悪獣篇 泉鏡花 11

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
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(かいのばば、わずかにてをほどき、おとがいでえりをさぐって、)

峡[かい]の婆、僅[わずか]に手を解き、頤[おとがい]で襟を探って、

(ぶしょうらしくつまみだした、ゆびのつめの)

無性[ぶしょう]らしく撮[つま]み出した、指の爪の

(ながくはえのびたかとみえるのを、ひとつぶるぶるとふってちかづき、)

長く生伸[はえの]びたかと見えるのを、一つぶるぶると掉[ふ]って近づき、

(おとぎばなしのえにかいたげかいしゃというていで、おののくくちびるに)

お伽話の絵に描いた外科医者という体[てい]で、震[おのの]く唇に

(かすかにみえる、ふじんのしらはのうえをぬうよ。)

幽[かすか]に見える、夫人の白歯[しらは]の上を縫うよ。

(うらこのすがたははげしくゆれたが、こえははじめからえたてなかった。)

浦子の姿は烈[はげ]しく揺れたが、声は始めから得[え]立てなかった。

(めはみひらいていたのである。)

目は睜[みひら]いていたのである。

(「もうよいわいの、」)

「もう可[よ]いわいの、」

(とかいのばば、かたわらにみをひらくと、さかのしたのあねさまは、ふじんのかたのしたへてをいれて、)

と峡の婆、傍らに身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、

(りょうかたのわきをだいておこした。)

両肩の傍[わき]を抱いて起した。

(「ござれ、すのまたのごぜん、」)

「ござれ、洲の股の御前、」

(といって、さかしたのあねさま、ふじんのかたてを。)

といって、坂下の姉様、夫人の片手を。

(すのまたのごぜんも、おなじくかたわらからふじんのかたてを。)

洲の股の御前も、おなじく傍[かたわら]から夫人の片手を。

(ぐい、ととって、ひったてる。みぎとひだりへ、なよやかにわきをひらいて、)

ぐい、と取って、引立[ひった]てる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、

(しごきのはしがふちをはなれた。かみのねはまげながら、)

扱帯[しごき]の端が縁を離れた。髪の根は髷[まげ]ながら、

(こうがいながら、がっくりとかたにくずれて、はやさやいつあしばかり、)

笄[こうがい]ながら、がッくりと肩に崩れて、早や五足[いつあし]ばかり、

(つられぐあいに、ちょうずばちを、うらのかきねへさそわれゆく。)

釣られ工合に、手水鉢[ちょうずばち]を、裏の垣根へ誘われ行[ゆ]く。

(うしろにのこって、すなじにひとりかいのばば、くだんのてを)

背後[うしろ]に残って、砂地に独り峡の婆、件[くだん]の手を

(こしにきめて、かたがりながら、かたてをまえへ、ななめにひとあおり、)

腰に極[き]めて、傾[かた]がりながら、片手を前へ、斜めに一煽り、

(はたとあおると、あまどはおのずからきりきりとうごいてしまった。)

ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて閉[しま]った。

など

(ふたりのばばにさしはさまれ、いちにんにみちびかれて、)

二人の婆に挟[さしはさ]まれ、一人[いちにん]に導かれて、

(うすずみのえのように、くぐりもんをつれださるるとき、ふじんのすがたは)

薄墨の絵のように、潜門[くぐりもん]を連れ出さるる時、夫人の姿は

(うしろざまにそって、かたへかおをつけて、ふりかえってあとをみたが、)

後[うしろ]ざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、

(なごりおしそうであわれであった。)

名残惜しそうであわれであった。

(ときしもいちめんのうすがすみにところどころつやあるよう、つきのかげに、)

時しも一面の薄霞[うすがすみ]に処々艶あるよう、月の影に、

(あまどはしんとつらなって、あさがおのはをふくかぜに、さっとみだれて、)

雨戸は寂[しん]と連[つらな]って、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、

(はながみがちらちらと、れんぽのあとのここかしこ、ふじんをしとうて)

鼻紙がちらちらと、蓮歩[れんぽ]のあとのここかしこ、夫人をしとうて

(ちりぢりなり。)

散々[ちりぢり]なり。

(あとしらなみのよせてはかえす、なぎさながく、みはただ、)

あと白浪[しらなみ]の寄せては返す、渚[なぎさ]長く、身はただ、

(きなるくもをふむと、もすそもそらにはまべをひかれて、)

黃なる雲を蹈[ふ]むと、裳[もすそ]も空に浜辺を引かれて、

(どれだけきたか、あまのおとのただごうごうときゆるあたり。)

どれだけ来たか、海の音のただ轟々[ごうごう]と聞ゆるあたり。

(「ここじゃ、ここじゃ。」)

「ここじゃ、ここじゃ。」

(どしりとふじんのよこたおし。)

どしりと夫人の横倒[よこたおし]。

(「きたぞや、きたぞや、」)

「来たぞや、来たぞや、」

(「いまははや、きずい、きままになるのじゃに。」)

「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」

(いずこのはてか、すなのうえ。ここにもふねのかたちのとりがねていた。)

何処[いずこ]の果[はて]か、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。

(ぐるりとさんにん、みつがなえにふじんをまいた、きんのめと、ぎんのめと、)

ぐるりと三人、三[み]つ鼎[がなえ]に夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、

(べにいとのめのむっつを、あしきほしのごとくきらきらと)

紅糸[べにいと]の目の六つを、凶[あし]き星のごとくキラキラと

(いさごのうえにかがやかしたが、)

砂[いさご]の上に輝かしたが、

(「じぞうぼさつまつれ、ふぁふぁ、」とあざわらって、やまのかいがはたとてびょうし。)

「地蔵菩薩祭れ、ふァふァ、」と嘲笑って、山の峡[かい]がハタと手拍子。

(「やまのかいははんじょうじゃ、あはは、」とすのまたのごぜん、あしをあげる。)

「山の峡は繁昌[はんじょう]じゃ、あはは、」と洲の股の御前、足を挙げる。

(「すのまたもめでたいな、うふふ。」)

「洲の股もめでたいな、うふふ。」

(とほくそえみつつ、さかしたのおうなはこしをひねった。)

と北叟笑[ほくそえ]みつつ、坂下の嫗は腰を捻った。

(もろごえ[もろごえ]に、)

諸声[もろごえ]に、

(「ふぁふぁふぁ、」)

「ふァふァふァ、」

(「うふふ、」)

「うふふ、」

(「あはははは。」)

「あはははは。」

(こんどはすのまたのごぜんがてをうつ。)

今度は洲の股の御前が手を拍[う]つ。

(「じぞうぼさつまつれ。」)

「地蔵菩薩祭れ。」

(とやまのかいがひとあしでる、そのあとへいしきをひねって、)

と山の峡が一足出る、そのあとへ臀[いしき]を捻って、

(「やまのかいははんじょうじゃ。」)

「山の峡は繁昌じゃ。」

(「すのまたもめでたいな、」)

「洲の股もめでたいな、」

(「さかのしたいわいましょ、」)

「坂の下祝いましょ、」

(「じぞうぼさつまつれ。」)

「地蔵菩薩祭れ。」

(さすてひくてのちょうしをあわせた、なみのしらべ、まつのきょく。おどろおどろと)

さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調[しらべ]、松の曲。おどろおどろと

(つきおちて、よはただもやとなるなかに、もののかげが、おどるわ、おどるわ。)

月落ちて、世はただ靄[もや]となる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。

(ここに、ひとつめとふたつめのはまざかい、なみまのいわを)

二十 ここに、一つ目と二つ目の浜境[はまざかい]、浪間の巖[いわ]を

(すそにひたして、みちばたにつとたかい、)

裾[すそ]に浸して、路傍[みちばた]に衝[つ]と高い、

(いちざらのごときおかがある。)

一座螺[ら]のごとき丘がある。

(そのいただきへ、あけがたのめをちばしらして、たいそくをついて)

その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を吐[つ]いて

(たたずんだのは、さじまにやどれるとりやまれんぺい。)

彳[たたず]んだのは、狭島[さじま]に宿れる鳥山廉平。

(れいのしまのしゃつに、そのかすりのひとえを)

例の縞[しま]の襯衣[しゃつ]に、その綛[かすり]の単衣[ひとえ]を

(きて、こんのこくらのおびをぐるぐるとまきつけたが、)

着て、紺の小倉[こくら]の帯をぐるぐると巻きつけたが、

(じんじんばしょりのからずねに、ぞうりばきで)

じんじん端折[ばしょ]りの空脛[からずね]に、草履ばきで

(ぼうはかぶらず。)

帽は冠[かぶ]らず。

(きのうはおりめもただしかったが、つゆにしおれてかいしょうがなさそう、たかいところで)

昨日は折目も正しかったが、露にしおれて甲斐性が無さそう、高い処で

(なげくびして、いたくくたびれたさまがみえた。おそらく)

投首[なげくび]して、太[いた]く草臥れた状[さま]が見えた。恐らく

(すわといってはねおきて、べっそうじゅう、うえをしたへさわいだなかに、)

驚破[すわ]と言って跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、

(しゃつをつけてひとつひとつそのこはぜをかけたくらい、おちついていたものは、)

襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、

(このじんぶつばかりであろう。)

この人物ばかりであろう。

(それさえ、よなかからあかつきへひきだされたような、とりとめのないなりかたち、)

それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり形、

(ほかのひとびとはおもいやられる。)

他の人々は思いやられる。

(せんたろう、けんのすけ、じょちゅうのまつ、なかばたらき、かかえしゃふは)

銑太郎、賢之助、女中の松、仲働[なかばたらき]、抱え車夫は

(いうまでもない。おりからいあわせたぶちなかまのりょうしもしごにん、)

いうまでもない。折から居合わせた賭博仲間[ぶちなかま]の漁師も四五人、

(べっそうをひっぷるって、はっぽうへてをわけて、きゅうにすがたのみえなくなった)

別荘を引[ひっ]ぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった

(うらこをさがしにかけまわる。いましがたみちをはさんだむこうがわのやまのすそを、)

浦子を捜しに駈[か]け廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、

(ちらちらともやにともれて、たいまつのひのとんだもそれよ。れんぺいが)

ちらちらと靄[もや]に点[とも]れて、松明の火の飛んだもそれよ。廉平が

(このおかへなかばよじのぼったころ、きえたか、かくれたか、)

この丘へ半ば攀[よ]じ上った頃、消えたか、隠れたか、

(やがてみえなくなった。)

やがて見えなくなった。

(もとよりあてのないたずねびと。どこへ、とけんとうはちっともつかず、)

もとより当[あて]のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、

(ただあしにまかせて、かなたこなた、おなじところをしごたびも、)

ただ足にまかせて、彼方此方[かなたこなた]、同じ処を四五度も、

(およそにさんりのみちはもうあるいた。)

およそ二三里の路はもう歩行[ある]いた。

(ふしょうなげんをはなつものは、いわくかわやからつきにうかれて、)

不祥な言を放つものは、曰く厠から月に浮かれて、

(なみにさそわれたのであろうもしれず、とすなわちふねをこぎいだしたのも)

浪に誘われたのであろうも知れず、と即ち船を漕ぎ出[いだ]したのも

(あるほどで。)

有るほどで。

(しんだは、いきたは、ほんたくのしゅじんへでんぽうを、とくもでにざしきへ)

死んだは、活きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手[くもで]に座敷へ

(ちりみだれるのを、さわぐまい、さわぐまい。けいろのかわったいぬいっぴき、)

散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬一疋[いっぴき]、

(においのたかいそうざいにも、みるめ、かぐはなのせまいとちがら、)

匂[におい]の高い総菜にも、見る目、齅[か]ぐ鼻の狭い土地がら、

(おもかげをゆめにみて、やまへゆりのはなおりにひょうぜんとして)

俤[おもかげ]を夢に見て、山へ百合の花折りに飄然[ひょうぜん]として

(でかけられたかもはかられぬを、さじまのふじん、やはんより、そのゆくえが)

出かけられたかも料[はか]られぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方が

(わからぬなどと、さわぐまいぞ、おのおの。こころしてないぶんにおさがしもうせと、)

分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自[おのおの]。心して内分にお捜し申せと、

(ひとりおししずめてせいしたこのひと。)

独り押鎮めて制したこの人。

(れんぺいとても、ふじんがうおのよるをみようでなし、こんなおかへ、)

廉平とても、夫人が魚[うお]の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、

(よもや、とはおもったけれども、さて、どこ、というめあてがないので、)

よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的[めあて]がないので、

(ふねでさがしにでたのにたいして、そぞろにくもをつかむのであった。)

船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を攫[つか]むのであった。

(めのしたのはまには、ほそいきがごろっぽん、ひょろひょろとかぜにもまれたままのかたちで、)

目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に揉まれたままの形で、

(しずまりかえってみえたのは、ときどきしおがみちてねをあらうので、こずえは)

静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、梢[こずえ]は

(それよりそだたぬならん。)

それより育たぬならん。

(それよりそだたぬならん。)

それより育たぬならん。

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