悪獣篇 泉鏡花 2

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
プレイ回数29難易度(4.1) 4258打 長文
泉鏡花の中編小説です

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問題文

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(「なにが、おばさん。このひなかになにがこわいんです。)

「何が、叔母さん。この日中[ひなか]に何が恐いんです。

(おおかたまたけむしでしょう。だいじょうぶ、けむしはおっかけてはきませんから。」)

大方また毛虫でしょう。大丈夫、毛虫は追駈[おっか]けては来ませんから。」

(「けむしどころじゃあありません。」)

「毛虫どころじゃアありません。」

(とうらこはうしろみらるるさま。こえもひくう、)

と浦子は後[うしろ]見らるる状[さま]。声も低う、

(「せんさん、よっぽどのあいだだったでしょう。」)

「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」

(「ざっといちじかん・・・・・・」)

「ざッと一時間……」

(はんぶんはかけねだったのに、ふじんはかえってさもありそうに、)

半分は懸直[かけね]だったのに、夫人はかえってさもありそうに、

(「そうでしたかねえ、わたしはもっとかとおもったくらい。)

「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。

(いつ、みせをでられるだろう、とこころぼそいったらなかったよ。」)

いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」

(「なぜ、どうしたんですね、いったい。」)

「なぜ、どうしたんですね、一体。」

(「まあ、そろそろあるきましょう。なんだかきくたびれでも)

「まあ、そろそろ歩行[ある]きましょう。何だか気草臥[きくたび]れでも

(したようで、あたまもあしもふらふらします。」)

したようで、頭も脚もふらふらします。」

(ほをうつすのにひきそうて、からだでかばうがごとくにしつつ、)

歩を移すのに引添うて、身体で庇うがごとくにしつつ、

(「ほんとにおどろいたんですか。そういえば、かおのいろもよくないようですよ。」)

「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」

(「そうでしょう、ぞっとして、いまだにさむけがしますもの。」)

「そうでしょう、悚然[ぞっ]として、未だに寒気がしますもの。」

(とかたをすぼめてうつむいた、かいすいぼうもまえさがり、)

と肩を窄めて俯向いた、海水帽も前下り、

(うなじしろくしおれてつれだつ。)

頸[うなじ]白く悄[しお]れて連れ立つ。

(しょうねんはかおをななめに、ちかぢかとぼうのなか。)

少年は顔を斜めに、近々と帽の中。

(「まったくいろがわるい。どうもけむしではないようですね。」)

「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」

(これにはこたえず、ややいしだんのまえをとおった。)

これには答えず、やや石段の前を通った。

など

(しばらくして、)

しばらくして、

(「せんさん、」)

「銑さん、」

(「ええ、」)

「ええ、」

(「かえりに、またここをとおるんですか。」)

「帰途[かえり]に、またここを通るんですか。」

(「とおりますよ。」)

「通りますよ。」

(「どうしてもとおらねばいけませんかねえ、どこぞほかに)

「どうしても通らねば不可[いけ]ませんかねえ、どこぞ他に

(みちがないんでしょうか。」)

路がないんでしょうか。」

(「うみならあります。ここいらはおばさん、かいがんのひとすじみちですから、)

「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、

(わかれみちといってはうしろのやまへゆくよりほかには)

岐路[わかれみち]といっては背後[うしろ]の山へ行[ゆ]くより他には

(ないんですが、」)

ないんですが、」

(「こまりましたねえ。」)

「困りましたねえ。」

(と、つくづくいう。)

と、つくづく云う。

(「なにね、じこくによって、しおのひているときは、このべっそうのまえなんか、)

「何ね、時刻に因って、汐[しお]の干ている時は、この別荘の前なんか、

(いわをとんでわたられますがね、このふしのつきじゃどうですか、ばんがた)

岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方

(ひないかもしれません。」)

干ないかも知れません。」

(「ふねはありますか。」)

「船はありますか。」

(「そうですね、わたりぶねってべつにありはしますまいけれど、たのんだら)

「そうですね、渡船ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら

(だしてくれないこともないしょう、さきへいってきいてみましょう。」)

出してくれないこともないしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」

(「そうね。」)

「そうね。」

(「なに、おばさんさえしんようするんなら、ふねだけかりて、こぐことは)

「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、漕ぐことは

(ぼくにもこげます。ぼくじゃけんのんだというでしょう。」)

僕にも漕げます。僕じゃ危険[けんのん]だというでしょう。」

(「なんでもようござんすから、せんさん、あなた、)

「何でも可[よ]うござんすから、銑さん、貴郎[あなた]、

(どうにかしてください。わたしはもうかえりにあのみせのまえを)

どうにかして下さい。私はもう帰途[かえり]にあの店の前を

(とおりたくないんです。」)

通りたくないんです。」

(とまたうつむいたがこわごわらしい。)

とまた俯向いたが恐々らしい。

(「おばさん、まあ、いったい、なにですか。」と、あまりのことにほほえみながら。)

「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑みながら。

(「もうきこえやしますまいね。」)

四 「もう聞えやしますまいね。」

(とはばかるところあるらしく、こえもこのときなおひくい。)

と憚る所あるらしく、声もこの時なお低い。

(「なにが、どこで、おばさん。」)

「何が、どこで、叔母さん。」

(「あすこまで、」)

「あすこまで、」

(「ああ!きたなみせへ、」)

「ああ!汚店[きたなみせ]へ、」

(「おおきなこえをなさんなよ。」とびっくりしたようにあわただしく、)

「大きな声をなさんなよ。」と吃驚[びっくり]したように慌しく、

(ひとみをすえて、そっという。)

瞳を据えて、密[そっ]という。

(「なにがきこえるもんですか。」)

「何が聞えるもんですか。」

(「じゃあね、いいますけれど、せんさん、わたしがね、いま、まっちを)

「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木[マッチ]を

(かいにはいると、だれもいないのよ。」)

買いに入ると、誰も居ないのよ。」

(「へい?」)

「へい?」

(「くださいな、くださいなって、そういうとね。あながひらいて、こわれごわれで、)

「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、

(ねずみのいえのさんかいだてのような、とっつきのさんだんのこだなのうしろのね、)

鼠の家の三階建のような、取附[とっつき]の三段の古棚の背[うしろ]のね、

(ものおきみたいなくらいなかから、もくずをひいたかとおもう、きたないなりの、)

物置みたいな暗い中から、藻屑を曳いたかと思う、汚い服装[なり]の、

(ちいさなばあさんがね、よぼよぼとでてきたんです。)

小さな婆さんがね、よぼよぼと出て来たんです。

(かみのけがまっしろでね、かれこれはちじゅうにもなろうかというんだけれど、そのわりには)

髪の毛が真白でね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には

(しわがないの、・・・・・・かおに。・・・・・・からだはやせてほねばかり、そしてね、ほねがくなくなと)

皺がないの、……顔に。……身体は痩せて骨ばかり、そしてね、骨がくなくなと

(やわらかそうにこしをまげてさ。)

柔かそうに腰を曲げてさ。

(あたまでものをみるてったように、しらがをふって、ふっふっと)

天窓[あたま]でものを見るてッたように、白髪を振って、ふッふッと

(いきをして、せいのひくいのが、そうやって、むねをおったから、)

息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、

(そこらをはうようにしてみせへくるじゃありませんか。)

そこらを這うようにして店へ来るじゃありませんか。

(まっちをくださいなって、いったけれどきこえません。もっともね、はじめから)

早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから

(きこえないのはかくごだというように、かおをあげてね、ひとのかおをながめてさ。)

聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を視[なが]めてさ。

(めでうけたまわりましょうというんじゃないの。)

目で承りましょうと云うんじゃないの。

(おばあさん、まっちをください、まっちを、といった、わたしのくちびるのうごくのを、)

お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、

(じっとながめていたっけがね。)

熟[じっ]と視めていたッけがね。

(そのかおをあげているのがたいぎそうに、またがっくりうつむくと、)

その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向くと、

(しらがのなかからみみのうえへ、ながく、ひからびたうでをだしたんですがね、)

白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、

(てのひらがおおきいの。)

掌が大きいの。

(それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、かたかたのひとさしゆびで、)

それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々の人指[ひとさし]ゆびで、

(こうね、ひだりのみみをおしえるでしょう。)

こうね、左の耳を教えるでしょう。

(きこえないというのかね、そんならようござんす。わたしはなんだかひとめみると、)

聞えないと云うのかね、そんなら可うござんす。私は何だか一目見ると、

(いやなこころもちがしたんですからね、かわずといいから、)

厭な心持がしたんですからね、買わずと可いから、

(そのままてんをでようとおもうと、またそうゆかなくなりましたわ。)

そのまま店を出ようと思うと、またそう行[ゆ]かなくなりましたわ。

(よわるじゃありませんか、ばあさんがね、けだるそうにこしをのばして、)

弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、

(みみを、わたしのかおのそばへよこむけにさしつけたんです。)

耳を、私の顔の傍へ横向けに差しつけたんです。

(ぷんとにおったの。なにともいえない、きなっくさいような、おしたじの)

ぷんと臭ったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油[おしたじ]の

(こげるような、いやなにおいよ。」)

焦げるような、厭な臭[におい]よ。」

(「や、そりゃこまりましたね。」と、これをきいてしょうねんもひそんだのである。)

「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も顰んだのである。

(「まっちをください。 (はあ?))

「早附木を下さい。 (はあ?)

((まっちよ、おばあさん。) (はあ?))

(早附木よ、お婆さん。) (はあ?)

(はあっていうきりなの。めをねむって、くちをあけてさ、におうでしょう。)

はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。

((まっち、)ってわたしは、まったくよ。せんさん、なきたくなったの。)

(早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。

(ただもうにげだしたくってね、そこいらみまわすけれど、)

ただもう遁[に]げ出したくッてね、そこいら眗[みまわ]すけれど、

(あなたのすがたもみえなかったんですもの。 はあ、ながいあいだよ。)

貴下[あなた]の姿も見えなかったんですもの。 はあ、長い間よ。

(それでもようようきこえたとみえてね、くちをむぐむぐとさして)

それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして

(がってんがってんをしたから、またてまをとらないようにと、すぐにね、)

合点々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、

(どうかをひとつわたしてやると、しばらくして、まっちをいちだーす。)

銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。

(そんなにはいらないから、つつみをやぶいて、じぶんでひとつだけとって、ああ、やくおとし、)

そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、

(とでよう、とすると、しっかりこの、」)

と出よう、とすると、しっかりこの、」

(とかたてをしたに、そでをかさねたたもとをゆすったが、きみわるそうに、)

と片手を下に、袖をかさねた袂を揺[ゆす]ったが、気味悪そうに、

(むねをかわしてそっとはらい、)

胸をかわして密[そっ]と払い、

(「たもとをつかまえたのに、ひっぱられてうごけないじゃありませんか。」)

「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」

(「かさねがさね、なるほど、はあ、それから、」)

「かさねがさね、成程、はあ、それから、」

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