トカトントン2 太宰治

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プレイ回数12難易度(4.2) 4521打 長文 かな

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問題文

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(しのうとおもいました。しぬのがほんとうだ、とおもいました。)

死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。

(ぜんぽうのもりがいやにひっそりして、しっこくにみえて、)

前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、

(そのてっぺんからひとむれのことりがひとつまみのごまつぶをくうちゅうになげたように、)

そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたように、

(おともなくとびたちました。)

音もなく飛び立ちました。

(ああ、そのときです。はいごのへいしゃのほうから、)

ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、

(だれやらかなづちでくぎをうつおとが、かすかに、とかとんとんときこえました。)

誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました。

(それをきいたとたんに、めからうろこがおちるとは)

それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとは

(あんなときのかんじをいうのでしょうか、)

あんな時の感じを言うのでしょうか、

(ひそうもげんしゅくもいっしゅんのうちにきえ、わたしはつきものからはなれたように、)

悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、

(きょろりとなり、なんともどうにもしらじらしいきもちで、)

きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、

(なつのまひるのすなはらをながめみわたし、わたしにはいかなるかんがいも、)

夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、

(なにもひとつもありませんでした。)

何も一つも有りませんでした。

(そうしてわたしは、りゅっくさっくにたくさんのものをつめこんで、)

そうして私は、リュックサックにたくさんのものをつめ込んで、

(ぼんやりこきょうにきかんしました。)

ぼんやり故郷に帰還しました。

(あの、とおくからきこえてきたかすかな、かなずちのおとが、)

あの、遠くから聞えて来た幽かな、金槌の音が、

(ふしぎなくらいきれいにわたしからみりたりずむのげんえいをはぎとってくれて、)

不思議なくらい綺麗に私からミリタリズムの幻影を剥ぎとってくれて、

(もうふたたび、あのひそうらしいげんしゅくらしいあくむに)

もう再び、あの悲壮らしい厳粛らしい悪夢に

(よわされるなんてことはぜったいになくなったようですが、)

酔わされるなんて事は絶対に無くなったようですが、

(しかしそのちいさいおとは、わたしののうずいのきんてきをいぬいてしまったものか、)

しかしその小さい音は、私の脳髄の金的を射貫いてしまったものか、

(それいごげんざいまでつづいて、わたしはじつにいような、)

それ以後げんざいまで続いて、私は実に異様な、

など

(いまわしいてんかんもちみたいなおとこになりました。)

いまわしい癲癇持ちみたいな男になりました。

(といってもけっして、きょうぼうなほっさなどをおこすというわけではありません。)

と言っても決して、兇暴な発作などを起すというわけではありません。

(そのはんたいです。なにかものごとにかんげきし、ふるいたとうとすると、)

その反対です。何か物事に感激し、奮い立とうとすると、

(どこからともなく、かすかに、とかとんとんとあのかなずちのおとがきこえてきて、)

どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、

(とたんにわたしはきょろりとなり、がんぜんのふうけいがまるでもういっぺんしてしまって、)

とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、

(えいしゃがふっとちゅうぜつしてあとにはただじゅんぱくのすくりんだけがのこり、)

映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、

(それをまじまじとながめているような、なにともはかない、)

それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、

(ばからしいきもちになるのです。)

ばからしい気持になるのです。

(さいしょ、わたしは、このゆうびんきょくにきて、さあこれからは、)

さいしょ、私は、この郵便局に来て、さあこれからは、

(なんでもじゆうにすきなべんきょうができるのだ、まずひとつしょうせつでもかいて、)

何でも自由に好きな勉強ができるのだ、まず一つ小説でも書いて、

(そうしてあなたのところへおくってよんでいただこうとおもい、)

そうしてあなたのところへ送って読んでいただこうと思い、

(ゆうびんきょくのしごとのひまひまに、ぐんたいせいかつのついおくをかいてみたのですが、)

郵便局の仕事のひまひまに、軍隊生活の追憶を書いてみたのですが、

(おおいにどりょくしてひゃくまいちかくかきすすめて、)

大いに努力して百枚ちかく書きすすめて、

(いよいよこんみょうにちのうちにかんせいだというあきのゆうぐれ、)

いよいよ今明日のうちに完成だという秋の夕暮、

(きょくのしごともすんで、せんとうへいき、おゆにあたたまりながら、)

局の仕事もすんで、銭湯へ行き、お湯にあたたまりながら、

(こんやこれからさいごのしょうをかくにあたり、おねーぎんのしゅうしょうのような、)

今夜これから最後の章を書くにあたり、オネーギンの終章のような、

(あんなふうのはなやかなかなしみのむすびかたにしようか、)

あんなふうの華やかな悲しみの結び方にしようか、

(それともごーごりのけんかばなししきのぜつぼうのしゅうきょくにしようか、)

それともゴーゴリの「喧嘩噺」式の絶望の終局にしようか、

(などひどいこうふんでわくわくしながら、)

などひどい興奮でわくわくしながら、

(せんとうのたかいてんじょうからぶらさがっているはだかでんきゅうのひかりをみあげたとき、)

銭湯の高い天井からぶらさがっている裸電球の光を見上げた時、

(とかとんとん、ととおくからあのかなずちのおとがきこえたのです。)

トカトントン、と遠くからあの金槌の音が聞えたのです。

(とたんに、さっとなみがひいて、わたしはただうすぐらいゆぶねのすみで、)

とたんに、さっと浪がひいて、私はただ薄暗い湯槽の隅で、

(じゃぼじゃぼおゆをかきまわしてうごいている)

じゃぼじゃぼお湯を掻きまわして動いている

(いっこのらぎょうのおとこにすぎなくなりました。)

一個の裸形の男に過ぎなくなりました。

(まことにつまらないおもいで、ゆぶねからはいあがって、あしのうらのあかなど、)

まことにつまらない思いで、湯槽から這い上って、足の裏の垢など、

(おとしてせんとうのほかのきゃくたちのはいきゅうのはなしなどにみみをかたむけていました。)

落して銭湯の他の客たちの配給の話などに耳を傾けていました。

(ぷうしきんもごーごりも、それはまるでがいこくせいのはぶらしのなまえみたいな、)

プウシキンもゴーゴリも、それはまるで外国製の歯ブラシの名前みたいな、

(あじけないものにおもわれました。)

味気ないものに思われました。

(せんとうをでて、はしをわたり、いえへかえってもくもくとめしをくい、)

銭湯を出て、橋を渡り、家へ帰って黙々とめしを食い、

(それからじぶんのへやにひきあげて、)

それから自分の部屋に引き上げて、

(つくえのうえのひゃくまいちかくのげんこうをぱらぱらとめくってみて、)

机の上の百枚ちかくの原稿をぱらぱらとめくって見て、

(あまりのばかばかしさにあきれ、うんざりして、やぶるきりょくもなく、)

あまりのばかばかしさに呆れ、うんざりして、破る気力も無く、

(それいごのまいにちのはながみにいたしました。)

それ以後の毎日の鼻紙に致しました。

(それいらい、わたしはきょうまで、しょうせつらしいものはいちぎょうもかきません。)

それ以来、私はきょうまで、小説らしいものは一行も書きません。

(おじのところに、わずかながらぞうしょがありますので、)

伯父のところに、わずかながら蔵書がありますので、

(ときたまめいじたいしょうのけっさくしょうせつしゅうなどかりてよみ、)

時たま明治大正の傑作小説集など借りて読み、

(かんしんしたり、かんしんしなかったり、)

感心したり、感心しなかったり、

(はなはだふまじめなたいどでふぶきのよるははやねということになり、)

甚だふまじめな態度で吹雪の夜は早寝という事になり、

(まったくせいしんてきでないせいかつをして、そのうちに、せかいびじゅつぜんしゅうなどをみて、)

まったく「精神的」でない生活をして、そのうちに、世界美術全集などを見て、

(いぜんあんなにすきだったふらんすのいんしょうはのえには、さほどかんしんせず、)

以前あんなに好きだったフランスの印象派の画には、さほど感心せず、

(このたびはにほんのげんろくじだいのおがたこうりんとおがたけんざんと)

このたびは日本の元禄時代の尾形光琳と尾形乾山と

(ふたりのしごとにいちばんめをみはりました。)

二人の仕事に一ばん眼をみはりました。

(こうりんのつつじなどは、せざんぬ、もねー、ごーぎゃん、)

光琳の躑躅などは、セザンヌ、モネー、ゴーギャン、

(だれのえよりも、すぐれているとおもわれました。)

誰の画よりも、すぐれていると思われました。

(こうしてまた、だんだんわたしのいわゆるせいしんせいかつが、いきをふきかえしてきたようで、)

こうしてまた、だんだん私の所謂精神生活が、息を吹きかえして来たようで、

(けれどもさすがにじぶんがこうりん、いぬいやまのようなめいかになろうなどという)

けれどもさすがに自分が光琳、乾山のような名家になろうなどという

(だいそれたやしんをおこすことはなく、まあかたいなかのでぃれったんと、)

大それた野心を起す事はなく、まあ片田舎のディレッタント、

(そうしてじぶんにできるせいいちぱいのしごとは、)

そうして自分に出来る精一ぱいの仕事は、

(あさからばんまでゆうびんきょくのまどぐちにすわって、たにんのしへいをかぞえていること、)

朝から晩まで郵便局の窓口に坐って、他人の紙幣をかぞえている事、

(せいぜいそれくらいのところだが、わたしのようなむのうむがくのにんげんには、)

せいぜいそれくらいのところだが、私のような無能無学の人間には、

(そんなせいかつだって、あながちだらくのせいかつではあるまい。)

そんな生活だって、あながち堕落の生活ではあるまい。

(けんじょうのおうかんというものも、あるかもしれぬ。)

謙譲の王冠というものも、有るかも知れぬ。

(へいぼんなひびのぎょうむにせいれいするということこそもっともこうしょうなせいしんせいかつかもしれない。)

平凡な日々の業務に精励するという事こそ最も高尚な精神生活かも知れない。

(などとすこしずつじぶんのひびのくらしにぷらいどをもちはじめて、)

などと少しずつ自分の日々の暮しにプライドを持ちはじめて、

(そのころちょうどえんかのきりかえがあり、こんなかたいなかのさんとうゆうびんきょくでも、)

その頃ちょうど円貨の切り換えがあり、こんな片田舎の三等郵便局でも、

(いやいや、ちいさいゆうびんきょくほどひとでぶそくでかえって、)

いやいや、小さい郵便局ほど人手不足でかえって、

(てんてこまいのいそがしさだったようで、)

てんてこ舞いのいそがしさだったようで、

(あのころはわたしたちはまいにちそうちょうからよきんのしんこくうけづけだの、)

あの頃は私たちは毎日早朝から預金の申告受附けだの、

(きゅうえんのしょうしばりだの、へとへとになってもやすむことができず、)

旧円の証紙張りだの、へとへとになっても休む事が出来ず、

(ことにもわたしは、おじのいそうろうのみぶんですからごおんがえしはこのときとばかりに、)

殊にも私は、伯父の居候の身分ですから御恩返しはこの時とばかりに、

(りょうてがまるでてつのてぶくろでもはめているようにおもくて、)

両手がまるで鉄の手袋でもはめているように重くて、

(すこしもじぶんのてのかんじがしなくなったほどにはたらきました。)

少しも自分の手の感じがしなくなったほどに働きました。

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