谷崎潤一郎 痴人の愛 49
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問題文
(けれどもそのばん、まてどくらせどなおみのつかいはきませんでした。わたしはあたりが)
けれどもその晩、待てど暮せどナオミの使は来ませんでした。私はあたりが
(まっくらになるまででんとうをつけずにおいたので、もしもあきやとまちがえられたら)
真っ暗になるまで電燈をつけずに置いたので、若しも空家と間違えられたら
(たいへんだとおもって、あわてていえじゅうのへやというへやへあかりをともし、もんのひょうさつが)
大変だと思って、慌てて家じゅうの部屋と云う部屋へ明りを燈し、門の表札が
(おちていやしないかとあらためてみ、とぐちのところへいすをもってきてなんじかんとなく)
落ちていやしないかと改めて見、戸口のところへ椅子を持って来て何時間となく
(こがいのあしおとをきいていましたが、はちじがくじになり、じゅうじになり、じゅういちじに)
戸外の足音を聞いていましたが、八時が九時になり、十時になり、十一時に
(なっても、・・・・・・・・・とうとうあさからまるいちにちたってしまっても、なんの)
なっても、・・・・・・・・・とうとう朝からまる一日立ってしまっても、何の
(たよりもありません。そしてひかんのどんぞこにおちたわたしのむねには、またいろいろな)
便りもありません。そして悲観のどん底に落ちた私の胸には、又いろいろな
(とりとめのないおくそくがしょうじてくるのでした。なおみがつかいをよこさないのは、ことに)
取り止めのない臆測が生じて来るのでした。ナオミが使を寄越さないのは、事に
(よったらじけんをかるくみているしょうこで、にさんにちしたらかいけつがつくと)
依ったら事件を軽く見ている証拠で、二三日したら解決がつくと
(たかをくくっているんじゃないかな。「なにだいじょうぶだ、むこうはあたしに)
たかを括っているんじゃないかな。「なに大丈夫だ、向うはあたしに
(ほれているんだ、あたしなしにはいちにちもいられやしないんだから、むかいにくるに)
惚れているんだ、あたしなしには一日も居られやしないんだから、迎いに来るに
(きまっている」と、がけひきをしているんじゃないかな。かのじょにしたっていままで)
極まっている」と、縣引をしているんじゃないかな。彼女にしたって今まで
(ぜいたくになれてきたのが、あんなしゃかいのにんげんのなかでくらせないことは)
贅沢に馴れて来たのが、あんな社会の人間の中で暮らせないことは
(わかっているんだ。そうかといってほかのおとこのところへいっても、おれほどかのじょを)
分っているんだ。そうかと云って外の男の所へ行っても、己ほど彼女を
(だいじにしてやり、きずいきままをさせておくものはありゃしないんだ。なおみのやつは)
大事にしてやり、気随気儘をさせて置く者はありゃしないんだ。ナオミの奴は
(そんなことはひゃくもしょうちで、くちではつよがりをいいながら、むかいにくるのを)
そんなことは百も承知で、口では強がりを云いながら、迎いに来るのを
(こころまちにしているんじゃないかな。それともあしたのあさあたりでも、あねかあにきが)
心待ちにしているんじゃないかな。それとも明日の朝あたりでも、姉か兄貴が
(いよいよちゅうさいにやってくるかな。よるがいそがしいしょうばいだから、あさでなければ)
いよいよ仲裁にやって来るかな。夜が忙しい商売だから、朝でなければ
(でられないことじょうがあるかもしれない。なにしろつかいがこないというのはかえって)
出られない事情があるかも知れない。何しろ使が来ないと云うのは却って
(いちるののぞみがあるんだ。あしたになってもおとさたがなければ、おれはむかいに)
一縷の望みがあるんだ。明日になっても音沙汰がなければ、己は迎いに
(いってやろう。もうこうなればいじもがいぶんもあるもんじゃない、もともとおれは)
行ってやろう。もうこうなれば意地も外聞もあるもんじゃない、もともと己は
(そのいじでもってしくじったんだ。じっかのやつらにわらわれようと、かのじょにうちかぶとを)
その意地でもって失策ったんだ。実家の奴等に笑われようと、彼女に内兜を
(みすかされようと、でかけていってひらあやまりにあやまって、あねやあにきにもくちぞえを)
見透かされようと、出かけて行って平詫まりに詫まって、姉や兄貴にも口添えを
(たのんで、「ごしょういっしょうのおねがいだからかえっておくれ」と、ひゃくまんべんもくりかえす。)
頼んで、「後生一生のお願いだから帰っておくれ」と、百万遍も繰り返す。
(そうすればかのじょもかおがたって、おおでをふってもどってこられよう。)
そうすれば彼女も顔が立って、大手を振って戻って来られよう。
(わたしはほとんどまんじりともしないでひとよをあかし、あくるひのごごろくじごろまで)
私は殆どまんじりともしないで一と夜を明かし、明くる日の午後六時頃まで
(まちましたけれど、それでもなんのおとさたもないので、もうたまりかねて)
待ちましたけれど、それでも何の音沙汰もないので、もうたまりかねて
(いえをとびだし、いそいであさくさへかけつけました。いっこくもはやくかのじょにあいたい、)
家を飛び出し、急いで浅草へ駈け付けました。一刻も早く彼女に会いたい、
(かおさえみればあんしんする!こいこがれるとはそのときのわたしをいうのでしょう、)
顔さえ見れば安心する!恋い焦がれるとはその時の私を云うのでしょう、
(わたしのむねには「あいたいみたい」のねがいよりほかなにものもありませんでした。)
私の胸には「会いたい見たい」の願いより外何物もありませんでした。
(はなやしきのうしろのほうの、いりくんだろじのなかにあるせんぞくちょうのいえへついたのは)
花屋敷のうしろの方の、入り組んだ路次の中にある千束町の家へ着いたのは
(おおかたしちじごろでしたろう。さすがにきまりがわるいのでわたしはそっとこうしをあけ、)
大方七時頃でしたろう。さすがに極まりが悪いので私はそっと格子をあけ、
(「あの、おおもりからきたんですが、なおみはまいっておりましょうか?」)
「あの、大森から来たんですが、ナオミは参っておりましょうか?」
(と、どまにたったままこごえでいいました。)
と、土間に立ったまま小声で云いました。
(「おや、かわいさん」)
「おや、河合さん」
(と、あねはわたしのことばをききつけてつぎのまのほうからくびをだしましたが、けげんそうな)
と、姉は私の言葉を聞きつけて次の間の方から首を出しましたが、怪訝そうな
(かおつきをしていうのでした。)
顔つきをして云うのでした。
(「へえ、なおみちゃんが?いいえ、まいってはおりませんが」)
「へえ、ナオミちゃんが?いいえ、参ってはおりませんが」
(「そりゃおかしいな、きていないはずはないんですがな、さくやこちらへうかがうと)
「そりゃ可笑しいな、来ていない筈はないんですがな、昨夜此方へ伺うと
(いってでたんですから。・・・・・・・・・」)
云って出たんですから。・・・・・・・・・」
(さいしょわたしは、あねがかのじょのいをふくんでかくしているものとじゃすいしたので、)
二十一 最初私は、姉が彼女の意を含んで隠しているものと邪推したので、
(いろいろにいってたのんでみましたが、だんだんきくと、じじつなおみはここへ)
いろいろに云って頼んで見ましたが、だんだん聞くと、事実ナオミは此処へ
(きていないらしいのです。)
来ていないらしいのです。
(「おかしいな、どうも、・・・・・・・・・にもつもたくさんもっていたんだし、)
「おかしいな、どうも、・・・・・・・・・荷物も沢山持っていたんだし、
(あのままどこへもいかれるはずはないんだけれど。・・・・・・・・・」)
あのまま何処へも行かれる筈はないんだけれど。・・・・・・・・・」
(「へえ、にもつをもって?」)
「へえ、荷物を持って?」
(「ばすけっとだの、かばんだの、ふろしきづつみだの、だいぶもっていったんですよ。じつは)
「バスケットだの、鞄だの、風呂敷包みだの、大分持って行ったんですよ。実は
(きのう、つまらないことでちょっとけんかしたもんですから、・・・・・・・・・」)
昨日、つまらないことでちょっと喧嘩したもんですから、・・・・・・・・・」
(「それでとうにんは、ここへくるといってでたんですか」)
「それで当人は、此処へ来ると云って出たんですか」
(「とうにんじゃあない、ぼくがそういってやったんですよ、これからすぐにあさくさに)
「当人じゃあない、僕がそう云ってやったんですよ、これから直ぐに浅草に
(かえって、ひとをよこせって。だれかあなたがたがきてくださればはなしがわかると)
帰って、人を寄越せッて。誰かあなた方が来て下されば話が分ると
(おもったもんですから」)
思ったもんですから」
(「へえ、なるほど、・・・・・・・・・だけどとにかくてまえどもへは)
「へえ、成る程、・・・・・・・・・だけどとにかく手前共へは
(まいりませんのよ、そういうことならおっつけくるかもしれませんけれど」)
参りませんのよ、そう云うことなら追っ付け来るかも知れませんけれど」
(「だけどもおめえ、さくやっからならわかりゃしねえぜ」)
「だけどもお前、昨夜ッからなら分りゃしねえぜ」
(と、そうこうするうちにあにきもでてきていうのでした。)
と、そうこうするうちに兄貴も出て来て云うのでした。
(「そりゃどこか、おこころあたりがおあんなすったらほかをさがしてごらんなさい。もう)
「そりゃ何処か、お心当りがおあんなすったら外を捜して御覧なさい。もう
(いままでこねえようじゃあ、ここへかえっちゃきますまいよ」)
今まで来ねえようじゃあ、此処へ帰っちゃ来ますまいよ」
(「それになおちゃんはさっぱりいえへよりつかないんで、あれはこうっと、)
「それにナオちゃんはさっぱり家へ寄り付かないんで、あれはこうッと、
(いつだったかしら?もうふたつきもかおをみせたことはないんですよ」)
いつだったかしら?もう二た月も顔を見せたことはないんですよ」
(「ではすみませんが、もしもこちらへまいりましたら、たといとうにんがなんといおうと、)
「では済みませんが、もしも此方へ参りましたら、たとい当人が何と云おうと、
(さっそくどうかぼくのところへしらしていただきたいんですが」)
早速どうか僕の所へ知らして戴きたいんですが」
(「ええ、そりゃあもう、あっしのほうじゃいまさらあのこをどうするってきは)
「ええ、そりゃあもう、あッしの方じゃ今更あの児をどうするッて気は
(ねえんですから、くればすぐにでもしらせますがね」)
ねえんですから、来れば直ぐにでも知らせますがね」
(あがりかまちへこしをかけて、だされたしぶちゃをすすりながら、わたしはしばらくとほうに)
上り框へ腰をかけて、出された渋茶をすすりながら、私は暫く途方に
(くれていましたけれど、いもうとがいえでをしたときいてもべつにしんぱいをするのでもない)
暮れていましたけれど、妹が家出をしたと聞いても別に心配をするのでもない
(あねやあにきがあいてでは、ここでちゅうじょうをうったえたところでどうにもしようがありません。)
姉や兄貴が相手では、ここで衷情を訴えたところでどうにも仕様がありません。
(で、わたしはかさねて、まんいちかのじょがたちまわったらときをうつさず、ひるまだったらかいしゃのほうへ)
で、私は重ねて、万一彼女が立ち廻ったら時を移さず、昼間だったら会社の方へ
(でんわをかけてくれること。もっともこのころはときどきかいしゃをやすんでいるから、もしも)
電話をかけてくれること。尤もこの頃は時々会社を休んでいるから、もしも
(かいしゃにいなかったばあいはすぐおおもりへでんぽうをうってもらいたいこと。そうしたらわたしが)
会社に居なかった場合は直ぐ大森へ電報を打って貰いたいこと。そうしたら私が
(むかいにくるから、それまでかならずどこへもださずにおいてくれること。などを)
迎いに来るから、それまで必ず何処へも出さずに置いてくれること。などを
(くどくどたのみこんで、それでもなんだかこのれんちゅうのずべらなのがあてに)
くどくど頼み込んで、それでも何だかこの連中のずべらなのがアテに
(ならないようなきがして、なおねんのためにかいしゃのでんわばんごうをおしえたり、)
ならないような気がして、なお念のために会社の電話番号を教えたり、
(このようすではおおもりのいえのばんちなんぞしらないのではないかとおもって、それを)
この様子では大森の家の番地なんぞ知らないのではないかと思って、それを
(くわしくかきとめたりしてでてきました。)
委しく書き止めたりして出て来ました。
(「さて、どうしたらいいんだろう?どこへいっちまったんだろう?」)
「さて、どうしたらいいんだろう?何処へ行っちまったんだろう?」
(わたしはほとんどべそをかかないばかりのきもちで、いや、じっさいべそを)
私は殆どべそを掻かないばかりの気持で、いや、実際べそを
(かいていたかもしれませんが、せんぞくちょうのろじをでると、なんという)
掻いていたかも知れませんが、千束町の路次を出ると、何と云う
(もくてきもなく、こうえんのなかをぶらぶらあるきながらかんがえました。じっかへ)
目的もなく、公園の中をぶらぶら歩きながら考えました。実家へ
(かえらないところをみると、じたいはあきらかによそうしたよりもじゅうだいなのです。)
帰らないところを見ると、事態は明かに予想したよりも重大なのです。
(「これはきっとくまがいのところだ、あいつのところへにげていったんだ」そう)
「これはきっと熊谷の所だ、彼奴の所へ逃げて行ったんだ」そう
(きがつくと、なおみがきのうでていくときに、「だってあたし、それじゃこまるわ、)
気がつくと、ナオミが昨日出て行く時に、「だってあたし、それじゃ困るわ、
(いますぐいろいろにゅうようなものがあるんだから」とそういったのも、なるほど)
今すぐいろいろ入用なものがあるんだから」とそう云ったのも、成る程
(おもいあたるのでした。そうだ、やっぱりそうだったんだ、くまがのところへいく)
思い中るのでした。そうだ、やっぱりそうだったんだ、熊谷の所へ行く
(つもりだから、あんなににもつをもっていったんだ。あるいはまえから、こういうときには)
積りだから、あんなに荷物を持って行ったんだ。或は前から、こう云う時には
(こうしようと、ふたりでうちあわせがしてあったかもしれん。そうだとすると)
こうしようと、二人で打ち合わせがしてあったかも知れん。そうだとすると
(これはなかなかむずかしいかもわからんぞ。だいいちおれはくまがいのいえがどこにあるのかも)
これは中々むずかしいかも分らんぞ。第一己は熊谷の家が何処にあるのかも
(しらない。それはしらべればわかるとしても、まさかあいつがりょうしんのいえへかのじょを)
知らない。それは調べれば分るとしても、まさか彼奴が両親の家へ彼女を
(かくまってはおけなかろう。あいつはふりょうしょうねんだけれど、おやはそうとうなものらしいから、)
匿っては置けなかろう。彼奴は不良少年だけれど、親は相当な者らしいから、
(じぶんのむすこにそんなふつごうをはたらかしてはおかないだろう。あいつもいえを)
自分の息子にそんな不都合を働かしては置かないだろう。彼奴も家を
(とびだして、ふたりでどこかにかくれていやしないか?おやのかねでもひっさらって、)
飛び出して、二人で何処かに隠れていやしないか?親の金でも引ッ浚って、
(あそびあるいていやしないか?が、それならそうと、はっきりわかってくれればいい。)
遊び歩いていやしないか?が、それならそうと、ハッキリ分ってくれればいい。
(そうすればおれはくまがいのおやにだんぱんして、きびしいかんしょうをくわえてもらう。たといあいつが)
そうすれば己は熊谷の親に談判して、厳しい干渉を加えて貰う。たとい彼奴が
(おやのいけんをきかないにしたって、かねがつきればふたりでくらせるわけがないから、)
親の意見を聴かないにしたって、金が尽きれば二人で暮らせる訳がないから、
(けっきょくあいつはじぶんのいえへもどるだろうし、なおみはこっちへかえってくる。)
結局彼奴は自分の家へ戻るだろうし、ナオミは此方へ帰って来る。
(とどのつまりはそうなるだろうが、そのあいだのおれのくろうというものは?)
トドの詰まりはそうなるだろうが、その間の己の苦労と云うものは?
(それがひとつきですむものやら、ふたつき、みつき、あるいははんとしも)
それが一と月で済むものやら、二た月、三月、或は半年も
(かかるものやら?いや、そうなったらたいへんだ。そんなことをしているうちに)
かかるものやら?いや、そうなったら大変だ。そんな事をしているうちに
(だんだんかえりそびれてしまって、またひょっとするとだいにだいさんのおとこが)
だんだん帰りそびれてしまって、又ひょっとすると第二第三の男が
(できないもんでもない。するとこいつはぐずぐずしているところじゃないんだ。)
出来ないもんでもない。すると此奴はぐずぐずしているところじゃないんだ。