梶井基次郎 ある崖上の感情 1 (1/3)

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梶井基次郎
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問題文

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(あるむしあついなつのよいのことであった。)

ある蒸し暑い夏の宵のことであった。

(やまのてのまちのとあるかふぇでふたりのせいねんがはなしをしていた。)

山ノ手の町のとあるカフェで二人の青年が話をしていた。

(はなしのようすではかれらはべつにともだちというのではなさそうであった。)

話の様子では彼らは別に友達というのではなさそうであった。

(ぎんざなどとちがって、せまいやまのてのかふぇでは、こどくなきゃくが)

銀座などとちがって、狭い山ノ手のカフェでは、孤独な客が

(よそのてーぶるをながめたりしながらときをついやすことはそうじゆうではない。)

他所のテーブルを眺めたりしながら時を費すことはそう自由ではない。

(そんなふじゆうさがそしてせまさからくるしたしさが、)

そんな不自由さがそして狭さから来る親しさが、

(かれらをたがいにちかづけることがおおい。)

彼らを互いに近づけることが多い。

(かれらもどうやらそうしたふたりらしいのであった。)

彼らもどうやらそうした二人らしいのであった。

(ひとりのせいねんはびーるのよいをかたさきにあらわしながら、)

一人の青年はビールの酔いを肩先にあらわしながら、

(こっぷのしりでよごれたてーぶるにかまわずひじをたてて、)

コップの尻でよごれた卓子にかまわず肱を立てて、

(さきほどからほとんどひとりでしゃべっていた。)

先ほどからほとんど一人で喋っていた。

(しっくいのどまのすみにはふるぼけたびくたーのちくおんきがすえてあって、)

漆喰の土間の隅には古ぼけたビクターの蓄音器が据えてあって、

(すりめっただんすれこーどがあつくるしくなっていた。)

磨り滅ったダンスレコードが暑苦しく鳴っていた。

(「がんらいぼくはね、いちどともだちにずぼしをさされたことがあるんだが、)

「元来僕はね、一度友達に図星を指されたことがあるんだが、

(ほうろう、いえをなさないというたちにうまれついているらしいんです。)

放浪、家をなさないという質に生まれついているらしいんです。

(そのともだちというのはてそうをみるおとこで、それもせいようりゅうのてそうをみるおとこで、)

その友達というのは手相を見る男で、それも西洋流の手相を見る男で、

(ぼくのてそうをみたとき、きみのてにはそろもんのじゅうじかがある。)

僕の手相を見たとき、君の手にはソロモンの十字架がある。

(それはいっしょういえをもてないてそうだといったんです。)

それは一生家を持てない手相だと言ったんです。

(ぼくはべつにてそうなどをしんじないんだが、そのときは)

僕は別に手相などを信じないんだが、そのときは

(そういわれたことでぎくっとしましたよ。)

そう言われたことでぎくっとしましたよ。

など

(とてもかなしくてね」)

とても悲しくてね」

(そのせいねんのかおにはわずかのじかんかんしょうのいろがよいのしたにあらわれてみえた。)

その青年の顔にはわずかの時間感傷の色が酔いの下にあらわれて見えた。

(かれはびーるをひとのみするとまたことばをついで、)

彼はビールを一と飲みするとまた言葉をついで、

(「そのがけのうえへひとりでたって、ひらいているまどをひとつひとつみていると、)

「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、

(ぼくはいつでもそのことをおもいだすんです。)

僕はいつでもそのことを憶い出すんです。

(ぼくひとりがせけんにすみつくねをうしなってうきくさのようにながれている。)

僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。

(そしていつもそんながけのうえにたってひとのまどばかりをながめていなければならない。)

そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。

(すっかりこれがぼくのうんめいだ。そんなことがおもえてくるのです。)

すっかりこれが僕の運命だ。そんなことが思えて来るのです。

(しかし、それよりもぼくはこんなことがいいたいんです。)

しかし、それよりも僕はこんなことが言いたいんです。

(つまりまどのながめというものには、がんらいひとをそんなおもいに)

つまり窓の眺めというものには、元来人をそんな思いに

(かるあるものがあるんじゃないか。だれでもふと)

駆るあるものがあるんじゃないか。誰でもふと

(そんなきもちにさそわれるんじゃないか、というのですが、どうです、)

そんな気持に誘われるんじゃないか、というのですが、どうです、

(あなたはそうしたことをおかんがえにはならないですか」)

あなたはそうしたことをお考えにはならないですか」

(もうひとりのせいねんはべつによっているようでもなかった。)

もう一人の青年は別に酔っているようでもなかった。

(かれはあいてのいままでのはなしを、そうおもしろがってもいないが、)

彼は相手の今までの話を、そうおもしろがってもいないが、

(そうかといってぜんぜんきょうみがなくもないといったおだやかなひょうじょうでみみをかたむけていた。)

そうかと言って全然興味がなくもないといった穏やかな表情で耳を傾けていた。

(かれはあいてにじぶんのいけんをうながされてしばらくかんがえていたが、)

彼は相手に自分の意見を促されてしばらく考えていたが、

(「さあ・・・・・・ぼくにはむしろはんたいのきもちになったけいけんしかおもいだせない。)

「さあ……僕にはむしろ反対の気持になった経験しか憶い出せない。

(しかしあなたのきもちはぼくにはわからなくはありません。)

しかしあなたの気持は僕にはわからなくはありません。

(はんたいのきもちになったけいけんというのは、まどのなかにいるにんげんをみていて)

反対の気持になった経験というのは、窓のなかにいる人間を見ていて

(そのひとたちがなにかはかないうんめいをもってこのうきよにいきている。)

その人達がなにかはかない運命を持ってこの浮世に生きている。

(というふうにみえたということなんです」)

というふうに見えたということなんです」

(「そうだ。それはおおいにそうだ。いや、それがほんとうかもしれん。)

「そうだ。それは大いにそうだ。いや、それがほんとうかもしれん。

(ぼくもそんなことをかんじていたようなきがする」)

僕もそんなことを感じていたような気がする」

(よったほうのおとこはひどくあいてのいったことにかんしんしたようなごちょうで)

酔った方の男はひどく相手の言ったことに感心したような語調で

(のこっていたびーるをひといきにのんでしまった。)

残っていたビールを一息に飲んでしまった。

(「そうだ。それであなたもなかなかまどのたいかだ。いや、ぼくはね、)

「そうだ。それであなたもなかなか窓の大家だ。いや、僕はね、

(じっさいまどというものがすきでたまらないんですよ。)

実際窓というものが好きで堪らないんですよ。

(じぶんのいるところからいつもひとのまどがみられたらどんなにたのしいだろうと、)

自分のいるところからいつも人の窓が見られたらどんなに楽しいだろうと、

(いつもそうおもってるんです。そしてぼくのほうでもまどをひらけておいて、)

いつもそう思ってるんです。そして僕の方でも窓を開けておいて、

(だれかのめにいつもぼくじしんをさらしているのがまたとてもたのしいんです。)

誰かの眼にいつも僕自身を曝らしているのがまたとても楽しいんです。

(こんなにさけをのむにしても、どこかかわっぷちのれすとらんみたいなところで、)

こんなに酒を飲むにしても、どこか川っぷちのレストランみたいなところで、

(はしのうえからだとかむこうぎしからだとかみているひとがあって)

橋の上からだとか向こう岸からだとか見ている人があって

(のんでいるのならどんなにたのしいでしょう。「いかにあわれとおもうらん」)

飲んでいるのならどんなに楽しいでしょう。『いかにあわれと思うらん』

(ぼくにはかたことのようなししかくちにでてこないが、じっさいいつもそんなきもちに)

僕には片言のような詩しか口に出て来ないが、実際いつもそんな気持に

(なるんです」 「なるほど、なんだかそれはたのしそうですね。)

なるんです」 「なるほど、なんだかそれは楽しそうですね。

(しかしなんというのどかなしゅみだろう」)

しかしなんという閑かな趣味だろう」

(「あっはっは。いや、ぼくはさっきそのがけのうえから)

「あっはっは。いや、僕はさっきその崖の上から

(ぼくのへやのまどがみえるといったでしょう。)

僕の部屋の窓が見えると言ったでしょう。

(ぼくのまどはがけのちかくにあって、ぼくのへやからはもうがけばかりしかみえないんです。)

僕の窓は崖の近くにあって、僕の部屋からはもう崖ばかりしか見えないんです。

(ぼくはよくそこからがけみちをとおるひとをちゅういしているんですが、)

僕はよくそこから崖路を通る人を注意しているんですが、

(がんらいめったにひとのとおらないみちで、とおるひとがあったって、)

元来めったに人の通らない路で、通る人があったって、

(まったくぼくみたいにそこでながいあいだまちをみているというようなひとは)

全く僕みたいにそこでながい間町を見ているというような人は

(けっしてありません。じっさいぼくみたいなおとこはよくよくのかんじんなんだ」)

決してありません。実際僕みたいな男はよくよくの閑人なんだ」

(「ちょっときみ。そのれこーどよしてくれない」)

「ちょっと君。そのレコード止してくれない」

(ききてのほうのせいねんはうえいとれすがまたかけはじめた)

聴き手の方の青年はウエイトレスがまたかけはじめた

(「きゃらばん」のほうをむいてそういった。)

「キャラバン」の方を向いてそう言った。

(「ぼくはあのじゃっずというやつがだいきらいなんだ。)

「僕はあのジャッズというやつが大嫌いなんだ。

(いやだとおもいだすととてもたまらない」)

厭だと思い出すととても堪らない」

(だまってうえいとれすはちくおんきをとめた。かのじょはだんぱつをして)

黙ってウエイトレスは蓄音器をとめた。彼女は断髪をして

(うすいなつのようそうをしていた。しかしそれにはすこしもふれっしゅなところが)

薄い夏の洋装をしていた。しかしそれには少しもフレッシュなところが

(なかった。むしろなんきんねずみのにおいでもしそうな)

なかった。むしろ南京鼠の匂いでもしそうな

(きたないえきぞてぃしずむがかんじられた。)

汚いエキゾティシズムが感じられた。

(そしてそれはそのかふぇがそのきんじょにおおくすんでいる)

そしてそれはそのカフェがその近所に多く住んでいる

(かとうなせいようじんのよくでいりするといううわさを、)

下等な西洋人のよく出入りするという噂を、

(すこしいんきにうらがきしていた。)

少し陰気に裏書きしていた。

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