太宰治　満願

(よのなかのありさまをすべてぜんだまあくだまのがっせんとみて、)

世の中の有様をすべて善玉悪玉の合戦と見て、

(なかなかはぎれがよかった。)

なかなか歯切れがよかった。

(わたしはあいというたんいつしんをしんじたくないしんつとめていたのであるが、)

私は愛という単一神を信じたく内心つとめていたのであるが、

(それでもおいしゃのぜんだまあくだまのせつをきくと、)

それでもお医者の善玉悪玉の説を聞くと、

(うっとうしいむねのうちが、いちみそうりょうをおぼえるのだ。)

うっとうしい胸のうちが、一味爽涼を覚えるのだ。

(たとえば、よいよいのわたしのほうもんをもてなすのに、)

たとえば、宵よいの私の訪問をもてなすのに、

(ただちにおくさんにびーるをめいずるおいしゃじしんはぜんだまであり、)

ただちに奥さんにビールを命ずるお医者自身は善玉であり、

(こよいはびーるでなくぶりっじ)

今宵はビールでなくブリッジ

(（とらんぷゆうぎのいっしゅ）いたしましょう、)

（トランプ遊戯の一種）いたしましょう、

(とわらいながらていぎするおくさんこそはあくだまである、)

と笑いながら提議する奥さんこそは悪玉である、

(というおいしゃのれいしょうには、わたしもすなおにさんせいした。)

というお医者の例証には、私も素直に賛成した。

(おくさんは、こがらの、おたふくがおであったが、いろがしろくじょうひんであった。)

奥さんは、小がらの、おたふくがおであったが、色が白く上品であった。

(こどもはなかったが、おくさんのおとうとで)

子供はなかったが、奥さんの弟で

(ぬまづのしょうぎょうがっこうにかよっている)

沼津の商業学校にかよっている

(おとなしいしょうねんがひとり、にかいにいた。)

おとなしい少年がひとり、二階にいた。

(おいしゃのいえでは、ごしゅるいのしんぶんをとっていたので、)

お医者の家では、五種類の新聞をとっていたので、

(わたしはそれをよませてもらいにほとんどまいあさ、)

私はそれを読ませてもらいにほとんど毎朝、

(さんぽのとちゅうにたちよって、)

散歩の途中に立ち寄って、

(さんじゅっぷんかいちじかんおじゃました。)

三十分か一時間お邪魔した。

(うらぐちからまわって、ざしきのえんがわにこしをかけ、)

裏口からまわって、座敷の縁側に腰をかけ、

(おくさんのもってくるつめたいむぎちゃをのみながら、)

奥さんの持って来る冷い麦茶を飲みながら、

(かぜにふかれてぱらぱらさわぐしんぶんを)

風に吹かれてぱらぱら騒ぐ新聞を

(かたてでしっかりおさえつけてよむのであるが、)

片手でしっかり押えつけて読むのであるが、

(えんがわからふたまとはなれていない、)

縁側から二間と離れていない、

(あおそうげんのあいだをすいりょうたっぷりのおがわがゆるゆるながれていて、)

青草原のあいだを水量たっぷりの小川がゆるゆる流れていて、

(そのおがわにそったほそいみちをじてんしゃでとおるぎゅうにゅうはいたつのせいねんが、)

その小川に沿った細い道を自転車で通る牛乳配達の青年が、

(まいあさきまって、おはようございます、とたびのわたしにあいさつした。)

毎朝きまって、おはようございます、と旅の私に挨拶した。

(そのじこくに、くすりをとりにくるわかいおんなのひとがあった。)

その時刻に、薬をとりに来る若い女のひとがあった。

(かんたんふくにげたをはき、せいけつなかんじのひとで、)

簡単服に下駄をはき、清潔な感じのひとで、

(よくおいしゃとしんさつしつでわらいあっていて、)

よくお医者と診察室で笑い合っていて、

(ときたまおいしゃが、げんかんまでそのひとをみおくり、)

ときたまお医者が、玄関までそのひとを見送り、

(「おくさま、もうすこしのごしんぼうですよ。」)

「奥さま、もうすこしのご辛棒ですよ。」

(とおおごえでしったすることがある。)

と大声で叱咤することがある。

(おいしゃのおくさんが、あるときわたしに、)

お医者の奥さんが、或るとき私に、

(そのわけをかたってきかせた。)

そのわけを語って聞かせた。

(しょうがっこうのせんせいのおくさまで、せんせいは、さんねんまえにはいをわるくし、)

小学校の先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、

(このごろずんずんよくなった。)

このごろずんずんよくなった。

(おいしゃはいっしょけんめいで、そのわかいおくさまに、)

お医者は一所懸命で、その若い奥さまに、

(いまがだいじのところと、かたくきんじた。)

いまがだいじのところと、固く禁じた。

(おくさまはいいつけをまもった。)

奥さまは言いつけを守った。

(それでも、ときどき、)

それでも、ときどき、

(なんだか、ふびんにうかがうことがある。)

なんだか、ふびんに伺うことがある。

(おいしゃは、そのつど、こころをおににして、)

お医者は、その都度、心を鬼にして、

(おくさまもうすこしのごしんぼうですよ、)

奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、

(とげんがいにいみをふくめてしったするのだそうである。)

と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。

(はちがつのおわり、わたしはうつくしいものをみた。)

八月のおわり、私は美しいものを見た。

(あさ、おいしゃのいえのえんがわでしんぶんをよんでいると、)

朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでいると、

(わたしのそばによこずわりにすわっていたおくさんが、)

私の傍に横坐りに坐っていた奥さんが、

(「ああ、うれしそうね。」とこごえでそっとささやいた。)

「ああ、うれしそうね。」と小声でそっと囁やいた。

(ふとかおをあげると、すぐめのまえのこみちを、)

ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、

(かんたんふくをきたせいけつなすがたが、)

簡単服を着た清潔な姿が、

(さっさっととぶようにしてあるいていった。)

さっさっと飛ぶようにして歩いていった。

(しろいぱらそるをくるくるっとまわした。)

白いパラソルをくるくるっとまわした。