泉鏡花 悪獣篇 12

背景
投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
プレイ回数1難易度(4.2) 5231打 長文 かな
泉鏡花の中編小説です

関連タイピング

問題文

ふりがな非表示 ふりがな表示

(ちょうどひきしおのうみのいろは、けむりのなかにあいをたたえて、あるいは)

ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍を湛[たた]えて、或[あるい]は

(じゅうじょう、にじゅうじょう、ごじょう、さんじょう、まさごのゆかにたえてはつらなる、)

十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂[まさご]の床に絶えては連なる、

(たいらないわの、あめつちのくしきてに、かなづちのあとの)

平らな岩の、天地[あめつち]の奇[く]しき手に、鉄槌[かなづち]のあとの

(みゆるあり、けずりかけのやすりのめのたったるあり。のみのはがたを)

見ゆるあり、削りかけの鑢[やすり]の目の立ったるあり。鑿[のみ]の歯形を

(しるしたる、のこぎりのくずかとかけかけしたる、そのひとつひとつに、)

印したる、鋸[のこぎり]の屑かと欠々[かけかけ]したる、その一つ一つに、

(しらなみのうたでひるがえるとばかりみえておとのないのは、いわをかざったみる、)

白浪の打たで翻るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松[みる]、

(ところ、あわび、かきなどいうものの、よわにはいた)

ところ、あわび、蠣[かき]などいうものの、夜半[よわ]に吐いた

(きをおさめず、まだほのぼのとゆらぐのが、なぎさをこめてむすのである。)

気を収めず、まだほのぼのと揺[ゆら]ぐのが、渚を籠めて蒸すのである。

(ぎょかにさん。ふかぶかととまやをふせて、やねよりたかくくちをあけたり、)

漁家二三。深々と苫屋[とまや]を伏せて、屋根より高く口を開けたり、

(いえよりおおきくそこをみせたり、ころりころりとおおびくがいつつむっつ。)

家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚[おおびく]が五つ六つ。

(さてこのおかのねにひきよせて、いっそうとまをかけたふねがあった。)

二十一 さてこの丘の根に引寄せて、一艘[そう]苫を掛けた船があった。

(あまもみのきるしぐれかな、しおのしぶきはあびながら、)

海士[あま]も蓑[みの]きる時雨かな、潮の潵[しぶき]は浴びながら、

(よつゆやいとう、とものやさしく、よろけたまつにこづなをひかえ、)

夜露や厭[いと]う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、

(めおのなみのすがたにひろげて、すらすらとほしたつなをしきねに、)

女男[めお]の波の姿に拡げて、すらすらと乾[ほ]した綱を敷寝に、

(みよしのくちがすやすやと、みはてぬゆめのいわまくら。)

舳[みよし]の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。

(かたわらなるとまやのせどに、みどりをそめたあおなのはた、)

傍[かたわら]なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、

(ゆいめぐらしたあしがきも、ふねも、いわも、ただなだらかな)

結い繞[めぐ]らした蘆垣[あしがき]も、船も、岩も、ただなだらかな

(おもたいらに、そらにおどったはねつるべも、)

面平[おもたいら]に、空に躍った刎釣瓶[はねつるべ]も、

(もやをはなれぬくろいいとすじ。さとおうとつなくみおろさるる、)

靄を放れぬ黒い線[いとすじ]。些[さ]と凹凸なく瞰下[みおろ]さるる、

(かかるいちまいのえのなかに、もすそのはしさえ、かたそでさえ、うつくしきふじんのすがたを、)

かかる一枚の絵の中に、裳の端さえ、片袖さえ、美しき夫人の姿を、

など

(いずこにかくすべくもみえなかった。)

何処[いずこ]に隠すべくも見えなかった。

(れんぺいはちいさなそのげかいにたいして、たかくくもにのったように、まるくもやに)

廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に

(つつまれたおかのうえに、ふみはずしそうにがけのさき、ごしゃくの)

包まれた丘の上に、踏[ふみ]はずしそうに崖の尖[さき]、五尺の

(じぞうのぞうでたったけれども。)

地蔵の像で立ったけれども。

(ぜんにょをすくうべく、ここにあまくだったぼさつににず、せんけの)

善女を救うべく、ここに天降[あまくだ]った菩薩に似ず、仙家の

(こうべをたれてたんそくした。)

頭[こうべ]を垂れて嘆息した。

(さればこのときのふうさいは、あくまのてにとらえられた、いったいの)

さればこの時の風采は、悪魔の手に捕えられた、一体の

(しもべのあやまってろをやぶって、げかいにおろされた)

僕[しもべ]の誤って廬[ろ]を破って、下界に追い下[おろ]された

(あわれなおもむき。)

哀れな趣。

(れんぺいはうでをこまぬいてしょうぜんとしたのである。)

廉平は腕を拱[こまぬ]いて悄然としたのである。

(ときにうみのうえにひらめくものあり。)

時に海の上にひらめくものあり。

(つばさのいろの、かもめやとぶとみえたのは、なみにしずかなしらほのへんえい。)

翼の色の、鴎[かもめ]や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。

(ほかぜにちるか、もやきえて、とみれば、うみにあらわれた、)

帆風に散るか、靄消えて、と見れば、海に露[あらわ]れた、

(いちめんおおいなるいわのはしへ、ふねはかくれてほのすがた。)

一面大[おおい]なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。

(ぴたりとついてとどまったが、ひらりとこなたへ)

ぴたりとついて留まったが、翻然[ひらり]と此方[こなた]へ

(むきをかえると、なぎさにすわったおかのねと、うみなるそのいわとのあいだ、)

向[むき]をかえると、渚に据[すわ]った丘の根と、海なるその岩との間、

(はなれざしきのにさんけん、なかにせんすいをたたえたさまに、みちひとすじ、しののめの)

離座敷の二三間、中に泉水を湛えた状に、路一条[ひとすじ]、東雲の

(あけてゆく、あおぞらのすくごとく、うすぎぬのくもさゆうにわかれて、)

あけて行[ゆ]く、蒼空の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、

(いわのおもになびくなかを、ふねはただうごくともなく、しらほをのせた)

巌[いわ]の面[おも]に靡く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた

(うみがちかづき、やがてよこざまにかろくまたなぎさにとまった。)

海が近づき、やがて横ざまに軽[かろ]くまた渚に止った。

(ほのなかより、みずぎわたって、うつくしくみずあさぎにあさつゆおいた)

帆の中より、水際立って、美しく水浅葱[みずあさぎ]に朝露置いた

(おおりんのはないちりん、しらすのきよきはまに、うてなやひらくと、)

大輪[おおりん]の花一輪、白砂の清き浜に、台[うてな]や開くと、

(もすそをさばいてつとおりたった、ようそうしたるひとりのふじん。)

裳を捌いて衝[つ]と下り立った、洋装したる一人の婦人。

(よぼしにしいたあみのなかを、ひらひらとひろったが、あさげしきを)

夜干[よぼし]に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を

(めずるよしして、あたりをみながら、そのとまぶねに)

賞[め]ずるよしして、四辺[あたり]を見ながら、その苫船[とまぶね]に

(たちよってとまのうえにかたてをかけたまま、ふねのほうをかえりみると、ちどりは)

立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は

(なかぬがともよびつらん。ほのしろきよりびゃくえのふじん、)

啼[な]かぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣[びゃくえ]の婦人、

(ときいろなるがまたひとり、つづいてぜんごにふねをはなれて、さゆうにわかれて)

水紅[とき]色なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて

(みがるによった。)

身軽に寄った。

(ふたりはみぎのふなばたに、ひとりはひだりのふなばたに、そのとまぶねにみをよせて、)

二人は右の舷[ふなばた]に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、

(たがいにとまをとってわけて、ふねのなかをさしのぞいた。)

互[たがい]に苫を取って分けて、船の中を差覗[さしのぞ]いた。

(あわきいろいろのきぬのもすそは、ながくなぎさへひいたのである。)

淡きいろいろの衣[きぬ]の裳は、長く渚へ引いたのである。

(れんぺいはいただきのきりをすかして、あしもとをさしのぞいて、かれらさんにんの)

廉平は頂の霧を透かして、足許を差覗いて、渠等[かれら]三人の

(せいようふじん、おもうにあつらえのできをみにきたな。)

西洋婦人、惟[おも]うに誂[あつら]えの出来を見に来たな。

(とまをふいてふせたのは、このひとびとのちゅうもんで、はまにしんぞうの)

苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の

(ぼおとででもあるのであろう。)

短艇[ボオト]ででもあるのであろう。

(とみるとふたりのわきのしたを、ひらりととびだしたねこがある。)

と見ると二人の脇の下を、翻然[ひらり]と飛び出した猫がある。

(とたんにひとりのかたをこして、そらへおどるかと、もういっぴき、)

トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、

(つづいてへさきからつとぬけた。さいごのはまえあしをそろえて)

続いて舳[へさき]から衝[つ]と抜けた。最後のは前脚を揃えて

(うみへいちもんじ、ほそながいちゃいろのどうをひとうねりうねらしたまで)

海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝[ひとうね]り畝らしたまで

(あざやかにみとめられた。)

鮮麗[あざやか]に認められた。

(まえのはしろいけにちゃのまだらで、なかのは、そのぜんしんうるしのごときが、)

前のは白い毛に茶の斑[まだら]で、中のは、その全身漆のごときが、

(ながくふったおのさきは、みよしをかすめてうせたのである。)

長く掉った尾の先は、舳[みよし]を掠めて失せたのである。

(そのとき、ぜんごして、とまからいずれもおもてをはなし、)

二十二 その時、前後して、苫からいずれも面[おもて]を離し、

(はらはらとふねをのいて、ひたとかおをあわせたが、むきをかえて、)

はらはらと船を退[の]いて、ひたと顔を合わせたが、方向[むき]をかえて、

(さんにんともあたりをみまわしてたたずむさま、)

三人とも四辺[あたり]を眴[みまわ]して彳[たたず]む状、

(おぼろげながらはっきりとれんぺいのめにみおろされた。)

おぼろげながら判然[はっきり]と廉平の目に瞰下[みおろ]された。

(みずあさぎのがたつきによって、そこともなくあおいだとき、いただきなるひとのすがたを)

水浅葱のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂きなる人の姿を

(みつけたらしい。)

見つけたらしい。

(てをあげて、にさんどつづけざまにさしまねくと、あとのふたりも)

手を挙げて、二三度続[つづけ]ざまに麾[さしまね]くと、あとの二人も

(ひらひらと、たかくはんけちをふるのがみえた。)

ひらひらと、高く手巾[ハンケチ]を掉[ふ]るのが見えた。

(ようこそあれ。)

要こそあれ。

(れんぺいはくもをいだくがごとくうえからのぞんで、みえるか、みえぬか、)

廉平は雲を抱[いだ]くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、

(あわただしくうなずきこたえて、ただちにおかのうえに)

慌[あわただ]しく領[うなず]き答えて、直ちに丘の上に

(くびすをめぐらし、さざえのかたちにきりくずした、)

踵[くびす]を回[めぐ]らし、栄螺[さざえ]の形に切崩した、

(ところどころあしがかりのだんのあるさかをぬって、ぐるぐるとかけてくだり、)

処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると駈けて下り、

(すそをつたうて、つとたかく、とひととびひくく、くさをふみ、)

裾を伝うて、衝[つ]と高く、ト一飛[ひととび]低く、草を踏み、

(いわをわたって、およそじゅうしごふんときをへて、ここぞ、とおもうやまのねの、)

岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、

(なみにさらされたいわのうえ。)

波に曝[さら]された岩の上。

(つなもあり、たつきもあり、おおきなびくも、またそのびくのくちとかたずれに、)

綱もあり、立樹もあり、大きな畚[びく]も、またその畚の口と肩ずれに、

(ふねをみれば、とまふいたり。あのくらいたかかった、おかはちかくかしらに)

船を見れば、苫葺[ふ]いたり。あの位高かった、丘は近く頭[かしら]に

(のぞんで、がけのあおすすきもてにとどくに、おんなたちの)

望んで、崖の青芒[あおすすき]も手に届くに、婦人[おんな]たちの

(すがたはなかった。しらほははやなぎさをかなたに、うえはたいらで)

姿はなかった。白帆は早や渚を彼方[かなた]に、上は平[たいら]で

(あったが、むねよりたかくうずくまる、うみのなかなるいわかげを、)

あったが、胸より高く踞[うずく]まる、海の中なる巌[いわ]かげを、

(あかしのうらのあさぎりにしまがくれゆくふぜいにして。)

明石の浦の朝霧に島がくれ行[ゆ]く風情にして。

(かえってべつなるふねいっそう、ものかげにかくれていたろう。はじめてここに)

かえって別なる船一艘、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに

(みいだされたが、ひとつめのはまのかたへ、はんちょうばかりはまのなぐれに)

見出されたが、一つ目の浜の方[かた]へ、半町ばかり浜のなぐれに

(へだつるどころに、はこのようなこぶねをうかべて、ここのつばかりと、やっつばかりの、)

隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、

(まっくろなおとこのこ。ひとりはやっしとろづかをとって、まるはだかのこごしをすえ、)

真黒な男の児。一人はヤッシと艪柄[ろづか]を取って、丸裸の小腰を据え、

(おすほどにつっぷすよう、ひくほどにのけぞるよう、)

圧[お]すほどに突伏[つッぷ]すよう、引くほどに仰反[のけぞ]るよう、

(ただそこばかりうみがうごいて、へさきをゆりあげ、ゆりおろすを)

ただそこばかり海が動いて、舳[へさき]を揺り上げ、揺り下すを

(おもしろそうに。おさないほうは、りょうてにふなべりにつかまりながら、)

面白そうに。穉[おさな]い方は、両手に舷[ふなべり]に掴まりながら、

(これもはだかのかたでおどって、だぶりだぶりだぶりだぶりとおなじところに)

これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一[おなじ]処に

(もういちそう、なぎさにもやったおやぶねらしい、ろをあやつるこのたけよりたかい、)

もう一艘、渚に纜[もや]った親船らしい、艪[ろ]を操る児の丈より高い、

(ほかのふなべりへなみをあびせて、やっしっし。)

他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。

(いや、みちくさするばあいでない。)

いや、道草する場合でない。

(れんぺいは、ことばもつうじず、くにもちがってたよりがないから、かわって)

廉平は、言葉も通じず、国も違って便[たより]がないから、かわって

(しょちせよ、とあんじされたかのごとく、そのとまぶねのなかになにごとかあることを)

処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船の中に何事かあることを

(さとったので、こころしながら、きはいそぎ、つかつかとけずねながく)

悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛長く

(わらぞうりでたちよった。)

藁草履で立寄った。

問題文を全て表示 一部のみ表示 誤字・脱字等の報告

神楽@社長推しのタイピング

オススメの新着タイピング

タイピング練習講座 ローマ字入力表 アプリケーションの使い方 よくある質問

人気ランキング

注目キーワード