ロックの歴史 その1
1950年代から1960年代
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問題文
(1950ねんいぜんはまだろっくというそんざいじたいはなかったが、じゃす・ぶるーす)
1950年以前はまだロックと言う存在自体はなかったが、ジャス・ブルース
(などのろっくがうまれるきっかけとなったぶらっくみゅーじっくは)
などのロックが生まれるきっかけとなったブラックミュージックは
(そんざいしていた。1903ねんにあめりか・みししっぴしゅうのでるたちたいを)
存在していた。1903年にアメリカ・ミシシッピ州のデルタ地帯を
(りょこうちゅうだったw.cはんでぃがぶるーすをしりひろめたのがはじめていっぱんに)
旅行中だったW.Cハンディがブルースを知り広めたのが初めて一般に
(にんちされたぶるーすだといわれており、2003ねんはぶるーすたんじょう100しゅうねんを)
認知されたブルースだと言われており、2003年はブルース誕生100周年を
(きねんしてあめりかがっしゅうこくぎかいによってぶるーすのとしとせんげんされている。)
記念してアメリカ合衆国議会によってブルースの年と宣言されている。
(ときがながれ、1950ねんごろになるとえれくとりっくのばんどによるぶるーすが)
時が流れ、1950年頃になるとエレクトリックのバンドによるブルースが
(たんじょうする。でるた・ぶるーすをきちょうとするどろくさいさうんどはしかご・ぶるーす)
誕生する。デルタ・ブルースを基調とする泥臭いサウンドはシカゴ・ブルース
(とよばれ、までぃ・うぉーたーずがそのだいひょうかくといわれている。)
と呼ばれ、マディ・ウォーターズがその代表格と言われている。
(1.うちゅうからきた!?えるびす・ぷれすりー)
【1.宇宙から来た!?エルビス・プレスリー】
(きそちしきとしては、ろっくん・ろーるはこくじんがつくったとだけしっていれば)
基礎知識としては、ロックン・ロールは黒人が創ったとだけ知っていれば
(もんだいはないとおもわれる。なぜなら、これをひていするにんげんはまずいないから・・・)
問題はないと思われる。なぜなら、これを否定する人間はまずいないから・・・
(さて、ろっくん・ろーるはそんなこくじんどれいたちのはつめいしたぶるーすやさんびかを、)
さて、ロックン・ロールはそんな黒人奴隷達の発明したブルースや賛美歌を、
(ちゃっく・べりーやりとる・りちゃーどといったひとたちが、いろいろくふう(はやく)
チャック・ベリーやリトル・リチャードといった人たちが、色々工夫(速く
(したり、さけんでみたり)し、しんかさせてたんじょうした「あたらしいごらく」だったのだが、)
したり、叫んでみたり)し、進化させて誕生した「新しい娯楽」だったのだが、
(それがこくじんだけではなく、すこしずつそしてちゃくじつにはくじんにもうけいれられるように)
それが黒人だけではなく、少しずつそして着実に白人にも受け入れられるように
(なっていった。そして、そのうちはくじんのなかでもぎたーをもってこくじんのもほうを)
なっていった。そして、そのうち白人の中でもギターを持って黒人の模倣を
(するわかものがあらわれだしたのである。しかもなかにはこくじんにまけをおとらず、すぐれた)
する若者が現れだしたのである。しかも中には黒人に負けを劣らず、優れた
(「ぶるーす・ふぃーりんぐ」をそなえるわかものもいた。えるびす・ぷれすりーは)
「ブルース・フィーリング」を備える若者もいた。エルビス・プレスリーは
(そんななか、さいしょにとうじょうしたはくじんのろっくん・ろーらーだった。)
そんな中、最初に登場した白人のロックン・ローラーだった。
(ひっぷ・ほっぷかしゅのえみねむが「じぶんはひっぷ・ほっぷかいのえるびすだ」と)
ヒップ・ホップ歌手のエミネムが「自分はヒップ・ホップ界のエルビスだ」と
(じちょうてきにいったのも、こくじんのはつめいしたおんがくでしろくろそうほうからにんきをあつめている)
自嘲的に言ったのも、黒人の発明した音楽で白黒双方から人気を集めている
(じぶんがえるびすとにているとおもったからだろう。たしかに、ろっくも)
自分がエルビスと似ていると思ったからだろう。確かに、ロックも
(りずむ・あんど・ぶるーすもひっぷ・ほっぷもぜんぶこくじんがつくった。)
リズム・アンド・ブルースもヒップ・ホップも全部黒人が創った。
(えいが「てんしにらぶ・そんぐを2」で、こくじんせいとがはくじんのどうきゅうせいに、「おまえらは)
映画『天使にラブ・ソングを2』で、黒人生徒が白人の同級生に、「お前らは
(なんでもまねしやがる、すこしはじぶんでなにかつくってみやがれ」とけんかをうるしーんが)
何でも真似しやがる、少しは自分で何か創って見やがれ」と喧嘩を売るシーンが
(あるが、このせりふのはいけいにはこくじんはいつも「はつめいか」で、たいしゅうてきせいこうは)
あるが、この台詞の背景には黒人はいつも「発明家」で、大衆的成功は
(「まねした」はくじんがかっさらってしまうというひにくなこうずにたいするいきどおりがある。)
「真似した」白人がかっさらってしまうと言う皮肉な構図に対する憤りがある。
(じじつ、そのはくじんひっぷ・ほっぱーのえみねむも(あめりかでは)しゃかいげんしょうてきな)
事実、その白人ヒップ・ホッパーのエミネムも(アメリカでは)社会現象的な
(せいこうをおさめた。というわけで、えるびすとはそういうそんざいだったのだ。)
成功を収めた。という訳で、エルビスとはそういう存在だったのだ。
(そしてそのせいこうのよういんは、ただうたがうまいとか、かおがかっこいいとか)
そしてその成功の要因は、ただ歌が上手いとか、顔がカッコイイとか
(それだけではなかった。かれはろっくをはじめてえんたーていめんとかしたのだ。)
それだけではなかった。彼はロックを初めてエンターテイメント化したのだ。
(それゆえれきしにながのこっているといってもかごんではない。)
それゆえ歴史に名が残っていると言っても過言ではない。
(「えんたーていめんと」といっても、きっすみたいにやるにはまだはやい。)
「エンターテイメント」と言っても、キッスみたいにやるにはまだ早い。
(そのおとこ、えるびす・ぷれすりーはこしをふった。こくじんのやらなかった)
その男、エルビス・プレスリーは腰を振った。黒人のやらなかった
((やれなかった)わざを、かれははつめいし、そしてかんせいさせた。)
(やれなかった)技を、彼は発明し、そして完成させた。
(そのあまりにもあからさまなせいのひょうげんは、まさにぜんだいみもん、とうじのひとびとのめには)
その余りにもあからさまな性の表現は、正に前代未聞、当時の人々の目には
(「みてはいけないもの」としてうつった。それゆええるびすは「いかがわしい)
「見てはいけない物」として映った。それゆえエルビスは「いかがわしい
(はんきょういくてきなみせもの」として、はくがいのたいしょうとなるのだが、どうじにえるびすの)
反教育的な見世物」として、迫害の対象となるのだが、同時にエルビスの
(なみはずれたすたーせいと、ぼうりょくしょうどうやせいしょうどうをもこうていするようなはげしくも)
並外れたスター性と、暴力衝動や性衝動をも肯定するような激しくも
(ごきげんなおんがくはとうじのわかものの「よっきゅう」をみごとにしょうかさせるものだったため、)
ゴキゲンな音楽は当時の若者の「欲求」を見事に昇華させるものだった為、
(ねっきょうてきなにんきをあつめてしまった。このようなことから、たぶーをおかしてなんぼ)
熱狂的な人気を集めてしまった。このような事から、タブーを犯してなんぼ
(というろっくのはんしゃかいせいが、または「はんきょういくてき」「はんどうとくてき」なひょうげんが、)
というロックの反社会性が、又は「反教育的」「反道徳的」な表現が、
(えるびすによってかくりつされたということがわかる。)
エルビスによって確立されたということが分かる。
(2.いぎりすのしんりゃく~びーとるずとうじょう~)
【2.イギリスの侵略〜ビートルズ登場〜】
(60ねんだい、いやろっくん・ろーるのれきしをかたるときにぜったいにさけられない)
60年代、いやロックン・ロールの歴史を語るときに絶対に避けられない
(そんざいといえばびーとるずである。どんなにおんがくにうとくても、このなまえをしらない)
存在といえばビートルズである。どんなに音楽に疎くても、この名前を知らない
(というひとはまずいない。このびーとるずがれこーど・でびゅーした)
という人はまずいない。このビートルズがレコード・デビューした
(1962ねんから1970ねんにかいさんするまで、かれらはだいたすうのわかものたちにしじされ、)
1962年から1970年に解散するまで、彼等は大多数の若者達に支持され、
(どうじだいにいたおおくのみゅーじしゃんたちにもえいきょうをあたえ、またあたえられながら)
同時代にいた多くのミュージシャン達にも影響を与え、又与えられながら
(おおきなこうせきをのこすことになる。びーとるずはでびゅーしたてのころは)
大きな功績を残すことになる。ビートルズはデビューしたての頃は
(えるびす・ぷれすりーやちゃっく・べりーといった、50ねんだいの)
エルビス・プレスリーやチャック・ベリーといった、50年代の
(ろっくん・ろーるからのつよいえいきょうがみてとれるばんどであり、そのねっきょうてきな)
ロックン・ロールからの強い影響が見て取れるバンドであり、その熱狂的な
(しじのされかたはえるびすにかわるものであった。そんなでびゅーとうじのかれらの)
支持のされ方はエルビスに代わるものであった。そんなデビュー当時の彼等の
(とれーどまーくといえば、あのまっしゅるーむかっとであり、とうじは「おとこの)
トレードマークと言えば、あのマッシュルームカットであり、当時は「男の
(くせにちょうはつにしておんなみたいにまえがみをたらしている」といわれ、えるびすのじだい)
くせに長髪にして女みたいに前髪を垂らしている」と言われ、エルビスの時代
(からあった「ろっく=ふりょう」といういめーじに、あらたに「ろっく=ちょうはつ」という)
からあった「ロック=不良」というイメージに、新たに「ロック=長髪」という
(いめーじをつくりあげた。そんなかれらをまねたわかものたちがふりょうとよばれておやに)
イメージを作り上げた。そんな彼等を真似た若者達が不良と呼ばれて親に
(しかめっつらされたのはそうぞうにかたくない。びーとるずのにんきはとどまることを)
しかめっ面されたのは想像に難くない。ビートルズの人気は留まる事を
(しらないかのようにどんどんあがるいっぽうで、ついにかれらはしゅっしんちである)
知らないかのようにどんどん上がる一方で、ついに彼等は出身地である
(いぎりすからろっくせいたんのくに、あめりかへとじょうりくする。)
イギリスからロック生誕の国、アメリカへと上陸する。
(1964ねん、びーとるずはあめりかでもねっきょうてきにむかえられ、あめりかのにんき)
1964年、ビートルズはアメリカでも熱狂的に迎えられ、アメリカの人気
(おんがくばんぐみ「えど・さりヴぁん・しょー」しゅつえんをはたす。そのときのほうそうはなんと)
音楽番組「エド・サリヴァン・ショー」出演を果たす。その時の放送はなんと
(きろくやぶりの7300まんにんがみたといわれている。そしてびーとるずにつづけると、)
記録破りの7300万人が見たと言われている。そしてビートルズに続けると、
(ろーりんぐ・すとーんず、ざ・ふー、きんくすなどなど、いぎりすの)
ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクスなどなど、イギリスの
(とっぷくらすのばんどがつぎつぎにあめりかへとしんしゅつしていき、ことごとくせいこうを)
トップクラスのバンドが次々にアメリカへと進出していき、ことごとく成功を
(てにいれるのであった。これをろっくのせかいでは「ぶりてぃっしゅ・)
手に入れるのであった。これをロックの世界では「ブリティッシュ・
(いんべーしょん」(えいこくのしんりゃく)という。このようにびーとるずをひっとうにした)
インベーション」(英国の侵略)と言う。このようにビートルズを筆頭にした
(いぎりすぜいがせいこうしたよういんのひとつは、かれらがみずからさくしさっきょくし、うたい、がっきを)
イギリス勢が成功した要因の一つは、彼等が自ら作詞作曲し、唄い、楽器を
(えんそうした、しんがー・そんぐらいたーだったということがあげられる。いまでこそ)
演奏した、シンガー・ソングライターだったと言うことが挙げられる。今でこそ
(みゅーじしゃんがじさくじえんすることなどはあたりまえだが、とうじはばんどの)
ミュージシャンが自作自演することなどは当たり前だが、当時はバンドの
(めんばーいがいにさくしさっきょくするひとがいて、そのひとたちがかんせいさせたきょくをばんどが)
メンバー以外に作詞作曲する人がいて、その人達が完成させた曲をバンドが
(えんそうするといったかたちがおおかったのだ。このじょうきょうにききかんをいだいたのはほかでもない)
演奏するといった形が多かったのだ。この状況に危機感を抱いたのは他でもない
(あめりかのみゅーじしゃんたちだ。とくに、それまであめりかじゅうのおんなのこのはーとを)
アメリカのミュージシャン達だ。特に、それまでアメリカ中の女の子のハートを
(さらっていたびーちぼーいずにとって、びーとるずのしゅつげんはきょういだった。)
さらっていたビーチボーイズにとって、ビートルズの出現は脅威だった。
(そんなびーちぼーいずをあざわらうかのように65ねん、びーとるずはけっさく)
そんなビーチボーイズをあざ笑う化のように65年、ビートルズは傑作
(「らばー・そうる」をはっぴょう。この「らばー・そうる」は、かれらのおんがくに)
「ラバー・ソウル」を発表。この「ラバー・ソウル」は、彼等の音楽に
(しみこんでいた、ぽっぷでおぼえやすい、めろでぃーしゅたいの)
染み込んでいた、ポップで覚え易い、メロディー主体の
(かんとりー・うぇすたんやぽっぷすからのえいきょうを、あるいみでふっしょくし)
カントリー・ウェスタンやポップスからの影響を、ある意味で払拭し
(よりげいじゅつせいをじゅうししたないようで、ぜんぺんにわたっておちついたふんいきをもった)
より芸術性を重視した内容で、全編に渡って落ち着いた雰囲気を持った
(ちょっとおとなのじょうちょとしじょうあふれるあるばむだった。このびーとるずの「だっぴ」に)
ちょっと大人の情緒と詩情溢れるアルバムだった。このビートルズの「脱皮」に
(しょうげきをうけたびーちぼーいずのりーだー、ぶらいあん・うぃるそんは)
衝撃を受けたビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンは
(おきにいりのすたじお・みゅーじしゃんとふたりだけでなんかげつもすたじおに)
お気に入りのスタジオ・ミュージシャンと二人だけで何ヶ月もスタジオに
(こもってしまう。(ばんどめんばーはしめだしをくらった)るっくす、)
こもってしまう。(バンドメンバーは締め出しを食らった)ルックス、
(きゃらくたー、おんがくせい、えんそう、じっけんせいしん、どれをとってもほんもののさいのうのかたまりである)
キャラクター、音楽性、演奏、実験精神、どれをとっても本物の才能の塊である
(びーとるずにたいこうするにはどうすればいいのか・・・。じぶんたちはずっと)
ビートルズに対抗するにはどうすればいいのか・・・。自分たちはずっと
(さーふぃんろっくだけやっていていいのか・・・???すたじおにひきこもった)
サーフィンロックだけやっていていいのか・・・???スタジオに引きこもった
(ぶらいあんの、まさにたましいをけずるようなきょくづくりがすたーとする。そうしてよくねんの)
ブライアンの、まさに魂を削るような曲作りがスタートする。そうして翌年の
(66ねんついにしんせいびーちぼーいずのあるばむ「ぺっと・さうんず」がかんせいする。)
66年ついに新生ビーチボーイズのアルバム「ペット・サウンズ」が完成する。
(ほかのめんばーはこーらすとぼーかるのみのさんかなのでじっしつてきにはぶらいあんの)
他のメンバーはコーラスとボーカルのみの参加なので実質的にはブライアンの
(そろさくひんだが、うつくしいはーもにーとめろでぃはまぐれもなくびーちぼーいず)
ソロ作品だが、美しいハーモニーとメロディは紛れもなくビーチボーイズ
(だった。このさくひんはしょうぎょうてきにもせいこうし、ひひょうかからもぜっさんされ、いぎりすぜいに)
だった。この作品は商業的にも成功し、批評家からも絶賛され、イギリス勢に
(おされぎみだったあめりかん・ばんどのそこぢからをみせつけた。これにぎょうてんしたのが)
押され気味だったアメリカン・バンドの底力を見せつけた。これに仰天したのが
(ほかでもない、ぽーる・まっかーとにーである。びーちぼーいずの「ぺっと・)
他でもない、ポール・マッカートニーである。ビーチボーイズの「ペット・
(さうんず」にしょうげきをうけたびーとるずは、ぜんさく「らばー・そうる」とはうって)
サウンズ」に衝撃を受けたビートルズは、前作「ラバー・ソウル」とは打って
(かわったじっけんてきなあるばむ「さーじぇんと・ぺぱーず・ろんりー・はーつ・)
変わった実験的なアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・
(くらぶ・ばんど」をつくることになる。このように、たがいにしげきをあたえながら、)
クラブ・バンド」を作ることになる。このように、互いに刺激を与えながら、
(よりあたらしいろっく、よりひとのこころをうごかすろっくをもさくしていたのである。)
より新しいロック、より人の心を動かすロックを模索していたのである。
(びーとるずのいぎょうは、びーとるずだけでつくったものではないのだ。)
ビートルズの偉業は、ビートルズだけで作ったものではないのだ。