紫式部 源氏物語 澪標 10 與謝野晶子訳

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問題文
(せっつのかみがでてきていっこうをきょうおうした。ふつうのだいじんのさんけいをあつかうのとは)
摂津守が出て来て一行を饗応した。普通の大臣の参詣を扱うのとは
(おのずからちがったことになるのはいうまでもない。)
おのずから違ったことになるのは言うまでもない。
(あかしのきみはますますじぶんがみじめにみえた。)
明石の君はますます自分がみじめに見えた。
(こんなときにじぶんなどがひんじゃくなみてぐらをさしあげてもかみさまもめにとどめに)
こんな時に自分などが貧弱な御幣を差し上げても神様も目にとどめに
(ならぬだろうし、かえってしまうこともできない、きょうはなにわのほうへ)
ならぬだろうし、帰ってしまうこともできない、今日は浪速のほうへ
(ふねをまわして、そこではらいでもするほうがよいとおもって、あかしのきみののったふねは)
船をまわして、そこで祓いでもするほうがよいと思って、明石の君の乗った船は
(そっとすみよしをさった。こんなことをげんじはゆめにもしらないでいた。)
そっと住吉を去った。こんなことを源氏は夢にも知らないでいた。
(よどおしいろいろのおんがくぶがくをひろまえにもよおして、かみのよろこびたもうようなことを)
夜通しいろいろの音楽舞楽を広前に催して、神の喜びたもうようなことを
(しつくした。かこのがんにかみへやくしてあったいじょうのことを)
し尽くした。過去の願に神へ約してあった以上のことを
(げんじはおこなったのである。これみつなどというげんじとしんくをともにしたひとたちは、)
源氏は行なったのである。惟光などという源氏と辛苦をともにした人たちは、
(このすみよしのかみのとくをいだいなものとかんじていた。)
この住吉の神の徳を偉大なものと感じていた。
(ちょっとそとへげんじのでてきたときにこれみつがいった。 )
ちょっと外へ源氏の出て来た時に惟光が言った。
(すみよしのまつこそものはかなしけれかみよのことをかけておもえば )
住吉の松こそものは悲しけれ神代のことをかけて思へば
(げんじもそうおもっていた。 )
源氏もそう思っていた。
(「あらかりしなみのまよいにすみよしのかみをばかけてわすれやはする )
「荒かりし浪のまよひに住吉の神をばかけて忘れやはする
(たしかにわたくしはれいげんをみたひとだ」 というようすもうつくしい。こちらのはでなさんけいぶりに)
確かに私は霊験を見た人だ」 と言う様子も美しい。こちらの派手な参詣ぶりに
(いしゅくしてあかしのふねがなにわのほうへいってしまったこともこれみつがつげた。)
畏縮して明石の船が浪速のほうへ行ってしまったことも惟光が告げた。
(そのじじつをすこしもしらずにいたとげんじはこころであわれんでいた。)
その事実を少しも知らずにいたと源氏は心で憐れんでいた。
(はじめのこともきょうのこともすみよしのかみがふたりをあいしてのみちびきにちがいないと)
初めのことも今日のことも住吉の神が二人を愛しての導きに違いないと
(おもわれて、てがみをおくってなぐさめてやりたい、ちかづいてかえって)
思われて、手紙を送って慰めてやりたい、近づいてかえって
(かなしませたことであろうとおもった。すみよしをたってからげんじのいっこうは)
悲しませたことであろうと思った。住吉を立ってから源氏の一行は
(かいがんのふうこうをあいしながらなにわにでた。そこでははらいをすることになっていた。)
海岸の風光を愛しながら浪速に出た。そこでは祓いをすることになっていた。
(よどがわのななせにはらいのぬさがたてられてあるほりえのほとりをながめて、)
淀川の七瀬に祓いの幣が立てられてある堀江のほとりをながめて、
(「いまはたおなじなにわなる」(みをつくしてもあわんとぞおもう)と)
「今はた同じ浪速なる」(身をつくしても逢はんとぞ思ふ)と
(われしらずくちにでた。くるまのちかくからこれみつがくちずさみをきいたのか、)
我知らず口に出た。車の近くから惟光が口ずさみを聞いたのか、
(そのようがあろうとれいのようにかいちゅうによういしていたえのみじかいふでなどを、)
その用があろうと例のように懐中に用意していた柄の短い筆などを、
(げんじのくるまのとめられたさいにていきょうした。げんじはかいしにかくのであった。 )
源氏の車の留められた際に提供した。源氏は懐紙に書くのであった。
(みをつくしこうるしるしにここまでもめぐりあいけるえにはふかしな )
みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひける縁は深しな
(これみつにわたすと、あかしへついていっていたおとこで、にゅうどうけのものと)
惟光に渡すと、明石へついて行っていた男で、入道家の者と
(こころやすくなっていたものをつかいにしてあかしのきみのふねへやった。はでないっこうが)
心安くなっていた者を使いにして明石の君の船へやった。派手な一行が
(なにわをとおっていくのをみても、おんなはじしんのはっこうさばかりがおもわれて)
浪速を通って行くのを見ても、女は自身の薄倖さばかりが思われて
(かなしんでいたところへ、ただすこしのしょうそくではあるがおくられてきたことで)
悲しんでいた所へ、ただ少しの消息ではあるが送られて来たことで
(かんげきしてないた。 )
感激して泣いた。
(かずならでなにわのこともかいなきになにみをつくしおもいそめけん )
数ならでなにはのこともかひなきに何みをつくし思ひ初めけん
(たみのじまでのはらいのゆうにつけてこのへんじはげんじのところへきたのである。)
田蓑島での祓いの木綿につけてこの返事は源氏の所へ来たのである。
(ちょうどひぐれになっていた。ゆうがたのまんちょうじで、うみべにいるつるも)
ちょうど日暮れになっていた。夕方の満潮時で、海べにいる鶴も
(なきごえをたてあってみにしむきがおおくすることから、ひとめをえんりょしていずに)
鳴き声を立て合って身にしむ気が多くすることから、人目を遠慮していずに
(あいにいきたいとさえげんじはおもった。 )
逢いに行きたいとさえ源氏は思った。
(つゆけさのむかしににたるたびごろもたみののしまのなにはかくれず )
露けさの昔に似たる旅衣田蓑の島の名には隠れず
(とげんじはうたわれるのであった。ゆうらんのたびをおもしろがっているひとたちのなかで)
と源氏は歌われるのであった。遊覧の旅をおもしろがっている人たちの中で
(げんじひとりはときどきくらいこころになった。こうかんであってもわかいこうきしんにとんだひとは、)
源氏一人は時々暗い心になった。高官であっても若い好奇心に富んだ人は、
(こぶねをこがせてあつまってくるあそびめたちにきょうみをもつふうをみせる。)
小船を漕がせて集まって来る遊女たちに興味を持つふうを見せる。
(げんじはそれをみてにがにがしいきになっていた。こいのおもしろさも)
源氏はそれを見てにがにがしい気になっていた。恋のおもしろさも
(たいしょうとするものにそんけいすべきかちがそなわっていなければ)
対象とする者に尊敬すべき価値が備わっていなければ
(おこってこないわけである。れんあいというほどのことではなくても、)
起こってこないわけである。恋愛というほどのことではなくても、
(けいはくなものにははじめからきょうみがもてないわけであるのにとおもって、)
軽薄な者には初めから興味が持てないわけであるのにと思って、
(かのじょらをあいてにはしゃいでいるひとたちをけいべつした。)
彼女らを相手にはしゃいでいる人たちを軽蔑した。
(あかしのきみはげんじのいっこうがなにわをたったよくじつはきちじつでもあったから)
明石の君は源氏の一行が浪速を立った翌日は吉日でもあったから
(すみよしへいってみてぐらをたてまつった。そのひとだけのがんもはたしたのである。)
住吉へ行って御幣を奉った。その人だけの願も果たしたのである。
(きょうりへかえってからはいぜんにもましたものおもいをするひとになって、)
郷里へ帰ってからは以前にも増した物思いをする人になって、
(ひとかずでないみのうえをなげきくらしていた。もうきょうへげんじのつくころであろうと)
人数でない身の上を歎き暮らしていた。もう京へ源氏の着くころであろうと
(おもってからまもなくげんじのつかいがあかしへきた。ちかいうちにきょうへむかえたいという)
思ってから間もなく源氏の使いが明石へ来た。近いうちに京へ迎えたいという
(てがみをもってきたのである。たのもしいふうにこいびとのひとりとしてみとめられている)
手紙を持って来たのである。頼もしいふうに恋人の一人として認められている
(じぶんであるが、こきょうをたってきょうへでたのちにまでげんじのあいはかわらずに)
自分であるが、故郷を立って京へ出たのちにまで源氏の愛は変らずに
(つづくものであろうかとかんがえられることによっておんなはくるしんでいた。)
続くものであろうかと考えられることによって女は苦しんでいた。
(にゅうどうもてもとからむすめをはなしてやることはふあんにおもわれるのであるが、)
入道も手もとから娘を離してやることは不安に思われるのであるが、
(そうかといってこのままいなかにおくこともひさんなきがしてげんじとのかんけいが)
そうかといってこのまま田舎に置くことも悲惨な気がして源氏との関係が
(しょうじなかったじだいよりもかえってくろうはおおくなったようであった。)
生じなかった時代よりもかえって苦労は多くなったようであった。
(おんなからはげんじをめぐるまぶしいひとたちのなかへでていくじしんがなくて)
女からは源氏をめぐるまぶしい人たちの中へ出て行く自信がなくて
(しゅっきょうはできないというへんじをした。)
出京はできないという返事をした。