悪獣編 泉鏡花 3
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問題文
(「わたしゃ、せんさん、どうしようかとおもったんです。)
五 「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。
(なんにもいわないで、ぐんぐんひっぱって、かぶりをふるから、おおかた、)
何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを掉[ふ]るから、大方、
(つりをよこそうというんでしょうとおもって、とまりますとね。)
剰銭[つり]を寄越そうというんでしょうと思って、留りますとね。
(やっとあんしんしたようにてをはなして、それからむこうむきになって、さしから)
やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、緡[さし]から
(あなのあいたのをひとつひとつ。)
穴のあいたのを一つ一つ。
(それがまたしばらくなの。)
それがまたしばらくなの。
(わたしのてをひっぱるようにして、てのひらへくれました。)
私の手を引張るようにして、掌へ呉れました。
(ひやりとしたけれど、そればかりならよかったのに。)
ひやりとしたけれど、そればかりなら可かったのに。
((ごしんぞさまや)」)
(御新姐様や)」
(とうらこのこえ、いようにふるえてきこえたので、)
と浦子の声、異様に震えて聞えたので、
(「ええ、そのばばが、」)
「ええ、その婆[ばば]が、」
(「あれ、せんさん、きこえますよ。」と、ひとあしいそがわしく、)
「あれ、銑さん、聞えますよ。」と、一歩[ひとあし]いそがわしく、
(ぴったりよりそう。)
ぴったり寄添う。
(「そのばばが、いったんですか。」)
「その婆が、云ったんですか。」
(ふじんはまたといきをついた。)
夫人はまた吐息をついた。
(「ばあさんがね、ああ。」)
「婆さんがね、ああ。」
((ごしんぞさまや、おみあ、すいたらしいひとじゃでの、やすく、)
(御新姐様や、御身ア、すいたらしい人じゃでの、安く、
(なかまのねでしんぜるぞい。))
なかまの値で進ぜるぞい。)
(って、しわがれたこえでそういうとね、ぶんとあたまへひびいたんです。)
ッて、皺枯れた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。
(そして、すいたらしいってね、わたしのてくびをじっとにぎって、まっきいろな、)
そして、すいたらしいッてね、私の手首を熟[じっ]と握って、真黄色な、
(ひらったい、ちいさなかおをふりあげて、じろじろとみつめたの。)
平[ひらっ]たい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。
(そのにぎったてのつめたいことったら、まるでこおりのようじゃありませんか。)
その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。
(そしてめがね、きんめなんです。)
そして目がね、黄金目[きんめ]なんです。
(ひかったわ!あなた。)
光ったわ!貴郎[あなた]。
(きらきらと、そのすごかったこと。」)
キラキラと、その凄かった事。」
(とばかりでおもそうなつむりをあげて、にわかにくろくもやおこるとおもう、)
とばかりで重そうな頭[つむり]を上げて、俄かに黒雲や起ると思う、
(きづかわしげにあおいでながめた。そらざまにめも)
憂慮[きづか]わしげに仰いで視[なが]めた。空ざまに目も
(うっとり、ひもをゆわえたおとがいのふるうがみえたり。)
恍惚[うっとり]、紐を結えた頤[おとがい]の震うが見えたり。
(「こころもちでしょう。」)
「心持でしょう。」
(「いいえ、じろりとみられたときは、そのめのひかりでわたしのかおがきいろになったかと)
「いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと
(おもうくらいでしたよ。あかりにちかいと、あかくほてるようなきがするのと)
思うくらいでしたよ。灯[あかり]に近いと、赤くほてるような気がするのと
(おんなじに。」)
同一[おんなじ]に。」
(もうわたし、ふたすじはりをさされたように、せなかのりょうほうから)
もう私、二条[ふたすじ]針を刺されたように、背中の両方から
(ぞっとして、あしもふらふらになりました。)
悚然[ぞっ]として、足もふらふらになりました。
(むちゅうでにさんげんかけだすとね、ちゃらんとおとがしたので、)
夢中で二三間駈け出すとね、ちゃらんと音がしたので、
(またはっとおもいましたよ。おあしをおとしたのがさきへ)
またハッと思いましたよ。お銭[あし]を落したのが先方[さき]へ
(きこえやしまいかとおもって。)
聞えやしまいかと思って。
(なんでもいちだいじのようにかえしたつりなんですもの、おとしたのをしっては)
何でも一大事のように返した剰銭[つり]なんですもの、落したのを知っては
(おっかけてきかねやしません。せんさん、まあ、なんてこってしょう、)
追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、
(どうしたばあさんでしょうねえ。」)
どうした婆さんでしょうねえ。」
(さればおばうえののたまうごとし。としななそじあまりの、かみのまっしろな、)
されば叔母上の宣うごとし。年紀七十[としななそじ]あまりの、髪の真白な、
(かおのひらたい、としのわりにしわのすくない、いろのきな、みみのとおい、からだのにおう、)
顔の扁[ひら]たい、年記の割に皺の少い、色の黄な、耳の遠い、身体の臭う、
(ほねのやわらかそううな、ふるまいのくなくなした、なおそのことばに)
骨の軟かそううな、挙動[ふるまい]のくなくなした、なおその言[ことば]に
(したがえば、こんじきにめのひかりるおうなとより、せんたろうはほかに)
従えば、金色[こんじき]に目の光る嫗[おうな]とより、銑太郎は他に
(こたえうるすべをしらなかった。)
答うる術を知らなかった。
(ただその、まっちひとつかいとるのに、はんときばかりたったしさいがしれて、)
ただその、早附木一つ買い取るのに、半時ばかり経った仔細が知れて、
(うたがいはさらりとなくなったばかりであるから、きのどくらしい、とじぶんでおもうほど)
疑はさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど
(いっこうなのんき。)
一向な暢気[のんき]。
(まっちは?おばさん。」とみせられたもののせなかをひとつ、)
「早附木は?叔母さん。」と魅せられたものの背中を一つ、
(とんとうつようなのをだしぬけにいった。)
トンと打つようなのを唐突[だしぬけ]に言った。
(「ああ、そうでした。」)
「ああ、そうでした。」
(とこころつくと、これをおうなににぎられた、かいものをもったみぎのては、まだひだりのたもとのしたに)
と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左の袂の下に
(つつんだままで、なでがたのゆきをなぞえに、ゆかたのすじもみずにぬれたかと、)
包んだままで、撫肩の裄[ゆき]をなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、
(ひたひたとしおれて、かたそでしるく、ぞっとしたのがそのままである。)
ひたひたとしおれて、片袖しるく、悚然[ぞっ]としたのがそのままである。
(だいじなことをみるがごとく、そっとはずすと、せんたろうものぞくように)
大事なことを見るがごとく、密[そっ]とはずすと、銑太郎も覗くように
(めをそそいだ。)
目を注いだ。
(「おや!」)
「おや!」
(「・・・・・・・・・・・・」)
「…………」
(くろのとうじゅすと、うすねずみになんどがかったきぬちぢみにたからづくしの)
六 黒の唐繻子と、薄鼠に納戸がかった絹ちぢみに宝づくしの
(しぼりのはいった、はらあわせのおびをもれた、ときいろの)
絞[しぼり]の入った、腹合せの帯を漏れた、水紅色[ときいろ]の
(しごきにのせて、うつくしきてはふようのはなびら、)
扱帯[しごき]にのせて、美しき手は芙蓉[ふよう]の花片[はなびら]、
(かぜもさそわずぶじであったが、きらりとかがやいたゆびわのほかに、)
風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた指環の他に、
(まっちらしいもののかたちもない。)
早附木らしいものの形も無い。
(みつめて、ふじんは、)
視詰めて、夫人は、
(「・・・・・・・・・・・・」ものもえいわぬのである。)
「…………」ものも得いわぬのである。
(「ああ、つりといっしょにおとしたんだ。おばさんどのへん?」)
「ああ、剰銭と一緒に遺失[おと]したんだ。叔母さんどの辺?」
(ときばやにむきかえってゆこうとする。)
と気早に向き返って行[ゆ]こうとする。
(「おまちなさいよ。」)
「お待ちなさいよ。」
(とさえぎってあげたての、しさいなくうごいたのを、うれしそうに、しょうねんのかたにかけて、)
と遮って上げた手の、仔細なく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、
(みなおしていきをついて、)
見直して呼吸[いき]をついて、
(「ずくさん、およしなさいおよしなさい、きみがわるいから、ね、)
「銑さん、お止[よ]しなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、
(およしなさい。」)
お止しなさい。」
(とさもいっしょうけんめい。おさえぬばかりにひきとどめて、)
とさも一生懸命。圧[おさ]えぬばかりに引留めて、
(「あんなものは、いまごろなにになっているかわかりませんよ。)
「あんなものは、今頃何に化[な]っているか分かりませんよ。
(よう、ですから、せんさん。」)
よう、ですから、銑さん。」
(「じゃよします、よしますがね。」)
「じゃ止します、止しますがね。」
(しょうねんはあまりのことに、)
少年は余りの事に、
(「ははははは、なんだかばけものででもあるようだ。」となかばつぶやいて、)
「ははははは、何だか妖物[ばけもの]ででもあるようだ。」と半ば呟いて、
(またわらった。)
また笑った。
(わたしはばけものとしかかんがえないの、まさかいようとはおもわないけれど。」)
私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思わないけれど。」
(「ばけものですとも、ばけものですがね、そのくなくなしたところや、あたまで)
「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天窓[あたま]で
(あるきそうにするところから、きいろくうねったところなんぞ、なんのことはない)
歩行[ある]きそうにする処から、黄色く畝った処なんぞ、何の事はない
(ばばのけむしだ。けむしのばあさんです。」)
婆の毛虫だ。毛虫の婆さんです。」
(「いやですことねえ。」とみぶるいする。)
「厭ですことねえ。」と身ぶるいする。
(「なにもそんなに、きみをわるがるにはあたらないじゃありませんか。そのばばに)
「何もそんなに、君を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に
(てをにぎられたのと、もしやきのうえから、」)
手を握られたのと、もしや樹の上から、」
(とうえをみる。やぶはつきてたかいいしがき、えのきがそらにかぶさって、ゆかたに)
と上を見る。藪は尽きて高い石垣、榎[えのき]が空にかぶさって、浴衣に
(うすきひのひかり、ふたりはつきよをゆくすがた。)
薄き日の光、二人は月夜を行[ゆ]く姿。
(「ぽたりとおちて、けむしがくびすじへはいったとすると、おばさん、)
「ぽたりと落ちて、毛虫が頸筋[くびすじ]へ入ったとすると、叔母さん、
(どっちがいやなこころもちだとおもいます。」)
どっちが厭な心持だと思います。」
(「たくさんよ、せんさん、わたしはもう、」)
「沢山よ、銑さん、私はもう、」
(「いえ、まあ、どっちがきみがわるいんですね。」)
「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」
(「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちともいえませんね。」)
「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」
(「そらごらんなさい。」)
「そら御覧なさい。」
(ときえてよしとおもえるさまして、)
説き得て可しと思える状[さま]して、
(「おばさんは、そのばばを、ばけものかなんぞのようにおおさわぎをやるけれど、)
「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを遣[や]るけれど、
(きみのわるい、いやなかんじ。」)
気味の悪い、厭な感じ。」
(かんじ、とこえにちからをいれて、)
感じ、と声に力を入れて、
(「かんじというと、なんだかせんせいのこわいろのようですね。」)
「感じというと、何だか先生の仮声[こわいろ]のようですね。」
(「きらくなことをおっしゃいよ!」)
「気楽なことをおっしゃいよ!」