谷崎潤一郎 痴人の愛 47
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問題文
(かるめんをころしたどん・ほせは、にくめばにくむほどいっそうかのじょがうつくしくなるので)
カルメンを殺したドン・ホセは、憎めば憎むほど一層彼女が美しくなるので
(ころしたのだと、そのしんきょうがわたしにはっきりわかりました。なおみがじいっと)
殺したのだと、その心境が私にハッキリ分りました。ナオミがじいッと
(しせんをすえて、がんめんのきんにくはびどうだもさせずに、ちのけのうせたくちびるを)
視線を据えて、顔面の筋肉は微動だもさせずに、血の気の失せた唇を
(しっかりむすんでたっているじゃあくのけしんのようなすがた。ああ、それこそいんぷの)
しっかり結んで立っている邪悪の化身のような姿。ああ、それこそ淫婦の
(つらだましいをいかんなくあらわしたぎょうそうでした。)
面魂を遺憾なく露わした形相でした。
(「でていけ!」)
「出て行け!」
(と、わたしはもういちどさけぶやいなや、なんともしれないにくさとおそろしさとうつくしさに)
と、私はもう一度叫ぶや否や、何とも知れない憎さと恐ろしさと美しさに
(かりたてられつつ、むちゅうでかのじょのかたをつかんで、でぐちのほうへつきとばしました。)
駆り立てられつつ、夢中で彼女の肩を掴んで、出口の方へ突き飛ばしました。
(「でていけ!さあ!でていけったら!」)
「出て行け!さあ!出て行けったら!」
(「かにして、・・・・・・・・・じょうじさん!もうこんどっから・・・・・・・・」)
「堪忍して、・・・・・・・・・譲治さん!もう今度ッから・・・・・・・・」
(なおみのひょうじょうはにわかにかわり、そのこえのちょうしはあいそにふるえ、そのめのふちには)
ナオミの表情は俄かに変り、その声の調子は哀訴にふるえ、その眼の縁には
(なみだをさめざめとたたえながら、ぺったりそこへひざまずいてたんがんするようにわたしのかおを)
涙をさめざめと湛えながら、ぺったりそこへ跪いて嘆願するように私の顔を
(あおぎみました。)
仰ぎ視ました。
(「じょうじさん、わるかったからかにしてってば!・・・・・・・・・かにして、)
「譲治さん、悪かったから堪忍してッてば!・・・・・・・・・堪忍して、
(かにして、・・・・・・・・・」)
堪忍して、・・・・・・・・・」
(こんなにもろくかのじょがゆるしをこうだろうとはよきしていなかったことなので、)
こんなに脆く彼女が赦しを乞うだろうとは予期していなかったことなので、
(はっとふいうちをくったわたしは、そのためになおふんげきしました。わたしはりょうてのこぶしを)
はっと不意打ちを喰った私は、そのために尚憤激しました。私は両手の拳を
(かためてつづけざまにかのじょをなぐりました。)
固めてつづけざまに彼女を殴りました。
(「ちくしょう!いぬ!にんぴにん!もうきさまにようはないんだ!でていけったら)
「畜生!犬!人非/人!もう貴様に用はないんだ!出て行けったら
(でていかんか!」)
出て行かんか!」
(と、なおみはとっさに、「こりゃしくじったな」ときがついたらしく、たちまちたいどを)
と、ナオミは咄嗟に、「こりゃ失策ったな」と気がついたらしく、忽ち態度を
(あらためてすうっとたちあがったかとおもうと、)
改めてすうッと立ち上ったかと思うと、
(「じゃあでていくわ」)
「じゃあ出て行くわ」
(と、まるでふだんのとおりのくちょうでそういいました。)
と、まるで不断の通りの口調でそう云いました。
(「よし!すぐにでていけ!」)
「よし!直ぐに出て行け!」
(「ええ、すぐいくわ、にかいへいって、きがえをもっていっちゃあ)
「ええ、直ぐ行くわ、二階へ行って、着換えを持って行っちゃあ
(いけない?」)
いけない?」
(「きさまはこれからすぐにかえって、つかいをよこせ!にもつはみんな)
「貴様はこれから直ぐに帰って、使いを寄越せ!荷物はみんな
(わたしてやるから!」)
渡してやるから!」
(「だってあたし、それじゃこまるわ、いますぐいろいろにゅうようなものが)
「だってあたし、それじゃ困るわ、今すぐいろいろ入用なものが
(あるんだから。」)
あるんだから。」
(「じゃかってにしろ、はやくしないとしょうちしないぞ!」)
「じゃ勝手にしろ、早くしないと承知しないぞ!」
(わたしはなおみがいますぐにもつをはこぶというのをいっしゅのいかくとみてとったので)
私はナオミが今すぐ荷物を運ぶと云うのを一種の威嚇と見て取ったので
(まけないきでそういってやると、かのじょはにかいへあがっていって、そこらじゅうを)
負けない気でそう云ってやると、彼女は二階へ上って行って、そこらじゅうを
(がたぴしとひっかきまわして、ばすけっとだの、ふろしきづつみだの、)
ガタピシと引っ掻き廻して、バスケットだの、風呂敷包みだの、
(せおいきれないほどのにづくりをして、じぶんでとっととくるまをよんで)
背負いきれないほどの荷造りをして、自分でとッとと俥を呼んで
(つみこみました。)
積み込みました。
(「ではごきげんよう、どうもながながごやっかいになりました。」)
「では御機嫌よう、どうも長々御厄介になりました。」
(と、でていくときにそういったかのじょのあいさつは、しごくあっさりしたものでした。)
と、出て行くときにそう云った彼女の挨拶は、至極あっさりしたものでした。
(かのじょのくるまがいってしまうと、わたしはどういうつもりだったかすぐに)
二十 彼女の俥が行ってしまうと、私はどう云う積りだったか直ぐに
(かいちゅうじけいをだして、じかんをみました。ちょうどごごれいじさんじゅうろっぷん、)
懐中時計を出して、時間を見ました。ちょうど午後零時三十六分、
(・・・・・・・・・ああそうか、さっきかのじょがあけぼのろうをでてきたのがじゅういちじ、)
・・・・・・・・・ああそうか、さっき彼女が曙楼を出て来たのが十一時、
(それからあんなおおげんかをしてあっというまにけいせいがかわり、いままでここに)
それからあんな大喧嘩をしてあッと云う間に形勢が変り、今まで此処に
(たっていたかのじょがもういなくなってしまったんだ。そのあいだがわずかに)
立っていた彼女がもう居なくなってしまったんだ。その間が僅かに
(いちじかんとさんじゅうろっぷん。・・・・・・・・・ひとはしばしば、かんごしていたびょうにんが)
一時間と三十六分。・・・・・・・・・人は屡々、看護していた病人が
(さいごのいきをひきとるときとか、またはだいじしんにでっくわしたときとかに、おぼえずしらず)
最後の息を引き取る時とか、又は大地震に出ッ会した時とかに、覚えず知らず
(とけいをみるくせがあるものですが、わたしがそのときふいととけいをだしてみたのも)
時計を見る癖があるものですが、私がその時ふいと時計を出して見たのも
(おおかたそれににたようなきもちだったでしょう。たいしょうぼうねんじゅういちがつぼうじつごごれいじ)
大方それに似たような気持だったでしょう。大正某年十一月某日午後零時
(さんじゅうろっぷん、じぶんはこのひのこのじこくに、ついになおみとわかれてしまった。)
三十六分、自分はこの日のこの時刻に、遂にナオミと別れてしまった。
(じぶんとかのじょとのかんけいは、このときをもってあるいはしゅうえんをつげるかも)
自分と彼女との関係は、この時を以て或は終焉を告げるかも
(しれない。・・・・・・・・・)
知れない。・・・・・・・・・
(「まずほっとした!おもにがおりた!」)
「先ずほッとした!重荷が下りた!」
(なにしろわたしはこのあいだじゅうのあんとうにつかれきっていたさいだったので、)
何しろ私はこの間じゅうの暗闘に疲れ切っていた際だったので、
(そうおもうとどうじにぐったりいすにこしかけたままぼんやりしてしまいました。)
そう思うと同時にぐったり椅子に腰かけたままぼんやりしてしまいました。
(とっさのかんじは、「ああありがたい、やっとのことでかいほうされた」というような、)
咄嗟の感じは、「ああ有難い、やっとのことで解放された」というような、
(せいせいとしたきぶんでした。それというのがわたしはたんにせいしんてきにひろうしていた)
せいせいとした気分でした。それと云うのが私は単に精神的に疲労していた
(ばかりでなく、せいりてきにもひろうしていたので、いちどゆっくりきゅうようしたいと)
ばかりでなく、生理的にも疲労していたので、一度ゆっくり休養したいと
(いうことは、むしろわたしのにくたいのほうがつうせつにようきゅうしていたのです。たとえば)
云うことは、寧ろ私の肉体のほうが痛切に要求していたのです。たとえば
(なおみというものはひじょうにつよいさけであって、あまりそのさけをのみすぎると)
ナオミと云うものは非常に強い酒であって、あまりその酒を飲み過ぎると
(からだにどくだとしりながら、まいにちまいにち、そのほうじゅんなこうきをかがされ、なみなみと)
体に毒だと知りながら、毎日々々、その芳醇な香気を嗅がされ、なみなみと
(もったはいをみせられては、やはりわたしはのまずにはいられない。のむにしたがって)
盛った杯を見せられては、矢張私は飲まずにはいられない。飲むに随って
(しだいにしゅどくがからだのふしぶしへおよぼしてきて、ひだるく、ものうく、こうとうぶが)
次第に酒毒が体の節々へ及ぼして来て、ひだるく、ものうく、後頭部が
(なまりのようにどんよりおもく、ふいとたちあがるとめまいがしそうで、あおむけさまに)
鉛のようにどんより重く、ふいと立ち上がると眩暈がしそうで、仰向けさまに
(うしろへぶったおれそうになる。そしていつでもふつかよいのようなここちで、)
うしろへ打ッ倒れそうになる。そしていつでも二日酔いのような心地で、
(いがわるく、きおくりょくがおとろえ、すべてのことにきょうみがなくなり、びょうにんかなんぞのように)
胃が悪く、記憶力が衰え、すべての事に興味がなくなり、病人か何ぞのように
(もときがない。あたまのなかにはきみょうななおみのまぼろしばかりがうかんできて、それがときどき)
元気がない。頭のなかには奇妙なナオミの幻ばかりが浮かんで来て、それが時々
(おくびのようにむねをむかつかせ、かのじょのにおいや、あせや、あぶらが、しじゅうむうっと)
おくびのように胸をむかつかせ、彼女の臭いや、汗や、脂が、始終むうッと
(はなについている。で、「みればめのどく」のなおみがいなくなったことは、)
鼻についている。で、「見れば眼の毒」のナオミが居なくなったことは、
(にゅうばいのそらがいちどきにからっとはれたようなぐあいでした。)
入梅の空が一時にからッと晴れたような工合でした。
(が、いまもいうようにそれはまったくとっさのかんじで、しょうじきのところ、そのせいせいした)
が、今も云うようにそれは全く咄嗟の感じで、正直のところ、そのせいせいした
(こころもちがつづいたのは、いちじかんぐらいなものだったでしょう。まさかわたしのにくたいが)
心持が続いたのは、一時間ぐらいなものだったでしょう。まさか私の肉体が
(いくらがんけんだからといって、ほんのいちじかんやそこらのあいだにひろうが)
いくら頑健だからと云って、ほんの一時間やそこらの間に疲労が
(かいふくしきったわけでもありますまいが、いすにこしかけてほっとひといきついたかと)
恢復し切った訳でもありますまいが、椅子に腰かけてほっと一と息ついたかと
(おもうと、まもなくむねにうかんできたのは、さっきのなおみの、)
思うと、間もなく胸に浮かんで来たのは、さっきのナオミの、
(あのけんかをしたときのいじょうにすごいようぼうでした。「おとこのにくしみがかかればかかるほど)
あの喧嘩をした時の異常に凄い容貌でした。「男の憎しみがかかればかかる程
(うつくしくなる」といった、あのいっせつなのかのじょのかおでした。それはわたしがさしころしても)
美しくなる」と云った、あの一刹那の彼女の顔でした。それは私が刺し殺しても
(あきたりないほどにくいにくいいんぷのそうで、あたまのなかへえいきゅうにやきつけられて)
飽き足りないほど憎い憎い淫婦の相で、頭の中へ永久に焼きつけられて
(しまったまま、けそうとしてもいっかなきえずにいたのでしたが、どういうわけか)
しまったまま、消そうとしてもいっかな消えずにいたのでしたが、どう云う訳か
(じかんがたつにしたがっていよいよはっきりとめのまえにあらわれ、いまだにじーいっと)
時間が立つに随っていよいよハッキリと眼の前に現れ、未だにじーいッと
(ひとみをすえてわたしのほうをにらんでいるようにかんぜられ、しかもだんだんそのにくらしさが)
瞳を据えて私の方を睨んでいるように感ぜられ、しかもだんだんその憎らしさが
(そこのしれないうつくしさにかわっていくのでした。かんがえてみるとかのじょのかおに)
底の知れない美しさに変って行くのでした。考えて見ると彼女の顔に
(あんなようえんなひょうじょうがあふれたところを、わたしはきょうまでいちどもみたことが)
あんな妖艶な表情が溢れたところを、私は今日まで一度も見たことが
(ありません。うたがいもなくそれは「じゃあくのけしん」であって、そしてどうじに、かのじょの)
ありません。疑いもなくそれは「邪悪の化身」であって、そして同時に、彼女の
(からだとたましいとがもつことごとくのびが、さいこうちょうのかたちにおいてはつようしたすがたなのです。わたしは)
体と魂とが持つ悉くの美が、最高潮の形に於いて発揚した姿なのです。私は
(さっきも、あのけんかのまっさいちゅうにおぼえずそのびにうたれたのみならず、)
さっきも、あの喧嘩の真っ最中に覚えずその美に撲たれたのみならず、
(「ああうつくしい」とこころのなかでさけんだのでありながら、どうしてあのときかのじょのあしもとに)
「ああ美しい」と心の中で叫んだのでありながら、どうしてあの時彼女の足下に
(ひざまずいてしまわなかったか。いつもゆうじゅうでいくじなしのわたしが、いかに)
跪いてしまわなかったか。いつも優柔で意気地なしの私が、いかに
(ふんげきしていたとはいえあのおそろしいめがみにむかって、どうしてあれほどのめんばを)
憤激していたとは云えあの恐ろしい女神に向って、どうしてあれほどの面罵を
(あびせ、てをふりあげることができたか。じぶんのどこからそんなむてっぽうなゆうきが)
浴びせ、手を振り上げることが出来たか。自分のどこからそんな無鉄砲な勇気が
(でたか。それがわたしにはいまさらふしぎなようにおもわれ、そのむてっぽうと)
出たか。それが私には今更不思議なように思われ、その無鉄砲と
(ゆうきとをうらむようなこころもちさえ、しだいにわきあがってくるのでした。)
勇気とを恨むような心持さえ、次第に湧き上って来るのでした。
(「おまえはばかだぞ、たいへんなことをしちまったんだぞ。ちっとやそっとのふつごうが)
「お前は馬鹿だぞ、大変なことをしちまったんだぞ。ちっとやそっとの不都合が
(あっても、それと「あのかお」とひきかえになるとおもっているのか。あれだけの)
あっても、それと『あの顔』と引き換えになると思っているのか。あれだけの
(びはこのあとけっして、にどとせけんにありはしないぞ」)
美はこの後決して、二度と世間にありはしないぞ」
(わたしはだれかにそういわれているようなきがしはじめ、ああ、そうだった、じぶんはじつに)
私は誰かにそう云われているような気がし始め、ああ、そうだった、自分は実に
(つまらないことをしてしまった。かのじょをおこらせないようにと、あんなにふだんから)
つまらないことをしてしまった。彼女を怒らせないようにと、あんなに不断から
(ようじんしていながら、こういうしまつになったというのはまがさしたのに)
用心していながら、こういう始末になったというのは魔がさしたのに
(ちがいないんだと、そんなかんがえがどこからともなくあたまをもたげてくるのでした。)
違いないんだと、そんな考が何処からともなく頭を擡げて来るのでした。
(たったいちじかんまえまではあれほどかのじょをにやっかいにし、そのそんざいをのろったわたしが、)
たった一時間前まではあれほど彼女を荷厄介にし、その存在を呪った私が、
(そのけいそつをくいるようになったというのは?)
その軽率を悔いるようになったと云うのは?