくかのじょをかたせる)
遊びましたが、本気でやれば私の方が勝てる訳だのに、成るべく彼女を勝たせる
(ようにしてやったので、しだいにかのじょは「しょうぶことではじぶんのほうがずっときょうしゃだ」と)
ようにしてやったので、次第に彼女は「勝負事では自分の方がずっと強者だ」と
(おもいあがって、)
思い上って、
(「さあ、じょうじさん、ひとつひねってあげるからいらっしゃいよ」)
「さあ、譲治さん、一つ捻ってあげるから入らッしゃいよ」
(などと、すっかりわたしをみくびったたいどでいどんできます。)
などと、すっかり私を見縊った態度で挑んで来ます。
(「ふん、それじゃいちばんふくしゅうせんをしてやるかな。なあに、まじめでかかりゃ)
「ふん、それじゃ一番復讐戦をしてやるかな。なあに、真面目でかかりゃ
(おまえなんかにまけやしないんだが、あいてがこどもだとおもうもんだから、ついつい)
お前なんかに負けやしないんだが、相手が子供だと思うもんだから、ついつい
(ゆだんしちまって、」)
油断しちまって、」
(「まあいいわよ、かってからりっぱなくちをおききなさいよ」)
「まあいいわよ、勝ってから立派な口をおききなさいよ」
(「よしきた!こんどこそほんとにかってやるから!」)
「よし来た!今度こそほんとに勝ってやるから!」
(そういいながら、わたしはことさらへたなてをうってあいかわらずまけてやります。)
そう云いながら、私は殊更下手な手を打って相変らず負けてやります。
(「どう?じょうじさん、こどもにまけてくやしかないこと?もうだめだわよ、)
「どう?譲治さん、子供に負けて口惜しかないこと?もう駄目だわよ、
(なんといったってあたしにかなやしないわよ。まあ、どうだろう、さんじゅういちにも)
何と云ったってあたしに抗やしないわよ。まあ、どうだろう、三十一にも
(なりながら、だいのおとこがこんなことでじゅうはちのこどもにまけるなんて、まるでじょうじさんは)
なりながら、大の男がこんな事で十八の子供に負けるなんて、まるで譲治さんは
(やりかたをしらないのよ」)
やり方を知らないのよ」