谷崎潤一郎 痴人の愛 36

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね1お気に入り登録
プレイ回数523難易度(4.5) 5520打 長文
谷崎潤一郎の中編小説です
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問題文

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(「じゃ、とうぶんここにいるんですか」)

「じゃ、当分此処に居るんですか」

(とはまだはいって、)

と浜田は云って、

(「だけどかまくらにもだんすはありますよ。こんやもじつはかいひんほてるに)

「だけど鎌倉にもダンスはありますよ。今夜も実は海浜ホテルに

(あるんだけれど、あいてがあればいきたいところなんだがなあ」)

あるんだけれど、相手があれば行きたいところなんだがなア」

(「いやだわ、あたし」)

「いやだわ、あたし」

(と、なおみはにべもなくいいました。)

と、ナオミはにべもなく云いました。

(「このあついのにだんすなんかきんもつだわ。またそのうちにすずしくなったら)

「この暑いのにダンスなんか禁物だわ。又そのうちに涼しくなったら

(でかけるわよ」)

出かけるわよ」

(「それもそうだね、だんすはなつのものじゃないね」)

「それもそうだね、ダンスは夏のものじゃないね」

(そういってはまだは、つかぬようすでもじもじしながら、)

そう云って浜田は、つかぬ様子でモジモジしながら、

(「おい、どうするいまあちゃんもういっぺんおよいでこようか?」)

「おい、どうするいまアちゃんもう一遍泳いで来ようか?」

(「やあだあ、おれあ、くたびれたからもうかえろうや。これからいって)

「やあだア、己あ、くたびれたからもう帰ろうや。これから行って

(ひとやすみして、とうきょうへかえるとひがくれるぜ」)

一と休みして、東京へ帰ると日が暮れるぜ」

(「これからいくって、どこへいくのよ?」)

「これから行くって、何処へ行くのよ?」

(と、なおみははまだにたずねました。)

と、ナオミは浜田に尋ねました。

(「なにかおもしろいことでもあるの?」)

「何か面白い事でもあるの?」

(「なあに、おうぎがやつにせきのおじさんのべっそうがあるんだよ。きょうはみんなでそこへ)

「なあに、扇ヶ谷に関の叔父さんの別荘があるんだよ。今日はみんなでそこへ

(ひっぱってこられたんで、ごちそうするっていうんだけれど、きゅうくつだから)

引っ張って来られたんで、御馳走するって云うんだけれど、窮屈だから

(めしをくわずににげだそうとおもっているのさ」)

飯を喰わずに逃げ出そうと思っているのさ」

(「そう?そんなにきゅうくつなの?」)

「そう?そんなに窮屈なの?」

など

(「きゅうくつもきゅうくつも、じょちゅうがでてきてみつゆびをつきやがるんで、がっかりよ。)

「窮屈も窮屈も、女中が出て来て三つ指を衝きやがるんで、ガッカリよ。

(あれじゃごちそうになったってめしがのどへとおりゃしねえや。なあ、はまだ、)

あれじゃ御馳走になったって飯が喉へ通りゃしねえや。なあ、浜田、

(もうかえろうや、かえってとうきょうでなにかくおうや」)

もう帰ろうや、帰って東京で何か喰おうや」

(そういいながら、くまがいはすぐにたとうとはしないで、あしをのばしてどっかりはまへ)

そう云いながら、熊谷は直ぐに立とうとはしないで、脚を伸ばしてどっかり浜へ

(こしをすえたまま、すなをつかんでひざのうえへぶっかけていました。)

腰を据えたまま、砂を掴んで膝の上へ打っかけていました。

(「ではどうです、ぼくらといっしょにばんめしをたべませんか。)

「ではどうです、僕等と一緒に晩飯をたべませんか。

(せっかくきたもんだから、」)

折角来たもんだから、」

(なおみもはまだもくまがいも、ひとしきりだまりこんでしまったので、わたしはどうも)

ナオミも浜田も熊谷も、一としきり黙り込んでしまったので、私はどうも

(そういわなければ、ばつがわるいようなきがしました。)

そう云わなければ、バツが悪いような気がしました。

(そのばんはひさしぶりでにぎやかなばんめしをたべました。はまだにくまがい、あとから)

十五 その晩は久しぶりで賑やかな晩飯をたべました。浜田に熊谷、あとから

(せきやなかむらもくわわって、はなれざしきのはちじょうのまにろくにんのしゅかくがちゃぶだいをかこみ、)

関や中村も加わって、離れ座敷の八畳の間に六人の主客がチャブ台を囲み、

(じゅうじごろまでしゃべっていました。わたしもはじめは、このれんちゅうにこんどのやどを)

十時頃までしゃべっていました。私も始めは、この連中に今度の宿を

(あらされるのはいやでしたが、こうしてたまにあってみれば、かれらのげんきな、)

荒らされるのは厭でしたが、こうしてたまに会って見れば、彼等の元気な、

(さっぱりとしたこだわりのない、せいねんらしいはだあいが、ゆかいでないことは)

サッパリとしたこだわりのない、青年らしい肌合が、愉快でないことは

(ありませんでした。なおみのたいども、ひとをそらさぬあいきょうはあって、)

ありませんでした。ナオミの態度も、人をそらさぬ愛嬌はあって、

(はすっぱでなく、ざきょうのそえかたやもてなしぶりは、すっかりりそうてきでした。)

蓮ッ葉でなく、座興の添え方やもてなし振りは、すっかり理想的でした。

(「こんやはひじょうにおもしろかったね、あのれんちゅうにときどきあうのもわるくはないよ」)

「今夜は非常に面白かったね、あの連中にときどき会うのも悪くはないよ」

(わたしとなおみとは、しゅうれっしゃでかえるかれらをていしゃじょうまでおくっていって、なつのよみちを)

私とナオミとは、終列車で帰る彼等を停車場まで送って行って、夏の夜道を

(てをたずさえてあるきながらはなしました。ほしのきれいな、うみからふいてくるかぜの)

手を携えて歩きながら話しました。星のきれいな、海から吹いて来る風の

(すずしいばんでした。)

涼しい晩でした。

(「そう、そんなにおもしろかった?」)

「そう、そんなに面白かった?」

(なおみもわたしのきげんのいいのをよろこんでいるようなくちょうでした。そして、)

ナオミも私の機嫌のいいのを喜んでいるような口調でした。そして、

(ちょっとかんがえてからいいました。)

ちょっと考えてから云いました。

(「あのれんちゅうも、よくつきあえばそんなにわるいひとたちじゃないのよ」)

「あの連中も、よく附き合えばそんなに悪い人たちじゃないのよ」

(「ああ、ほんとうにわるいひとたちじゃないね」)

「ああ、ほんとうに悪い人たちじゃないね」

(「だけど、またそのうちにおしかけてきやしないかしら?せきさんはおじさんの)

「だけど、又そのうちに押しかけて来やしないかしら?関さんは叔父さんの

(べっそうがあるから、これからはちょいちょいみんなをつれてやってくるって、)

別荘があるから、これからはちょいちょいみんなを連れてやって来るって、

(いってたじゃないの」)

云ってたじゃないの」

(「だがなんだろう、ぼくらのところへそうおしかけちゃこないだろう、・・・・・・・」)

「だが何だろう、僕等の所へそう押しかけちゃ来ないだろう、・・・・・・・」

(「たまにはいいけれど、たびたびこられるとめいわくだわ。もしこんどきたら、)

「たまにはいいけれど、たびたび来られると迷惑だわ。もし今度来たら、

(あんまりゆうたいしないほうがいいことよ。ごはんなんかごちそうしないで、)

あんまり優待しない方がいいことよ。御飯なんか御馳走しないで、

(たいがいにしてかえってもらうのよ」)

大概にして帰って貰うのよ」

(「けれどまさか、おいたてるわけにはいかんからなあ。・・・・・・・・・」)

「けれどまさか、追い立てる訳には行かんからなあ。・・・・・・・・・」

(「いかないことはありゃしないわ、じゃまだからかえってちょうだいって、あたしとっとと)

「行かない事はありゃしないわ、邪魔だから帰って頂戴って、あたしとっとと

(おいたててやるわ。そんなことをいっちゃいけない?」)

追い立ててやるわ。そんな事を云っちゃいけない?」

(「ふん、またくまがいにひやかされるぜ」)

「ふん、又熊谷に冷やかされるぜ」

(「ひやかされたっていいじゃないの、ひとがせっかくかまくらへきたのに、じゃまにくるほうが)

「冷やかされたっていいじゃないの、人が折角鎌倉へ来たのに、邪魔に来る方が

(わるいんだもの。」)

悪いんだもの。」

(ふたりはくらいまつのこかげへきていましたが、そういいながらなおみはそっと)

二人は暗い松の木蔭へ来ていましたが、そう云いながらナオミはそっと

(たちどまりました。)

立ち止まりました。

(「じょうじさん」)

「譲治さん」

(あまい、かすかな、うったえるようなそのこえのいみがわたしにわかると、わたしはむごんでかのじょの)

甘い、かすかな、訴えるようなその声の意味が私に分ると、私は無言で彼女の

(からだをりょうてのなかへつつみました。がぶりといってき、しおみずをのんだときのような、はげしい)

体を両手の中へ包みました。がぶりと一滴、潮水を呑んだ時のような、激しい

(つよいくちびるをあじわいながら、・・・・・・・・・)

強い唇を味わいながら、・・・・・・・・・

(それからあと、とおかのきゅうかはまたたくうちにすぎさりましたが、わたしたちは)

それから後、十日の休暇はまたたくうちに過ぎ去りましたが、私たちは

(いぜんとしてこうふくでした。そしてさいしょのけいかくどおり、わたしはまいにちかまくらからかいしゃへ)

依然として幸福でした。そして最初の計画通り、私は毎日鎌倉から会社へ

(かよいました。「ちょいちょいくる」といっていたせきのれんちゅうも、ほんのいっぺん、)

通いました。「ちょいちょい来る」と云っていた関の連中も、ほんの一遍、

(いっしゅうかんほどたってからたちよったきり、ほとんどかげをみせませんでした。)

一週間ほど立ってから立ち寄ったきり、殆ど影を見せませんでした。

(すると、そのつきのすえになってから、あるきんきゅうなしらべものをするようじができて、)

すると、その月の末になってから、或る緊急な調べ物をする用事が出来て、

(わたしのかえりがおそくなることがありました。いつもたいていしちじまでにはかえってきて、)

私の帰りがおそくなることがありました。いつも大抵七時までには帰って来て、

(なおみといっしょにゆうはんをたべられるのが、くじまでかいしゃにいのこって、それから)

ナオミと一緒に夕飯をたべられるのが、九時まで会社に居残って、それから

(かえるとかれこれじゅういちじすぎになる、そんなばんが、ごろくにちはつづくよていに)

帰るとかれこれ十一時過ぎになる、そんな晩が、五六日はつづく予定に

(なっていた、そのちょうどよっかめのことでした。)

なっていた、そのちょうど四日目のことでした。

(そのばんわたしは、くじまでかかるはずだったのが、しごとがはやくかたづいたので、はちじごろに)

その晩私は、九時までかかる筈だったのが、仕事が早く片附いたので、八時頃に

(かいしゃをでました。いつものようにおおいまちからしょうせんでんしゃでよこはまへいき、それから)

会社を出ました。いつものように大井町から省線電車で横浜へ行き、それから

(きしゃにのりかえて、かまくらへおりたのは、まだじゅうじにはまのある)

汽車に乗り換えて、鎌倉へ降りたのは、まだ十時には間のある

(じぶんでしたろうか。まいばんまいばん、といってもわずかかみっかかよっかでしたけれど、)

時分でしたろうか。毎晩々々、と云っても僅か三日か四日でしたけれど、

(このところひきつづいて、かえりのおそいひがおおかったものですから、)

このところ引きつづいて、帰りのおそい日が多かったものですから、

(わたしははやくやどへもどってなおみのかおをみ、ゆっくりくつろいでゆうはんをたべたいと、)

私は早く宿へ戻ってナオミの顔を見、ゆっくりくつろいで夕飯を喰べたいと、

(いつもよりはきがせいていたので、ていしゃじょうまえからごようていのそばのみちを)

いつもよりは気がせいていたので、停車場前から御用邸の傍の路を

(くるまでいきました。)

俥で行きました。

(なつのひざかりのあついさなかをいちにちかいしゃではたらいて、それからふたたびきしゃにゆられて)

夏の日盛りの暑いさなかを一日会社で働いて、それから再び汽車に揺られて

(かえってくるみには、このかいがんのよるのくうきはなんともいえずやわらかな、すがすがしい)

帰って来る身には、この海岸の夜の空気は何とも云えず柔かな、すがすがしい

(はだざわりをおぼえさせます。それはこんやにかぎったことではありませんが、そのばんは)

肌触りを覚えさせます。それは今夜に限ったことではありませんが、その晩は

(また、ひのくれがたにさっといっぺん、ゆうだちがあったあとだったので、ぬれたくさばや、)

また、日の暮れ方にさっと一遍、夕立があった後だったので、濡れた草葉や、

(つゆのしたたるまつのえだから、しずかにのぼるすいじょうきにも、こっそりしのびよるような)

露のしたたる松の枝から、しずかに上る水蒸気にも、こっそり忍び寄るような

(しめやかなこうがかんぜられました。ところどころに、よめにもしるくみずたまりが)

しめやかな香が感ぜられました。ところどころに、夜目にもしるく水たまりが

(ひかっていましたけれど、すなちのみちはもはやほこりをあげぬていどにきれいにかわいて、)

光っていましたけれど、沙地の路はもはや埃を揚げぬ程度にきれいに乾いて、

(はしっているしゃふのあしおとが、びろうどのうえをでもふむように、かるく、しとしとと)

走っている車夫の足音が、びろうどの上をでも蹈むように、軽く、しとしとと

(じめんにおちていきました。どこかのべっそうらしいいえの、いけがきのおくからちくおんきが)

地面に落ちて行きました。何処かの別荘らしい家の、生垣の奥から蓄音機が

(きこえたり、たまにひとりかふたりずつ、しろじのゆかたのひとかげがそこらを)

聞えたり、たまに一人か二人ずつ、白地の浴衣の人影がそこらを

(はいかいしていたり、いかにもひしょちへきたらしいこころもちがするのでした。)

徘徊していたり、いかにも避暑地へ来たらしい心持がするのでした。

(きどぐちのところでくるまをかえして、わたしはにわからはなれざしきのえんがわのほうへいきました。)

木戸口のところで俥を帰して、私は庭から離れ座敷の縁側の方へ行きました。

(わたしのくつのおとをきいてなおみがすぐにそのえんがわのしょうじをあけてでるであろうと)

私の靴の音を聞いてナオミが直ぐにその縁側の障子を明けて出るであろうと

(よきしていたのに、しょうじのなかはあかりがかんかんともっていながら、かのじょのいそうな)

予期していたのに、障子の中は明りがかんかん燈っていながら、彼女の居そうな

(けはいはなく、ひっそりとしているのでした。)

けはいはなく、ひっそりとしているのでした。

(「なおみちゃん、・・・・・・・・・」)

「ナオミちゃん、・・・・・・・・・」

(わたしはにさんどよびましたが、へんじがないので、えんがわへあがってしょうじをあけると、)

私は二三度呼びましたが、返辞がないので、縁側へ上って障子を明けると、

(へやはからっぽになっていました。)

部屋はからッぽになっていました。

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