谷崎潤一郎 痴人の愛 33
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問題文
(いえのまえまでやってくると、わたしのいまわしいそうぞうはすっかりはずれて、あとりえの)
家の前までやって来ると、私の忌まわしい想像はすっかり外れて、アトリエの
(なかはまっくらになっており、ひとりのきゃくもないらしく、しーんとしずかで、ただ)
中は真っ暗になっており、一人の客もないらしく、しーんと静かで、ただ
(やねうらのよじょうはんにあかりがともっているだけでした。)
屋根裏の四畳半に明りが燈っているだけでした。
(「ああ、ひとりでるすばんをしているんだな、」)
「ああ、一人で留守番をしているんだな、」
(わたしはほっとむねをなでました。「これでよかった、ほんとうにしあわせだった」)
私はほっと胸を撫でました。「これでよかった、ほんとうに仕合わせだった」
(と、そんなきがしないではいられませんでした。)
と、そんな気がしないではいられませんでした。
(しまりのしてあるげんかんのとびらをあいかぎであけ、なかへはいるとわたしはすぐにあとりえの)
締まりのしてある玄関の扉を合鍵で開け、中へ這入ると私は直ぐにアトリエの
(でんきをつけました。みると、へやはあいかわらずとりちらかしてありますけれど、)
電気をつけました。見ると、部屋は相変らず取り散らかしてありますけれど、
(やはりきゃくのきたようなけいせきはありません。)
矢張客の来たような形跡はありません。
(「なおみちゃん、ただいま、・・・・・・・・・かえってきたよ、・・・・・・・・」)
「ナオミちゃん、只今、・・・・・・・・・帰って来たよ、・・・・・・・・」
(そういってもへんじがないので、はしごだんをのぼっていくと、なおみはひとりよじょうはんに)
そう云っても返辞がないので、梯子段を上って行くと、ナオミは一人四畳半に
(とこをとって、やすらかにねむっているのでした。これはかのじょにもめずらしいことでは)
床を取って、安らかに眠っているのでした。これは彼女にも珍しいことでは
(ないので、たいくつすればひるでもよるでも、じかんをかまわずふとんのなかへもぐりこんで)
ないので、退屈すれば昼でも夜でも、時間を構わず布団の中へもぐり込んで
(しょうせつをよみ、そのまますやすやとねいってしまうのがとつねでしたから、その)
小説を読み、そのまますやすやと寝入ってしまうのが常でしたから、その
(つみのないねがおにせっしては、わたしはいよいよあんしんするばかりでした。)
罪のない寝顔に接しては、私はいよいよ安心するばかりでした。
(「このおんながおれをあざむいている?そんなことがあるだろうか?・・・・・・・・・)
「この女が己を欺いている?そんな事があるだろうか?・・・・・・・・・
(この、げんざいおれのめのまえでへいわなこきゅうをつづけているおんなが?・・・・・・・・・」)
この、現在己の眼の前で平和な呼吸をつづけている女が?・・・・・・・・・」
(わたしはひそかに、かのじょのねむりをさまさないようにまくらもとへすわったまま、しばらく)
私は密かに、彼女の眠りを覚まさないように枕もとへ据わったまま、暫く
(じっといきをころしてそのねすがたをみまもりました。むかし、きつねがうつくしいおひめさまにばけておとこを)
じっと息を殺してその寝姿を見守りました。昔、狐が美しいお姫様に化けて男を
(だましたが、ねているあいだにしょうたいをあらわして、ばけのかわをはがされてしまった。)
欺したが、寝ている間に正体を顕わして、化けの皮を剥がされてしまった。
(わたしはなにか、こどものじぶんにきいたことのあるそんなはなしをおもいだしました。)
私は何か、子供の時分に聞いたことのあるそんな噺を想い出しました。
(ねぞうのわるいなおみは、かいまきをすっかりはいでしまって、りょうもものあいだにそのえりを)
寝相の悪いナオミは、掻い巻きをすっかり剥いでしまって、両股の間にその襟を
(はさみ、ちちのほうまであらわになったむねのうえへ、かたひじをたててそのてのさきを、あたかも)
挟み、乳の方まで露わになった胸の上へ、片肘を立ててその手の先を、あたかも
(たわんだえだのようにのせています。そしてかたいっぽうのては、ちょうどわたしが)
撓んだ枝のように載せています。そして片一方の手は、ちょうど私が
(すわっているひざのあたりまで、しなやかにのびています。くびは、そののばした)
据わっている膝のあたりまで、しなやかに伸びています。首は、その伸ばした
(てのほうがくへよこむきになって、いまにもまくらからずりおちそうにかたむいている。)
手の方角へ横向きになって、今にも枕からずり落ちそうに傾いている。
(そのついはなのさきのところに、いっさつのほんがぺーじをひらいたままおちていました。それは)
そのつい鼻の先の所に、一冊の本がページを開いたまま落ちていました。それは
(かのじょのひひょうによれば「いまのぶんだんでいちばんえらいさっかだ」というありしまたけおの、)
彼女の批評に依れば「今の文壇で一番偉い作家だ」と云う有島武郎の、
(「かいんのまつえい」というしょうせつでした。わたしのめは、そのかりとじのほんのじゅんぱくな)
「カインの末裔」と云う小説でした。私の眼は、その仮綴じの本の純白な
(せいようしと、かのじょのむねのしろさとのうえに、かわるがわるそそがれました。)
西洋紙と、彼女の胸の白さとの上に、交る交る注がれました。
(なおみはいったい、そのはだのいろがひによってきいろくみえたりしろくみえたりするの)
ナオミは一体、その肌の色が日によって黄色く見えたり白く見えたりするの
(でしたが、ぐっすりねこんでいるときやおきたばかりのときなどは、いつもひじょうに)
でしたが、ぐっすり寝込んでいるときや起きたばかりの時などは、いつも非常に
(さえていました。ねむっているあいだに、すっかりからだじゅうのあぶらがぬけてしまうかの)
冴えていました。眠っている間に、すっかり体中の脂が脱けてしまうかの
(ように、きれいになりました。ふつうのばあい「よる」と「あんこく」はつきもの)
ように、きれいになりました。普通の場合「夜」と「暗黒」は附き物
(ですけれど、わたしはつねに「よる」をおもうと、なおみのはだの「しろさ」をれんそうしないでは)
ですけれど、私は常に「夜」を思うと、ナオミの肌の「白さ」を連想しないでは
(いられませんでした。それはまっぴるまの、くまなくあかるい「しろさ」とはちがって、)
いられませんでした。それは真っ昼間の、隈なく明るい「白さ」とは違って、
(よごれた、きたない、あかだらけなふとんのなかの、いわばぼとにつつまれた「しろさ」で)
汚れた、きたない、垢だらけな布団の中の、云わば襤褸に包まれた「白さ」で
(あるだけ、よけいわたしをひきつけました。で、こうしてつくづくながめていると、)
あるだけ、余計私を惹きつけました。で、こうしてつくづく眺めていると、
(らんぷのかさのかげになっているかのじょのむねは、まるでまっさおなみずのそこにでも)
ランプの笠の蔭になっている彼女の胸は、まるで真っ青な水の底にでも
(あるもののように、あざやかにうきあがってくるのでした。おきているときはあんなに)
あるもののように、鮮やかに浮き上って来るのでした。起きている時はあんなに
(はれやかな、へんげんきわまりないそのかおつきも、いまはゆううつにまゆねをよせてにがいくすりを)
晴れやかな、変幻極りないその顔つきも、今は憂鬱に眉根を寄せて苦い薬を
(のまされたような、くびをくびめられたひとのような、しんぴなひょうじょうをしているの)
飲まされたような、頸を縊められた人のような、神秘な表情をしているの
(ですが、わたしはかのじょのこのねがおがたいへんだいすきでした。「おまえはねるとべつじんの)
ですが、私は彼女のこの寝顔が大へん大好きでした。「お前は寝ると別人の
(ようなひょうじょうになるね、おそろしいゆめでもみているように」と、よく)
ような表情になるね、恐ろしい夢でも見ているように」と、よく
(そんなことをいいいいしました。「これではかのじょのしにがおもきっとうつくしいに)
そんなことを云い云いしました。「これでは彼女の死顔もきっと美しいに
(ちがいない」と、そうおもったこともしばしばありました。わたしはよしやこのおんながきつねで)
違いない」と、そう思ったことも屡々ありました。私はよしやこの女が狐で
(あっても、そのしょうたいがこんなようえんなものであるなら、むしろよろこんで)
あっても、その正体がこんな妖艶なものであるなら、寧ろ喜んで
(みせられることをのぞんだでしょう。)
魅せられることを望んだでしょう。
(わたしはおおよそさんじゅっぷんぐらいそうしてだまってすわっていました。かさのかげから)
私は大凡そ三十分ぐらいそうして黙ってすわっていました。笠の蔭から
(あかるいほうへはみだしているかのじょのては、こうをしたに、てのひらをうえに、ほころびかけた)
明るい方へはみ出している彼女の手は、甲を下に、掌を上に、綻びかけた
(はなびらのようにやわらかににぎられて、そのてくびにはしずかなみゃくのうっているのが)
花びらのように柔かに握られて、その手頸には静かな脈の打っているのが
(はっきりとわかりました。)
ハッキリと分りました。
(「いつかえったの?・・・・・・・・・」)
「いつ帰ったの?・・・・・・・・・」
(すう、すう、すう、と、やすらかにくりかえされていたねいきがすこしみだれたかと)
すう、すう、すう、と、安らかに繰り返されていた寝息が少し乱れたかと
(おもうと、やがてかのじょはめをひらきました。そのゆううつなひょうじょうをまだどこやらに)
思うと、やがて彼女は眼を開きました。その憂鬱な表情をまだ何処やらに
(のこしながら、・・・・・・・・・)
残しながら、・・・・・・・・・
(「いま、・・・・・・・・・もうすこしまえ」)
「今、・・・・・・・・・もう少し前」
(「なぜあたしをおこさなかった?」)
「なぜあたしを起さなかった?」
(「よんだんだけれどおきなかったから、そうっとしておいたんだよ」)
「呼んだんだけれど起きなかったから、そうッとして置いたんだよ」
(「そこにすわって、なにをしてたの?ねがおをみていた?」)
「そこにすわって、何をしてたの?寝顔を見ていた?」
(「ああ」)
「ああ」
(「ふっ、おかしなひと!」)
「ふッ、可笑しな人!」
(そういってかのじょは、こどものようにあどけなくわらって、のばしていたてをわたしのひざに)
そう云って彼女は、子供のようにあどけなく笑って、伸ばしていた手を私の膝に
(のせました。)
載せました。
(「あたしこんやはひとりぼっちでつまらなかったわ。だれかくるかとおもったら、だれも)
「あたし今夜は独りぼっちでつまらなかったわ。誰か来るかと思ったら、誰も
(あそびにこないんだもの。・・・・・・・・・ねえ、ぱぱさん、もうねない?」)
遊びに来ないんだもの。・・・・・・・・・ねえ、パパさん、もう寝ない?」
(「ねてもいいけれど、・・・・・・・・・」)
「寝てもいいけれど、・・・・・・・・・」
(「よう、ねてよう!・・・・・・・・・ごろねしちゃったもんだから、ほうぼう)
「よう、寝てよう!・・・・・・・・・ごろ寝しちゃったもんだから、方々
(かにくわれちゃったわ。ほら、こんなよ!ここんじょをすこうしかいて!」)
蚊に喰われちゃったわ。ほら、こんなよ!ここん所を少うし掻いて!」
(いわれるままに、わたしはかのじょのうでだのせなかだのをしばらくかいてやりました。)
云われるままに、私は彼女の腕だの背中だのを暫く掻いてやりました。
(「ああ、ありがと、かゆくってかゆくってしようがないわ。すまないけれど、)
「ああ、ありがと、痒くって痒くって仕様がないわ。済まないけれど、
(そこにあるねまきをとってくれない?そうしてあたしにきせてくれない?」)
そこにある寝間着を取ってくれない?そうしてあたしに着せてくれない?」
(わたしはがうんをもってきて、だいのじになりたおれているかのじょのからだをいだきすくいました。)
私はガウンを持って来て、大の字になり倒れている彼女の体を抱き掬いました。
(そしてわたしがおびをほどき、きものをきがえさせてやるあいだ、なおみはわざと)
そして私が帯を解き、着物を着換えさせてやる間、ナオミはわざと
(ぐったりとして、しがいのようにてあしをぐにゃぐにゃさせていました。)
ぐったりとして、屍骸のように手足をぐにゃぐにゃさせていました。
(「かやをつって、それからぱぱさんもはやくねてよう。」)
「蚊帳を吊って、それからパパさんも早く寝てよう。」
(そのよるのふたりのねものがたりは、べつにくだくだしくかくまでもありません。)
十四 その夜の二人の寝物語は、別にくだくだしく書くまでもありません。
(なおみはわたしからせいようけんでのはなしをきくと、「まあ、しっけいな!なんていうものをしらない)
ナオミは私から精養軒での話を聞くと、「まあ、失敬な!何て云う物を知らない
(やつらだろう!」とくちぎたなくののしっていっしょうにふしてしまいました。ようするにまだ)
奴等だろう!」と口汚く罵って一笑に附してしまいました。要するにまだ
(せけんではそしある・だんすというもののいぎをりょうかいしていない。おとことおんなが)
世間ではソシアル・ダンスと云うものの意義を諒解していない。男と女が
(てをくみあっておどりさえすれば、なにかそのあいだによくないかんけいがあるもののように)
手を組み合って踊りさえすれば、何かその間に良くない関係があるもののように
(おくそくして、すぐそういうひょうばんをたてる。しんじだいのりゅうこうにはんかんをもつしんぶんなどが、)
憶測して、直ぐそう云う評判を立てる。新時代の流行に反感を持つ新聞などが、
(またいいかげんなきじをかいてはちゅうしょうするので、いっぱんのひとはだんすといえばふけんぜんな)
又いい加減な記事を書いては中傷するので、一般の人はダンスと云えば不健全な
(ものだときめてしまっている。だからわたしたちは、どうせそのくらいなことは)
ものだと極めてしまっている。だから私たちは、どうせそのくらいな事は
(いわれるかくごでいなければならない。)
云われる覚悟でいなければならない。
(「それにあたしは、じょうじさんよりほかのおとことふたりっきりでいたことなんかいちども)
「それにあたしは、譲治さんより外の男と二人ッきりで居たことなんか一度も
(ないのよ。ねえ、そうじゃなくって?」)
ないのよ。ねえ、そうじゃなくって?」
(だんすにいくときもわたしといっしょ、うちであそぶときもわたしといっしょ、まんいちわたしがるすであっても、)
ダンスに行く時も私と一緒、内で遊ぶ時も私と一緒、万一私が留守であっても、
(きゃくはひとりということはない。ひとりできても「きょうはこっちもひとりだから」と)
客は一人と云うことはない。一人で来ても「今日は此方も一人だから」と
(いえば、たいがいえんりょしてかえってしまう。かのじょのともだちにはそんなぶさほうなおとこは)
云えば、大概遠慮して帰ってしまう。彼女の友達にはそんな不作法な男は
(いない。なおみはそういって、)
居ない。ナオミはそう云って、
(「あたしがいくらわがままだって、いいこととわるいことぐらいはわかっているわよ。)
「あたしがいくら我が儘だって、いいことと悪いことぐらいは分っているわよ。
(そりゃじょうじさんをだまそうとおもえばだませるけれど、あたしけっしてそんなことは)
そりゃ譲治さんを欺そうと思えば欺せるけれど、あたし決してそんな事は
(しやしないわ。ほんとにこうめいせいだいよ、なにひとつとしてじょうじさんにかくしたことなんか)
しやしないわ。ほんとに公明正大よ、何一つとして譲治さんに隠したことなんか
(ありゃしないのよ」)
ありゃしないのよ」
(というのでした。)
と云うのでした。
(「それはぼくだってわかっているんだよ、ただあんなことをいわれたのが、きもちが)
「それは僕だって分っているんだよ、ただあんな事を云われたのが、気持が
(わるかったというだけなんだよ」)
悪かったと云うだけなんだよ」
(「わるかったから、どうするっていうの?もうだんすなんかやめるっていうの?」)
「悪かったから、どうするって云うの?もうダンスなんか止めるって云うの?」