ロックの歴史 その13

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ロックの歴史 その13

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(16.だいにのしんりゃく~にゅーうぇーぶ~)

【16.第二の侵略〜ニュー・ウェーブ〜】

(70ねんだいまっきから80ねんだいしょきのあめりかのろっくしーんは、なかばねたぎれ)

70年代末期から80年代初期のアメリカのロック・シーンは、半ばネタ切れ

(じょうたいであった。しんじんのはっくつをしないから、これといってすたーもでない、)

状態であった。新人の発掘をしないから、これと言ってスターも出ない、

(べてらんのびっぐなばんどやみゅーじしゃんはかつどうていし、またはかいさんじょうたい。)

ベテランのビッグなバンドやミュージシャンは活動停止、または解散状態。

(せいぜいえいがぎょうかいとてをくんで、さんとらでひっとをうみだし、ちゃーとを)

せいぜい映画業界と手を組んで、サントラでヒットを生み出し、チャートを

(にぎわすことくらいしかできなかった。そんなあめりかのろっくしーんにいっしゅの)

賑わす事くらいしか出来なかった。そんなアメリカのロック・シーンに一種の

(ふもうかんがただよいはじめたころ、「すきあり!」といわんばかりに、それをふきとばすかの)

不毛感が漂い始めた頃、「隙あり!」と言わんばかりに、それを吹き飛ばすかの

(ようなふれっしゅなしんじんたちが、かいがいからおしよせてくる。まずこあらのくに、)

様なフレッシュな新人達が、海外から押し寄せてくる。まずコアラの国、

(おーすとらりあからはせいとうははーどろっくばんどac/dcがあめりかをせいは。)

オーストラリアからは正統派ハードロックバンドAC/DCがアメリカを制覇。

(80ねんはっぴょうの「ばっくいんぶらっく」はぜんえいなんばー1、ぜんべい4いという)

80年発表の「バックイン・ブラック」は全英ナンバー1、全米4位という

(かいきょをなしとげた。つづいてろーずたとぅー、めんあっとわーく、)

快挙を成し遂げた。続いてローズ・タトゥー、メン・アット・ワーク、

(おりびあにゅーとんじょん、かいりーみのーぐなどが、ろっくぽっぷ)

オリビア・ニュートン・ジョン、カイリー・ミノーグなどが、ロックポップ

(とわず、あめりかのおんがくしーんにとうじょうした。どうじにえいがでもそのころの)

問わず、アメリカの音楽シーンに登場した。同時に映画でもその頃の

(おーすとらりあはあつかった。めるぎぶそんのしゅっせさく「まっどまっくす」)

オーストラリアは熱かった。メル・ギブソンの出世作「マッド・マックス」

(しりーずや、あのえんでぃんぐはいっかいみたらわすれられない「くろこだいる)

シリーズや、あのエンディングは一回観たら忘れられない「クロコダイル・

(だんでぃー」など、いままであまりかえりみられることのなかった)

ダンディー」など、今まであまり顧みられる事のなかった

(「おーすとらりあぶんか」にちゅうもくがあつまったじきだった。さらにびーると)

「オーストラリア文化」に注目が集まった時期だった。さらにビールと

(ういんなーのくに、どいつからはすこーぴおんず、まいけるしぇんかー)

ウインナーの国、ドイツからはスコーピオンズ、マイケル・シェンカー・

(ぐるーぷなどが、はーどろっくあつのつよいにしかいがんをちゅうしんににんきをはくす。)

グループなどが、ハードロック熱の強い西海岸を中心に人気を博す。

(60ねんだいにびーとるずなどいぎりすぜいのたいとうでおこった「ぶりてっしゅ)

60年代にビートルズ等イギリス勢の台頭で起った「ブリテッシュ・

など

(いんべいしょん」をおぼえているだろうか。はーどろっくのときにもかいたが、)

インベイション」を覚えているだろうか。ハードロックの時にも書いたが、

(こんかいももちろんあめりかのひっとちゃーとはいぎりすぜいにのっとられる。)

今回ももちろんアメリカのヒットチャートはイギリス勢に乗っ取られる。

(そのころのいぎりすはあめりかとちがって、ぱんくぶーむのあらしがくにじゅうにふきあれ、)

その頃のイギリスはアメリカと違って、パンクブームの嵐が国中に吹き荒れ、

(しげきをうけたわかものたちはかっきとそうぞうりょくにあふれていた。ぴすとるずやくらっしゅふうの)

刺激を受けた若者達は活気と創造力に溢れていた。ピストルズやクラッシュ風の

(「もろぱんくです」というすたいるのばんどもいれば、それとはまたちがった)

「もろパンクです」というスタイルのバンドもいれば、それとはまた違った

(もうすこしせんれんされたかたちのあぷろーちで、あたらしさをでそうとしたばんどもいた。)

もう少し洗練された形のアプローチで、新しさを出そうとしたバンドもいた。

(すてぃんぐひきいるぽりすや、ヴぉーかるのぼーいじょーじがすごいいんぱくとの)

スティング率いるポリスや、ヴォーカルのボーイ・ジョージが凄いインパクトの

(かるちゃーくらぶ、いまだにあいどるあつかいだけどじつりょくじゅうぶんのでゅらん)

カルチャー・クラブ、いまだにアイドル扱いだけど実力充分のデュラン・

(でゅらん、そのようえんないでたちからのちのにっぽんのびじゅあるけいにもえいきょうを)

デュラン、その妖艶な出で立ちからのちの日本のビジュアル系にも影響を

(あたえたといわれているじゃぱん。これらのばんどはにゅーうぇーぶまたは)

与えたと言われているジャパン。これらのバンドはニュー・ウェーブまたは

(にゅーろまんてぃくすとよばれ、あらたなるじゃんるとしてちゅうもくされた。)

ニュー・ロマンティクスと呼ばれ、新たなるジャンルとして注目された。

(これらのいぎりすぜいにきょうつうしていたのがふぁっしょなぶるでありせくしーだった)

これらのイギリス勢に共通していたのがファッショナブルでありセクシーだった

(ということだ。かるちゃーくらぶの「でヴぃっどぼういもそこまでは)

という事だ。カルチャー・クラブの「デヴィッド・ボウイもそこまでは

(やらなかった」といわれそうな、ほんとうのおかますたいるもすごいが、はくじんと)

やらなかった」と言われそうな、本当のオカマ・スタイルも凄いが、白人と

(こくじんがこんごうしためんばーへんせいもあたらしかった。じっさい、ぼーいじょーじは)

黒人が混合したメンバー編成も新しかった。実際、ボーイ・ジョージは

(でざいなーをやっていたそうだから、そのふぁっしょんせんすにはじしんが)

デザイナーをやっていたそうだから、そのファッション・センスには自身が

(あったのだろう。でゅらんでゅらんはめんばーぜんいんがびけいですたいるばつぐん、)

あったのだろう。デュラン・デュランはメンバー全員が美形でスタイル抜群、

(そのうえそれぞれのさくしさっきょく、がっきえんそうもいちりゅうだった。ぱんくは、いぜんにもかいた)

その上各々の作詞作曲、楽器演奏も一流だった。パンクは、以前にも書いた

(とおり、おんがくてきなかくめいでもあったけれども、ふぁっしょんにもおおきなえいきょうを)

通り、音楽的な革命でもあったけれども、ファッションにも大きな影響を

(あたえた。ぴすとるずのまねーじゃーであったまるこむまくらーれんの)

与えた。ピストルズのマネージャーであったマルコム・マクラーレンの

(「xx」という、いかがわしいぶてぃっくでは、「ぴんくふろいどが)

「xx」という、いかがわしいブティックでは、「ピンク・フロイドが

(きらいだ」とだけかいたtしゃつをかざっていたというから、まるこむの)

嫌いだ」とだけ書いたTシャツを飾っていたと言うから、マルコムの

(ふぁっしょんせんすがとうじとしてはかなりざんしんであったことがわかる。だから)

ファッション・センスが当時としてはかなり斬新であった事が分かる。だから

(ぴすとるずはあるいみにおいてでざいなーまるこむの「まるこむぶらんど」)

ピストルズはある意味においてデザイナー・マルコムの「マルコム・ブランド」

(のもでるとしてりようされためんもあったとおもう。それにぴすとるずのめんばーも)

のモデルとして利用された面もあったと思う。それにピストルズのメンバーも

(まるこむのでざいんせいを「かっこいい」とおもっていたのだろう。けっかてきには)

マルコムのデザイン性を「カッコいい」と思っていたのだろう。結果的には

(おんがくも、そのふぁっしょんもかくめいてきにうけ、わかものにおおきなしげきをあたえた。)

音楽も、そのファッションも革命的に受け、若者に大きな刺激を与えた。

(そんなぱんくのせんれいをおんがくてきにもふぁっしょんてきにもうけたのがこれら)

そんなパンクの洗礼を音楽的にもファッション的にも受けたのがこれら

(にゅーうぇーヴのばんどたちだった。そしてかれら「いぎりすはつのかれいで)

ニューウェーヴのバンド達だった。そして彼等「イギリス発の華麗で

(ふれっしゅなしんじん」たっしは、みるみるあめりかのちゃーとをせっけんしていった。)

フレッシュな新人」達は、みるみるアメリカのチャートを席巻していった。

(かれらはどうじに、そのふぁっしょんせいをさいだいげんにみせつけるため、とうじまだかいきょく)

彼等は同時に、そのファッション性を最大限に見せつけるため、当時まだ開局

(したばかりで、あめりかほんごくのばんどからはけいべつされていた「mtv」を)

したばかりで、アメリカ本国のバンドからは軽蔑されていた「MTV」を

(ふるかつようした。そのかつようのしかたは、いままでのびでおくりっぷのようしきをくつがえす、)

フル活用した。その活用の仕方は、今までのビデオ・クリップの様式を覆す、

(かっきてきなものだった。それまでのびでおくりっぷといえば、だいたいが)

画期的なものだった。それまでのビデオ・クリップといえば、大体が

(こんさーとふうけいだったり、またはただばんどやみゅーじしゃんがうたっておどってたり)

コンサート風景だったり、又はただバンドやミュージシャンが歌って踊ってたり

(と、はっきりいって「ふぁんのためだけにつくられていた」といってもよいような)

と、はっきり言って「ファンの為だけに作られていた」と言っても良いような

(しろものだった。しかしでぃらんでぃらんやかるちゃーくらぶのびでお)

代物だった。しかしディラン・ディランやカルチャー・クラブのビデオ

(くりっぷは、そうではなかった。たった4ふんたらずのびでおのなかに、きょくにあった)

クリップは、そうではなかった。たった4分足らずのビデオの中に、曲に合った

(すとーりーをてんかいさせ、わざわざろけーしょんまでし、そのうえめんばーが)

ストーリーを展開させ、わざわざロケーションまでし、その上メンバーが

(けっこうほんかくてきなえんぎをみせたりした。そんな、まるでえいがのようなびでおは、)

結構本格的な演技を見せたりした。そんな、まるで映画のようなビデオは、

(ふぁんならずとも「みてるだけでおもしろい」とおもわせるものがあった。)

ファンならずとも「観てるだけで面白い」と思わせるものがあった。

(そのmtvは、81ねんにあめりかでかいきょくしたのだが、びでおくりっぷなるものの)

そのMTVは、81年にアメリカで開局したのだが、ビデオクリップなる物の

(「かた」をつくりあげたのは、ひにくにもいぎりすしゅっしんのかれらのにゅーうぇーヴの)

「型」を作り上げたのは、皮肉にもイギリス出身の彼等のニューウェーヴの

(ばんどたちだった。あめりかやおーすとらりあのあかぬけないあいどるやろっく)

バンド達だった。アメリカやオーストラリアの垢抜けないアイドルやロック

(ばんどとはちがうふんいきをもつかれらに、あめりかのわかいおんなのこたちはとびつき、)

バンドとは違う雰囲気を持つ彼等に、アメリカの若い女の子達は飛びつき、

(そのふぁっしょんをまねしたりした。にゅーうぇーヴのとうじょうによって、ろっくと)

そのファッションを真似したりした。ニューウェーヴの登場によって、ロックと

(ふぁっしょんはかんぜんにむすびついたのだった。「だいにのぶりてぃっしゅ)

ファッションは完全に結びついたのだった。「第二のブリティッシュ・

(いんべいしょん」にいよいよあせったあめりかは、いままでおこたってきたしんじんのはっくつを)

インベイション」にいよいよ焦ったアメリカは、今まで怠ってきた新人の発掘を

(かいしせざるをえなくなった。あめりかというくにはほんきをだすとこわいもので、)

開始せざるを得なくなった。アメリカという国は本気を出すと怖いもので、

(ここからいっしゅんにしてぜんせかいをとりもどしはじめるのだ。)

ここから一瞬にして全世界を取り戻し始めるのだ。

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