泉鏡花 悪獣篇 12
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問題文
(ちょうどひきしおのうみのいろは、けむりのなかにあいをたたえて、あるいは)
ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍を湛[たた]えて、或[あるい]は
(じゅうじょう、にじゅうじょう、ごじょう、さんじょう、まさごのゆかにたえてはつらなる、)
十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂[まさご]の床に絶えては連なる、
(たいらないわの、あめつちのくしきてに、かなづちのあとの)
平らな岩の、天地[あめつち]の奇[く]しき手に、鉄槌[かなづち]のあとの
(みゆるあり、けずりかけのやすりのめのたったるあり。のみのはがたを)
見ゆるあり、削りかけの鑢[やすり]の目の立ったるあり。鑿[のみ]の歯形を
(しるしたる、のこぎりのくずかとかけかけしたる、そのひとつひとつに、)
印したる、鋸[のこぎり]の屑かと欠々[かけかけ]したる、その一つ一つに、
(しらなみのうたでひるがえるとばかりみえておとのないのは、いわをかざったみる、)
白浪の打たで翻るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松[みる]、
(ところ、あわび、かきなどいうものの、よわにはいた)
ところ、あわび、蠣[かき]などいうものの、夜半[よわ]に吐いた
(きをおさめず、まだほのぼのとゆらぐのが、なぎさをこめてむすのである。)
気を収めず、まだほのぼのと揺[ゆら]ぐのが、渚を籠めて蒸すのである。
(ぎょかにさん。ふかぶかととまやをふせて、やねよりたかくくちをあけたり、)
漁家二三。深々と苫屋[とまや]を伏せて、屋根より高く口を開けたり、
(いえよりおおきくそこをみせたり、ころりころりとおおびくがいつつむっつ。)
家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚[おおびく]が五つ六つ。
(さてこのおかのねにひきよせて、いっそうとまをかけたふねがあった。)
二十一 さてこの丘の根に引寄せて、一艘[そう]苫を掛けた船があった。
(あまもみのきるしぐれかな、しおのしぶきはあびながら、)
海士[あま]も蓑[みの]きる時雨かな、潮の潵[しぶき]は浴びながら、
(よつゆやいとう、とものやさしく、よろけたまつにこづなをひかえ、)
夜露や厭[いと]う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、
(めおのなみのすがたにひろげて、すらすらとほしたつなをしきねに、)
女男[めお]の波の姿に拡げて、すらすらと乾[ほ]した綱を敷寝に、
(みよしのくちがすやすやと、みはてぬゆめのいわまくら。)
舳[みよし]の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。
(かたわらなるとまやのせどに、みどりをそめたあおなのはた、)
傍[かたわら]なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、
(ゆいめぐらしたあしがきも、ふねも、いわも、ただなだらかな)
結い繞[めぐ]らした蘆垣[あしがき]も、船も、岩も、ただなだらかな
(おもたいらに、そらにおどったはねつるべも、)
面平[おもたいら]に、空に躍った刎釣瓶[はねつるべ]も、
(もやをはなれぬくろいいとすじ。さとおうとつなくみおろさるる、)
靄を放れぬ黒い線[いとすじ]。些[さ]と凹凸なく瞰下[みおろ]さるる、
(かかるいちまいのえのなかに、もすそのはしさえ、かたそでさえ、うつくしきふじんのすがたを、)
かかる一枚の絵の中に、裳の端さえ、片袖さえ、美しき夫人の姿を、
(いずこにかくすべくもみえなかった。)
何処[いずこ]に隠すべくも見えなかった。
(れんぺいはちいさなそのげかいにたいして、たかくくもにのったように、まるくもやに)
廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に
(つつまれたおかのうえに、ふみはずしそうにがけのさき、ごしゃくの)
包まれた丘の上に、踏[ふみ]はずしそうに崖の尖[さき]、五尺の
(じぞうのぞうでたったけれども。)
地蔵の像で立ったけれども。
(ぜんにょをすくうべく、ここにあまくだったぼさつににず、せんけの)
善女を救うべく、ここに天降[あまくだ]った菩薩に似ず、仙家の
(こうべをたれてたんそくした。)
頭[こうべ]を垂れて嘆息した。
(さればこのときのふうさいは、あくまのてにとらえられた、いったいの)
さればこの時の風采は、悪魔の手に捕えられた、一体の
(しもべのあやまってろをやぶって、げかいにおろされた)
僕[しもべ]の誤って廬[ろ]を破って、下界に追い下[おろ]された
(あわれなおもむき。)
哀れな趣。
(れんぺいはうでをこまぬいてしょうぜんとしたのである。)
廉平は腕を拱[こまぬ]いて悄然としたのである。
(ときにうみのうえにひらめくものあり。)
時に海の上にひらめくものあり。
(つばさのいろの、かもめやとぶとみえたのは、なみにしずかなしらほのへんえい。)
翼の色の、鴎[かもめ]や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。
(ほかぜにちるか、もやきえて、とみれば、うみにあらわれた、)
帆風に散るか、靄消えて、と見れば、海に露[あらわ]れた、
(いちめんおおいなるいわのはしへ、ふねはかくれてほのすがた。)
一面大[おおい]なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。
(ぴたりとついてとどまったが、ひらりとこなたへ)
ぴたりとついて留まったが、翻然[ひらり]と此方[こなた]へ
(むきをかえると、なぎさにすわったおかのねと、うみなるそのいわとのあいだ、)
向[むき]をかえると、渚に据[すわ]った丘の根と、海なるその岩との間、
(はなれざしきのにさんけん、なかにせんすいをたたえたさまに、みちひとすじ、しののめの)
離座敷の二三間、中に泉水を湛えた状に、路一条[ひとすじ]、東雲の
(あけてゆく、あおぞらのすくごとく、うすぎぬのくもさゆうにわかれて、)
あけて行[ゆ]く、蒼空の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、
(いわのおもになびくなかを、ふねはただうごくともなく、しらほをのせた)
巌[いわ]の面[おも]に靡く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた
(うみがちかづき、やがてよこざまにかろくまたなぎさにとまった。)
海が近づき、やがて横ざまに軽[かろ]くまた渚に止った。
(ほのなかより、みずぎわたって、うつくしくみずあさぎにあさつゆおいた)
帆の中より、水際立って、美しく水浅葱[みずあさぎ]に朝露置いた
(おおりんのはないちりん、しらすのきよきはまに、うてなやひらくと、)
大輪[おおりん]の花一輪、白砂の清き浜に、台[うてな]や開くと、
(もすそをさばいてつとおりたった、ようそうしたるひとりのふじん。)
裳を捌いて衝[つ]と下り立った、洋装したる一人の婦人。
(よぼしにしいたあみのなかを、ひらひらとひろったが、あさげしきを)
夜干[よぼし]に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を
(めずるよしして、あたりをみながら、そのとまぶねに)
賞[め]ずるよしして、四辺[あたり]を見ながら、その苫船[とまぶね]に
(たちよってとまのうえにかたてをかけたまま、ふねのほうをかえりみると、ちどりは)
立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は
(なかぬがともよびつらん。ほのしろきよりびゃくえのふじん、)
啼[な]かぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣[びゃくえ]の婦人、
(ときいろなるがまたひとり、つづいてぜんごにふねをはなれて、さゆうにわかれて)
水紅[とき]色なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて
(みがるによった。)
身軽に寄った。
(ふたりはみぎのふなばたに、ひとりはひだりのふなばたに、そのとまぶねにみをよせて、)
二人は右の舷[ふなばた]に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、
(たがいにとまをとってわけて、ふねのなかをさしのぞいた。)
互[たがい]に苫を取って分けて、船の中を差覗[さしのぞ]いた。
(あわきいろいろのきぬのもすそは、ながくなぎさへひいたのである。)
淡きいろいろの衣[きぬ]の裳は、長く渚へ引いたのである。
(れんぺいはいただきのきりをすかして、あしもとをさしのぞいて、かれらさんにんの)
廉平は頂の霧を透かして、足許を差覗いて、渠等[かれら]三人の
(せいようふじん、おもうにあつらえのできをみにきたな。)
西洋婦人、惟[おも]うに誂[あつら]えの出来を見に来たな。
(とまをふいてふせたのは、このひとびとのちゅうもんで、はまにしんぞうの)
苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の
(ぼおとででもあるのであろう。)
短艇[ボオト]ででもあるのであろう。
(とみるとふたりのわきのしたを、ひらりととびだしたねこがある。)
と見ると二人の脇の下を、翻然[ひらり]と飛び出した猫がある。
(とたんにひとりのかたをこして、そらへおどるかと、もういっぴき、)
トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、
(つづいてへさきからつとぬけた。さいごのはまえあしをそろえて)
続いて舳[へさき]から衝[つ]と抜けた。最後のは前脚を揃えて
(うみへいちもんじ、ほそながいちゃいろのどうをひとうねりうねらしたまで)
海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝[ひとうね]り畝らしたまで
(あざやかにみとめられた。)
鮮麗[あざやか]に認められた。
(まえのはしろいけにちゃのまだらで、なかのは、そのぜんしんうるしのごときが、)
前のは白い毛に茶の斑[まだら]で、中のは、その全身漆のごときが、
(ながくふったおのさきは、みよしをかすめてうせたのである。)
長く掉った尾の先は、舳[みよし]を掠めて失せたのである。
(そのとき、ぜんごして、とまからいずれもおもてをはなし、)
二十二 その時、前後して、苫からいずれも面[おもて]を離し、
(はらはらとふねをのいて、ひたとかおをあわせたが、むきをかえて、)
はらはらと船を退[の]いて、ひたと顔を合わせたが、方向[むき]をかえて、
(さんにんともあたりをみまわしてたたずむさま、)
三人とも四辺[あたり]を眴[みまわ]して彳[たたず]む状、
(おぼろげながらはっきりとれんぺいのめにみおろされた。)
おぼろげながら判然[はっきり]と廉平の目に瞰下[みおろ]された。
(みずあさぎのがたつきによって、そこともなくあおいだとき、いただきなるひとのすがたを)
水浅葱のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂きなる人の姿を
(みつけたらしい。)
見つけたらしい。
(てをあげて、にさんどつづけざまにさしまねくと、あとのふたりも)
手を挙げて、二三度続[つづけ]ざまに麾[さしまね]くと、あとの二人も
(ひらひらと、たかくはんけちをふるのがみえた。)
ひらひらと、高く手巾[ハンケチ]を掉[ふ]るのが見えた。
(ようこそあれ。)
要こそあれ。
(れんぺいはくもをいだくがごとくうえからのぞんで、みえるか、みえぬか、)
廉平は雲を抱[いだ]くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、
(あわただしくうなずきこたえて、ただちにおかのうえに)
慌[あわただ]しく領[うなず]き答えて、直ちに丘の上に
(くびすをめぐらし、さざえのかたちにきりくずした、)
踵[くびす]を回[めぐ]らし、栄螺[さざえ]の形に切崩した、
(ところどころあしがかりのだんのあるさかをぬって、ぐるぐるとかけてくだり、)
処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると駈けて下り、
(すそをつたうて、つとたかく、とひととびひくく、くさをふみ、)
裾を伝うて、衝[つ]と高く、ト一飛[ひととび]低く、草を踏み、
(いわをわたって、およそじゅうしごふんときをへて、ここぞ、とおもうやまのねの、)
岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、
(なみにさらされたいわのうえ。)
波に曝[さら]された岩の上。
(つなもあり、たつきもあり、おおきなびくも、またそのびくのくちとかたずれに、)
綱もあり、立樹もあり、大きな畚[びく]も、またその畚の口と肩ずれに、
(ふねをみれば、とまふいたり。あのくらいたかかった、おかはちかくかしらに)
船を見れば、苫葺[ふ]いたり。あの位高かった、丘は近く頭[かしら]に
(のぞんで、がけのあおすすきもてにとどくに、おんなたちの)
望んで、崖の青芒[あおすすき]も手に届くに、婦人[おんな]たちの
(すがたはなかった。しらほははやなぎさをかなたに、うえはたいらで)
姿はなかった。白帆は早や渚を彼方[かなた]に、上は平[たいら]で
(あったが、むねよりたかくうずくまる、うみのなかなるいわかげを、)
あったが、胸より高く踞[うずく]まる、海の中なる巌[いわ]かげを、
(あかしのうらのあさぎりにしまがくれゆくふぜいにして。)
明石の浦の朝霧に島がくれ行[ゆ]く風情にして。
(かえってべつなるふねいっそう、ものかげにかくれていたろう。はじめてここに)
かえって別なる船一艘、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに
(みいだされたが、ひとつめのはまのかたへ、はんちょうばかりはまのなぐれに)
見出されたが、一つ目の浜の方[かた]へ、半町ばかり浜のなぐれに
(へだつるどころに、はこのようなこぶねをうかべて、ここのつばかりと、やっつばかりの、)
隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、
(まっくろなおとこのこ。ひとりはやっしとろづかをとって、まるはだかのこごしをすえ、)
真黒な男の児。一人はヤッシと艪柄[ろづか]を取って、丸裸の小腰を据え、
(おすほどにつっぷすよう、ひくほどにのけぞるよう、)
圧[お]すほどに突伏[つッぷ]すよう、引くほどに仰反[のけぞ]るよう、
(ただそこばかりうみがうごいて、へさきをゆりあげ、ゆりおろすを)
ただそこばかり海が動いて、舳[へさき]を揺り上げ、揺り下すを
(おもしろそうに。おさないほうは、りょうてにふなべりにつかまりながら、)
面白そうに。穉[おさな]い方は、両手に舷[ふなべり]に掴まりながら、
(これもはだかのかたでおどって、だぶりだぶりだぶりだぶりとおなじところに)
これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一[おなじ]処に
(もういちそう、なぎさにもやったおやぶねらしい、ろをあやつるこのたけよりたかい、)
もう一艘、渚に纜[もや]った親船らしい、艪[ろ]を操る児の丈より高い、
(ほかのふなべりへなみをあびせて、やっしっし。)
他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。
(いや、みちくさするばあいでない。)
いや、道草する場合でない。
(れんぺいは、ことばもつうじず、くにもちがってたよりがないから、かわって)
廉平は、言葉も通じず、国も違って便[たより]がないから、かわって
(しょちせよ、とあんじされたかのごとく、そのとまぶねのなかになにごとかあることを)
処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船の中に何事かあることを
(さとったので、こころしながら、きはいそぎ、つかつかとけずねながく)
悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛長く
(わらぞうりでたちよった。)
藁草履で立寄った。