畜犬談1 太宰治

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(いまはるべくんにあたえる)

伊馬鵜平君に与える

(わたしは、いぬについてはじしんがある。)

私は、犬については自信がある。

(いつのひか、かならずくいつかれるであろうというじしんである。)

いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。

(わたしは、きっとかまれるにちがいない。じしんがあるのである。)

私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。

(よくぞ、きょうまでくいつかれもせずぶじにすごしてきたものだと)

よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと

(ふしぎなきさえしているのである。しょくん、いぬはもうじゅうである。)

不思議な気さえしているのである。諸君、犬は猛獣である。

(うまをたおし、たまさかにはししとたたかってさえこれをせいふくするとかいうではないか。)

馬を斃し、たまさかには獅子と戦ってさえこれを征服するとかいうではないか。

(さもありなんとわたしはひとりさびしくしゅこうしているのだ。)

さもありなんと私はひとり淋しく首肯しているのだ。

(あのいぬの、するどいきばをみるがよい。ただものではない。)

あの犬の、鋭い牙を見るがよい。ただものではない。

(いまは、あのようにがいろでむしんのふうをよそおい、)

いまは、あのように街路で無心のふうを装い、

(とるにたらぬもののごとくみずからひげして、)

とるに足らぬもののごとくみずから卑下して、

(ごみばこをのぞきまわったりなどしてみせているが、)

芥箱を覗きまわったりなどしてみせているが、

(もともとうまをたおすほどのもうじゅうである。)

もともと馬を斃すほどの猛獣である。

(いつなんどき、いかりくるい、そのほんしょうをばくろするか、わかったものではない。)

いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。

(いぬはかならずくさりにかたくしばりつけておくべきである。)

犬はかならず鎖に固くしばりつけておくべきである。

(すこしのゆだんもあってはならぬ。)

少しの油断もあってはならぬ。

(よのおおくのかいぬしは、みずからおそろしきもうじゅうをやしない、)

世の多くの飼い主は、みずから恐ろしき猛獣を養い、

(これにひびわずかのざんぱんをあたえているというりゆうだけにて、)

これに日々わずかの残飯を与えているという理由だけにて、

(まったくこのもうじゅうにこころをゆるし、えすやえすやなど、きらくによんで、)

まったくこの猛獣に心をゆるし、エスやエスやなど、気楽に呼んで、

(さながらかぞくのいちいんのごとくしんぺんにちかづかしめ、さんさいのわがまなごをして、)

さながら家族の一員のごとく身辺に近づかしめ、三歳のわが愛子をして、

など

(そのもうじゅうのみみをぐいとひっぱらせておおわらいしているずにいたっては、)

その猛獣の耳をぐいと引っぱらせて大笑いしている図にいたっては、

(せんりつ、めをおおわざるをえないのである。)

戦慄、眼を蓋わざるを得ないのである。

(ふいに、わんといってくいついたら、どうするきだろう。)

不意に、わんといって喰いついたら、どうする気だろう。

(きをつけなければならぬ。かいぬしでさえ、)

気をつけなければならぬ。飼い主でさえ、

(かみつかれぬとはほしょうできがたいもうじゅうを、)

噛みつかれぬとは保証できがたい猛獣を、

((かいぬしだから、ぜったいにくいつかれぬということは)

(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは

(おろかなきのいいめいしんにすぎない。)

愚かな気のいい迷信にすぎない。

(あのおそろしいきばのあるいじょう、かならずかむ。)

あの恐ろしい牙のある以上、かならず噛む。

(けっしてかまないということは、かがくてきにしょうめいできるはずはないのである))

けっして噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである)

(そのもうじゅうを、はなしがいにして、おうらいをうろうろはいかいさせておくとは、)

その猛獣を、放し飼いにして、往来をうろうろ徘徊させておくとは、

(どんなものであろうか。さくねんのばんしゅう、わたしのゆうじんが、ついにこれのひがいをうけた。)

どんなものであろうか。昨年の晩秋、私の友人が、ついにこれの被害を受けた。

(いたましいぎせいしゃである。ゆうじんのはなしによると、)

いたましい犠牲者である。友人の話によると、

(ゆうじんはなにもせずよこちょうをふところでしてぶらぶらあるいていると、)

友人は何もせず横丁を懐手してぶらぶら歩いていると、

(いぬがどうろじょうにちゃんとすわっていた。)

犬が道路上にちゃんと坐っていた。

(ゆうじんは、やはりなにもせず、そのいぬのそばをとおった。)

友人は、やはり何もせず、その犬の傍を通った。

(いぬはそのとき、いやなよこめをつかったという。なにごともなくとおりすぎた、とたん、)

犬はその時、いやな横目を使ったという。何事もなく通りすぎた、とたん、

(わんといってみぎのあしにくいついたという。さいなんである。いっしゅんのことである。)

わんといって右の脚に喰いついたという。災難である。一瞬のことである。

(ゆうじんは、ぼうぜんじしつしたという。ややあって、くやしなみだがわいてでた。)

友人は、呆然自失したという。ややあって、くやし涙が沸いて出た。

(さもありなん、とわたしは、やはりさびしくしゅこうしている。)

さもありなん、と私は、やはり淋しく首肯している。

(そうなってしまったら、ほんとうに、どうしようも、ないではないか。)

そうなってしまったら、ほんとうに、どうしようも、ないではないか。

(ゆうじんは、いたむあしをひきずってびょういんへいきてあてをうけた。)

友人は、痛む脚をひきずって病院へ行き手当を受けた。

(それからにじゅういちにちかん、びょういんへかよったのである。さんしゅうかんである。)

それから二十一日間、病院へ通ったのである。三週間である。

(あしのきずがなおっても、たいないにきょうすいびょうといういまわしいびょうきのどくが、)

脚の傷がなおっても、体内に恐水病といういまわしい病気の毒が、

(あるいはちゅうにゅうされてあるかもしれぬというけねんから、)

あるいは注入されてあるかもしれぬという懸念から、

(そのぼうどくのちゅうしゃをしてもらわなければならぬのである。)

その防毒の注射をしてもらわなければならぬのである。

(かいぬしにだんぱんするなど、そのゆうじんのよわきをもってしては、)

飼い主に談判するなど、その友人の弱気をもってしては、

(とてもできぬことである。)

とてもできぬことである。

(じっとこたえて、おのれのふうんにためいきついているだけなのである。)

じっと堪えて、おのれの不運に溜息ついているだけなのである。

(しかも、ちゅうしゃだいなどけっしてやすいものではなく、)

しかも、注射代などけっして安いものではなく、

(そのようなよぶんのたくわえはしつれいながらゆうじんにあるはずもなく、)

そのような余分の貯えは失礼ながら友人にあるはずもなく、

(いずれはくるしいさんだんをしたにちがいないので、)

いずれは苦しい算段をしたにちがいないので、

(とにかくこれは、ひどいさいなんである。)

とにかくこれは、ひどい災難である。

(だいさいなんである。また、うっかりちゅうしゃでもおこたろうものなら、)

大災難である。また、うっかり注射でも怠たろうものなら、

(きょうすいびょうといって、はつねつのうらんのくるしみあって、はてはかおがいぬににてきて、)

恐水病といって、発熱悩乱の苦しみあって、果ては貌が犬に似てきて、

(よつばいになり、ただわんわんとほゆるばかりだという、)

四つ這になり、ただわんわんと吠ゆるばかりだという、

(そんなせいさんなびょうきになるかもしれないということなのである。)

そんな凄惨な病気になるかもしれないということなのである。

(ちゅうしゃをうけながらの、ゆうじんのゆうりょ、ふあんは、どんなだったろう。)

注射を受けながらの、友人の憂慮、不安は、どんなだったろう。

(ゆうじんはくろうにんで、ちゃんとできたひとであるから、みにくくとりみだすこともなく、)

友人は苦労人で、ちゃんとできた人であるから、醜くとり乱すこともなく、

(さんじゅうなな、にじゅういちにちびょういんにかよい、ちゅうしゃをうけて、いまはげんきにたちはたらいているが、)

三七、二十一日病院に通い、注射を受けて、いまは元気に立ち働いているが、

(もしこれがわたしだったら、そのいぬ、いかしておかないだろう。)

もしこれが私だったら、その犬、生かしておかないだろう。

(わたしは、ひとのさんばいもよんばいもふくしゅうしんのつよいおとこなのであるから、)

私は、人の三倍も四倍も復讐心の強い男なのであるから、

(また、そうなるとひとのごばいもろくばいもざんにんせいをはっきしてしまうおとこなのであるから、)

また、そうなると人の五倍も六倍も残忍性を発揮してしまう男なのであるから、

(たちどころにそのいぬのずがいこつを、めちゃめちゃにふんさいし、めだまをくりぬき、)

たちどころにその犬の頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕し、眼玉をくり抜き、

(ぐしゃぐしゃにかんで、べっとはきすて、)

ぐしゃぐしゃに噛んで、べっと吐き捨て、

(それでもたりずにきんじょきんぺんのかいいぬことごとくどくさつしてしまうであろう。)

それでも足りずに近所近辺の飼い犬ことごとく毒殺してしまうであろう。

(こちらがなにもせぬのに、とつぜんわんといってかみつくとはなんというぶれい、)

こちらが何もせぬのに、突然わんといって噛みつくとはなんという無礼、

(きょうぼうのしぐさであろう。いかにちくしょうといえどもゆるしがたい。)

狂暴の仕草であろう。いかに畜生といえども許しがたい。

(ちくしょうふびんのゆえをもって、ひとはこれをあまやかしているからいけないのだ。)

畜生ふびんのゆえをもって、人はこれを甘やかしているからいけないのだ。

(ようしゃなくこっけいにしょすべきである。)

容赦なく酷刑に処すべきである。

(さくしゅう、ゆうじんのそうなんをきいて、わたしのちくけんにたいするひごろのぞうおは)

昨秋、友人の遭難を聞いて、私の畜犬に対する日ごろの憎悪は、

(そのきょくてんにたっした。)

その極点に達した。

(あおいほのおがもえあがるほどの、おもいつめたるぞうおである。)

青い焔が燃え上るほどの、思いつめたる憎悪である。

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