皮膚と心 太宰治(2/5)

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皮膚と心 太宰治

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(おまえ、ほんとにいいのかねえ、とやはりしんぱいがおのははには、それいじょう、はなしもせず)

おまえ、ほんとにいいのかねえ、とやはり心配顔の母には、それ以上、話もせず

(わたしからちょくせつ、そのぼうふのおんじんに、はっきりしたへんじをしてしまいました。)

私から直接、その亡父の恩人に、はっきりした返事をしてしまいました。

(けっこんして、わたしはこうふくでございました。いいえ。いや、やっぱり、こうふく、と)

結婚して、私は幸福でございました。いいえ。いや、やっぱり、幸福、と

(いわなければなりませぬ。ばちがあたります。わたしは、たいせつにいたわられました。)

言わなければなりませぬ。罰があたります。私は、大切にいたわられました。

(あのひとは、なにかときがよわく、それに、せんのおんなにすてられたようなぐあいらしく、)

あの人は、何かと気が弱く、それに、せんの女に捨てられたような工合らしく、

(そのゆえに、いっそうおどおどしているようすで、ずいぶんはがゆいほど、すべてに)

そのゆえに、一層おどおどしている様子で、ずいぶん歯がゆいほど、すべてに

(じしんがなく、やせてちいさく、おかおもひんそうでございます。おしごとは、ねっしんに)

自信がなく、痩せて小さく、お顔も貧相でございます。お仕事は、熱心に

(いたします。わたしが、はっとおもったことは、あのひとのずあんを、ちらとみて、それが)

いたします。私が、はっと思ったことは、あの人の図案を、ちらと見て、それが

(みおぼえのあるずあんだったことでございます。なんというきえんでしょう。あのひとに)

見覚えのある図案だったことでございます。なんという奇縁でしょう。あの人に

(うかがってみて、そのことをたしかめ、わたしは、そのときはじめて、あのひとにこいをした)

伺ってみて、そのことをたしかめ、私は、そのときはじめて、あの人に恋をした

(みたいに、むねがときめきいたしました。あのぎんざのゆうめいなけしょうひんてんの、)

みたいに、胸がときめきいたしました。あの銀座の有名な化粧品店の、

(つるばらもようのしょうひょうは、あのひとがこうあんしたもので、それだけではなく、)

蔓《つる》バラ模様の商標は、あの人が考案したもので、それだけでは無く、

(あのけしょうひんてんからうりだされているこうすい、せっけん、おしろいなどのれってるいしょう、)

あの化粧品店から売り出されている香水、石鹸、おしろいなどのレッテル意匠、

(それからしんぶんのこうこくも、ほとんど、あのひとのずあんだったのでございます。じゅうねんも)

それから新聞の広告も、ほとんど、あの人の図案だったのでございます。十年も

(まえから、あのみせのせんぞくのようになって、いしょくあるつるばらもようのれってる、)

まえから、あの店の専属のようになって、異色ある蔓バラ模様のレッテル、

(ぽすたあ、しんぶんこうこくなど、ほとんどおひとりで、おかきになっていたのだそうで)

ポスタア、新聞広告など、ほとんどおひとりで、お画きになっていたのだそうで

(いまでは、あのつるばらもようは、かいがいのひとさえおぼえていて、あのみせのなまえを)

いまでは、あの蔓バラ模様は、海外の人さえ覚えていて、あの店の名前を

(しらなくても、つるばらをてんがにからみあわせたとくちょうあるずあんは、どなただっていちどは)

知らなくても、蔓バラを典雅に絡み合せた特徴ある図案は、どなただって一度は

(みて、そうして、きおくしているほどでございますものね。わたしなども、じょがっこうの)

見て、そうして、記憶しているほどでございますものね。私なども、女学校の

(ころから、もう、あのつるばらもようをしっていたようなきがいたします。わたしは、)

ころから、もう、あの蔓バラ模様を知っていたような気がいたします。私は、

など

(きみょうに、あのずあんにひかれて、じょがっこうをでてからも、おけしょうひんは、ぜんぶあの)

奇妙に、あの図案にひかれて、女学校を出てからも、お化粧品は、全部あの

(けしょうひんてんのものをつかって、いわば、まあ、ふあんでございました。けれどもわたしは)

化粧品店のものを使って、謂わば、まあ、フアンでございました。けれども私は

(いちどだって、あのつるばらもようのこうあんしゃについては、おもってみたことなかった。)

いちどだって、あの蔓バラ模様の考案者については、思ってみたことなかった。

(ずいぶん、うっかりもののようでございますが、けれども、それはわたしだけではなく)

ずいぶん、うっかり者のようでございますが、けれども、それは私だけではなく

(せけんのひとみな、しんぶんのうつくしいこうこくをみても、そのずあんこうをおもいたずねることなど)

世間のひと皆、新聞の美しい広告を見ても、その図案工を思い尋ねることなど

(ないでしょう。ずあんこうなんて、ほんとうにえんのしたのちからもちみたいなもの)

無いでしょう。図案工なんて、ほんとうに縁の下の力持ちみたいなもの

(ですのね。わたしだって、あのひとのおよめさんになって、しばらくたって、それから)

ですのね。私だって、あの人のお嫁さんになって、しばらく経って、それから

(はじめてきがついたほどでございますもの。それをしったときには、わたしは、)

はじめて気がついたほどでございますもの。それを知ったときには、私は、

(うれしく、「あたし、じょがっこうのころからこのもようだいすきだったわ。あなたが)

うれしく、「あたし、女学校のころからこの模様だいすきだったわ。あなたが

(おかきになっていたのねえ。うれしいわ。あたし、こうふくね。じゅうねんもまえから、)

お画きになっていたのねえ。うれしいわ。あたし、幸福ね。十年もまえから、

(あなたととおくむすばれていたのよ。こちらへくることに、きまっていたのね。」)

あなたと遠くむすばれていたのよ。こちらへ来ることに、きまっていたのね。」

(とすこしはしゃいでみせましたら、あのひとはかおをあかくして、「ふざけちゃ)

と少しはしゃいで見せましたら、あの人は顔を赤くして、「ふざけちゃ

(いけねえ。しょくにんしごとじゃねえか、よ。」と、しんからはずかしそうに、めを)

いけねえ。職人仕事じゃねえか、よ。」と、しんから恥ずかしそうに、眼を

(ぱちぱちさせて、それから、ふんとちからなくわらって、かなしそうなかおをなさいました)

パチパチさせて、それから、フンと力なく笑って、悲しそうな顔をなさいました

(いつもあのひとは、じぶんをひげして、わたしがなんともおもっていないのに、)

いつもあの人は、自分を卑下して、私がなんとも思っていないのに、

(がくれきのことや、それからにどめだってことや、ひんそうのことなど、とてもきにして)

学歴のことや、それから二度目だってことや、貧相のことなど、とても気にして

(こだわっていらっしゃるようすで、それならば、わたしみたいなおたふくは、いったい)

こだわっていらっしゃる様子で、それならば、私みたいなおたふくは、一体

(どうしたらいいのでしょう。ふうふそろってじしんがなく、はらはらして、おたがいの)

どうしたらいいのでしょう。夫婦そろって自信がなく、はらはらして、お互いの

(かおが、いわばはじしわでいっぱいで、あのひとは、たまには、わたしにうんと)

顔が、謂わば羞皺《はじしわ》で一ぱいで、あの人は、たまには、私にうんと

(あまえてもらいたいようすなのですが、わたしだって、にじゅうはちのおばあちゃんですし、)

甘えてもらいたい様子なのですが、私だって、二十八のおばあちゃんですし、

(それに、こんなおたふくなので、そのうえ、あのひとのじしんのないひげして)

それに、こんなおたふくなので、その上、あの人の自信のない卑下して

(いらっしゃるようすをみては、こちらにも、それがでんせんしちゃって、よけいに)

いらっしゃる様子を見ては、こちらにも、それが伝染しちゃって、よけいに

(ぎくしゃくしてきて、どうしてもむじゃきにかわいくあまえることができず、こころは)

ぎくしゃくして来て、どうしても無邪気に可愛く甘えることができず、心は

(したっているのに、ぎゃくにかえってわたしは、まじめに、つめたいへんじなどしてしまって、)

慕っているのに、逆にかえって私は、まじめに、冷い返事などしてしまって、

(すると、あのひとは、きむずかしく、わたしには、そのおきもちがわかっているだけに、)

すると、あの人は、気むずかしく、私には、そのお気持がわかっているだけに、

(なおのこと、どきまぎして、すっかりたにんぎょうぎになってしまいます。あのひとにも、)

尚のこと、どきまぎして、すっかり他人行儀になってしまいます。あの人にも、

(また、わたしのじしんのなさが、よくおわかりのようで、ときどき、やぶからぼうに、)

また、私の自信のなさが、よくおわかりの様で、ときどき、やぶから棒に、

(わたしのかお、また、きもののがらなど、とてもぶきようにほめることがあって、わたしには、)

私の顔、また、着物の柄など、とても不器用にほめることがあって、私には、

(あのひとのいたわりがわかっているので、ちっともうれしいことはなく、むねが、)

あの人のいたわりがわかっているので、ちっとも嬉しいことはなく、胸が、

(いっぱいになって、せつなく、なきたくなります。あのひとは、いいひとです。)

一ぱいになって、せつなく、泣きたくなります。あの人は、いい人です。

(せんのおんなのひとのことなど、ほんとうに、これぼっちもにおわしたことが)

せんの女のひとのことなど、ほんとうに、これぼっちも匂わしたことが

(ございません。おかげさまで、わたしは、いつも、そのことはわすれています。)

ございません。おかげさまで、私は、いつも、そのことは忘れています。

(このいえだって、わたしたちけっこんしてからあたらしくかりたのですし、あのひとは、)

この家だって、私たち結婚してから新しく借りたのですし、あの人は、

(そのまえは、あかさかのあぱあとにひとりぐらししていたのでございますが、きっと)

そのまえは、赤坂のアパアトにひとりぐらししていたのでございますが、きっと

(わるいきおくをのこしたくないというおこころもあり、またわたしへのやさしいきがねも)

わるい記憶を残したくないというお心もあり、また私への優しい気兼ねも

(あったのでございましょう。いぜんのしょたいどうぐいっさいがっさい、うりはらい、)

あったのでございましょう。以前の世帯《しょたい》道具一切合切、売り払い、

(おしごとのどうぐだけもって、このつきじのいえへひっこして、それから、わたしにもわずか)

お仕事の道具だけ持って、この築地の家へ引越して、それから、私にも僅か

(ばかりははからもらったおかねがございましたし、ふたりですこしずつしょたいのどうぐを)

ばかり母からもらったお金がございましたし、二人で少しずつ世帯の道具を

(かいあつめたようなわけで、ふとんもたんすも、わたしがほんごうのじっかから)

買い集めたようなわけで、ふとんも箪笥《たんす》も、私が本郷の実家から

(もってきたのでございますし、せんのおんなのひとのかげは、ちらともうつらず、)

持って来たのでございますし、せんの女のひとの影は、ちらとも映らず、

(あのひとが、わたくしいがいのおんなのひととろくねんもいっしょにいらっしゃったなど、とても)

あの人が、私以外の女のひとと六年も一緒にいらっしゃったなど、とても

(いまでは、しんじられなくなりました。ほんとうに、あのひとのふようのひげさえ)

今では、信じられなくなりました。ほんとうに、あの人の不要の卑下さえ

(なかったら、そうしてわたしを、もっとらんぼうに、どなったり、もみくちゃにして)

なかったら、そうして私を、もっと乱暴に、怒鳴ったり、もみくちゃにして

(くださったなら、わたしも、むじゃきにうたをうたって、どんなにでもあのひとにあまえる)

下さったなら、私も、無邪気に歌をうたって、どんなにでもあの人に甘える

(ことができるようにおもわれるのですが、きっとあかるいいえに)

ことができるように思われるのですが、きっと明るい家に

(なれるのでございますが、ふたりそろって、みにくいというじかくで、ぎくしゃくして、)

なれるのでございますが、二人そろって、醜いという自覚で、ぎくしゃくして、

(ーーわたしはともかく、あのひとが、なんでひげすることがございましょう。しょうがっこうを)

ーー私はともかく、あの人が、なんで卑下することがございましょう。小学校を

(でたきりといっても、きょうようのてんではだいがくでのがくしと、ちっともかわるところ)

出たきりと言っても、教養の点では大学出の学士と、ちっとも変るところ

(ございませぬ。れこおどだって、ずいぶんしゅみのいいのをあつめていらっしゃるし)

ございませぬ。レコオドだって、ずいぶん趣味のいいのを集めていらっしゃるし

(わたしがいちどもなまえをきいたことさえないがいこくのあたらしいしょうせつかのさくひんを、しごとの)

私がいちども名前を聞いたことさえない外国の新しい小説家の作品を、仕事の

(あいまあいまに、ねっしんによんでいらっしゃるし、それに、あの、せかいてきな)

あいまあいまに、熱心に読んでいらっしゃるし、それに、あの、世界的な

(つるばらのずあん。また、ごじしんのびんぼうを、ときどきじちょうなさいます)

蔓バラの図案。また、ご自身の貧乏を、ときどき自嘲《じちょう》なさいます

(けれど、このごろはしごともおおく、ひゃくえん、にひゃくえんと、まとまったたいきんが)

けれど、このごろは仕事も多く、百円、二百円と、まとまった大金が

(はいってきて、せんだっても、いずのおんせんにつれていっていただいたほどなのに)

はいって来て、せんだっても、伊豆の温泉につれていっていただいたほどなのに

(それでもあのひとは、ふとんやたんすや、そのほかのかざいどうぐを、わたしのははにかって)

それでもあの人は、ふとんや箪笥や、その他の家財道具を、私の母に買って

(もらったことを、いまでもきにしていて、そんなにきにされると、わたしは、)

もらったことを、いまでも気にしていて、そんなに気にされると、私は、

(かえって、はずかしく、なんだかわるいことをしたようにおもわれて、みんなやすもの)

かえって、恥ずかしく、なんだか悪いことをしたように思われて、みんな安物

(ばかりなのに、となきたいほどわびしく、どうじょうやれんびんでけっこん)

ばかりなのに、と泣きたいほど侘びしく、同情や憐憫《れんびん》で結婚

(するのは、まちがいで、わたしは、やっぱりひとりでいたほうがよかったのじゃ)

するのは、間違いで、私は、やっぱりひとりでいたほうがよかったのじゃ

(ないかしら、とおそろしいことをかんがえたよるでございました。もっとつよいものを)

ないかしら、と恐ろしいことを考えた夜でございました。もっと強いものを

(もとめるいまわしいふていがあたまをもたげることさえあって、わたしはわるものでございます。)

求めるいまわしい不貞が頭をもたげることさえあって、私は悪者でございます。

(けっこんして、はじめてせいしゅんのうつくしさを、それをはいいろにすごしてしまったくやしさが、)

結婚して、はじめて青春の美しさを、それを灰色に過してしまったくやしさが、

(したをかみたいほど、つうれつにかんじられ、いまのうちなにかでもってうめあわせしたく、)

舌を噛みたいほど、痛烈に感じられ、いまのうち何かでもって埋め合せしたく、

(あのひととふたりで、ひっそりゆうしょくをいただきながら、わびしさたえがたくなって)

あの人とふたりで、ひっそり夕食をいただきながら、侘びしさ堪えがたくなって

(おはしとちゃわんもったまま、なきべそをかいてしまったこともございます。なにもかも)

お箸と茶碗持ったまま、泣きべそをかいてしまったこともございます。何もかも

(わたしのよくでございましょう。こんなおたふくのくせにせいしゅんなんて、とんでもない。)

私の慾でございましょう。こんなおたふくの癖に青春なんて、とんでもない。

(いいわらいものになるだけのことでございます。わたしは、いまのままで、これだけで)

いい笑いものになるだけのことでございます。私は、いまのままで、これだけで

(もう、みにあまるしあわせなのです。そうおもわなければいけません。ついつい、)

もう、身にあまる仕合せなのです。そう思わなければいけません。ついつい、

(わがままもでて、それだから、こんどのように、こんなきみわるいふきでものに)

わがままも出て、それだから、こんどのように、こんな気味わるい吹出物に

(みまわれるのです。くすりをぬってもらったせいか、ふきでものも、それいじょうは)

見舞われるのです。薬を塗ってもらったせいか、吹出物も、それ以上は

(ひろがらず、あしたは、なおるかもしれぬと、かみさまにこっそりいのって、そのよるは、)

ひろがらず、明日は、なおるかも知れぬと、神様にこっそり祈って、その夜は、

(はやめにやすませていただきました。ねながら、しみじみかんがえて、なんだかふしぎに)

早めに休ませていただきました。寝ながら、しみじみ考えて、なんだか不思議に

(なりました。わたしは、どんなびょうきでも、おそれませぬが、ひふびょうだけは、とても、)

なりました。私は、どんな病気でも、おそれませぬが、皮膚病だけは、とても、

(とても、いけないのです。どのようなくろうをしても、どのようなびんぼうをしても、)

とても、いけないのです。どのような苦労をしても、どのような貧乏をしても、

(ひふびょうにだけは、なりたくないとおもっていたものでございます。あしがかたほう)

皮膚病にだけは、なりたくないと思っていたものでございます。脚が片方

(なくっても、むねがかたほうなくっても、ひふびょうなんかになるよりは、どれくらい)

なくっても、胸が片方なくっても、皮膚病なんかになるよりは、どれくらい

(ましかわからない。じょがっこうで、せいりのじかんにいろいろのひふびょうのびょうげんきんをおそわり)

ましかわからない。女学校で、生理の時間にいろいろの皮膚病の病原菌を教わり

(わたしはぜんしんむずがゆく、そのむしやばくてりやのしゃしんののっているきょうかしょのぺえじを、)

私は全身むず痒く、その虫やバクテリヤの写真の載っている教科書のペエジを、

(やにわにひきやぶってしまいたくおもいました。そうしてせんせいのむしんけいが、のろわしく)

矢庭に引き破ってしまいたく思いました。そうして先生の無神経が、のろわしく

(いいえせんせいだって、へいきでおしえているのではない。)

いいえ先生だって、平気で教えているのでは無い。

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