太宰治 斜陽4

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投稿者投稿者藤村 彩愛いいね3お気に入り登録1
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超長文です
太宰治の中編小説です。

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問題文

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(きしゃはわりにすいていて、さんにんともこしかけられた。きしゃのなかでは、おじさまは)

汽車は割に空いていて、三人とも腰かけられた。汽車の中では、叔父さまは

(ひじょうなじょうきげんでうたいなどうなっていらっしゃったが、おかあさまはおかおいろがわるく、)

非常な上機嫌でうたいなど唸っていらっしゃったが、お母さまはお顔色が悪く、

(うつむいて、とてもさむそうにしていらした。みしまですんずてつどうにのりかえ、)

うつむいて、とても寒そうにしていらした。三島で駿豆鉄道に乗りかえ、

(いずながおかでげしゃして、それからばすでごじゅっぷんくらいでおりてからやまのほうに)

伊豆長岡で下車して、それからバスで五十分くらいで降りてから山のほうに

(むかって、ゆるやかなさかみちをのぼっていくと、ちいさいぶらくがあって、そのぶらくの)

向って、ゆるやかな坂道をのぼって行くと、小さいブ落があって、そのブ落の

(はずれに、しなふうの、ちょっとこったさんそうがあった。「おかあさま、)

はずれに、支那ふうの、ちょっとこった山荘があった。「お母さま、

(おもったよりもいいところね」とわたしはいきをはずませていった。「そうね」と)

思ったよりもいい所ね」と私は息をはずませて言った。「そうね」と

(おかあさまも、さんそうのげんかんのまえにたって、いっしゅんうれしそうなめつきをなさった。)

お母さまも、山荘の玄関の前に立って、一瞬うれしそうな眼つきをなさった。

(「ほんとうに」とおかあさまはほほえまれて、「おいしい。ここのくうきは、おいしい」と)

「本当に」とお母さまは微笑まれて、「おいしい。ここの空気は、おいしい」と

(おっしゃった。そうして、さんにんでわらった。げんかんにはいってみると、もう)

おっしゃった。そうして、三人で笑った。玄関にはいってみると、もう

(とうきょうからのおにもつがついていて、げんかんからおへやからおにもつでいっぱいに)

東京からのお荷物が着いていて、玄関からお部屋からお荷物で一ぱいに

(なっていた。「つぎには、おざしきからのながめがよい」おじさまはうかれて、)

なっていた。「次には、お座敷からの眺めがよい」叔父さまは浮かれて、

(わたしたちをおざしきにひっぱっていってすわらせた。ごごのさんじごろで、ふゆのひが、)

私たちをお座敷に引っぱって行って坐らせた。午後の三時頃で、冬の日が、

(おにわのしばふにやわらかくあたっていて、しばふからいしだんをおりつくしたあたりに)

お庭の芝生にやわらかく当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに

(ちいさいおいけがあり、うめのきがたくさんあって、おにわのしたにはみかんばたけがひろがり、)

小さいお池があり、梅の木がたくさんあって、お庭の下には蜜柑畑がひろがり、

(それからそんどうがあって、そのむこうはすいでんで、それからずっとむこうにまつばやしがあって)

それから村道があって、その向うは水田で、それからずっと向うに松林があって

(そのまつばやしのむこうに、うみがみえる。うみは、こうしておざしきにすわっていると、)

その松林の向うに、海が見える。海は、こうしてお座敷に坐っていると、

(ちょうどわたしのおちちのさきにすいへいせんがさわるくらいのたかさにみえた。)

ちょうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらいの高さに見えた。

(「やわらかなけしきねえ」とおかあさまは、ものうそうにおっしゃった。)

「やわらかな景色ねえ」とお母さまは、もの憂そうにおっしゃった。

(「くうきのせいかしら。ひのひかりが、まるでとうきょうとちがうじゃないの。こうせんが)

「空気のせいかしら。陽の光が、まるで東京と違うじゃないの。光線が

など

(きぬごしされているみたい」とわたしは、はしゃいでいった。じゅうじょうまとろくじょうまと、)

絹ごしされているみたい」と私は、はしゃいで言った。十畳間と六畳間と、

(それからしなしきのおうせつまと、それからおげんかんがさんじょう、おふろばのところにも)

それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも

(さんじょうがついていて、それからしょくどうとおかってと、それからおにかいにおおきいべっどの)

三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの

(ついたらいきゃくようのようまがひとま、それだけのまかずだけれども、わたしたちふたり、いや、)

附いた来客用の洋間が一間、それだけの間数だけれども、私たち二人、いや、

(なおじがかえってさんにんになっても、べつにきゅうくつでないとおもった。)

直治が帰って三人になっても、別に窮屈でないと思った。

(おじさまは、このぶらくでたったいっけんだというやどやへ、おしょくじをこうしょうにでかけ、)

叔父さまは、このブ落でたった一軒だという宿屋へ、お食事を交渉に出かけ、

(やがてとどけられたおべんとうを、おざしきにひろげてごじさんのういすきいをおのみに)

やがてとどけられたお弁当を、お座敷にひろげて御持参のウイスキイをお飲みに

(なり、このさんそうのいぜんのもちぬしでいらしたかわだししゃくとしなであそんだころのしっぱいだんなど)

なり、この山荘の以前の持主でいらした河田子爵と支那で遊んだ頃の失敗談など

(かたって、おおようきであったが、おかあさまは、おべんとうにもほんのちょっとおはしを)

語って、大陽気であったが、お母さまは、お弁当にもほんのちょっとお箸を

(おつけになっただけで、やがて、あたりがうすぐらくなってきたころ、「すこし、)

おつけになっただけで、やがて、あたりが薄暗くなって来た頃、「すこし、

(ねかして」とちいさいこえでおっしゃった。わたしがおにもつのなかからおふとんをだして、)

寝かして」と小さい声でおっしゃった。私がお荷物の中からお蒲団を出して、

(ねかせてあげ、なんだかひどくきがかりになってきたので、おにもつからたいおんけいを)

寝かせてあげ、何だかひどく気がかりになって来たので、お荷物から体温計を

(さがしだして、おねつをはかってみたら、さんじゅうくどあった。おじさまもおどろいた)

捜し出して、お熱を計ってみたら、三十九度あった。叔父さまもおどろいた

(ごようすで、とにかくしたのむらまで、おいしゃをさがしにでかけられた。)

ご様子で、とにかく下の村まで、お医者を捜しに出かけられた。

(「おかあさま!」とおよびしても、ただ、うとうとしていらっしゃる。)

「お母さま!」とお呼びしても、ただ、うとうとしていらっしゃる。

(わたしはおかあさまのちいさいおてをにぎりしめて、すすりないた。おかあさまが、)

私はお母さまの小さいお手を握りしめて、すすり泣いた。お母さまが、

(おかわいそうでおかわいそうで、いいえ、わたしたちふたりがかわいそうでかわいそうで、いくら)

お可哀想でお可哀想で、いいえ、私たち二人が可哀想で可哀想で、いくら

(ないても、とまらなかった。なきながら、ほんとうにこのままおかあさまと)

泣いても、とまらなかった。泣きながら、ほんとうにこのままお母さまと

(いっしょにしにたいとおもった。もうわたしたちは、なにもいらない。わたしたちのじんせいは、)

一緒に死にたいと思った。もう私たちは、何も要らない。私たちの人生は、

(にしかたまちのおうちをでたとき、もうおわったのだとおもった。にじかんほどしておじさまが、)

西片町のお家を出た時、もう終ったのだと思った。二時間ほどして叔父さまが、

(むらのせんせいをつれてこられた。むらのせんせいは、もうだいぶおとしよりのようで、)

村の先生を連れて来られた。村の先生は、もうだいぶおとし寄りのようで、

(そうしてせんだいひらのはかまをつけ、しろたびをはいて)

そうして仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》を着け、白足袋をはいて

(おられた。ごしんさつがおわって、「はいえんになるかもしれませんでございます。)

おられた。ご診察が終って、「肺炎になるかも知れませんでございます。

(けれども、はいえんになりましても、ごしんぱいはございません」と、なんだか)

けれども、肺炎になりましても、御心配はございません」と、何だか

(たよりないことをおっしゃって、ちゅうしゃをしてくださってかえられた。)

たより無い事をおっしゃって、注射をして下さって帰られた。

(あくるひになっても、おかあさまのおねつは、さがらなかった。わだのおじさまは、)

翌る日になっても、お母さまのお熱は、さがらなかった。和田の叔父さまは、

(わたしににせんえんおてわたしになって、もしまんいち、にゅういんなどしなければならぬように)

私に二千円お手渡しになって、もし万一、入院などしなければならぬように

(なったら、とうきょうへでんぽうをうつように、といいのこして、ひとまずそのひに)

なったら、東京へ電報を打つように、と言い残して、ひとまずその日に

(ききょうなされた。わたしはおにもつのなかからさいしょうげんのひつようなすいじどうぐをとりだし、)

帰京なされた。私はお荷物の中から最小限の必要な炊事道具を取り出し、

(おかゆをつくっておかあさまにすすめた。おかあさまは、おやすみのまま、さんさじ)

おかゆを作ってお母さまにすすめた。お母さまは、おやすみのまま、三さじ

(おあがりになって、それから、くびをふった。おひるすこしまえに、したのむらのせんせいが)

おあがりになって、それから、首を振った。お昼すこし前に、下の村の先生が

(またみえられた。こんどはおはかまはつけていなかったが、しろたびは、やはり)

また見えられた。こんどはお袴は着けていなかったが、白足袋は、やはり

(はいておられた。「にゅういんしたほうが、・・・」とわたしがもうしあげたら、)

はいておられた。「入院したほうが、・・・」と私が申し上げたら、

(「いや、そのひつようは、ございませんでしょう。きょうはひとつ、つよいおちゅうしゃを)

「いや、その必要は、ございませんでしょう。きょうは一つ、強いお注射を

(してさしあげますから、おねつもさがることでしょう」と、あいかわらずたよりない)

してさし上げますから、お熱もさがる事でしょう」と、相変らずたより無い

(ようなおへんじで、そうして、いわゆるそのつよいちゅうしゃをしておかえりになられた。)

ようなお返事で、そうして、所謂その強い注射をしてお帰りになられた。

(けれども、そのつよいちゅうしゃがきこうをそうしたのか、そのひのおひるすぎに、おかあさまの)

けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお昼すぎに、お母さまの

(おかおがまっかになって、そうしておあせがひどくでて、おねまきをきかえるとき、)

お顔が真赤になって、そうしてお汗がひどく出て、お寝巻を着かえる時、

(おかあさまはわらって、「めいいかもしれないわ」とおっしゃった。ねつはななどに)

お母さまは笑って、「名医かも知れないわ」とおっしゃった。熱は七度に

(さがっていた。わたしはうれしく、このむらにたったいっけんのやどやにはしっていき、そこの)

さがっていた。私はうれしく、この村にたった一軒の宿屋に走って行き、そこの

(おかみさんにたのんで、けいらんをじゅうばかりわけてもらい、さっそくはんじゅくにして)

おかみさんに頼んで、鶏卵を十ばかりわけてもらい、さっそく半熟にして

(おかあさまにさしあげた。おかあさまははんじゅくをみっつと、それからおかゆをおちゃわんに)

お母さまに差し上げた。お母さまは半熟を三つと、それからおかゆをお茶碗に

(はんぶんほどいただいた。あくるひ、むらのめいいが、またしろたびをはいておみえに)

半分ほどいただいた。あくる日、村の名医が、また白足袋をはいてお見えに

(なり、わたしがきのうのつよいちゅうしゃのおれいをもうしあげたら、きくのはとうぜん、というような)

なり、私が昨日の強い注射の御礼を申し上げたら、効くのは当然、というような

(おかおでふかくうなずき、ていねいにごしんさつなさって、そうしてわたしのほうにむきなおり)

お顔で深くうなずき、ていねいにご診察なさって、そうして私のほうに向き直り

(「おおおくさまは、もはやごびょうきではございません。でございますから、これからは)

「大奥さまは、もはや御病気ではございません。でございますから、これからは

(なにをおあがりになっても、なにをなさってもよろしゅうございます」と、やはり、)

何をおあがりになっても、何をなさってもよろしゅうございます」と、やはり、

(へんないいかたをなさるので、わたしはふきだしたいのをこらえるのにほねが)

へんな言いかたをなさるので、私は噴き出したいのを怺《こら》えるのに骨が

(おれた。せんせいをげんかんまでおおくりして、おざしきにひきかえしてきてみると、)

折れた。先生を玄関までお送りして、お座敷に引返して来て見ると、

(おかあさまは、おとこのうえにおすわりになっていらして、「ほんとうにめいいだわ。わたしは、)

お母さまは、お床の上にお坐りになっていらして、「本当に名医だわ。私は、

(もう、びょうきじゃない」と、とてもたのしそうなおかおをして、うっとりと)

もう、病気じゃない」と、とても楽しそうなお顔をして、うっとりと

(ひとりごとのようにおっしゃった。「おかあさま、しょうじをあけましょうか。)

ひとりごとのようにおっしゃった。「お母さま、障子をあけましょうか。

(ゆきがふっているのよ」はなびらのようなおおきいぼたんゆきが、ふわりふわり)

雪が降っているのよ」花びらのような大きい牡丹《ぼたん》雪が、ふわりふわり

(ふりはじめていたのだ。わたしは、しょうじをあけ、おかあさまとならんですわり、)

降りはじめていたのだ。私は、障子をあけ、お母さまと並んで坐り、

(がらすどごしにいずのゆきをながめた。「もうびょうきじゃない」と、)

硝子戸《がらすど》越しに伊豆の雪を眺めた。「もう病気じゃない」と、

(おかあさまは、またひとりごとのようにおっしゃって、「こうしてすわっていると、)

お母さまは、またひとりごとのようにおっしゃって、「こうして坐っていると、

(いぜんのことが、みなゆめだったようなきがする。わたしはほんとうは、ひっこしまぎわになって、)

以前の事が、皆ゆめだったような気がする。私は本当は、引越し間際になって、

(いずへくるのが、どうしても、なんとしても、いやになってしまったの。)

伊豆へ来るのが、どうしても、なんとしても、いやになってしまったの。

(にしかたまちのあのおうちに、いちにちでもはんにちでもながくいたかったの。きしゃにのったときには)

西片町のあのお家に、一日でも半日でも永くいたかったの。汽車に乗った時には

(はんぶんしんでいるようなきもちで、ここについたときも、はじめちょっとたのしいような)

半分死んでいるような気持で、ここに着いた時も、はじめちょっと楽しいような

(きぶんがしたけど、うすぐらくなったら、もうとうきょうがこいしくて、むねがこげるようで、)

気分がしたけど、薄暗くなったら、もう東京がこいしくて、胸がこげるようで、

(きがとおくなってしまったの。ふつうのびょうきじゃないんです。かみさまがわたしをいちど)

気が遠くなってしまったの。普通の病気じゃないんです。神さまが私をいちど

(おころしになって、それからきのうまでのわたしとちがうわたしにして、よみがえらせて)

お殺しになって、それから昨日までの私と違う私にして、よみがえらせて

(くださったのだわ」それから、きょうまで、わたしたちふたりきりのさんそうせいかつが、)

下さったのだわ」それから、きょうまで、私たち二人きりの山荘生活が、

(まあ、どうやらこともなく、あんのんにつづいてきたのだ。ぶらくの)

まあ、どうやら事も無く、安穏《あんのん》につづいて来たのだ。ブ落の

(ひとたちもわたしたちにしんせつにしてくれた。ここへひっこしてきたのは、きょねんのじゅうにがつ、)

人たちも私たちに親切にしてくれた。ここへ引越して来たのは、去年の十二月、

(それから、いちがつ、にがつ、さんがつ、しがつのきょうまで、わたしたちはおしょくじのおしたくの)

それから、一月、二月、三月、四月のきょうまで、私たちはお食事のお支度の

(ほかは、たいていおえんがわであみものをしたり、しなまでほんをよんだり、おちゃを)

他は、たいていお縁側で編物をしたり、支那間で本を読んだり、お茶を

(いただいたり、ほとんどよのなかとはなれてしまったようなせいかつを)

いただいたり、ほとんど世の中と離れてしまったような生活を

(していたのである。にがつにはうめがさき、このぶらくぜんたいがうめのはなでうまった。)

していたのである。二月には梅が咲き、このブ落全体が梅の花で埋まった。

(そうしてさんがつになっても、かぜのないおだやかなひがおおかったので、まんかいのうめは)

そうして三月になっても、風のないおだやかな日が多かったので、満開の梅は

(すこしもおとろえず、さんがつのすえまでうつくしくさきつづけた。あさもひるも、ゆうがたも、よるも、)

少しも衰えず、三月の末まで美しく咲きつづけた。朝も昼も、夕方も、夜も、

(うめのはなは、ためいきのでるほどうつくしかった。そうしておえんがわのがらすどをあけると、)

梅の花は、溜息の出るほど美しかった。そうしてお縁側の硝子戸をあけると、

(いつでもはなのにおいがおへやにすっとながれてきた。さんがつのおわりには、ゆうがたになると)

いつでも花の匂いがお部屋にすっと流れて来た。三月の終りには、夕方になると

(きっとかぜがでて、わたしがゆうぐれのしょくどうでおちゃわんをならべていると、まどからうめのはなびらが)

きっと風が出て、私が夕暮の食堂でお茶碗を並べていると、窓から梅の花びらが

(ふきこんできて、おちゃわんのなかにはいってぬれた。しがつになって、わたしとおかあさまが)

吹き込んで来て、お茶碗の中にはいって濡れた。四月になって、私とお母さまが

(おえんがわであみものをしながら、ふたりのわだいは、たいていはたけづくりのけいかくであった。)

お縁側で編物をしながら、二人の話題は、たいてい畑作りの計画であった。

(おかあさまもおてつだいしたいとおっしゃる。)

お母さまもお手伝いしたいとおっしゃる。

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