畜犬談6 太宰治
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問題文
(いまこそぜっこうのきかいであるとおもっていた。)
いまこそ絶好の機会であると思っていた。
(このいぬをこのままわすれたふりして、ここへおいて、)
この犬をこのまま忘れたふりして、ここへ置いて、
(さっさときしゃにのってとうきょうへいってしまえば、まさかいぬも、)
さっさと汽車に乗って東京へ行ってしまえば、まさか犬も、
(ささことうげをこえてみたかむらまでおいかけてくることはなかろう。)
笹子峠を越えて三鷹村まで追いかけてくることはなかろう。
(わたしたちは、ぽちをすてたのではない。)
私たちは、ポチを捨てたのではない。
(まったくうっかりしてつれてゆくことをわすれたのである。つみにはならない。)
まったくうっかりして連れてゆくことを忘れたのである。罪にはならない。
(またぽちにうらまれるすじあいもない。ふくしゅうされるわけはない。)
またポチに恨まれる筋合もない。復讐されるわけはない。
(だいじょうぶだろうね。おいていっても、)
「だいじょうぶだろうね。置いていっても、
(うえじにするようなことはないだろうね。)
飢え死するようなことはないだろうね。
(しりょうのたたりということもあるからね)
死霊の祟りということもあるからね」
(もともと、すていぬだったんですものかないも、すこしふあんになったようすである。)
「もともと、捨犬だったんですもの」家内も、少し不安になった様子である。
(そうだね。うえじにすることはないだろう。なんとか、うまくやってゆくだろう。)
「そうだね。飢え死することはないだろう。
(なんとか、うまくやってゆくだろう。)
なんとか、うまくやってゆくだろう。
(あんないぬ、とうきょうへつれていったんじゃ、ぼくはゆうじんにたいしてはずかしいんだ。)
あんな犬、東京へ連れていったんじゃ、僕は友人に対して恥ずかしいんだ。
(どうがながすぎる。みっともないねえ)
胴が長すぎる。みっともないねえ」
(ぽちは、やはりおいてゆかれることに、かくていした。)
ポチは、やはり置いてゆかれることに、確定した。
(すると、ここにいへんがたった。ぽちが、ひふびょうにやられちゃった。)
すると、ここに異変が起った。ポチが、皮膚病にやられちゃった。
(これが、またひどいのである。さすがにけいようをはばかるが、)
これが、またひどいのである。さすがに形容をはばかるが、
(さんじょう、めをそむけしむるものがあったのである。)
惨状、眼をそむけしむるものがあったのである。
(おりからのえんねつとともに、ただならぬあくしゅうをはなつようになった。)
おりからの炎熱とともに、ただならぬ悪臭を放つようになった。
(こんどはかないが、まいってしまった。)
こんどは家内が、まいってしまった。
(ごきんじょにわるいわ。ころしてください)
「ご近所にわるいわ。殺してください」
(おんなは、こうなるとおとこよりもれいこくで、どきょうがいい。)
女は、こうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。
(ころすのかわたしは、ぎょっとした。もうすこしのがまんじゃないか)
「殺すのか」私は、ぎょっとした。「もう少しの我慢じゃないか」
(わたしたちは、みたかのやぬしからのそくたつをいっしんにまっていた。)
私たちは、三鷹の家主からの速達を一心に待っていた。
(しちがつまつには、できるでしょうというやぬしのことばであったのだが、)
七月末には、できるでしょうという家主の言葉であったのだが、
(しちがつもそろそろおしまいになりかけて、きょうかあしたかと、)
七月もそろそろおしまいになりかけて、きょうか明日かと、
(ひっこしのにもつもまとめてしまってたいきしていたのであったが、)
引越しの荷物もまとめてしまって待機していたのであったが、
(なかなか、つうちがこないのである。)
なかなか、通知が来ないのである。
(といあわせのてがみをだしたりなどしているときに、)
問いあわせの手紙を出したりなどしている時に、
(ぽちのひふびょうがはじまったのである。)
ポチの皮膚病がはじまったのである。
(みれば、みるほど、さんびのきょくである。ぽちも、いまはさすがに、)
見れば、見るほど、酸鼻の極である。ポチも、いまはさすがに、
(おのれのみにくいすがたをはじているようすで、とかくくらやみのばしょをこのむようになり、)
おのれの醜い姿を恥じている様子で、とかく暗闇の場所を好むようになり、
(たまにげんかんのひあたりのいいしきいしのうえで、)
たまに玄関の日当りのいい敷石の上で、
(ぐったりねそべっていることがあっても、わたしが、それをみつけて、)
ぐったり寝そべっていることがあっても、私が、それを見つけて、
(わあ、ひでえなあとばとうすると、いそいでたちあがってくびをたれ、)
「わあ、ひでえなあ」と罵倒すると、いそいで立ち上って首を垂れ、
(へいこうしたようにこそこそえんのしたにもぐりこんでしまうのである。)
閉口したようにこそこそ縁の下にもぐりこんでしまうのである。
(それでもわたしががいしゅつするときには、どこからともなくあしおとしのばせてでてきて、)
それでも私が外出するときには、どこからともなく足音忍ばせて出てきて、
(わたしについてこようとする。)
私についてこようとする。
(こんなばけものみたいなものに、ついてこられて、たまるものか、)
こんな化け物みたいなものに、ついてこられて、たまるものか、
(とそのつど、わたしは、だまってぽちをみつめてやる。)
とその都度、私は、だまってポチを見つめてやる。
(あざけりのわらいをこうかくにまざまざとうかべて、なんぼでも、ぽちをみつめてやる。)
あざけりの笑いを口角にまざまざと浮べて、なんぼでも、ポチを見つめてやる。
(これはだいへんききめがあった。ぽちは、)
これは大へんききめがあった。ポチは、
(おのれのみにくいすがたにはっとおもいあたるようすで、)
おのれの醜い姿にハッと思い当る様子で、
(くびをたれ、しおしおどこかへすがたをかくす。)
首を垂れ、しおしおどこかへ姿を隠す。
(とっても、がまんができないの。わたしまで、むずがゆがゆくなって)
「とっても、我慢ができないの。私まで、むず痒がゆくなって」
(かないは、ときどきわたしにそうだんする。)
家内は、ときどき私に相談する。
(なるべくみないようにつとめているんだけれど、)
「なるべく見ないように努めているんだけれど、
(いちどみちゃったら、もうだめね。ゆめのなかにまででてくるんだもの)
いちど見ちゃったら、もうだめね。夢の中にまで出てくるんだもの」
(まあ、もうすこしのがまんだがまんするよりほかはないとおもった。)
「まあ、もうすこしの我慢だ」がまんするよりほかはないと思った。
(たとえやんでいるとはいっても、あいてはいっしゅのもうじゅうである。)
たとえ病んでいるとはいっても、相手は一種の猛獣である。
(へたにさわったらかみつかれる。)
下手に触ったら噛みつかれる。
(あしたにでも、みたかから、へんじがくるだろう、)
「明日にでも、三鷹から、返事が来るだろう、
(ひっこしてしまったら、それっきりじゃないか)
引越してしまったら、それっきりじゃないか」
(みたかのやぬしからへんじがきた。よんで、がっかりした。)
三鷹の家主から返事が来た。読んで、がっかりした。
(あめがふりつづいてかべがかわかず、またひとでもふそくでかんせいまでには、)
雨が降りつづいて壁が乾かず、また人手も不足で完成までには、
(もうとおかくらいかかるみこみ、というのであった。うんざりした。)
もう十日くらいかかる見こみ、というのであった。うんざりした。
(ぽちからのがれるためだけでも、はやく、ひっこしてしまいたかったのだ。)
ポチから逃れるためだけでも、早く、引越してしまいたかったのだ。
(わたしは、へんなしょうそうかんで、しごともてにつかず、ざっしをよんだり、さけをのんだりした。)
私は、へんな焦躁感で、仕事も手につかず、
(ざっしをよんだり、さけをのんだりした。)
雑誌を読んだり、酒を呑んだりした。
(ぽちのひふびょうはいちにちいちにちひどくなっていって、)
ポチの皮膚病は一日一日ひどくなっていって、
(わたしのひふも、なんだか、しきりにかゆくなってきた。)
私の皮膚も、なんだか、しきりに痒くなってきた。
(しんや、こがいでぽちが、ばたばたばたかゆさにみもだえしているものおとに、)
深夜、戸外でポチが、ばたばたばた痒さに身悶えしている物音に、
(いくどぞっとさせられたかわからない。たまらないきがした。)
幾度ぞっとさせられたかわからない。たまらない気がした。
(いっそひとおもいにと、きょうぼうなほっさにかられることも、しばしばあった。)
いっそひと思いにと、狂暴な発作に駆られることも、しばしばあった。
(やぬしからは、さらにはつかまて、とてがみがきて、)
家主からは、さらに二十日待て、と手紙が来て、
(わたしのごちゃごちゃのふんまんが、たちまちてぢかのぽちにむすびついて、)
私のごちゃごちゃの忿懣が、たちまち手近のポチに結びついて、
(こいつあるがために、このようにしょじえんかつにすすまないのだ、)
こいつあるがために、このように諸事円滑にすすまないのだ、
(となにもかもわるいことはみな、ぽちのせいみたいにかんがえられ、きみょうにぽちをじゅそし、)
と何もかも悪いことは皆、ポチのせいみたいに考えられ、奇妙にポチを呪咀し、
(あるよる、わたしのねまきにいぬののみのみがでんぱされてあることをはっけんするにおよんで、)
ある夜、私の寝巻に犬の蚤のみが伝播されてあることを発見するに及んで、
(ついにそれまでたえにたえてきたいかりがばくはつし、わたしはひそかにじゅうだいのけついをした。)
ついにそれまで堪えに堪えてきた怒りが爆発し、
(わたしはひそかにじゅうだいのけついをした。)
私はひそかに重大の決意をした。