国木田独歩 あの時分 2
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問題文
(「どうなるものかね、いなかにくすぼっているか、それとも)
「どうなるものかね、いなかにくすぼっているか、それとも
(しんだかもしれない、ながいきをしそうもないおとこであった。」とほうりつのうえだは、)
死んだかも知れない、長生きをしそうもない男であった。」と法律の上田は、
(やはりもとのごとくきびしいことをいいます。)
やはりもとのごとくきびしいことを言います。
(「かあいそうなことをいう、しかしじっさいあのおとこは、どことなくかげがうすいような)
「かあいそうなことを言う、しかし実際あの男は、どことなく影が薄いような
(ひとであったね、くぼたくん。」)
人であったね、窪田君。」
(とたかみのことばのごとく、わたしもどういせざるをえないのです。くちかずを)
と鷹見の言葉のごとく、私も同意せざるを得ないのです。口数を
(あまりきかない、かおいろのなまじろい、ひたいのせまいこづくりな、としはにじゅういちかにの)
あまりきかない、顔色の生白い、額の狭い小づくりな、年は二十一か二の
(わかものをおもいだしますと、どうもそのみのまわりにいきいきしたいろが)
青年[わかもの]を思い出しますと、どうもその身の周囲に生き生きした色が
(ありません、はいいろのきりがつつんでいるようにおもわれます。)
ありません、灰色の霧が包んでいるように思われます。
(「けれどもえんぷくのてんにおいて、われわれはひぐちにとおく)
「けれども艷福[えんぷく]の点において、われわれは樋口に遠く
(およばなかった」と、うえだはひややかにわらいます、たかみは、)
及ばなかった」と、上田は冷ややかに笑います、鷹見は、
(「いや、あんなおとこにかぎって、おんなにかあいがられるものさ、おんなの)
「イヤ、あんな男に限って、女にかあいがられるものサ、女の
(いいなりほうだいになっていて、それでやはりおとこだから、ちょいと)
いいなりほうだいになっていて、それでやはり男だから、チョイと
(つっぱってみる、いわゆるはりだね、おんなはそういうふうなおとこをかってにしたり、)
突っ張ってみる、いわゆる張りだね、女はそういうふうな男を勝手にしたり、
(またかってにされてみたりすると、むちゅうになるものだ。だからみたまえ、)
また勝手にされてみたりすると、夢中になるものだ。だから見たまえ、
(あのごじゅうづらのばあさんが、まるではじもがいぶんもわすれていたじゃあないか。)
あの五十面のばあさんが、まるで恥も外聞も忘れていたじゃあないか。
(おうむのもちぬしはどんなおんなだかしらないがきっと、うみやませんねんのじょろうだろうと)
鸚鵡の持ち主はどんな女だか知らないがきっと、海山千年の女郎だろうと
(ぼくはかんていする。」)
僕は鑑定する。」
(「まあそんなことだろう、なにしろごけばあさん、おおいにつうをきかしたつもりで)
「まアそんな事だろう、なにしろ後家ばあさん、大いに通をきかしたつもりで
(ひぐちをあそばしたからおもしろい、たかみくんのいわゆる、あれが)
樋口を遊ばしたからおもしろい、鷹見君のいわゆる、あれが
(かちてにされてみたのだろうが、おうむまでもちこまれて、「おたまさんひぐちさん」の)
勝手にされてみたのだろうが、鸚鵡まで持ちこまれて、『お玉さん樋口さん』の
(かけあいまできかされたものだから、かあいそうに、ばあさんすっかり)
掛合まで聞かされたものだから、かあいそうに、ばあさんすっかり
(もてあましてしまって、ひぐちのいないるすにおうむをにがしたもんだ、)
もてあましてしまって、樋口のいない留守に鸚鵡を逃がしたもんだ、
(くぼたくん、あのこっけいをおぼえているかえ。」)
窪田君、あの滑稽を覚えているかえ。」
(わたしはうなずきました、ひぐちがおうむをもちこんだひからふつかめかみっかめです、)
私はうなずきました、樋口が鸚鵡を持ちこんだ日から二日目か三日目です、
(いまではうえだもたかみもばあさんといっています、かのじぶんのおっかさんが、)
今では上田も鷹見もばあさんと言っています、かの時分のおッ母さんが、
(おうむのかごをあけてとりをおいだしたものです。するとひぐちがかえってきて、)
鸚鵡のかごをあけて鳥を追い出したものです。すると樋口が帰って来て、
(ひじょうにおこったようすでしたが、まもなくおうむがひとりでにかごへかえってきたので、)
非常に怒った様子でしたが、まもなく鸚鵡がひとりでにかごへ帰って来たので、
(それなりにおさまったらしいのです。)
それなりに納まったらしいのです。
(「けれどもきみは、かのあとのことはよくしるまい、まもなくきみはきむらとふたりで)
「けれども君は、かの後の事はよく知るまい、まもなく君は木村と二人で
(てんしゅくしてしまったから・・・・・・なんでもきみときむらがさってしまって)
転宿してしまったから・・・・・・なんでも君と木村が去ってしまって
(いっしゅうかんもたたないうちだよ、ばあさんたまらなくなって、とうとうひぐちを)
一週間もたたないうちだよ、ばあさんたまらなくなって、とうとう樋口を
(くどいてくにへかえしてしまったのは。ばあさん、なきのなみだかなんかで)
くどいて国郷[くに]へ帰してしまったのは。ばアさん、泣きの涙かなんかで
(かあいいおとこをしんばしまでおくったのは、いまからおもうとこっけいだが、かあいそうだ、)
かあいい男を新橋まで送ったのは、今から思うと滑稽だが、かあいそうだ、
(それでなくてあのきのぬけたようなひぐちがますますぼんやりしてあおくなって、)
それでなくてあの気の抜けたような樋口がますますぼんやりして青くなって、
(おうむのかごといっしょにくるまにのって、あのうすぎたないもんをでてゆく)
鸚鵡のかごといっしょに人車[くるま]に乗って、あの薄ぎたない門を出てゆく
(うしろすがたは、まだぼくのめにちらついている。」とさすがのうえだも)
後ろ姿は、まだ僕の目にちらついている。」とさすがの上田も
(かんにたえないふうでした。)
感に堪えないふうでした。
(それからひぐちのはなしばかりでなく、きむらのことなどもわだいにのぼり、よるの)
それから樋口の話ばかりでなく、木村の事なども話題にのぼり、夜の
(じゅういちじごろまでおもしろくはなしてわかれましたが、わたしはきろにきむらのことを)
十一時頃までおもしろく話して別れましたが、私は帰路に木村の事を
(おもいだして、なつかしくなってたまりませんでした、どうしてかれはいるだろう、)
思い出して、なつかしくなってたまりませんでした、どうして彼はいるだろう、
(どうかしてあってみたいものだ、たれにききあわすればあのひとのようすや)
どうかして会ってみたいものだ、たれに聞き合わすればあの人の様子や
(いどころがわかるだろうなどいろいろかんがえながらかえりました。)
居所がわかるだろうなどいろいろ考えながら帰りました。
(わたしがおっかさんのしろうとげしゅくをでたのはまったくきむらにすすめられたからです。)
私がおッ母さんの素人下宿を出たのは全く木村に勧められたからです。
(おうむのいっけんできむらははじめてにがにがしいじじょうをしって、わたしに、それとなく、)
鸚鵡の一件で木村は初めてにがにがしい事情を知って、私に、それとなく、
(ことばすくなにてんしゅくをすすめ、わたしもどういして、ふたりでほかのげしゅくにうつりました。)
言葉少なに転宿をすすめ、私も同意して、二人で他の下宿に移りました。
(きむらはほそながいかおの、めじりのながくきれた、くちのちいさなおとこで、せたけは)
木村は細長い顔の、目じりの長く切れた、口の小さな男で、背たけは
(ひとなみにたかく、やせてひょろりとしたうえにつんつるてんのきものを)
人並みに高く、やせてひょろりとした上につんつるてんの着物を
(きていましたから、ずいぶんとみすぼらしいふうでしたけれども、わたしのめには)
着ていましたから、ずいぶんと見すぼらしいふうでしたけれども、私の目には
(それがなんとなくありがたくって、せいじゃのおもかげをみるきがしたのです。)
それがなんとなくありがたくって、聖者のおもかげを見る気がしたのです。
(あさいちどばんいちど、かれはかならずばいぶるをよみました。そしてにちようのあさの)
朝一度晩一度、彼は必ず聖書[バイブル]を読みました。そして日曜の朝の
(れいはいにも、きんようびのよるのきとうかいにもかならずしゅっせきして、にちようのよるのせっきょうまで)
礼拝にも、金曜日の夜の祈祷会にも必ず出席して、日曜の夜の説教まで
(ききにいくのでした。)
聞きに行くのでした。
(ほかのげしゅくにうつってまもなくのことでありました、きむらが、こんや、せっきょうを)
他の下宿に移ってまもなくの事でありました、木村が、今夜、説教を
(ききにいかないかといいます。それもたってすすめるではなく、かれのくせとして)
聞きに行かないかと言います。それもたって勧めるではなく、彼の癖として
(すこしかおをあからめて、もじもじして、ていねいにひとこと「いきませんか」と)
少し顔を赤らめて、もじもじして、丁寧に一言「行きませんか」と
(いったのです。)
言ったのです。
(わたしはいやということができないどころでなく、うれしいようなきがして、)
私はいやと言うことができないどころでなく、うれしいような気がして、
(すぐどういしました。)
すぐ同意しました。
(ゆきがちらつくばんでした。)
雪がちらつく晩でした。
(きむらのきょうかいはこうじまちくですから、いちりのみちのりはたしかにあります。)
木村の教会は麹町区ですから、一里の道のりは確かにあります。
(ふたりはきむらの、いろのさめたあかけっとをあたまからかぶって、)
二人は木村の、色のさめた赤毛布[あかけっと]を頭からかぶって、
(かたとかたをよりあってでかけました。おりおりたちどまってはけっとから)
肩と肩を寄り合って出かけました。おりおり立ち止まっては毛布[けっと]から
(ゆきをはらいながらあゆみます、わたしはそのいぜんにもきりすときょうのかいどうに)
雪を払いながら歩みます、私はその以前にもキリスト教の会堂に
(はいったことがあるかもしれませんが、このよるのことほど)
入ったことがあるかも知れませんが、この夜の事ほど
(よくこころにのこっていることはなく、したがってかのばんはじめてかいどうにいったきが)
よく心に残っていることはなく、したがってかの晩初めて会堂に行った気が
(いまでもするのであります。)
今でもするのであります。
(みちみちふたりはいろいろなはなしをしたでしょうがよくおぼえていません。ただこれだけ)
道々二人はいろいろな話をしたでしょうがよく覚えていません。ただこれだけ
(あたまにのこっています。きむらはいつもになくまじめな、ひとをおしつけるようなこえで、)
頭に残っています。木村はいつもになくまじめな、人をおしつけるような声で、
(「きみはべつれへむでうまれたじんるいがすくいぬしえす、くりすとをしんじないか。」)
「君はベツレへムで生まれた人類が救い主エス、クリストを信じないか。」
(べつにかわったもんくではありませんが、「べつれへむ」ということばに)
別に変わった文句ではありませんが、『ベツレヘム』という言葉に
(いっしゅのちからがこもっていて、わたしのこころにかつてないものをかんじさせました。)
一種の力がこもっていて、私の心にかつてないものを感じさせました。
(かいどうにつくと、いりぐちのところへけっとをまるめてなげだして、)
会堂に着くと、入口の所へ毛布[けっと]を丸めて投げ出して、
(きむらのうしろについてうちにはいると、まずはなやかなこうこうとしたらんぷのひかりが)
木村の後ろについて内に入ると、まず花やかな煌々としたランプの光が
(どうにみなぎっているのにきをとられました。これはいちりのあいだ、くらいやまのてのみちを)
堂にみなぎっているのに気を取られました。これは一里の間、暗い山の手の道を
(たどってきたからでしょう。つぎにふわりとしたあたたかいくうきがひえきったかおに)
たどって来たからでしょう。次にふわりとした暖かい空気が冷え切った顔に
(ここちよくふれました。これはさかんにすとーぶがたいてあるからです。)
ここちよく触れました。これはさかんにストーブがたいてあるからです。
(つぎにふじんせきがめにつきました。けはかたにたれて、まっしろなはなをさした)
次に婦人席が目につきました。毛は肩にたれて、まっ白な花をさした
(おとめやそのほか、なんとなくきはずかしくってよくは)
少女[おとめ]やそのほか、なんとなく気恥ずかしくってよくは
(みえませんでした、ただいちようにきよらかでうつくしいとかんじました。たかいてんじょう、)
見えませんでした、ただ一様に清らかで美しいと感じました。高い天井、
(しろいかべ、そのうえならずだんのうえにはときならぬくさばな、ばらなどがきれいなかびんに)
白い壁、その上ならず壇の上には時ならぬ草花、薔薇などがきれいな花瓶に
(さしてありまして、そのせいですか、どうですか、かるいやわらかな、)
さしてありまして、そのせいですか、どうですか、軽い柔らかな、
(いいかおりが、おりおりあたたかいくうきにただようてかおをなでるのです。)
いいかおりが、おりおり暖かい空気に漂うて顔をなでるのです。
(うらわかいせいねん、まだひとのこころのよこしまなことやよのさまのけわしいことなど)
うら若い青年、まだ人の心の邪なことや世のさまのけわしい事など
(すこしもしらず、みにつばさのはえているきがして、おもいのままうつくしいこと、)
少しも知らず、身に翼のはえている気がして、思いのまま美しい事、
(たかいこと、きよいこと、そしてゆめのようなことばかりかんがえていたわたしには、)
高いこと、清いこと、そして夢のようなことばかり考えていた私には、
(どんなにこれらのことが、まずこころをうごかしたでしょう。)
どんなにこれらのことが、まず心を動かしたでしょう。
(きむらがわたしをまえのせきにみちびこうとしましたが、わたしはかしらをふって、)
木村が私を前の席に導こうとしましたが、私は頭[かしら]を振って、
(だまってうしろのほうのせきにちいさくなっていました。)
黙って後ろのほうの席に小さくなっていました。
(ぼくしがさんびかのばんごうをしらすと、どうのすみから、ものもしいおもい、ひくいちょうしで)
牧師が賛美歌の番号を知らすと、堂のすみから、ものもしい重い、低い調子で
(おるがんのひとくさり、それをあいずにいちどうがたつ。そしてだんしのふといこえと)
オルガンの一くさり、それを合図に一同が立つ。そして男子の太い声と
(ふじんのきよくすんだこえとあいわして、にくせいのいっこういっていながっきにみちびかれるのです、)
婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低な楽器に導かれるのです、
(そして「たえなるめぐみ」とか「まことのちから」とか「あいのいずみ」とかいう)
そして「たえなるめぐみ」とか「まことのちから」とか「愛の泉」とかいう
(ことばをもっておりだされたいくぶしかのうたをききながらたっていますと、)
言葉をもって織り出された幾節かの歌を聞きながら立っていますと、
(そうみに、あるせんりつをおぼえました。)
総身に、ある戦慄を覚えました。
(それからぼくしのいのりと、ねっしんなせっきょう、そしてすべてがおわって、どうのうちの)
それから牧師の祈りと、熱心な説教、そしてすべてが終わって、堂の内の
(ひとびといっせいのもくとう、このときのしばしのあいだのしんとしたこうけいわたしはまるで)
人々一斉の黙祷、この時のしばしの間のシンとした光景私はまるで
(べつのせかいをみせられたきがしたのであります。)
別の世界を見せられた気がしたのであります。