ある自殺者の手記 一

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(あるじさつしゃのしゅき)

ある自殺者の手記

(こざかいふぼく)

小堺井不木

(かとうくん、)

加藤君、

(ぼくはいよいよじさつすることにした。)

僕はいよいよ自殺することにした。

(このばあいじさつがぼくにとってゆいいつのみちであるからである。)

この場合自殺が僕にとって唯一の道である   からである。

(ことわっておくが、ぼくはけっして、さいきんしんだぼうぶんしをもほうするのではない。)

断って置くが、僕は決して、最近死んだ    某文士を模倣するのではない。

(せけんのひとはふたつのじさつがあいぜんごしてはっせいすると、)

世間の人は二つの自殺が相前後して発生すると、

(あとのれいをまえのれいのもほうであるとみなそうとする。)

後の例を前の例の模倣であると見做(みな)そうとする。

(しかし、これほどばかげたはなしはない。)

しかし、これほど馬鹿げた話はない。

(そんなふうにいうならば、よのなかのすべてのできごとは)

そんな風にいうならば、世の中のすべての出来事は

(もほうでなくてなんであろう。)

模倣でなくて何であろう。

(が、ぼくはいま、このようなりくつをいっているばあいではない。)

が、僕はいま、このような理窟(りくつ)をいっている場合ではない。

(けれども、ぼくのじさつのどうきだけは、ぼくのもっともしたしいきみに)

けれども、僕の自殺の動機だけは、僕の最も親しい君に

(つげておきたいとおもう。)

告げておきたいと思う。

(ものごとをふかくかんがえたがるれんちゅうは、さもさもじさつしゃのしんりが)

物事を深く考えたがる連中は、さもさも   自殺者の心理が

(たにんのすいそくをゆるさぬようなふくざつなものであるようにいうけれど、)

他人の推測をゆるさぬような複雑なもので あるようにいうけれど、

(すくなくともぼくのばあいは、けっしてふくざつなものではない。)

少なくとも僕の場合は、決して複雑なものではない。

(ふくざつなどころか、かんたんすぎるほどかんたんなものである。)

複雑などころか、簡単過ぎる程簡単なものである。

(また、じさつしゃはおおくはなんのためにじさつするものであるかを)

又、自殺者は多くは何のために自殺するものであるかを

(しらないというものもある。)

知らないというものもある。

など

(しかし、ぼくはぼくがなんのためにしぬかということを、)

然し(しかし)、僕は僕が何のために死ぬかということを、

(はっきりしっているつもりだ。)

はっきり知って居るつもりだ。

(それのみか、ぼくがなんのためにしぬかということを、きみもおそらく、)

それのみか、僕が何のために死ぬかということを、君も恐らく、

(ぼくとおなじようにはっきりしっているであろうとおもう。)

僕と同じようにはっきり知っているであろうと思う。

(してみれば、なにもわざわざこのしゅきをしたためるひつようはないわけであるが、)

して見れば、何もわざわざこの手記をしたためる必要はない訳であるが、

(いざ、じさつするとなったら、ぼくもきゅうゆうへしゅきをおくりたくなったのだ。)

いざ、自殺するとなったら、僕も旧友へ手記を送りたくなったのだ。

(このてんは、ぼうぶんしをもほうしたといわれてもぼくはけっしてふふくではない。)

この点は、某文士を模倣したといわれても僕は決して不服ではない。

(かとうくん、)

加藤くん、

(いうまでもなく、ぼくのじさつのどうきはしつれんだ。)

いうまでもなく、僕の自殺の動機は失恋だ。

(しつれんが、ぼくのじさつのどうきのぜんぶだ。)

失恋が、僕の自殺の動機の全部だ。

(けっしてどうきにいたるどうていをしめしているだけではない。)

決して動機に至る道程を示しているだけではない。

(しつれんしなければぼくはじさつしない。しつれんしたからぼくはじさつするのだ。)

失恋しなければ僕は自殺しない。失恋したから僕は自殺するのだ。

(だれがどんなにかいしゃくしようがぼくのじさつのどうきを)

誰がどんなに解釈しようが僕の自殺の動機を

(しつれんいがいのものにもっていくことはできないのだ。)

失恋以外のものにもって行くことはできないのだ。

(このことは、ぼくにたいしてとくれんしゃたるきみにも)

このことは、僕に対して得恋者たる君にも

(はっきりわかることであろうとおもう。)

はっきりわかることであろうと思う。

(ただとくれんしゃは、なにゆえにしつれんしゃがじさつするきになるかという、)

ただ得恋者は、何ゆえに失恋者が自殺する気になるかという、

(そのこころもちをはっきりりかいしえないとおもう。)

その心持ちをはっきり理解し得ないと思う。

(しつれんしたらじぶんもじさつするかもしれぬとはだれでもかんがえることだが、)

失恋したら自分も自殺するかも知れぬとは 誰でも考えることだが、

(いっぽうにおいて、なにもじさつするにはおよばぬともかんがえるであろう。)

一方において、なにも自殺するにはおよばぬとも考えるであろう。

(してみるとじさつをけっしんしたもののこころもちは、じさつをけっしんしないものには)

して見ると自殺を決心したものの心持ちは、自殺を決心しないものには

(とうていりかいしあたわぬものだといえる。)

到底理解し能(あた)わぬものだといえる。

(まったくじさつをけっしんしたもののこころもちは、じさつしゃのみのしるところであって、)

まったく自殺を決心したものの心持ちは、 自殺者のみの知るところであって、

(よのなかのじさつしゃはこのてんにおおいにほこりをかんじてしかるべきであろう。)

世の中の自殺者はこの点に大(おおい)に誇りを感じてしかるべきであろう。

(いよいよじさつをけっしんしたいじょう、)

いよいよ自殺を決心した以上、

(いまさら、みれんがましいことばをつらねるのもきはずかしいが、)

今更、未練がましい言葉をつらねるのも          気恥ずかしいが、

(おもえば、きみとぼくとはなんというくしきうんめいのもとにおかれたのであろう。)

思えば、君と僕とは何という奇(く)しき運命のもとに置かれたのであろう。

(すでにそのせいがおなじ「かとう」であるということ、)

すでにその姓が同じ「加藤」であるということ、

(またおなじとしにうまれたということからして、ふしぎといえばふしぎだが、)

又 同じ年に生れたということからして、不思議といえば不思議だが、

(しかも、おなじかんきょうにそだてられ、おなじくいがくをおさめ、そのうえ、)

しかも、同じ環境に育てられ、同じく医学を修め(おさめ)、その上、

(おなじくつねこさんにこいをするというのは、)

同じく恒子(つねこ)さんに恋をするというのは、

(むしろのろわれたうんめいであるといってよい。)

むしろ呪われた運命であるといってよい。

(ふたりのおとこがひとりのおんなをこいする。それはもう、ごうしょいらい、)

二人の男が一人の女を恋する。それはもう、劫初(ごうしょ)いらい、

(じんるいのせかいに、むすうにくりかえされたひげきである。)

人類の世界に、無数に繰返された悲劇である。

(そうしてこいのはいぼくしゃがそこしれぬくのうのふちにつきおとされ、)

そうして恋の敗北者が底知れぬ苦悩の淵に つき落され、

(そのためにしをえらぶにいたることも、おなじくむすうにくりかえされたきげきである。)

そのために死を選ぶに至ることも、同じく  無数に繰返された喜劇である。

(きみよ、ぼくはあえてきげきというもじをつかった。)

君よ、僕はあえて喜劇という文字を使った。

(なんとなればこいのしょうりしゃからみれば、それはきげきというよりほかに)

何となれば恋の勝利者から見れば、それは  喜劇というより外(ほか)に

(いいあらわしがたいじょうたいであるからだ。)

いいあらわし難い状態であるからだ。

(いずれにしてもぼくは、このきげきをえんじようとけっしんしたのだ。)

いずれにしても僕は、この喜劇を演じようと決心したのだ。

(そうして、ぼくがじさつをけっしんするまでには、)

そうして、僕が自殺を決心するまでには、

(けっしてにねんもいちねんもはんとしもはんかげつもようしなかったのだ。)

決して二年も一年も半年も半ヶ月も要しなかったのだ。

(きみとつねこさんとがせっぷんしたのをぼくがみたのはじつにきのうのばんである。)

君と恒子さんとが接吻したのを僕が見たのは 実に昨日の晩である。

(ぼくはきのうのひるまでつねこさんはじぶんのものとしんじていたのだ。)

僕は昨日の昼まで恒子さんは自分のものと信じていたのだ。

(だから、ぼくはきみたちのほうようをみたしゅんかんにじさつをけっしんしたのだ。)

だから、僕は君たちの抱擁を見た瞬間に自殺を決心したのだ。

(それはもはやいかなるはんせいもだきょうもゆるさないのだ。)

それはもはやいかなる反省も妥協も許さないのだ。

(もし、いささかのはんせいとだきょうとをゆるしたならば)

もし、聊か(いささか)の反省と妥協とを許したならば

(かならずそこにふあんがしょうずる。それこそめいじょうしがたいふあんがしょうずる。)

必ずそこに不安が生ずる。それこそ名状しがたい不安が生ずる。

(それはいわゆるぼんやりしたふあんだ。そうしてそのふあんのために、)

それはいわゆるぼんやりした不安だ。      そうしてその不安のために、

(じさつをおこなうにいたるまで、いたずらにつきひがけいかするはずだ。)

自殺を行うに至るまで、いたずらに月日が   経過する筈だ。

(しかしぼくのばあいには、はんせいのよちもだきょうのよちもないのだ。)

然し(しかし)僕の場合には、反省の余地も  妥協の余地もないのだ。

(だから、ぼくはまっしぐらにじさつけっこうにつきすすもうとしたのだ。)

だから、僕はまっしぐらに自殺決行につき進もうとしたのだ。

(さらばきみはとうであろう。なぜにぼくが、きのうのばん、)

然(さ)らば君は問うであろう。何故に僕が、昨日の晩、

(すぐさまじさつをけっこうしなかったかと。)

すぐさま自殺を決行しなかったかと。

(いかにも、このしつもんにたいしては、ぼくもめいりょうなへんとうをなしえないのをかなしむ。)

いかにも、この質問に対しては、僕も明瞭な返答をなし得ないのを悲しむ。

(けれども、ぼくがじさつをけっしんしたつぎのしゅんかん、じさつほうほうについて、)

けれども、僕が自殺を決心した次の瞬間、  自殺方法について、

(かんがえをめぐらせるだけのよゆうをもったことはじじつである。)

考えをめぐらせるだけの余裕をもったことは事実である。

(いや、よゆうをもったというよりもかんがえることを)

いや、余裕をもったというよりも考えることを

(よぎなくされたといったほうがてきとうであろう。)

余儀なくされたといった方が適当であろう。

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