悪獣編 泉鏡花 3

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
プレイ回数227難易度(4.0) 4177打 長文
泉鏡花の中編小説です。

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問題文

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(「わたしゃ、せんさん、どうしようかとおもったんです。)

五 「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。

(なんにもいわないで、ぐんぐんひっぱって、かぶりをふるから、おおかた、)

何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを掉[ふ]るから、大方、

(つりをよこそうというんでしょうとおもって、とまりますとね。)

剰銭[つり]を寄越そうというんでしょうと思って、留りますとね。

(やっとあんしんしたようにてをはなして、それからむこうむきになって、さしから)

やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、緡[さし]から

(あなのあいたのをひとつひとつ。)

穴のあいたのを一つ一つ。

(それがまたしばらくなの。)

それがまたしばらくなの。

(わたしのてをひっぱるようにして、てのひらへくれました。)

私の手を引張るようにして、掌へ呉れました。

(ひやりとしたけれど、そればかりならよかったのに。)

ひやりとしたけれど、そればかりなら可かったのに。

((ごしんぞさまや)」)

(御新姐様や)」

(とうらこのこえ、いようにふるえてきこえたので、)

と浦子の声、異様に震えて聞えたので、

(「ええ、そのばばが、」)

「ええ、その婆[ばば]が、」

(「あれ、せんさん、きこえますよ。」と、ひとあしいそがわしく、)

「あれ、銑さん、聞えますよ。」と、一歩[ひとあし]いそがわしく、

(ぴったりよりそう。)

ぴったり寄添う。

(「そのばばが、いったんですか。」)

「その婆が、云ったんですか。」

(ふじんはまたといきをついた。)

夫人はまた吐息をついた。

(「ばあさんがね、ああ。」)

「婆さんがね、ああ。」

((ごしんぞさまや、おみあ、すいたらしいひとじゃでの、やすく、)

(御新姐様や、御身ア、すいたらしい人じゃでの、安く、

(なかまのねでしんぜるぞい。))

なかまの値で進ぜるぞい。)

(って、しわがれたこえでそういうとね、ぶんとあたまへひびいたんです。)

ッて、皺枯れた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。

(そして、すいたらしいってね、わたしのてくびをじっとにぎって、まっきいろな、)

そして、すいたらしいッてね、私の手首を熟[じっ]と握って、真黄色な、

など

(ひらったい、ちいさなかおをふりあげて、じろじろとみつめたの。)

平[ひらっ]たい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。

(そのにぎったてのつめたいことったら、まるでこおりのようじゃありませんか。)

その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。

(そしてめがね、きんめなんです。)

そして目がね、黄金目[きんめ]なんです。

(ひかったわ!あなた。)

光ったわ!貴郎[あなた]。

(きらきらと、そのすごかったこと。」)

キラキラと、その凄かった事。」

(とばかりでおもそうなつむりをあげて、にわかにくろくもやおこるとおもう、)

とばかりで重そうな頭[つむり]を上げて、俄かに黒雲や起ると思う、

(きづかわしげにあおいでながめた。そらざまにめも)

憂慮[きづか]わしげに仰いで視[なが]めた。空ざまに目も

(うっとり、ひもをゆわえたおとがいのふるうがみえたり。)

恍惚[うっとり]、紐を結えた頤[おとがい]の震うが見えたり。

(「こころもちでしょう。」)

「心持でしょう。」

(「いいえ、じろりとみられたときは、そのめのひかりでわたしのかおがきいろになったかと)

「いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと

(おもうくらいでしたよ。あかりにちかいと、あかくほてるようなきがするのと)

思うくらいでしたよ。灯[あかり]に近いと、赤くほてるような気がするのと

(おんなじに。」)

同一[おんなじ]に。」

(もうわたし、ふたすじはりをさされたように、せなかのりょうほうから)

もう私、二条[ふたすじ]針を刺されたように、背中の両方から

(ぞっとして、あしもふらふらになりました。)

悚然[ぞっ]として、足もふらふらになりました。

(むちゅうでにさんげんかけだすとね、ちゃらんとおとがしたので、)

夢中で二三間駈け出すとね、ちゃらんと音がしたので、

(またはっとおもいましたよ。おあしをおとしたのがさきへ)

またハッと思いましたよ。お銭[あし]を落したのが先方[さき]へ

(きこえやしまいかとおもって。)

聞えやしまいかと思って。

(なんでもいちだいじのようにかえしたつりなんですもの、おとしたのをしっては)

何でも一大事のように返した剰銭[つり]なんですもの、落したのを知っては

(おっかけてきかねやしません。せんさん、まあ、なんてこってしょう、)

追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、

(どうしたばあさんでしょうねえ。」)

どうした婆さんでしょうねえ。」

(さればおばうえののたまうごとし。としななそじあまりの、かみのまっしろな、)

されば叔母上の宣うごとし。年紀七十[としななそじ]あまりの、髪の真白な、

(かおのひらたい、としのわりにしわのすくない、いろのきな、みみのとおい、からだのにおう、)

顔の扁[ひら]たい、年記の割に皺の少い、色の黄な、耳の遠い、身体の臭う、

(ほねのやわらかそううな、ふるまいのくなくなした、なおそのことばに)

骨の軟かそううな、挙動[ふるまい]のくなくなした、なおその言[ことば]に

(したがえば、こんじきにめのひかりるおうなとより、せんたろうはほかに)

従えば、金色[こんじき]に目の光る嫗[おうな]とより、銑太郎は他に

(こたえうるすべをしらなかった。)

答うる術を知らなかった。

(ただその、まっちひとつかいとるのに、はんときばかりたったしさいがしれて、)

ただその、早附木一つ買い取るのに、半時ばかり経った仔細が知れて、

(うたがいはさらりとなくなったばかりであるから、きのどくらしい、とじぶんでおもうほど)

疑はさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど

(いっこうなのんき。)

一向な暢気[のんき]。

(まっちは?おばさん。」とみせられたもののせなかをひとつ、)

「早附木は?叔母さん。」と魅せられたものの背中を一つ、

(とんとうつようなのをだしぬけにいった。)

トンと打つようなのを唐突[だしぬけ]に言った。

(「ああ、そうでした。」)

「ああ、そうでした。」

(とこころつくと、これをおうなににぎられた、かいものをもったみぎのては、まだひだりのたもとのしたに)

と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左の袂の下に

(つつんだままで、なでがたのゆきをなぞえに、ゆかたのすじもみずにぬれたかと、)

包んだままで、撫肩の裄[ゆき]をなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、

(ひたひたとしおれて、かたそでしるく、ぞっとしたのがそのままである。)

ひたひたとしおれて、片袖しるく、悚然[ぞっ]としたのがそのままである。

(だいじなことをみるがごとく、そっとはずすと、せんたろうものぞくように)

大事なことを見るがごとく、密[そっ]とはずすと、銑太郎も覗くように

(めをそそいだ。)

目を注いだ。

(「おや!」)

「おや!」

(「・・・・・・・・・・・・」)

「…………」

(くろのとうじゅすと、うすねずみになんどがかったきぬちぢみにたからづくしの)

六 黒の唐繻子と、薄鼠に納戸がかった絹ちぢみに宝づくしの

(しぼりのはいった、はらあわせのおびをもれた、ときいろの)

絞[しぼり]の入った、腹合せの帯を漏れた、水紅色[ときいろ]の

(しごきにのせて、うつくしきてはふようのはなびら、)

扱帯[しごき]にのせて、美しき手は芙蓉[ふよう]の花片[はなびら]、

(かぜもさそわずぶじであったが、きらりとかがやいたゆびわのほかに、)

風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた指環の他に、

(まっちらしいもののかたちもない。)

早附木らしいものの形も無い。

(みつめて、ふじんは、)

視詰めて、夫人は、

(「・・・・・・・・・・・・」ものもえいわぬのである。)

「…………」ものも得いわぬのである。

(「ああ、つりといっしょにおとしたんだ。おばさんどのへん?」)

「ああ、剰銭と一緒に遺失[おと]したんだ。叔母さんどの辺?」

(ときばやにむきかえってゆこうとする。)

と気早に向き返って行[ゆ]こうとする。

(「おまちなさいよ。」)

「お待ちなさいよ。」

(とさえぎってあげたての、しさいなくうごいたのを、うれしそうに、しょうねんのかたにかけて、)

と遮って上げた手の、仔細なく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、

(みなおしていきをついて、)

見直して呼吸[いき]をついて、

(「ずくさん、およしなさいおよしなさい、きみがわるいから、ね、)

「銑さん、お止[よ]しなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、

(およしなさい。」)

お止しなさい。」

(とさもいっしょうけんめい。おさえぬばかりにひきとどめて、)

とさも一生懸命。圧[おさ]えぬばかりに引留めて、

(「あんなものは、いまごろなにになっているかわかりませんよ。)

「あんなものは、今頃何に化[な]っているか分かりませんよ。

(よう、ですから、せんさん。」)

よう、ですから、銑さん。」

(「じゃよします、よしますがね。」)

「じゃ止します、止しますがね。」

(しょうねんはあまりのことに、)

少年は余りの事に、

(「ははははは、なんだかばけものででもあるようだ。」となかばつぶやいて、)

「ははははは、何だか妖物[ばけもの]ででもあるようだ。」と半ば呟いて、

(またわらった。)

また笑った。

(わたしはばけものとしかかんがえないの、まさかいようとはおもわないけれど。」)

私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思わないけれど。」

(「ばけものですとも、ばけものですがね、そのくなくなしたところや、あたまで)

「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天窓[あたま]で

(あるきそうにするところから、きいろくうねったところなんぞ、なんのことはない)

歩行[ある]きそうにする処から、黄色く畝った処なんぞ、何の事はない

(ばばのけむしだ。けむしのばあさんです。」)

婆の毛虫だ。毛虫の婆さんです。」

(「いやですことねえ。」とみぶるいする。)

「厭ですことねえ。」と身ぶるいする。

(「なにもそんなに、きみをわるがるにはあたらないじゃありませんか。そのばばに)

「何もそんなに、君を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に

(てをにぎられたのと、もしやきのうえから、」)

手を握られたのと、もしや樹の上から、」

(とうえをみる。やぶはつきてたかいいしがき、えのきがそらにかぶさって、ゆかたに)

と上を見る。藪は尽きて高い石垣、榎[えのき]が空にかぶさって、浴衣に

(うすきひのひかり、ふたりはつきよをゆくすがた。)

薄き日の光、二人は月夜を行[ゆ]く姿。

(「ぽたりとおちて、けむしがくびすじへはいったとすると、おばさん、)

「ぽたりと落ちて、毛虫が頸筋[くびすじ]へ入ったとすると、叔母さん、

(どっちがいやなこころもちだとおもいます。」)

どっちが厭な心持だと思います。」

(「たくさんよ、せんさん、わたしはもう、」)

「沢山よ、銑さん、私はもう、」

(「いえ、まあ、どっちがきみがわるいんですね。」)

「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」

(「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちともいえませんね。」)

「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」

(「そらごらんなさい。」)

「そら御覧なさい。」

(ときえてよしとおもえるさまして、)

説き得て可しと思える状[さま]して、

(「おばさんは、そのばばを、ばけものかなんぞのようにおおさわぎをやるけれど、)

「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを遣[や]るけれど、

(きみのわるい、いやなかんじ。」)

気味の悪い、厭な感じ。」

(かんじ、とこえにちからをいれて、)

感じ、と声に力を入れて、

(「かんじというと、なんだかせんせいのこわいろのようですね。」)

「感じというと、何だか先生の仮声[こわいろ]のようですね。」

(「きらくなことをおっしゃいよ!」)

「気楽なことをおっしゃいよ!」

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