悪獣篇 泉鏡花 2
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問題文
(「なにが、おばさん。このひなかになにがこわいんです。)
「何が、叔母さん。この日中[ひなか]に何が恐いんです。
(おおかたまたけむしでしょう。だいじょうぶ、けむしはおっかけてはきませんから。」)
大方また毛虫でしょう。大丈夫、毛虫は追駈[おっか]けては来ませんから。」
(「けむしどころじゃあありません。」)
「毛虫どころじゃアありません。」
(とうらこはうしろみらるるさま。こえもひくう、)
と浦子は後[うしろ]見らるる状[さま]。声も低う、
(「せんさん、よっぽどのあいだだったでしょう。」)
「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」
(「ざっといちじかん・・・・・・」)
「ざッと一時間……」
(はんぶんはかけねだったのに、ふじんはかえってさもありそうに、)
半分は懸直[かけね]だったのに、夫人はかえってさもありそうに、
(「そうでしたかねえ、わたしはもっとかとおもったくらい。)
「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。
(いつ、みせをでられるだろう、とこころぼそいったらなかったよ。」)
いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」
(「なぜ、どうしたんですね、いったい。」)
「なぜ、どうしたんですね、一体。」
(「まあ、そろそろあるきましょう。なんだかきくたびれでも)
「まあ、そろそろ歩行[ある]きましょう。何だか気草臥[きくたび]れでも
(したようで、あたまもあしもふらふらします。」)
したようで、頭も脚もふらふらします。」
(ほをうつすのにひきそうて、からだでかばうがごとくにしつつ、)
歩を移すのに引添うて、身体で庇うがごとくにしつつ、
(「ほんとにおどろいたんですか。そういえば、かおのいろもよくないようですよ。」)
「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」
(「そうでしょう、ぞっとして、いまだにさむけがしますもの。」)
「そうでしょう、悚然[ぞっ]として、未だに寒気がしますもの。」
(とかたをすぼめてうつむいた、かいすいぼうもまえさがり、)
と肩を窄めて俯向いた、海水帽も前下り、
(うなじしろくしおれてつれだつ。)
頸[うなじ]白く悄[しお]れて連れ立つ。
(しょうねんはかおをななめに、ちかぢかとぼうのなか。)
少年は顔を斜めに、近々と帽の中。
(「まったくいろがわるい。どうもけむしではないようですね。」)
「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」
(これにはこたえず、ややいしだんのまえをとおった。)
これには答えず、やや石段の前を通った。
(しばらくして、)
しばらくして、
(「せんさん、」)
「銑さん、」
(「ええ、」)
「ええ、」
(「かえりに、またここをとおるんですか。」)
「帰途[かえり]に、またここを通るんですか。」
(「とおりますよ。」)
「通りますよ。」
(「どうしてもとおらねばいけませんかねえ、どこぞほかに)
「どうしても通らねば不可[いけ]ませんかねえ、どこぞ他に
(みちがないんでしょうか。」)
路がないんでしょうか。」
(「うみならあります。ここいらはおばさん、かいがんのひとすじみちですから、)
「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、
(わかれみちといってはうしろのやまへゆくよりほかには)
岐路[わかれみち]といっては背後[うしろ]の山へ行[ゆ]くより他には
(ないんですが、」)
ないんですが、」
(「こまりましたねえ。」)
「困りましたねえ。」
(と、つくづくいう。)
と、つくづく云う。
(「なにね、じこくによって、しおのひているときは、このべっそうのまえなんか、)
「何ね、時刻に因って、汐[しお]の干ている時は、この別荘の前なんか、
(いわをとんでわたられますがね、このふしのつきじゃどうですか、ばんがた)
岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方
(ひないかもしれません。」)
干ないかも知れません。」
(「ふねはありますか。」)
「船はありますか。」
(「そうですね、わたりぶねってべつにありはしますまいけれど、たのんだら)
「そうですね、渡船ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら
(だしてくれないこともないしょう、さきへいってきいてみましょう。」)
出してくれないこともないしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」
(「そうね。」)
「そうね。」
(「なに、おばさんさえしんようするんなら、ふねだけかりて、こぐことは)
「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、漕ぐことは
(ぼくにもこげます。ぼくじゃけんのんだというでしょう。」)
僕にも漕げます。僕じゃ危険[けんのん]だというでしょう。」
(「なんでもようござんすから、せんさん、あなた、)
「何でも可[よ]うござんすから、銑さん、貴郎[あなた]、
(どうにかしてください。わたしはもうかえりにあのみせのまえを)
どうにかして下さい。私はもう帰途[かえり]にあの店の前を
(とおりたくないんです。」)
通りたくないんです。」
(とまたうつむいたがこわごわらしい。)
とまた俯向いたが恐々らしい。
(「おばさん、まあ、いったい、なにですか。」と、あまりのことにほほえみながら。)
「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑みながら。
(「もうきこえやしますまいね。」)
四 「もう聞えやしますまいね。」
(とはばかるところあるらしく、こえもこのときなおひくい。)
と憚る所あるらしく、声もこの時なお低い。
(「なにが、どこで、おばさん。」)
「何が、どこで、叔母さん。」
(「あすこまで、」)
「あすこまで、」
(「ああ!きたなみせへ、」)
「ああ!汚店[きたなみせ]へ、」
(「おおきなこえをなさんなよ。」とびっくりしたようにあわただしく、)
「大きな声をなさんなよ。」と吃驚[びっくり]したように慌しく、
(ひとみをすえて、そっという。)
瞳を据えて、密[そっ]という。
(「なにがきこえるもんですか。」)
「何が聞えるもんですか。」
(「じゃあね、いいますけれど、せんさん、わたしがね、いま、まっちを)
「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木[マッチ]を
(かいにはいると、だれもいないのよ。」)
買いに入ると、誰も居ないのよ。」
(「へい?」)
「へい?」
(「くださいな、くださいなって、そういうとね。あながひらいて、こわれごわれで、)
「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、
(ねずみのいえのさんかいだてのような、とっつきのさんだんのこだなのうしろのね、)
鼠の家の三階建のような、取附[とっつき]の三段の古棚の背[うしろ]のね、
(ものおきみたいなくらいなかから、もくずをひいたかとおもう、きたないなりの、)
物置みたいな暗い中から、藻屑を曳いたかと思う、汚い服装[なり]の、
(ちいさなばあさんがね、よぼよぼとでてきたんです。)
小さな婆さんがね、よぼよぼと出て来たんです。
(かみのけがまっしろでね、かれこれはちじゅうにもなろうかというんだけれど、そのわりには)
髪の毛が真白でね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には
(しわがないの、・・・・・・かおに。・・・・・・からだはやせてほねばかり、そしてね、ほねがくなくなと)
皺がないの、……顔に。……身体は痩せて骨ばかり、そしてね、骨がくなくなと
(やわらかそうにこしをまげてさ。)
柔かそうに腰を曲げてさ。
(あたまでものをみるてったように、しらがをふって、ふっふっと)
天窓[あたま]でものを見るてッたように、白髪を振って、ふッふッと
(いきをして、せいのひくいのが、そうやって、むねをおったから、)
息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、
(そこらをはうようにしてみせへくるじゃありませんか。)
そこらを這うようにして店へ来るじゃありませんか。
(まっちをくださいなって、いったけれどきこえません。もっともね、はじめから)
早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから
(きこえないのはかくごだというように、かおをあげてね、ひとのかおをながめてさ。)
聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を視[なが]めてさ。
(めでうけたまわりましょうというんじゃないの。)
目で承りましょうと云うんじゃないの。
(おばあさん、まっちをください、まっちを、といった、わたしのくちびるのうごくのを、)
お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、
(じっとながめていたっけがね。)
熟[じっ]と視めていたッけがね。
(そのかおをあげているのがたいぎそうに、またがっくりうつむくと、)
その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向くと、
(しらがのなかからみみのうえへ、ながく、ひからびたうでをだしたんですがね、)
白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、
(てのひらがおおきいの。)
掌が大きいの。
(それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、かたかたのひとさしゆびで、)
それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々の人指[ひとさし]ゆびで、
(こうね、ひだりのみみをおしえるでしょう。)
こうね、左の耳を教えるでしょう。
(きこえないというのかね、そんならようござんす。わたしはなんだかひとめみると、)
聞えないと云うのかね、そんなら可うござんす。私は何だか一目見ると、
(いやなこころもちがしたんですからね、かわずといいから、)
厭な心持がしたんですからね、買わずと可いから、
(そのままてんをでようとおもうと、またそうゆかなくなりましたわ。)
そのまま店を出ようと思うと、またそう行[ゆ]かなくなりましたわ。
(よわるじゃありませんか、ばあさんがね、けだるそうにこしをのばして、)
弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、
(みみを、わたしのかおのそばへよこむけにさしつけたんです。)
耳を、私の顔の傍へ横向けに差しつけたんです。
(ぷんとにおったの。なにともいえない、きなっくさいような、おしたじの)
ぷんと臭ったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油[おしたじ]の
(こげるような、いやなにおいよ。」)
焦げるような、厭な臭[におい]よ。」
(「や、そりゃこまりましたね。」と、これをきいてしょうねんもひそんだのである。)
「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も顰んだのである。
(「まっちをください。 (はあ?))
「早附木を下さい。 (はあ?)
((まっちよ、おばあさん。) (はあ?))
(早附木よ、お婆さん。) (はあ?)
(はあっていうきりなの。めをねむって、くちをあけてさ、におうでしょう。)
はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。
((まっち、)ってわたしは、まったくよ。せんさん、なきたくなったの。)
(早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。
(ただもうにげだしたくってね、そこいらみまわすけれど、)
ただもう遁[に]げ出したくッてね、そこいら眗[みまわ]すけれど、
(あなたのすがたもみえなかったんですもの。 はあ、ながいあいだよ。)
貴下[あなた]の姿も見えなかったんですもの。 はあ、長い間よ。
(それでもようようきこえたとみえてね、くちをむぐむぐとさして)
それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして
(がってんがってんをしたから、またてまをとらないようにと、すぐにね、)
合点々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、
(どうかをひとつわたしてやると、しばらくして、まっちをいちだーす。)
銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。
(そんなにはいらないから、つつみをやぶいて、じぶんでひとつだけとって、ああ、やくおとし、)
そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、
(とでよう、とすると、しっかりこの、」)
と出よう、とすると、しっかりこの、」
(とかたてをしたに、そでをかさねたたもとをゆすったが、きみわるそうに、)
と片手を下に、袖をかさねた袂を揺[ゆす]ったが、気味悪そうに、
(むねをかわしてそっとはらい、)
胸をかわして密[そっ]と払い、
(「たもとをつかまえたのに、ひっぱられてうごけないじゃありませんか。」)
「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」
(「かさねがさね、なるほど、はあ、それから、」)
「かさねがさね、成程、はあ、それから、」