僕の昔 夏目漱石(1/2)
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問題文
(ねずのだいかんのんにちかく、かねだふじんのいえや)
根津《ねず》の大観音《だいかんのん》に近く、金田夫人の家や
(にげんきんのししょうやくるまやどり、ないしらくうんかんちゅうがくなどと)
二弦琴《にげんきん》の師匠や車宿、ないし落雲館《らくうんかん》中学などと
(いずれも「わがはいはねこである」のへんちゅうでなじみごしのいえいえのあいだに、なふだもろくに)
いずれも『我輩は猫である』の編中でなじみ越しの家々の間に、名札もろくに
(はってないふるべいのくしゃみせんせいのきょは、きょねんの)
はってない古べいの苦沙味《くしゃみ》先生の居《きょ》は、去年の
(くれおしつまってにしかたまちへひきこされた。きみ、こんどのぼくの)
暮れおしつまって西片町《にしかたまち》へ引き越された。君、こんどの僕の
(いえはにかいがあるよとまるぜんのてだいみたようにぐんしょたいりに)
家は二階があるよと丸善の手代みたように群書堆裡《ぐんしょたいり》に
(ひげをひねりながらそうせきしがはなしていられると、えんがわで)
髭をひねりながら漱石子《そうせきし》が話していられると、縁側で
(ごそごそおとがする。みているとみけねこのおおきなやつがしょうじのやぶれからぬうと)
ゴソゴソ音がする。見ていると三毛猫の大きなやつが障子の破れからぬうと
(くびをつきだして、にゃんとこちらをむきながらないた。)
首を突き出して、ニャンとこちらを向きながらないた。
(あのねこはね、こっちへひきこしてきてからも、もとのせんだぎのいえへおりおり)
あの猫はね、こっちへ引きこしてきてからも、もとの千駄木の家へおりおり
(かえっていくのだ。このあいだもみちであいつがしょうべんをたれているところをうまく)
帰って行くのだ。この間も道であいつが小便をたれているところをうまく
(とっつかまえてつれてもどった。やっぱしもとのいえというものはこいしいもの)
とっつかまえて連れて戻った。やっぱしもとの家というものは恋しいもの
(かなあ。ーーなに、ぼくのいえかね、きみ、けいべつしてはこまるよ。ぼくはこれでも)
かなあ。ーー何、僕の故家《いえ》かね、君、軽蔑しては困るよ。僕はこれでも
(えどっこだよ。しかしだいぶえどっこでもはばのきかないやまのてだ、うしごめの)
江戸っ子だよ。しかしだいぶ江戸っ子でも幅のきかない山の手だ、牛込の
(ばばしたでうまれたのだ。おやじはばばしたまちのなぬしでこへえといった。)
馬場下で生まれたのだ。親父《おやじ》は馬場下町の名主で小兵衛といった。
(べつになにもしょうばいはしていなかったのだ。なんでもあのなぬしなんかいうものはしょうやと)
別に何も商売はしていなかったのだ。何でもあの名主なんかいうものは庄屋と
(おなじくごたごたして、しゅうにゅうなどもかなりあったものとみえる。ちょうど、いま、)
同じくゴタゴタして、収入などもかなりあったものとみえる。ちょうど、今、
(あのこうばんーーきくいちょうをおりてきたところにーーのむかいに)
あの交番ーー喜久井町《きくいちょう》を降りてきた所にーーの向かいに
(おぐらやという、それたかだのばばのあだうちの)
小倉屋《おぐらや》という、それ高田馬場の敵討《あだうち》の
(ほりべたけつねかね、あのおとこが、あすこでさけをたちのみしたとかいう)
堀部武庸《たけつね》かね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みしたとかいう
(ますをもってるさかやがあるだろう。そこからさかのほうへにさんけんいくと)
桝《ます》を持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと
(ふるどうぐやがある。そのたしかとなりのうらをずっとはいると、げんかんがまえのくちつくした)
古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした
(ぼくのいえがあった。もういまはなくなったかもしれぬ。ぼくのいえは)
僕の故家《いえ》があった。もう今は無くなったかもしれぬ。僕の家は
(たけだしんげんのいえすじだぜ。えらいだろう。ところがひとつえらくない)
武田信玄の苗裔《いえすじ》だぜ。えらいだろう。ところが一つえらくない
(ことがあるんだ。なんでもなんだいめかのひとが、きみにうらぎりとかをしたということだ。)
ことがあるんだ。何でも何代目かの人が、君に裏切りとかをしたということだ。
(いえのもんはいげたのなかにきくのもんだ。いまあのへんをきくいちょうと)
家の紋《もん》は井桁《いげた》の中に菊の紋だ。今あのへんを喜久井町と
(いうのは、ぼくのおやじがつけたので、いまのもんから、きくいをきくいとかえたのだ)
いうのは、僕の親父がつけたので、今の紋から、菊井を喜久井とかえたのだ
(そうな。こんなことはそうさなあ、めいじのはじめごろのはなしだぜ、なぬしというものが)
そうな。こんなことはそうさなあ、明治の始めごろの話だぜ、名主というものが
(まだあったじぶんだろうな。なぬしにはたいとうごめんとそうでないのとの)
まだあった時分だろうな。名主には帯刀《たいとう》ごめんとそうでないのとの
(ふたつがあったが、ぼくのおやじはどっちだったかわすれてしまった。)
二つがあったが、僕の親父はどっちだったか忘れてしまった。
(あのさがみやというおおきなしちやとさかやとのあいだのながやは、ぼくのいえの)
あの相模屋《さがみや》という大きな質屋と酒屋との間の長屋は、僕の家の
(ながやで、あのじぶんにげんかんをつくれるのはなぬしにだけはゆるされていたから、)
長屋で、あの時分に玄関を作れるのは名主にだけは許されていたから、
(なぬしいちめいおげんかんさまというきばつなそんしょうをおやじはちょうだいしてさかんにいばって)
名主一名お玄関様という奇抜な尊称を親父はちょうだいしてさかんにいばって
(いたんだろう。いえはめいじじゅうしごねんごろまであったのだが、あにきらが)
いたんだろう。家は明治十四五年ごろまであったのだが、兄《あに》きらが
(どうらくものでさんざんにつかって、いえなんかはひとでにわたしてしまったのだ。あにきは)
道楽者でさんざんにつかって、家なんかは人手に渡してしまったのだ。兄きは
(よにんあった。いちばんうえのはとうじのだいがくでかがくをけんきゅうしていたがしんだ。)
四人あった。一番上のは当時の大学で化学を研究していたが死んだ。
(にばんめのはずいぶんふるったどうらくものだった。とうざんのきものなんか)
二番目のはずいぶんふるった道楽ものだった。唐桟《とうざん》の着物なんか
(きてげいしゃかいやらよしはらがよいにさんざんつかってこれもしんだ。さんばんめのがいま、)
着て芸者買いやら吉原通いにさんざん使ってこれも死んだ。三番目のが今、
(ぶじでうしごめにいる。しかしばばしたのいえにではない。ばばしたのいえはたにんのしょゆうに)
無事で牛込にいる。しかし馬場下の家にではない。馬場下の家は他人の所有に
(なってからひさしいものだ。ぼくはこんなずぼらな、のんきなあにらのなかにそだったのだ)
なってから久しいものだ。僕はこんなずぼらな、のんきな兄らの中に育ったのだ
(またいとこにもつうじんがいた。ぜんたいにそわそわとはっしょうじんかしちへんじんの)
また従兄《いとこ》にも通人がいた。全体にソワソワと八笑人か七変人の
(よりあいのいえみたよに、いちにちしばいのかせいをつかうやつもあれば、)
より合いの宅《いえ》みたよに、一日芝居の仮声をつかうやつもあれば、
(しろうとばなしもやるというありさまだ。ぼくはいちばんうえのあにに)
素人落話《しろうとばなし》もやるというありさまだ。僕は一番上の兄に
(かんとくせられていた。いちばんうえのあにだってどうらくもののそしつはじゅうぶんもっていた。)
監督せられていた。一番上の兄だって道楽者の素質は十分もっていた。
(ぼくかね、ぼくだってうんとあるのさ、けれどもなんふんびんぼうとひまがないからね、)
僕かね、僕だってうんとあるのさ、けれども何分貧乏とひまがないからね、
(とっこうのくんしをきどってねことくびっぴきしているのだ。)
篤行《とっこう》の君子を気取って猫と首っ引《ぴ》きしているのだ。
(こどものじぶんにはわんぱくものでけんかがすきで、よくあばれものと)
子供の時分には腕白者《わんぱくもの》でけんかがすきで、よくアバレ者と
(しかられた。あのあなはちまんのさかをのぼってずっといくと、)
しかられた。あの穴八幡《あなはちまん》の坂をのぼってずっと行くと、
(げんべえむらのほうへわかれみちがあるだろう。)
源兵衛村《げんべえむら》のほうへ通う分岐道《わかれみち》があるだろう。
(あすこをもっといくとすわのもりのちかくにえちごさまというとのさまの)
あすこをもっと行くと諏訪《すわ》の森の近くに越後様という殿様の
(おやしきがあった。あのおやしきのなかにくわきげんよくさんの)
お邸《やしき》があった。あのお邸の中に桑木厳翼《げんよく》さんの
(あぼさんのおさとがあってすずきとかいった。そのすずきのいえのむすこが)
阿母《あぼ》さんのお里があって鈴木とかいった。その鈴木の家の息子が
(おりおりぼくのいえへあそびにきたことがあった。ぼくのいえのうらにはおおきななつめ)
おりおり僕の家へ遊びに来たことがあった。僕の家の裏には大きな棗《なつめ》
(のきがごろっぽんもあった。「ぼっちゃん」ににているって。あるいはそうかも)
の木が五六本もあった。『坊っちゃん』に似ているって。あるいはそうかも
(しれんよ。「ぼっちゃん」におきよというしんせつなろうひがでる。)
しれんよ。『坊っちゃん』にお清という親切な老碑《ろうひ》が出る。
(ぼくのいえにもじじつはあんなろうひがいて、ぼくをひじょうにかわいがってくれた。)
僕の家にも事実はあんな老碑がいて、僕を非常にかわいがってくれた。
(「ぼっちゃん」のなかに、おきよからもらったさいふをべんじょへおとすと、おきよが)
『坊っちゃん』の中に、お清からもらった財布を便所へ落とすと、お清が
(わざわざそれをひろってもってきてくれるくだりがあった。ぼくはげじょに)
わざわざそれを拾ってもってきてくれる条《くだり》があった。僕は下女に
(かねをもらったおぼえはないが、さいふのひとくだりはじっちのはなしだった。)
金をもらった覚えはないが、財布の一条《ひとくだり》は実地の話だった。
(ぼくのおさなともだちでいま、なをしられているひとは、やまぐちこういちという)
僕の幼友《おさなとも》だちで今、名を知られている人は、山口弘一という
(ひとだけだ。このひとはたしかがくしゅういんのせんせいかなんかしていられるということだ。)
人だけだ。この人はたしか学習院の先生かなんかしていられるということだ。
(くわしくはしらぬ。そのうちにぼくはちゅうがくへはいったが、とちゅうでよしてしまって、)
くわしくは知らぬ。そのうちに僕は中学へはいったが、途中でよしてしまって、
(よびもんへはいるじゅんびのためするがだいにそのころあったせいりつがくしゃへはいった。)
予備門へはいる準備のため駿河台にそのころあった成立学舎へはいった。
(そのころのゆうじんにはだいぶえらくなったやつがある。それからよびもんへ)
そのころの友人にはだいぶえらくなったやつがある。それから予備門へ
(はいった。やまだびみょうさいとはどうきゅうだったが、かくべつこころやすうも)
はいった。山田美妙《びみょう》斎とは同級だったが、格別心やすうも
(しなかった。まさおかとはそのじぶんからゆうじんになっていた。いっしょにはいくも)
しなかった。正岡とはその時分から友人になっていた。いっしょに俳句も
(やった。まさおかはぼくよりももっとへんじんで、いつもきにいらぬやつとはいちごも)
やった。正岡は僕よりももっと変人で、いつも気に入らぬやつとは一語も
(はなさない。こしょうなおもしろいおとこだった。どうしたひょうしかぼくが)
話さない。孤峭《こしょう》なおもしろい男だった。どうした拍子か僕が
(まさおかのきにいったとみえて、うちとけてまじわるようになった。じょうきゅうでは)
正岡の気にいったとみえて、打ちとけて交わるようになった。上級では
(かわかみびざん、いしばししあん、おざきこうようなどがいた。こうようはあまりがっこうの)
川上眉山《びざん》、石橋思案、尾崎紅葉などがいた。紅葉はあまり学校の
(ほうはできのよくないおとこで、こうさいもじぶんとはしなかった。それからしばらく)
ほうはできのよくない男で、交際も自分とはしなかった。それからしばらく
(するとこうようのしょうせつがなだかくなりだした。ぼくはそのころはしょうせつをかこうなどとは)
すると紅葉の小説が名高くなりだした。僕はそのころは小説を書こうなどとは
(ゆめにもおもっていなかったが、なあにおれだってあれくらいのものはすぐ)
夢にも思っていなかったが、なあにおれだってあれくらいのものはすぐ
(かけるよというちょうしだった。ちょうどだいがくのさんねんのときだったか、いまの)
書けるよという調子だった。ちょうど大学の三年の時だったか、今の
(わせだだいがく、むかしのとうきょうせんもんがっこうへえいごのきょうしにいって、みるとんの)
早稲田大学、昔の東京専門学校へ英語の教師に行って、ミルトンの
(あれおぱじちかというむずかしいほんをおしえさされて、たいへんこまったことがあった。)
アレオパジチカというむずかしい本を教えさされて、大変困ったことがあった。
(あのわせだのがくせいであって、しきやぼくらのはいゆうのふじのこはくは)
あの早稲田の学生であって、子規や僕らの俳友の藤野古白《こはく》は
(すがたみばしーーおおたどうかんのやまぶきのさとのきんじょのーー)
姿見橋ーー太田道灌《どうかん》の山吹《やまぶき》の里の近所のーー
(あたりのしろうとやにいた。ぼくのばばしたのいえとはちかいものだから、おりおり)
あたりの素人屋にいた。僕の馬場下の家とは近いものだから、おりおり
(やってきてねつれつなぎろんをやった。あのおとこはきみもしっているだろう。)
やってきて熱烈な議論をやった。あの男は君も知っているだろう。
(せいしんさくらんでじさつしてしまったよ。「しんはいく」にぼくがあのおとこをついかいして、)
精神錯乱で自殺してしまったよ。『新俳句』に僕があの男を追懐して、
(おもひだすはこはくともうすはるのひと)
思ひ出すは古白と申す春の人
(というくをつくったこともあったっけ。ーーそのごわせだのやとわれきょうしも)
という句を作ったこともあったっけ。ーーその後早稲田の雇われ教師も
(やめてしまった。むろんぼくがだいがくがくせいちゅうのはなしだぜ。そのあいだぼくはげしゅくをしたり、)
やめてしまった。むろん僕が大学学生中の話だぜ。その間僕は下宿をしたり、
(うちにいたり、あちらこちらにやどをかえていた。ぼくがだいがくをでたのは)
故家《うち》にいたり、あちらこちらに宿をかえていた。僕が大学を出たのは
(めいじにじゅうろくねんだ。がんらいだいがくのぶんかでのれんちゅうにもじきによってだいぶかわっている)
明治二十六年だ。元来大学の文科出の連中にも時期によってだいぶ変わっている
(たかやまがでたじだいからぐっとふうちょうがかわってきた。うえだびんくんもこのきにぞくして)
高山が出た時代からぐっと風潮が変わってきた。上田敏君もこの期に属して
(いる。このきにはなかなかやりてがたくさんいる。ぼくらはそのまえのいわゆる)
いる。この期にはなかなかやり手がたくさんいる。僕らはそのまえのいわゆる
(ちんたいじだいにぞくするのだ。がっこうをでてから、いよのまつやまのちゅうがくのきょうしに)
沈滞時代に属するのだ。学校を出てから、伊予《いよ》の松山の中学の教師に
(しばらくいった。あの「ぼっちゃん」にあるぞなもしのなまりをつかう)
しばらく行った。あの『坊っちゃん』にあるぞなもしの訛《なまり》を使う
(ちゅうがくのせいとは、ここのれんちゅうだ。ぼくは「ぼっちゃん」みたようなことはやりは)
中学の生徒は、ここの連中だ。僕は『坊っちゃん』みたようなことはやりは
(しなかったよ。しかしあのなかにかいたおんせんなんかはあったし、あかてぬぐいをさげて)
しなかったよ。しかしあの中にかいた温泉なんかはあったし、赤手拭をさげて
(あるいたこともじじつだ。もうひとつこまるのは、まつやまちゅうがくにあのしょうせつのなかの)
あるいたことも事実だ。もう一つ困るのは、松山中学にあの小説の中の
(やまあらしというあだなのきょうしと、すんぶんも)
山嵐《やまあらし》という綽名《あだな》の教師と、寸分《すんぶん》も
(たがわぬのがいるというので、そうせきはあのおのことをかいたんだと)
違《たが》わぬのがいるというので、漱石はあの男のことをかいたんだと
(いわれてるのだ。けっしてそんなつもりじゃないのだからへいこうした。)
いわれてるのだ。決してそんなつもりじゃないのだから閉口した。
(まつやまからくまもとのこうとうがっこうのきょうしにてんじて、そこでしばらくいて、あとにもんぶしょうから)
松山から熊本の高等学校の教師に転じて、そこでしばらくいて、後に文部省から
(えいこくへりゅうがくをめいぜられて、いってかえってきて、いまはだいがくといっこうとめいじだいがくとの)
英国へ留学を命ぜられて、行って帰って来て、今は大学と一高と明治大学との
(こうしをやっている。なかなかいそがしいんだよ。はなしか。らくごはすきで、)
講師をやっている。なかなか忙しいんだよ。落語《はなし》か。落語はすきで、
(よくうしごめのさかなまちのわらだなへききにでかけたもんだ。)
よく牛込の肴町《さかなまち》の和良店《わらだな》へ聞きにでかけたもんだ。