ジャニス・ジョプリン 上級編
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問題文
(じゃにすりんじょぷりん(1943ねん1がつ19にちー1970ねん10がつ4にち))
ジャニス・リン・ジョプリン(1943年1月19日ー1970年10月4日)
(あめりかがっしゅうこくてきさすしゅうぽーとあーさーしゅっしんのじょせいろっくしんがー。)
アメリカ合衆国テキサス州ポーとアーサー出身の女性ロックシンガー。
(すぐれたかしょうりょくとこせいてきなうたごえをもち、1960ねんだいこうはんのちょめいなじょせいろっく)
優れた歌唱力と個性的な歌声を持ち、1960年代後半の著名な女性ロック・
(しんがーだった。わかくしてなくなり、27くらぶのいちいんとしてきろくされている。)
シンガーだった。若くして亡くなり、27クラブの一員として記録されている。
(ろーりんぐすとーんのえらぶれきしじょうもっともいだいな100にんのしんがーにおいて)
ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガーにおいて
(だい28い。ろーりんぐすとーんのえらぶれきしじょうもっともいだいな100くみの)
第28位。ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組の
(あーてぃすとにおいてだい46い。qしのえらぶれきしじょうもっともいだいな100にんの)
アーティストにおいて第46位。Q詩の選ぶ歴史上最も偉大な100人の
(しんがーにおいてだい17い。)
シンガーにおいて第17位。
(しょうがい)
【生涯】
(ちちのせすはてきさこにつとめるろうどうしゃで、りょうしんとほんにん、まいけるとろーらの2にんの)
父のセスはテキサコに勤める労働者で、両親と本人、マイケルとローラの2人の
(ていまいをふくむ5にんかぞくであった。じょぷりんは、ちいさなころからべっしーすみすや)
弟妹を含む5人家族であった。ジョプリンは、小さな頃からベッシー・スミスや
(おでった、びっぐままそーんとんなどのぶるーすをきいてそだついっぽう、じもとの)
オデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聴いて育つ一方、地元の
(せいかたいにさんかしていた。1960ねんに、ぽーとあーさーの)
聖歌隊に参加していた。1960年に、ポートアーサーの
(とーますじぇふぁーそんはいすくーるをそつぎょうし、てきさすだいがく)
トーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、テキサス大学
(おーすてぃんこうににゅうがく。こうこうでは、ほかのせいとからこりつしがちであったが、なかの)
オースティン校に入学。高校では、他の生徒から孤立しがちであったが、仲の
(よかったぐらんとおりんずというせいとにれっどべりーのれこーどをきかされた)
良かったグラント・オリンズという生徒にレッドベリーのレコードを聴かされた
(ことをきっかけに、ぶるーすやふぉーくみゅーじっくに)
ことをきっかけに、ブルースやフォークミュージックに
(のめりこむようになった。)
のめり込むようになった。
(だいがくをどろっぷあうとしたじょぷりんは、1963ねんにさんふらんしすこへと)
大学をドロップアウトしたジョプリンは、1963年にサンフランシスコへと
(むかった。ふぉーくしんがーとしてせいけいをたてていたが、このころからまやくの)
向かった。フォークシンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の
(じょうしゅうがはじまったとされる。へろいんのほかにあるこーるもたいりょうに)
常習が始まったとされる。ヘロインの他にアルコールも大量に
(せっしゅしていた。かのじょのおきにいりのめいがらは「さざんかんふぉーと」であった。)
摂取していた。彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・カンフォーと」であった。
(とうじのじょせいしんがーについてあてはまることであるが、じょぷりんのがいてきな)
当時の女性シンガーについて当てはまることであるが、ジョプリンの外的な
(いめーじとないめんにはおおきなへだたりがある。あとにかのじょのいもうと、ろーらがあらわした)
イメージと内面には大きな隔たりがある。後に彼女の妹、ローラが著わした
(しゅき「love,janis」には、かのじょがちてきでしゃい、せんさいなかぞくおもいの)
手記『Love,Janis』には、彼女が知的でシャイ、繊細な家族思いの
(じんぶつであったことがしるされている。)
人物であったことが記されている。
(いちじせいようのためにぽーとあーさーへききょうしたが、1966ねんにはふたたび)
一時静養のためにポートアーサーへ帰郷したが、1966年には再び
(さんふらんしすこへともどっている。へいとあしゅべりーをちゅうしんとした)
サンフランシスコへと戻っている。ヘイト・アシュベリーを中心とした
(ひっぴーたちのあいだできわだってめだっていたかのじょは、びっぐぶらざー)
ヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女は、ビッグ・ブラザー・
(あんどざほーるでぃんぐかんぱにーにさんかする。ばんどは、どくりつけい)
アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに参加する。バンドは、独立系
(れーべるのめいんすとりーむれこーどとけいやくし、1967ねんにばんどのなを)
レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を
(かんしたあるばむをはっぴょうした。このばんどはえんそうのうりょくがふそくしていることでも)
冠したアルバムを発表した。このバンドは演奏能力が不足していることでも
(しられ、うれゆきはふちょうだった。しかしじゃにすは、もんとれーぽっぷ)
知られ、売れ行きは不調だった。しかしジャニスは、モントレー・ポップ・
(ふぇすてぃばるにおけるえんそうでおおきなちゅうもくをあつめるようになった。じょぷりんは)
フェスティバルにおける演奏で大きな注目を集めるようになった。ジョプリンは
(びっぐままそーんとんの「ぼーるあんどちぇいん」をあらあらしいうたごえで)
ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール・アンド・チェイン」を荒々しい歌声で
(うたいこなしてみせた。daぺねべいかーさつえいのどきゅめんたりー)
歌いこなしてみせた。D・A・ペネベイカー撮影のドキュメンタリー
(「もんとれーぽっぷ」では、ぐんしゅうのなかにまぎれたきゃすえりおっとが)
『モントレー・ポップ』では、群衆の中に紛れたキャス・エリオットが
(”wow,that’sreallyheavy”とつぶやくすがたが)
”Wow,that's really heavy"と呟く姿が
(さつえいされている。1968ねんのあるばむ「ちーぷすりる」ではいぜんにまして)
撮影されている。1968年のアルバム『チープ・スリル』では以前に増して
(なまなましいうたごえをひろうし、そのひょうかをけっていづけることになった。すたんだーど)
生々しい歌声を披露し、その評価を決定づけることになった。スタンダード・
(なんばーをぶるーすふうにかばーした「さまーたいむ」や、ぜんじゅつの「ぼーる)
ナンバーをブルース風にカバーした『サマータイム』や、前述の「ボール・
(あんどちぇいん」など、はくりょくのあるうたがおおくしゅうろくされている。)
アンド・チェイン」等、迫力のある歌が多く収録されている。
(うっどすとっく)
【ウッドストック】
(びっぐぶらざーからはなれたかのじょは、あたらしいばんどであるこずみっく)
ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・
(ぶるーすばんどをけっせい。ぶらすせくしょんをくわえた、よりそうる)
ブルース・バンドを結成。ブラス・セクションを加えた、よりソウル・
(みゅーじっくをいしきしたへんせいだ。1969ねんに「こずみっくぶるーすをうたう」)
ミュージックを意識した編成だ。1969年に『コズミック・ブルースを歌う』
(をりりーすして、うっどすとっくふぇすてぃばるにもしゅつえんしたが、)
をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、
(このばんどもすぐにかいさんした。そのご、じょぷりんはあたらしいばっくばんど)
このバンドもすぐに解散した。その後、ジョプリンは新しいバック・バンド
(であるふるてぃるとぶーぎーばんどをけっせいする。こちらは、2にんの)
であるフル・ティルト・ブーギー・バンドを結成する。こちらは、2人の
(きーぼーどそうしゃをふくんだへんせい。このばんどにおけるえんそうをもとに、じょぷりんの)
キーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏を元に、ジョプリンの
(しご、せいさくされた1971ねん1がつはっぴょうのあるばむ「ぱーる」は、かのじょのみじかい)
死後、制作された1971年1月発表のアルバム『パール』は、彼女の短い
(きゃりあにおけるさいこうのうりあげをきろくした。このあるばむからは、)
キャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからは、
(くりすくりすとふぁーそんのかばーきょく「みーあんどぼびーまぎー」が)
クリス・クリストファーソンのカバー曲「ミー・アンド・ボビー・マギー」が
(びるぼーどのちゃーと1いをきろく。びーとにくしじんまいけるまくるーあと)
ビルボードのチャート1位を記録。ビートニク詩人マイケル・マクルーアと
(じょぷりんによりさっきょくされた「べんつがほしい」もひっとした。)
ジョプリンにより作曲された「ベンツが欲しい」もヒットした。
(ようせつ)
【夭折】
(かのじょがせいぜんさいごにおおやけのばにすがたをあらわしたのは、1970ねん6がつと8がつにほうそうされた)
彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは、1970年6月と8月に放送された
(てれびばんぐみであった。6がつのばんぐみでかのじょはこうこうのどうそうかいにしゅっせきするよていだと)
テレビ番組であった。6月の番組で彼女は高校の同窓会に出席する予定だと
(のべた。おなじばんぐみで、じぶんはいままでくらす、がっこう、まち、そしてくにじゅうのわらいもの)
述べた。同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者
(だったともかたっている。いちやくすたーとなりかのじょはどうそうかいにしゅっせきしたが、そのさいも)
だったとも語っている。一躍スターとなり彼女は同窓会に出席したが、その際も
(そがいかんのなか、こどくなひょうじょうがかめらにおさめられている。このいっけんは、じゃにすの)
疎外感の中、孤独な表情がカメラに納められている。この一件は、ジャニスの
(こどくかんをあらわすしょうちょうてきなえぴそーどとしてかたられている。)
孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られている。
(1970ねん6がつ29にちから7がつ3にち、「ふぇすてぃばるとっきゅう」とよばれたれっしゃに)
1970年6月29日から7月3日、「フェスティバル特急」と呼ばれた列車に
(のって、かなだつあーをいった。ざばんどやぐれいとふるでっど、)
乗って、カナダツアーを行った。ザ・バンドやグレイトフル・デッド、
(ばでぃがいなどがどうじょうしたごうかなつあーで、このもようはのちにえいが)
バディ・ガイ等が同乗した豪華なツアーで、この模様は後に映画
(「ふぇすてぃばるえくすぷれす」としてこうかいされた。)
『フェスティバル・エクスプレス』として公開された。
(1970ねん10がつ4にち、あるばむ「ぱーる」のろくおんのためたいざいしていた)
1970年10月4日、アルバム『パール』の録音のため滞在していた
(ろさんぜるす、はりうっどのらんどまーくもーたーほてる105ごうしつ、)
ロサンゼルス、ハリウッドのランドマーク・モーター・ホテル105号室、
(べっどよこのゆかにたおれしぼうしているのがはっけんされた。そのかたわらには)
ベッド横の床に倒れ死亡しているのが発見された。その傍らには
(4どる50せんとと、ふうのきられていないまーるぼろがひとはこのこされていた。)
4ドル50セントと、封の切られていないマールボロが一箱残されていた。
(はっけんしゃはふるてぃるとぶーぎーばんどのろーどまねーじゃー、)
発見者はフル・ティルト・ブーギー・バンドのロードマネージャー、
(じょんくっくであった。27さいぼつ。しようしたへろいんがつうじょうのものより)
ジョン・クックであった。27歳没。使用したヘロインが通常のものより
(こうじゅんどであったため、ちしりょうをこえたことがげんいんであるとされる。ろくおんちゅうだった)
高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされる。録音中だった
(あるばむのしゅうろくきょくのうち、「べんつがほしい」はあかぺらのかりろくおん、そして)
アルバムの収録曲のうち、「ベンツが欲しい」はアカペラの仮録音、そして
(「いきながらぶるーすにほうむられ」はほんにんのうたがろくおんできないままえんそうだけが)
「生きながらブルースに葬られ」は本人の歌が録音できないまま演奏だけが
(しゅうろくされている。いたいはかそうされ、そのいはいはじけん9にちごの10がつ13にち)
収録されている。遺体は火葬され、その遺灰は事件9日後の10月13日
(かりふぉるにあしゅう、まりんこおりすてぃんそんかいがんおきのじょうくうからたいへいようへと)
カリフォルニア州、マリン郡スティンソン海岸沖の上空から太平洋へと
(さんこつされた。)
散骨された。
(でぃすこぐらふぃ)
【ディスコグラフィ】
(ふぁーすとれこーでぃんぐ(1967ねん)びっぐぶらざー)
ファーストレコーディング(1967年)ビッグブラザー
(ちーぷすりる(1968ねん)びっぐぶらざー)
チープ・スリル(1968年)ビッグブラザー
(こずみっくぶるーすをうたう(1969ねん)こずみっくぶるーすばんど)
コズミック・ブルースを歌う(1969年)コズミックブルースバンド
(ぱーる(1971ねん)ふるてぃるとぶーぎーばんど)
パール(1971年)フル・ティルト・ブーギー・バンド
(えいが)
【映画】
(ろーずじょぷりんをもでるとした1979ねんのえいが。べっとみどらーしゅえん。)
ローズ・ジョプリンをモデルとした1979年の映画。ベット・ミドラー主演。
(うたえ!じゃにすじょぷりんのように2003ねんのふらんすえいが。)
歌え!ジャニスジョプリンのように 2003年のフランス映画。
(じゃにすりとるがーるぶるー2015ねんのあめりかえいが。)
ジャニスリトル・ガール・ブルー 2015年のアメリカ映画。