谷崎潤一郎 痴人の愛 34
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問題文
(「やめなくってもいいけれど、なるべくごかいされないように、ようじんしたほうが)
「止めなくってもいいけれど、成るべく誤解されないように、用心した方が
(いいというのさ」)
いいと云うのさ」
(「あたし、いまもいうようにようじんしてつきあってるじゃないの」)
「あたし、今も云うように用心して附き合ってるじゃないの」
(「だから、ぼくはごかいしていやあしないよ」)
「だから、僕は誤解していやあしないよ」
(「じょうじさんさえごかいしていなけりゃ、せけんのやつらがなんていおうと、)
「譲治さんさえ誤解していなけりゃ、世間の奴等が何て云おうと、
(こわくはないわ。どうせあたしは、らんぼうでくちがわるくって、みんなに)
恐くはないわ。どうせあたしは、乱暴で口が悪くって、みんなに
(にくまれるんだから。」)
憎まれるんだから。」
(そしてかのじょは、ただわたしがしんじてくれ、あいしてくれればたくさんだとか、じぶんはおんなの)
そして彼女は、ただ私が信じてくれ、愛してくれれば沢山だとか、自分は女の
(ようでないからしぜんおとこのともだちができ、おとこのほうがさっぱりしていてじぶんも)
ようでないから自然男の友達が出来、男の方がサッパリしていて自分も
(すきだものだから、かれらとばかりあそぶのだけれど、いろのこいのというような)
好きだものだから、彼等とばかり遊ぶのだけれど、色の恋のと云うような
(いやらしいきもちはすこしもないとか、せんちめんたるな、あまったるいくちょうで)
イヤらしい気持は少しもないとか、センチメンタルな、甘ったるい口調で
(くりかえして、さいごのれいの「じゅうごのとしからそだててもらったおんをわすれたことはない」)
繰り返して、最後の例の「十五の歳から育てて貰った恩を忘れたことはない」
(とか「じょうじさんをおやともおもいおっとともおもっています」とか、きまりもんくを)
とか「譲治さんを親とも思い夫とも思っています」とか、極まり文句を
(いいながら、さめざめとなみだをながしたり、またそのなみだをわたしにふかせたり、やつぎばやに)
云いながら、さめざめと涙を流したり、又その涙を私に拭かせたり、矢継ぎ早に
(せっぷんのあめをふらせたりするのでした。)
接吻の雨を降らせたりするのでした。
(が、そんなにながくはなしをしながらはまだとくまがいのなまえだけは、こいにか、ぐうぜんにか、)
が、そんなに長く話をしながら浜田と熊谷の名前だけは、故意にか、偶然にか、
(ふしぎにかのじょはいいませんでした。わたしもじつはこのふたつのなをいって、かのじょのかおに)
不思議に彼女は云いませんでした。私も実はこの二つの名を云って、彼女の顔に
(あらわれるはんのうをみたいとおもっていたのに、とうとういいそびれてしまいました。)
現れる反応を見たいと思っていたのに、とうとう云いそびれてしまいました。
(もちろんわたしはかのじょのことばをいちからじゅうまでしんじたわけではありませんが、しかしうたがえば)
勿論私は彼女の言葉を一から十まで信じた訳ではありませんが、しかし疑えば
(どんなことでもうたがえますし、しいてすぎさったことまでもせんぎだてするひつようはない、)
どんな事でも疑えますし、強いて過ぎ去った事までも詮議立てする必要はない、
(これからさきをちゅういしてかんとくすればいいのだと、・・・・・・・・・いや、はじめは)
これから先を注意して監督すればいいのだと、・・・・・・・・・いや、始めは
(もっときょうこうにでるつもりでいたにもかかわらず、しだいにそういうあいまいなたいどに)
もっと強硬に出るつもりでいたにも拘わらず、次第にそう云う曖昧な態度に
(させられました。そしてなみだとせっぷんのなかから、すすりなきのおとにまじってささやかれる)
させられました。そして涙と接吻の中から、すすり泣きの音に交って囁かれる
(こえをきいていると、こんなことがあってからあと、わたしはそれとなくなおみのようすに)
声を聞いていると、こんな事があってから後、私はそれとなくナオミの様子に
(きをつけましたが、かのじょはすこしずつ、あまりふしぜんでないていどに、ざいらいのたいどを)
気をつけましたが、彼女は少しずつ、あまり不自然でない程度に、在来の態度を
(あらためつつあるようでした。だんすにもいくことはいきますけれど、)
改めつつあるようでした。ダンスにも行くことは行きますけれど、
(いままでのようにひんぱんではなく、いってもあまりたくさんはおどらずに、ほどよいところで)
今までのように頻繁ではなく、行っても余り沢山は踊らずに、程よいところで
(きりあげてくる。きゃくもうるさくはやってこない。わたしがかいしゃからかえってくると、)
切り上げて来る。客もうるさくはやって来ない。私が会社から帰って来ると、
(ひとりでおとなしくるすばんして、しょうせつをよむとか、あみものをするとか、しずかにちくおんきを)
独りで大人しく留守番して、小説を読むとか、編物をするとか、静かに蓄音機を
(きいているとか、かだんにはなをうえるとかしている。)
聴いているとか、花壇に花を植えるとかしている。
(「きょうもひとりでるすばんかね?」)
「今日も独りで留守番かね?」
(「ええ、ひとりよ、だれもあそびにこなかったわ」)
「ええ、独りよ、誰も遊びに来なかったわ」
(「じゃ、さびしくはなかったかね?」)
「じゃ、淋しくはなかったかね?」
(「はじめからひとりときまっていれば、さびしいことなんかありゃしないわ、)
「始めから独りときまっていれば、淋しいことなんかありゃしないわ、
(あたしへいきよ」)
あたし平気よ」
(そういって、)
そう云って、
(「あたし、にぎやかなのもすきだけれど、さびしいのもきらいじゃないわ。こどもの)
「あたし、賑やかなのも好きだけれど、淋しいのも嫌いじゃないわ。子供の
(じぶんにはおともだちなんかちっともなくって、いつもひとりであそんでいたのよ」)
時分にはお友達なんかちっともなくって、いつも独りで遊んでいたのよ」
(「ああ、そういえばそんなふうだったね。だいやもんど・かふええにいた)
「ああ、そう云えばそんな風だったね。ダイヤモンド・カフエエにいた
(じぶんなんか、なかまのものともあんまりくちをきかないで、すこしいんうつな)
時分なんか、仲間の者ともあんまり口を利かないで、少し陰鬱な
(くらいだったね」)
くらいだったね」
(「ええ、そう、あたしはおてんばなようだけれど、ほんとうのせいしつはいんうつなのよ。)
「ええ、そう、あたしはお転婆なようだけれど、ほんとうの性質は陰鬱なのよ。
(いんうつじゃいけない?」)
陰鬱じゃいけない?」
(「おとなしいのはけっこうだけれど、いんうつになられてもこまるなあ」)
「大人しいのは結構だけれど、陰鬱になられても困るなア」
(「でもこのあいだじゅうのように、あばれるよりはよくはなくって?」)
「でもこの間じゅうのように、暴れるよりはよくはなくって?」
(「そりゃいくらいいかしれやしないよ」)
「そりゃいくらいいか知れやしないよ」
(「あたし、いいこになったでしょ」)
「あたし、好い児になったでしょ」
(そしていきなりわたしにとびついて、りょうてでくびったまをだきしめながら、めがくらむほど)
そしていきなり私に飛び着いて、両手で首ッ玉を抱きしめながら、眼が晦むほど
(せつなくはげしく、せっぷんしたりするのでした。)
切なく激しく、接吻したりするのでした。
(「どうだね、しばらくだんすにいかないから、こんやあたりいってみようか」)
「どうだね、暫くダンスに行かないから、今夜あたり行って見ようか」
(と、わたしのほうからさそいをかけても、)
と、私の方から誘いをかけても、
(「どうでもじょうじさんがいきたいなら、」)
「どうでも譲治さんが行きたいなら、」
(と、うかぬかおつきでなまへんじをしたり、)
と、浮かぬ顔つきで生返辞をしたり、
(「それよりかつどうへいきましょうよ、こんやはだんすはきがすすまないわ」)
「それより活動へ行きましょうよ、今夜はダンスは気が進まないわ」
(というようなこともよくありました。)
と云うようなこともよくありました。
(またあの、しごねんまえの、じゅんなたのしいせいかつが、ふたりのあいだにもどってきました。わたしと)
又あの、四五年前の、純な楽しい生活が、二人の間に戻って来ました。私と
(なおみとはみずいらずのふたりきりで、まいばんのようにあさくさへでかけ、かつどうごやを)
ナオミとは水入らずの二人きりで、毎晩のように浅草へ出かけ、活動小屋を
(のぞいたりかえりにはどこかのりょうりやでばんめしをたべながら、「あのじぶんは)
覗いたり帰りには何処かの料理屋で晩飯をたべながら、「あの時分は
(こうだった」とか「ああだった」とか、たがいになつかしいむかしのことをかたりあって、)
こうだった」とか「ああだった」とか、互になつかしい昔のことを語り合って、
(おもいでにふける。「おまえはなりがちいさかったものだから、ていこくかんのよこぎのうえへ)
思い出に耽る。「お前はなりが小さかったものだから、帝国館の横木の上へ
(こしをかけて、わたしのかたにつかまりながらえをみたんだよ」とわたしがいえば、)
腰をかけて、私の肩に掴まりながら絵を見たんだよ」と私が云えば、
(「じょうじさんがはじめてかふええへきたじぶんには、いやにむっつりとだまりこんで、)
「譲治さんが始めてカフエエへ来た時分には、イヤにむッつりと黙り込んで、
(とおくのほうからじろじろわたしのかおばかりみて、きみがわるかった」となおみがいう。)
遠くの方からジロジロ私の顔ばかり見て、気味が悪かった」とナオミが云う。
(「そういえばぱぱさんは、このころあたしをおゆにはいれてくれないのね、)
「そう云えばパパさんは、この頃あたしをお湯に入れてくれないのね、
(あのじぶんにはあたしのからだをしじゅうあらってくれたじゃないの」)
あの時分にはあたしの体を始終洗ってくれたじゃないの」
(「ああそうそう、そんなこともあったっけね」)
「ああそうそう、そんな事もあったっけね」
(「あったっけじゃないわ、もうあらってくれないの?こんなにあたしが)
「あったっけじゃないわ、もう洗ってくれないの?こんなにあたしが
(おおきくなっちゃ、あらうのはいや?」)
大きくなっちゃ、洗うのは厭?」
(「いやなことがあるもんか、いまでもあらってやりたいんだけど、じつは)
「厭なことがあるもんか、今でも洗ってやりたいんだけど、実は
(えんりょしていたんだよ」)
遠慮していたんだよ」
(「そう?じゃあらってちょうだいよ、あたしまたべびーさんになるわ」)
「そう?じゃ洗って頂戴よ、あたし又ベビーさんになるわ」
(こんなかいわがあってから、ちょうどさきわいぎょうずいのきせつになってきたので、わたしは)
こんな会話があってから、ちょうど幸い行水の季節になって来たので、私は
(ふたたび、ものおきのすみにすててあったせいようぶろをあとりえにはこび、かのじょのからだを)
再び、物置きの隅に捨ててあった西洋風呂をアトリエに運び、彼女の体を
(あらってやるようになりました。「おおきなべびさん」と、かつてはそういった)
洗ってやるようになりました。「大きなベビさん」と、嘗てはそう云った
(ものですけれど、あれからよんねんのつきひがすぎたいまのなおみは、そのたっぷりした)
ものですけれど、あれから四年の月日が過ぎた今のナオミは、そのたっぷりした
(しんちょうをゆぶねのなかへよこたえてみると、もはやりっぱにせいじんしきってかんぜんな「おとな」に)
身長を湯船の中へ横たえて見ると、もはや立派に成人し切って完全な「大人」に
(なっていました。ほどけばゆうだちぐものように、いっぱいにひろがるほうまんなかみ、)
なっていました。ほどけば夕立雲のように、一杯にひろがる豊満な髪、
(ところどころのかんせつに、えくぼのできているまろやかなにくづき。そしてそのかたは)
ところどころの関節に、えくぼの出来ているまろやかな肉づき。そしてその肩は
(さらにいっそうのあつみをまし、むねとしりとはいやがうえにもだんりょくをおびて、うずたかくなみうち、)
更に一層の厚みを増し、胸と臀とはいやが上にも弾力を帯びて、堆く波うち、
(ゆうがなあしはいよいよながくなったようにおもわれました。)
優雅な脚はいよいよ長くなったように思われました。
(「じょうじさん、あたしいくらかせいがのびた?」)
「譲治さん、あたしいくらかせいが伸びた?」
(「ああ、のびたとも。もうこのころじゃぼくとあんまりちがわないようだね」)
「ああ、伸びたとも。もうこの頃じゃ僕とあんまり違わないようだね」
(「いまにあたし、じょうじさんよりたかくなるわよ。このあいだめかたをはかったら)
「今にあたし、譲治さんより高くなるわよ。この間目方を計ったら
(じゅうよんかんにひゃくあったわ」)
十四貫二百あったわ」
(「おどろいたね、ぼくだってやっとじゅうろくかんたらずだよ」)
「驚いたね、僕だってやっと十六貫足らずだよ」
(「でもじょうじさんはあたしよりおもいの?ちびのくせに」)
「でも譲治さんはあたしより重いの?ちびの癖に」
(「そりゃおもいさ、いくらちびでもおとこはほねぐみががんじょうだからな」)
「そりゃ重いさ、いくらちびでも男は骨組が頑丈だからな」
(「じゃ、いまでもじょうじさんはうまになって、あたしをのせるゆうきがある?)
「じゃ、今でも譲治さんは馬になって、あたしを乗せる勇気がある?
(きたてのじぶんにはよくそんなことをやったじゃないの。ほら、あたしが)
来たての時分にはよくそんなことをやったじゃないの。ほら、あたしが
(せなかへまたがって、てぬぐいをたづなにして、はいはいどうどうっていいながら、)
背中へ跨って、手拭いを手綱にして、ハイハイドウドウって云いながら、
(へやのなかをまわったりして、」)
部屋の中を廻ったりして、」
(「うん、あのじぶんにはかるかったね、じゅうにかんぐらいなもんだったろうよ」)
「うん、あの時分には軽かったね、十二貫ぐらいなもんだったろうよ」
(「いまっだったらばじょうじさんはつぶれちまうわよ」)
「今っだったらば譲治さんは潰れちまうわよ」
(「つぶれるもんかよ。うそだとおもうならのってごらん」)
「潰れるもんかよ。嘘だと思うなら乗って御覧」
(ふたりはじょうだんをいったすえに、むかしのようにまたうまごっこをやったことがありました。)
二人は冗談を云った末に、昔のように又馬ごっこをやったことがありました。