谷崎潤一郎 痴人の愛 18
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 布ちゃん | 5553 | A | 5.8 | 95.0% | 1053.2 | 6169 | 320 | 99 | 2024/11/17 |
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問題文
(が、そうはいうものの、はくせきじんしゅのふじんにせっきんしえることは、わたしにとってひとつの)
が、そうは云うものの、白皙人種の婦人に接近し得ることは、私に取って一つの
(よろこび、いや、よろこびいじょうのこうえいでした。ありていにいうと、わたしはわたしのこうさいべたと)
喜び、いや、喜び以上の光栄でした。有体に云うと、私は私の交際下手と
(ごがくのさいのとぼしいのにあいそをつかして、そんなきかいはいっしょうまわってこないものと)
語学の才の乏しいのに愛憎を尽かして、そんな機会は一生廻って来ないものと
(あきらめをつけ、たまにがいじんだんのおぺらをみるとか、かつどうしゃしんのじょゆうのかおに)
あきらめを附け、たまに外人団のオペラを見るとか、活動写真の女優の顔に
(なじむとかして、わずかにかれらのうつくしさをゆめのようにしたっていました。しかるに)
馴染むとかして、わずかに彼等の美しさを夢のように慕っていました。然るに
(はからずもだんすのけいこは、せいようのおんなおまけにそれもはくしゃくのふじんと)
図らずもダンスの稽古は、西洋の女おまけにそれも伯爵の夫人と
(せっきんするきかいをつくったのです。はりそんじょうのようなおばあさんはべつとして、)
接近する機会を作ったのです。ハリソン嬢のようなお婆さんは別として、
(わたしがせいようのふじんとあくしゅする「こうえい」によくしたのは、そのときがうまれてはじめてでした)
私が西洋の婦人と握手する「光栄」に浴したのは、その時が生れて始めてでした
(わたしはしゅれむすかやふじんがその「しろいて」をわたしのほうへさしだしたとき、おぼえず)
私はシュレムスカヤ夫人がその「白い手」を私の方へさし出したとき、覚えず
(むねをどきっとさせてそれをにぎっていいものかどうか、ちょっとちゅうちょ)
胸をどきッとさせてそれを握っていいものかどうか、ちょっと躊躇
(したくらいでした。)
したくらいでした。
(なおみのてだって、しなやかでつやがあって、ゆびがながながとほっそりしていて、もちろん)
ナオミの手だって、しなやかで艶があって、指が長々とほっそりしていて、勿論
(ゆうがでないことはない。が、その「しろいて」はなおみのそれのようにきゃしゃ)
優雅でないことはない。が、その「白い手」はナオミのそれのようにきゃしゃ
(すぎないで、てのひらがあつくたっぷりとにくをもち、ゆびもなよなよとのびていながら、)
過ぎないで、掌が厚くたっぷりと肉を持ち、指もなよなよと伸びていながら、
(よわよわしいうすっぺらなかんじがなく、「ふとい」とどうじに「うつくしい」てだ。と、)
弱々しい薄ッぺらな感じがなく、「太い」と同時に「美しい」手だ。と、
(わたしはそんないんしょうをうけました。そこにはめているめだまのようにぎらぎらした)
私はそんな印象をうけました。そこに嵌めている眼玉のようにギラギラした
(おおきなゆびわも、にほんじんならきっといやみになるでしょうに、かえってゆびをきれいにみせ)
大きな指輪も、日本人ならきっと厭味になるでしょうに、却って指を綺麗に見せ
(きひんのたかい、ごうしゃなおもむきをそえています。そしてなによりもなおみとちがっていた)
気品の高い、豪奢な趣を添えています。そして何よりもナオミと違っていた
(ところは、そのひふのいろのいじょうなしろさです。しろいしたにうすいむらさきのけっかんが、)
ところは、その皮膚の色の異常な白さです。白い下にうすい紫の血管が、
(だいりせきのはんもんをおもわせるように、ほんのりすいてみえるせいえんさです。わたしはいままで)
大理石の斑紋を想わせるように、ほんのり透いて見える凄艶さです。私は今まで
(なおみのてをおもちゃにしながら、)
ナオミの手をおもちゃにしながら、
(「おまえのてはじつにきれいだ、まるでせいようじんのてのようにしろいね」)
「お前の手は実にきれいだ、まるで西洋人の手のように白いね」
(と、よくそういってほめたものですが、こうしてみると、ざんねんながらやっぱり)
と、よくそう云って褒めたものですが、こうして見ると、残念ながらやっぱり
(ちがいます。しろいようでもなおみのしろさはさえていない、いや、いったんこのてをみた)
違います。白いようでもナオミの白さは冴えていない、いや、一旦この手を見た
(あとではどすぐろくさえおもわれます。それからもうひとつわたしのちゅういをひいたのは、)
あとではどす黒くさえ思われます。それからもう一つ私の注意を惹いたのは、
(そのつめでした。じゅっぽんのしとうのことごとくが、おなじかいがらをあつめたように、どれもあざやかに)
その爪でした。十本の指頭の悉くが、同じ貝殻を集めたように、どれも鮮かに
(こづめがそろって、さくらいろにひかっていたばかりでなく、おおかたこれがせいようのりゅうこうなのでも)
小爪が揃って、桜色に光っていたばかりでなく、大方これが西洋の流行なのでも
(ありましょうか、つめのさきがさんかっけいに、ぴんととがらせてきってあったのです。)
ありましょうか、爪の先が三角形に、ぴんと尖らせて切ってあったのです。
(なおみはわたしとならんでたつとちょっとぐらいひくかったことは、まえにしるしたとおりですが、)
ナオミは私と並んで立つと一寸ぐらい低かったことは、前に記した通りですが、
(ふじんはせいようじんとしてはこがらのようにみえながら、それでもわたしよりはうわぜいがあり、)
夫人は西洋人としては小柄のように見えながら、それでも私よりは上背があり、
(かかとのたかいくつをはいているせいか、いっしょにおどるとちょうどわたしのあたまとすれすれに、)
踵の高い靴を穿いているせいか、一緒に踊るとちょうど私の頭とすれすれに、
(かのじょのあらわなむねがありました。ふじんがはじめて、)
彼女の露わな胸がありました。夫人が始めて、
(”walk with me!”)
“Walk with me!”
(といいつつ、わたしのせなかへうでをまわしてわん・すてっぷのあゆみかたをおしえたとき、わたしは)
と云いつつ、私の背中へ腕を回してワン・ステップの歩み方を教えたとき、私は
(どんなにこのまっくろなわたしのかおがかのじょのはだにふれないように、えんりょしたこと)
どんなにこの真っ黒な私の顔が彼女の肌に触れないように、遠慮したこと
(でしょう。そのなめらかなせいそなひふは、わたしにとってはただとおくからながめるだけで)
でしょう。その滑かな清楚な皮膚は、私に取ってはただ遠くから眺めるだけで
(じゅうぶんでした。あくしゅしてさえすまないようにおもわれたのに、そのやわらかなうすものを)
十分でした。握手してさえ済まないように思われたのに、その柔かな羅衣を
(へだててかのじょのむねにだきかかえられてしまっては、わたしはまったくしてはならないことを)
隔てて彼女の胸に抱きかかえられてしまっては、私は全くしてはならないことを
(したようで、じぶんのいきがくさくはなかろうか、このにちゃにちゃしたあぶらってが)
したようで、自分の息が臭くはなかろうか、このにちゃにちゃした脂ッ手が
(ふかいをあたえはしなかろうかと、そんなことばかりきにかかって、たまたまかのじょの)
不快を与えはしなかろうかと、そんな事ばかり気にかかって、たまたま彼女の
(かみのけひとすじがおちてきても、ひやりとしないではいられませんでした。)
髪の毛一と筋が落ちて来ても、ヒヤリとしないではいられませんでした。
(それのみならずふじんのからだにはいっしゅのあまいにおいがありました。)
それのみならず夫人の体には一種の甘い匂がありました。
(「あのおんなあひでえわきがだ、とてもくせえや!」)
「あの女アひでえ腋臭だ、とてもくせえや!」
(と、れいのまんどりんくらぶのがくせいたちがそんなわるくちをいっているのを、わたしはあとで)
と、例のマンドリン倶楽部の学生たちがそんな悪口を云っているのを、私は後で
(きいたことがありますし、せいようじんにはわきががおおいそうですから、ふじんもたぶん)
聞いたことがありますし、西洋人には腋臭が多いそうですから、夫人も多分
(そうだったにちがいなく、それをけすためにしじゅうちゅういしてこうすいをつけていたので)
そうだったに違いなく、それを消すために始終注意して香水をつけていたので
(しょうが、しかしわたしにはそのこうすいとわきがとのまじった、あまずっぱいようなほのかな)
しょうが、しかし私にはその香水と腋臭との交った、甘酸ッぱいようなほのかな
(においが、けっしていやでなかったばかりか、つねにいいしれぬこわくでした。それはわたしに、)
匂が、決して厭でなかったばかりか、常に云い知れぬ蠱惑でした。それは私に、
(まだみたこともないうみのかなたのくにぐにや、よにもたえなるいこくのはなぞのを)
まだ見たこともない海の彼方の国々や、世にも妙なる異国の花園を
(おもいださせました。)
想い出させました。
(「ああ、これがふじんのしろいからだからはなたれるこうきか」)
「ああ、これが夫人の白い体から放たれる香気か」
(と、わたしはこうこつとなりながら、いつもそのにおいをむさぼるようにかいだものです。)
と、私は恍惚となりながら、いつもその匂を貪るように嗅いだものです。
(わたしのようなぶきっちょな、だんすなどというはなやかなくうきにはもっともふてきとうで)
私のようなぶきッちょな、ダンスなどと云う花やかな空気には最も不適当で
(あるべきおとこが、なおみのためとはいいながら、どうしてそのあとあきもしないで、)
あるべき男が、ナオミの為めとは云いながら、どうしてその後飽きもしないで、
(ひとつきもふたつきもけいこにかようきになったか。わたしはあえてはくじょうしますが、)
一と月も二た月も稽古に通う気になったか。私は敢て白状しますが、
(それはたしかにしゅれむすかやふじんというものがあったからです。まいげつようびと)
それは確かにシュレムスカヤ夫人と云うものがあったからです。毎月曜日と
(きんようびのごご、ふじんのむねにだかれておどること。そのほんのいちじかんが、)
金曜日の午後、夫人の胸に抱かれて踊ること。そのほんの一時間が、
(いつのまにかわたしのなによりのたのしみとなっていたのです。わたしはふじんのまえにでると、)
いつの間にか私の何よりの楽しみとなっていたのです。私は夫人の前に出ると、
(まったくなおみのそんざいをわすれました。そのいちじかんはたとえばほうれつなさけのように、わたしを)
全くナオミの存在を忘れました。その一時間はたとえば芳烈な酒のように、私を
(よわせずにはおきませんでした。)
酔わせずには置きませんでした。
(「じょうじさんはおもいのほかねっしんね、じきいやになるかとおもったら。」)
「譲治さんは思いの外熱心ね、直きイヤになるかと思ったら。」
(「どうして?」)
「どうして?」
(「だって、ぼくにだんすができるかなあなんていってたじゃないの」)
「だって、僕にダンスが出来るかなアなんて云ってたじゃないの」
(ですからわたしは、そんなはなしがでるたびに、なんだかなおみにすまないような)
ですから私は、そんな話が出るたびに、何だかナオミに済まないような
(きがしました。)
気がしました。
(「やれそうもないとおもったけれど、やってみるとゆかいなもんだね。それに)
「やれそうもないと思ったけれど、やって見ると愉快なもんだね。それに
(どくとるのいいぐさじゃないが、ひじょうにからだのうんどうになる」)
ドクトルの云い草じゃないが、非常に体の運動になる」
(「それごらんなさいな、だからなんでもかんがえていないで、やってみるもんだわ」)
「それ御覧なさいな、だから何でも考えていないで、やって見るもんだわ」
(と、なおみはわたしのこころのひみつにはきがつかないで、そういってわらうのでした。)
と、ナオミは私の心の秘密には気がつかないで、そう云って笑うのでした。
(さて、だいぶけいこをつんだからもうそろそろよかろうというので、はじめてわたしたちが)
さて、大分稽古を積んだからもうそろそろよかろうと云うので、始めて私たちが
(ぎんざのかふええ・えるどらどおへでかけたのは、そのとしのふゆのことでした。まだ)
銀座のカフエエ・エルドラドオへ出かけたのは、その年の冬のことでした。まだ
(そのじぶん、とうきょうにはだんす・ほーるがそうたくさんなかったので、ていこくほてるや)
その時分、東京にはダンス・ホールがそう沢山なかったので、帝国ホテルや
(かげつえんをのぞいたら、そのかふええがそのころようやくやりだしたくらいのものだった)
花月園を除いたら、そのカフエエがその頃漸くやり出したくらいのものだった
(でしょう。で、ほてるやかげつえんはがいこくじんがおもであって、ふくそうやれいぎがやかましい)
でしょう。で、ホテルや花月園は外国人が主であって、服装や礼儀がやかましい
(そうだから、まずてはじめにはえるどらどおがよかろう、と、そういうことに)
そうだから、まず手初めにはエルドラドオがよかろう、と、そう云うことに
(なったのでした。もっともそれはなおみがどこからかうわさをきいてきて、「ぜひいって)
なったのでした。尤もそれはナオミが何処からか噂を聞いて来て、「是非行って
(みよう」とはつぎしたので、まだわたしにはおおびらなばしょでおどるだけのどきょうは)
見よう」と発議したので、まだ私にはおおびらな場所で踊るだけの度胸は
(なかったのですが、)
なかったのですが、
(「だめよ、じょうじさんは!」)
「駄目よ、譲治さんは!」
(と、なおみはわたしをにらみつけて、)
と、ナオミは私を睨みつけて、
(「そんなきのよわいことをいっているからだめなのよ。だんすなんていうものは、)
「そんな気の弱いことを云っているから駄目なのよ。ダンスなんて云うものは、
(けいこばかりじゃいくらやったってじょうずになりっこありゃしないわよ。ひとなかへでて)
稽古ばかりじゃいくらやったって上手になりッこありゃしないわよ。人中へ出て
(ずうずうしくおどっているうちにうまくなるものよ」)
ずうずうしく踊っているうちに巧くなるものよ」
(「そりゃあたしかにそうだろうけれども、ぼくにはその、ずうずうしさが)
「そりゃあたしかにそうだろうけれども、僕にはその、ずうずうしさが
(ないもんだから、・・・・・・・・・」)
ないもんだから、・・・・・・・・・」
(「じゃいいわよ、あたしひとりでもでかけるから。・・・・・・・・・はまさんでも)
「じゃいいわよ、あたし独りでも出かけるから。・・・・・・・・・浜さんでも
(まあちゃんでもさそっていって、おどってやるから」)
まアちゃんでも誘って行って、踊ってやるから」
(「まあちゃんていうのはこのあいだのまんどりんくらぶのおとこだろう?」)
「まアちゃんて云うのはこの間のマンドリン倶楽部の男だろう?」
(「ええ、そうよ、あのひとなんかいちどもけいこしないくせにどこへでもでかけて)
「ええ、そうよ、あの人なんか一度も稽古しないくせに何処へでも出かけて
(いってあいてかまわずおどるもんだから、もうこのころじゃすっかりうまくなっちゃったわ)
行って相手構わず踊るもんだから、もうこの頃じゃすっかり巧くなっちゃったわ
(じょうじさんよりずっとじょうずだわ。だからずうずうしくしなけりゃそんよ。・・・・・)
譲治さんよりずっと上手だわ。だからずうずうしくしなけりゃ損よ。・・・・・
(ね、いらっしゃいよ、あたしじょうじさんとおどってあげるわ。・・・・・・・・・)
ね、いらっしゃいよ、あたし譲治さんと踊って上げるわ。・・・・・・・・・
(ね、ごしょうだからいっしょにきて!・・・・・・・・・いいこ、いいこ、じょうじさんは)
ね、後生だから一緒に来て!・・・・・・・・・好い児、好い児、譲治さんは
(ほんとにいいこ!」)
ほんとに好い児!」
(それでけっきょくでかけることにはなしがきまると、こんどは「なにをきていこう」でまた)
それで結局出かけることに話しが極まると、今度は「何を着て行こう」でまた
(ながいことそうだんがはじまりました。)
長いこと相談が始まりました。
(「ちょっとじょうじさん、どれがいいこと?」)
「ちょっと譲治さん、どれがいいこと?」
(と、かのじょはでかけるしごにちもまえからおおさわぎをして、あるだけのものをひっぱり)
と、彼女はでかける四五日も前から大騒ぎをして、有るだけのものを引っ張り
(だして、それにいちいちてをとおしてみるのです。)
出して、それに一々手を通して見るのです。