太宰治 葉桜と魔笛 (2)
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問題文
(かいぐんきねんびは、ことしも、また、そろそろやってまいります。)
海軍記念日は、ことしも、また、そろそろやってまいります。
(あのかいがんのじょうかまちにも、たいほうのおとが、)
あの海岸の城下まちにも、大砲の音が、
(おどろおどろきこえてきて、まちのひとたちも、)
おどろおどろ聞えて来て、まちの人たちも、
(いきたそらがなかったのでございましょうが、)
生きたそらが無かったのでございましょうが、
(わたしは、そんなこととはしらず、ただもういもうとのことでいっぱいで、)
私は、そんなこととは知らず、ただもう妹のことでいっぱいで、
(はんきちがいのありさまだったので、なにかふきつなじごくのたいこのようなきがして、)
半気違いの有様だったので、何か不吉な地獄の太鼓のような気がして、
(ながいことくさはらで、かおもあげずになきつづけておりました。)
ながいこと草原で、顔もあげずに泣きつづけて居りました。
(ひがくれかけてきたころ、わたしはやっとたちあがって、)
日が暮れかけて来たころ、私はやっと立ちあがって、
(しんだように、ぼんやりなっておてらへかえってまいりました。)
死んだように、ぼんやりなってお寺へ帰ってまいりました。
(「ねえさん。」といもうとがよんでおります。)
「ねえさん。」と妹が呼んでおります。
(いもうとも、そのころは、やせおとろえて、ちからなく、じぶんでも、)
妹も、そのころは、痩せ衰えて、ちから無く、自分でも、
(うすうす、もうそんなにながくないことをしってきているようすで、)
うすうす、もうそんなに永くないことを知って来ている様子で、
(いぜんのように、あまりなにかとわたしにむりなんだいいいつけて)
以前のように、あまり何かと私に無理難題いいつけて
(あまったれるようなことが、なくなってしまって、)
甘ったれるようなことが、なくなってしまって、
(わたしには、それがまたいっそうつらいのでございます。)
私には、それがまた一そうつらいのでございます。
(「ねえさん、このてがみ、いつきたの?」)
「ねえさん、この手紙、いつ来たの?」
(わたしは、はっと、むねをつかれ、)
私は、はっと、むねを突かれ、
(かおのちのけがなくなったのをじぶんではっきりいしきいたしました。)
顔の血の気が無くなったのを自分ではっきり意識いたしました。
(「いつきたの?」いもうとは、むしんのようでございます。)
「いつ来たの?」妹は、無心のようでございます。
(わたしは、きをとりなおして、)
私は、気を取り直して、
(「ついさっき。あなたがねむっていらっしゃるあいだに。)
「ついさっき。あなたが眠っていらっしゃる間に。
(あなた、わらいながらねむっていたわ。)
あなた、笑いながら眠っていたわ。
(あたし、こっそりあなたのまくらもとにおいといたの。)
あたし、こっそりあなたの枕もとに置いといたの。
(しらなかったでしょう?」)
知らなかったでしょう?」
(「ああ、しらなかった。」)
「ああ、知らなかった。」
(いもうとは、ゆうやみのせまったうすぐらいへやのなかで、しろくうつくしくわらって、)
妹は、夕闇の迫った薄暗い部屋の中で、白く美しく笑って、
(「ねえさん、あたし、このてがみよんだの。)
「ねえさん、あたし、この手紙読んだの。
(おかしいわ。あたしのしらないひとなのよ。」)
おかしいわ。あたしの知らないひとなのよ。」
(しらないことがあるものか。)
知らないことがあるものか。
(わたしは、そのてがみのさしだしにんのmtというおとこのひとをしっております。)
私は、その手紙の差出人のM・Tという男のひとを知っております。
(ちゃんとしっていたのでございます。)
ちゃんと知っていたのでございます。
(いいえ、おあいしたことはないのでございますが、)
いいえ、お逢いしたことは無いのでございますが、
(わたしが、そのご、ろくにちまえ、いもうとのたんすたんすをそっとせいりして、)
私が、その五、六日まえ、妹の箪笥たんすをそっと整理して、
(そのおりに、ひとつのひきだしのおくそこに、ひとたばのてがみが、)
その折に、ひとつの引き出しの奥底に、一束の手紙が、
(みどりのりぼんできっちりむすばれてかくされてあるのをはっけんいたし、)
緑のリボンできっちり結ばれて隠されて在るのを発見いたし、
(いけないことでしょうけれども、)
いけないことでしょうけれども、
(りぼんをほどいて、みてしまったのでございます。)
リボンをほどいて、見てしまったのでございます。
(およそさんじっつうほどのてがみ、)
およそ三十通ほどの手紙、
(ぜんぶがそのmtさんからのおてがみだったのでございます。)
全部がそのM・Tさんからのお手紙だったのでございます。
(もっともてがみのおもてには、mtさんのおなまえはかかれておりませぬ。)
もっとも手紙のおもてには、M・Tさんのお名前は書かれておりませぬ。
(てがみのなかにちゃんとかかれてあるのでございます。)
手紙の中にちゃんと書かれてあるのでございます。
(そうして、てがみのおもてには、)
そうして、手紙のおもてには、
(さしだしにんとしていろいろのおんなのひとのなまえがしるされてあって、)
差出人としていろいろの女のひとの名前が記されてあって、
(それがみんな、じつざいの、いもうとのおともだちのおなまえでございましたので、)
それがみんな、実在の、妹のお友達のお名前でございましたので、
(わたしもちちも、こんなにどっさりおとこのひととぶんつうしているなど)
私も父も、こんなにどっさり男のひとと文通しているなど
(、ゆめにもきづかなかったのでございます。)
、夢にも気附かなかったのでございます。
(きっと、そのmtというひとは、ようじんぶかく、)
きっと、そのM・Tという人は、用心深く、
(いもうとからおともだちのなまえをたくさんきいておいて、)
妹からお友達の名前をたくさん聞いて置いて、
(つぎつぎとそのかずあるなまえをもちいててがみをよこしていたのでございましょう。)
つぎつぎとその数ある名前を用いて手紙を寄こしていたのでございましょう。
(わたしは、それにきめてしまって、わかいひとたちのだいたんさに、)
私は、それにきめてしまって、若い人たちの大胆さに、
(ひそかにしたをまき、あのげんかくなちちにしれたら、)
ひそかに舌を巻き、あの厳格な父に知れたら、
(どんなことになるだろう、とみぶるいするほどおそろしく、)
どんなことになるだろう、と身震いするほどおそろしく、
(けれども、いっつうずつひづけにしたがってよんでゆくにつれて、)
けれども、一通ずつ日附にしたがって読んでゆくにつれて、
(わたしまで、なんだかたのしくうきうきしてきて、ときどきは、)
私まで、なんだか楽しく浮き浮きして来て、ときどきは、
(あまりのたあいなさに、ひとりでくすくすわらってしまって、)
あまりの他愛なさに、ひとりでくすくす笑ってしまって、
(おしまいにはじぶんじしんにさえ、)
おしまいには自分自身にさえ、
(ひろいおおきなせかいがひらけてくるようなきがいたしました。)
広い大きな世界がひらけて来るような気がいたしました。
(わたしも、まだそのころははたちになったばかりで、)
私も、まだそのころは二十になったばかりで、
(わかいおんなとしてのくちにはいえぬくるしみも、いろいろあったのでございます。)
若い女としての口には言えぬ苦しみも、いろいろあったのでございます。
(さんじっつうあまりの、そのてがみを、)
三十通あまりの、その手紙を、
(まるでたにがわがながれはしるようなかんじで、ぐんぐんよんでいって、)
まるで谷川が流れ走るような感じで、ぐんぐん読んでいって、
(きょねんのあきの、さいごのいっつうのてがみを、)
去年の秋の、最後の一通の手紙を、
(よみかけて、おもわずたちあがってしまいました。)
読みかけて、思わず立ちあがってしまいました。
(らいでんにうたれたときのきもちって、あんなものかもしれませぬ。)
雷電に打たれたときの気持って、あんなものかも知れませぬ。
(のけぞるほどに、ぎょっといたしました。)
のけぞるほどに、ぎょっと致しました。
(いもうとたちのれんあいは、こころだけのものではなかったのです。)
妹たちの恋愛は、心だけのものではなかったのです。
(もっとみにくくすすんでいたのでございます。)
もっと醜くすすんでいたのでございます。
(わたしは、てがみをやきました。いっつうのこらずやきました。)
私は、手紙を焼きました。一通のこらず焼きました。
(mtは、そのじょうかまちにすむ、まずしいかじんのようすで、)
M・Tは、その城下まちに住む、まずしい歌人の様子で、
(ひきょうなことには、いもうとのびょうきをしるとともに、)
卑怯なことには、妹の病気を知るとともに、
(いもうとをすて、もうおたがいわすれてしまいましょう、)
妹を捨て、もうお互い忘れてしまいましょう、
(などざんこくなことへいきでそのてがみにもかいてあり、)
など残酷なこと平気でその手紙にも書いてあり、
(それっきり、いっつうのてがみもよこさないらしいぐあいでございましたから、)
それっきり、一通の手紙も寄こさないらしい具合でございましたから、
(これは、わたしさえだまっていっしょうひとにかたらなければ、)
これは、私さえ黙って一生ひとに語らなければ、
(いもうとは、きれいなしょうじょのままでしんでゆける。)
妹は、きれいな少女のままで死んでゆける。
(だれも、ごぞんじないのだ、とわたしはくるしさをむねひとつにおさめて、)
誰も、ごぞんじ無いのだ、と私は苦しさを胸一つにおさめて、
(けれども、そのじじつをしってしまってからは、)
けれども、その事実を知ってしまってからは、
(なおのこといもうとがかわいそうで、いろいろきかいなくうそうもうかんで、)
なおのこと妹が可哀そうで、いろいろ奇怪な空想も浮んで、
(わたくしじしん、むねがうずくような、あまずっぱい、)
私自身、胸がうずくような、甘酸っぱい、
(それは、いやなせつないおもいで、あのようなくるしみは、)
それは、いやな切ない思いで、あのような苦しみは、
(ねんごろのおんなのひとでなければ、わからない、いきじごくでございます。)
年ごろの女のひとでなければ、わからない、生地獄でございます。
(まるで、わたしがじしんで、そんなうきめにあったかのように、)
まるで、私が自身で、そんな憂き目に逢ったかのように、
(わたしは、ひとりでくるしんでおりました。)
私は、ひとりで苦しんでおりました。
(あのころは、わたくしじしんも、ほんとに、)
あのころは、私自身も、ほんとに、
(すこし、おかしかったのでございます。)
少し、おかしかったのでございます。
(「ねえさん、よんでごらんなさい。)
「姉さん、読んでごらんなさい。
(なんのことやら、あたしには、ちっともわからない。」)
なんのことやら、あたしには、ちっともわからない。」
(わたしは、いもうとのふしょうじきをしんからにくくおもいました。)
私は、妹の不正直をしんから憎く思いました。
(「よんでいいの?」そうこごえでたずねて、)
「読んでいいの?」そう小声で尋ねて、
(いもうとからてがみをうけとるわたしのゆびさきは、とうわくするほどふるえていました。)
妹から手紙を受け取る私の指先は、当惑するほど震えていました。
(ひらいてよむまでもなく、わたしは、このてがみのもんくをしっております。)
ひらいて読むまでもなく、私は、この手紙の文句を知っております。
(けれどもわたしは、なにくわぬかおしてそれをよまなければいけません。)
けれども私は、何くわぬ顔してそれを読まなければいけません。