谷崎潤一郎 痴人の愛 53
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ばぼじま | 4947 | B | 5.1 | 96.3% | 1037.6 | 5338 | 204 | 96 | 2024/09/27 |
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問題文
(はまだはわたしのめのなかになみだがわいてきたのをみて、きのどくそうにうなずきながら、)
浜田は私の眼の中に涙が湧いて来たのを見て、気の毒そうに頷きながら、
(「そういわれるとぼくはあなたのおこころもちをおさっしして、いいづらくなって)
「そう云われると僕はあなたのお心持ちをお察しして、云い辛くなって
(くるんですが、げんにさくやはぼくもそのばにいあわせたんだし、だいたいくまがいの)
来るんですが、現に昨夜は僕もその場に居合わせたんだし、大体熊谷の
(いうことはほんとうだろうとおもわれるんです。まだこのほかにもおはなしすれば)
云うことは本当だろうと思われるんです。まだこの外にもお話すれば
(いろいろなことがでてくるので、なるほどとおおもいになるでしょうが、)
いろいろな事が出て来るので、成る程とお思いになるでしょうが、
(どうぞそこまではおききにならずに、ぼくをしんじてくださいませんか。ぼくがけっして、)
何卒そこまではお聞きにならずに、僕を信じて下さいませんか。僕が決して、
(おもしろはんぶんにじじつをこちょうしているのではないということを、」)
面白半分に事実を誇張しているのではないと云うことを、」
(「ああ、ありがとう、そこまでうかがえばもういいんです、もうそれいじょう)
「ああ、有難う、そこまで伺えばもういいんです、もうそれ以上
(きくひつようは・・・・・・・・・」)
聞く必要は・・・・・・・・・」
(どうしたかげんか、こういったひょうしにわたしのことばはのどにつまって、きゅうにぱらぱら)
どうした加減か、こう云った拍子に私の言葉は喉に詰まって、急にパラパラ
(おおつぶのなみだがおちてきたので、「こりゃいけない」とおもったわたしは、とつぜんはまだに)
大粒の涙が落ちて来たので、「こりゃいけない」と思った私は、突然浜田に
(ひしとだきつき、そのかたのうえへかおをつっぷしてしまいました。そしてわあっと)
ひしと抱き着き、その肩の上へ顔を突ッ伏してしまいました。そしてわあッと
(なきながら、とてつもないこえでさけびました。)
泣きながら、途轍もない声で叫びました。
(「はまだくん!ぼくは、ぼくは、・・・・・・・・・もうあのおんなをきれいさっぱり)
「浜田君!僕は、僕は、・・・・・・・・・もうあの女をキレイサッパリ
(あきらめたんです!」)
あきらめたんです!」
(「ごもっともです!そうおっしゃるのはごもっともです!」)
「御尤もです!そう仰っしゃるのは御尤もです!」
(と、はまだもわたしにつりこまれたのか、やはりだみごえでいうのでした。)
と、浜田も私に釣り込まれたのか、矢張濁声で言うのでした。
(「ぼくは、ほんとうのことをいうと、なおみさんにはもはやのぞみがないということを、)
「僕は、ほんとうの事を云うと、ナオミさんには最早望みがないと云うことを、
(きょうあなたにせんこくするきできたんですよ。そりゃあひとのことですから、)
今日あなたに宣告する気で来たんですよ。そりゃあ人のことですから、
(またいつなんどき、あなたのところへへいきなかおであらわれるかもしれませんが、いまではじじつ、)
又いつ何時、あなたの所へ平気な顔で現れるかも知れませんが、今では事実、
(だれもまじめでなおみさんをあいてにするものはありゃしないんです。くまがいなんぞに)
誰も真面目でナオミさんを相手にする者はありゃしないんです。熊谷なんぞに
(いわせると、まるでみんながなぐさみものにしているんで、とてもくちにできないような)
云わせると、まるでみんなが慰み物にしているんで、とても口に出来ないような
(ひどいあだなさえついているんです。あなたはいままで、しらないあいだにどれほど)
ヒドイ仇名さえ附いているんです。あなたは今まで、知らない間にどれほど
(はじをかかされているかわかりゃしません。・・・・・・・・・」)
耻を掻かされているか分りゃしません。・・・・・・・・・」
(かつてはわたしとおなじようにねつれつになおみをこいしたはまだ、そしてわたしとおなじようにかのじょに)
嘗ては私と同じように熱烈にナオミを恋した浜田、そして私と同じように彼女に
(そむかれてしまったはまだ、このしょうねんの、ひふんにみちた、こころのそこから)
背かれてしまった浜田、この少年の、悲憤に充ちた、心の底から
(わたしのためをおもってくれることばのふしぶしは、するどいめすでくさったにくをえぐりとるような)
私の為めを思ってくれる言葉の節々は、鋭いメスで腐った肉を抉り取るような
(こうかがありました。みんながなぐさみものにしている、くちにはできないひどいあだなが)
効果がありました。みんなが慰みものにしている、口には出来ないヒドイ仇名が
(ついている、このおそろしいすっぱぬきはかえってきぶんをさばさばとさせ、)
附いている、この恐ろしいスッパ抜きは却って気分をサバサバとさせ、
(わたしはおこりがとれたようにいっときにかたがかるくなって、なみださえとまってしまいました。)
私は瘧が取れたように一時に肩が軽くなって、涙さえ止まってしまいました。
(「どうですかわいさん、そうとじこもってばっかいないで、きばらしに)
二十三 「どうです河合さん、そう閉じ籠ってばっかいないで、気晴らしに
(さんぽしてみませんか」と、はまだにげんきをつけられて、「それではちょっと)
散歩して見ませんか」と、浜田に元気をつけられて、「それではちょっと
(まってください」と、このふつかかんくちもすすがず、ひげもそらずにいたわたしは、)
待って下さい」と、この二日間口も漱がず、髯も剃らずにいた私は、
(かみそりをあてて、かおをあらって、せいせいとしたこころもちになり、はまだといっしょに)
剃刀をあてて、顔を洗って、セイセイとした心持になり、浜田と一緒に
(こがいへでたのはかれこれにじはんごろでした。)
戸外へ出たのはかれこれ二時半頃でした。
(「こういうときには、かえってこうがいをさんぽしましょう」とはまだがいうので、わたしも)
「こう云う時には、却って郊外を散歩しましょう」と浜田が云うので、私も
(それにさんせいしましたが、)
それに賛成しましたが、
(「それじゃ、こっちへいきましょうか」)
「それじゃ、此方へ行きましょうか」
(と、いけがみのほうへあるきだしたので、わたしはふいといやなきがしてたちどまりました。)
と、池上の方へ歩き出したので、私はふいとイヤな気がして立ち止まりました。
(「あ、そっちはいけない、そのほうがくはきもんですよ」)
「あ、其方はいけない、その方角は鬼門ですよ」
(「へえ、どういうわけで?」)
「へえ、どう云う訳で?」
(「さっきのはなしの、あけぼのろうといういえがそのほうがくにあるんですよ」)
「さっきの話の、曙楼と云う家がその方角にあるんですよ」
(「あ、そいつはいけない!じゃあどうしましょう?これからずっとかいがんへでて、)
「あ、そいつはいけない!じゃあどうしましょう?これからずっと海岸へ出て、
(かわさきのほうへいってみましょうか」)
川崎の方へ行って見ましょうか」
(「ええ、いいでしょう、それならいちばんあんぜんです」)
「ええ、いいでしょう、それなら一番安全です」
(するとはまだは、こんどはぐるりとはんたいをむいて、ていしゃじょうのほうへあるきだしましたが、)
すると浜田は、今度はグルリと反対を向いて、停車場の方へ歩き出しましたが、
(かんがえてみると、そのほうがくもまんざらきけんでないことはない。なおみがいまだにあけぼのろうへ)
考えて見ると、その方角も満更危険でないことはない。ナオミが未だに曙楼へ
(いくのだとすれば、ちょうどいまごろくまがいをつれてでてこないともかぎらないし、)
行くのだとすれば、ちょうど今頃熊谷を連れて出て来ないとも限らないし、
(れいのけとうとけいひんかんをおうふくしないものでもないし、いずれにしてもしょうせんでんしゃの)
例の毛唐と京浜間を往復しないものでもないし、いずれにしても省線電車の
(とまるところはきんもつだとおもったので、)
停る所は禁物だと思ったので、
(「きょうはきみにとんだおてすうをかけましたなあ」)
「今日は君に飛んだお手数をかけましたなあ」
(と、わたしはなにげなくそういいながら、さきへたって、よこちょうをまがって、たんぼみちにある)
と、私は何気なくそう云いながら、先へ立って、横丁を曲って、田圃道にある
(ふみきりをこえるようにしました。)
踏切を越えるようにしました。
(「なあに、そんなことはかまいません、どうせいちどはこういうことがありゃしないかと)
「なあに、そんな事は構いません、どうせ一度はこう云う事がありゃしないかと
(おもっていたんです」)
思っていたんです」
(「ふむ、きみからみたら、ぼくというものはずいぶんこっけいにみえたでしょうね」)
「ふむ、君から見たら、僕と云うものは随分滑稽に見えたでしょうね」
(「けれどもぼくも、いちじはこっけいだったんだから、あなたをわらうしかくはありません。)
「けれども僕も、一時は滑稽だったんだから、あなたを笑う資格はありません。
(ぼくはただ、じぶんのねつがさめてみると、あなたをひじょうにおきのどくだとは)
僕はただ、自分の熱が冷めて見ると、あなたを非常にお気の毒だとは
(おもいましたよ」)
思いましたよ」
(「しかしきみはわかいんだからまだいいですよ、ぼくのようにさんじゅういくつにもなって、)
「しかし君は若いんだからまだいいですよ、僕のように三十幾つにもなって、
(こんなばかなめをみるなんて、はなしにもなにもなりゃしません。それもきみに)
こんな馬鹿な目を見るなんて、話にも何もなりゃしません。それも君に
(いわれなければ、いつまでばかをつづけていたか)
云われなければ、いつまで馬鹿を続けていたか
(しれないんだから、・・・・・・・・・」)
知れないんだから、・・・・・・・・・」
(たんぼへでると、ばんしゅうのそらはあたかもわたしをなぐさめるように、たかく、さわやかに)
田圃へ出ると、晩秋の空はあたかも私を慰めるように、高く、爽やかに
(はれていましたが、かぜがひゅうひゅうつよくふくので、ないたあとの、はれぼったい)
晴れていましたが、風がひゅうひゅう強く吹くので、泣いた跡の、腫れぼったい
(めのえんがひりひりしました。そしてとおくのせんろのほうには、あのきんもつの)
眼の縁がヒリヒリしました。そして遠くの線路の方には、あの禁物の
(しょうせんでんしゃが、はたけのなかをごうごうはしっていくのでした。)
省線電車が、畑の中をごうごう走って行くのでした。
(「はまだくん、きみはひるめしをたべたんですか?」)
「浜田君、君は昼飯をたべたんですか?」
(と、しばらくむごんであるいてから、わたしはいいました。)
と、暫く無言で歩いてから、私は云いました。
(「いや、じつはまだですが、あなたは?」)
「いや、実はまだですが、あなたは?」
(「ぼくはいっさくじつから、さけはのんだがめしはほとんどたべないんで、いまになったら)
「僕は一昨日から、酒は飲んだが飯は殆どたべないんで、今になったら
(ひじょうにはらがへってきました」)
非常に腹が減って来ました」
(「そりゃそうでしょう、そんなむちゃをなさらないほうがよござんすね、からだを)
「そりゃそうでしょう、そんな無茶をなさらない方がよござんすね、体を
(こわしちゃつまりませんから」)
壊しちゃつまりませんから」
(「いや、だいじょうぶ、きみのおかげでさとりをひらいちまったから、もうむちゃなことは)
「いや、大丈夫、君のお陰で悟りを開いちまったから、もう無茶な事は
(しやしません。ぼくはあしたからうまれかわったにんげんになります。)
しやしません。僕は明日から生れ変った人間になります。
(そうしてかいしゃへもでるつもりです」)
そうして会社へも出る積りです」
(「ああ、そのほうがきがまぎれますよ。ぼくもしつれんしたじぶん、どうかしてわすれようと)
「ああ、その方が気が紛れますよ。僕も失恋した時分、どうかして忘れようと
(おもって、いっしょうけんめいおんがくをやりましたっけ」)
思って、一生懸命音楽をやりましたっけ」
(「おんがくがやれると、そういうときにはいいでしょうなあ。ぼくには)
「音楽がやれると、そう云う時にはいいでしょうなあ。僕には
(そんなげいはないから、かいしゃのしごとをこつこつやるよりしかたがないが。)
そんな芸はないから、会社の仕事をコツコツやるより仕方がないが。
(しかしとにかくはらがへったじゃありませんか、どこかで)
しかしとにかく腹が減ったじゃありませんか、何処かで
(めしでもくいましょうよ」)
飯でも喰いましょうよ」
(ふたりはこんなふうにしゃべりながら、ろくごうのほうまでぶらぶらあるいて)
二人はこんな風にしゃべりながら、六郷の方までぶらぶら歩いて
(しまいましたが、それからまもなく、かわさきのまちまちのあるぎゅうにくやへあがりこんで、)
しまいましたが、それから間もなく、川崎の街町の或る牛肉屋へ上り込んで、
(じくじくにえるなべをかこみながら、また「まつあさ」のときのようにはいのやりとりを)
ジクジク煮える鍋を囲みながら、また「松浅」の時のように杯の遣り取りを
(はじめていました。)
始めていました。
(「きみ、きみ、どうですいっぱい」)
「君、君、どうです一杯」
(「やあ、そうのまされちゃ、すきばらだからこたえますなあ」)
「やあ、そう飲まされちゃ、空き腹だからこたえますなあ」
(「まあいいでしょう、こんやはぼくのやくおとしだから、ひとつしゅくはいをあげてください。)
「まあいいでしょう、今夜は僕の厄落しだから、一つ祝杯を挙げて下さい。
(ぼくもあしたからさけはやめます、そのかわりこんやはおおいによってだんじようじゃ)
僕も明日から酒は止めます、その代り今夜は大いに酔って談じようじゃ
(ありませんか」)
ありませんか」
(「ああ、そうですか、それじゃあなたのけんこうをしゅくします」)
「ああ、そうですか、それじゃあなたの健康を祝します」
(はまだのかおがまっかにほてって、まんめんにできたにきびのあたまが、あたかもぎゅうにくが)
浜田の顔が真っ赤に火照って、満面に出来たニキビの頭が、あたかも牛肉が
(ゆだったようにぶつぶつひかりだしたじぶんには、わたしもだいぶよっぱらって、)
湯立ったようにぶつぶつ光り出した時分には、私も大分酔っ払って、
(かなしいのだかうれしいのだかなにもわからなくなっていました。)
悲しいのだか嬉しいのだか何も分らなくなっていました。