シャーロック・ホームズの事件簿 高名な依頼人9
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問題文
(「あ!」かれはさけんだ。「あ!」かれはうしろのへやにとびこんだ。)
「あ!」彼は叫んだ。「あ!」彼は後ろの部屋に飛び込んだ。
(そのときだ!それはいっしゅんのできごとだった。それでもわたしははっきりとみた。)
その時だ!それは一瞬の出来事だった。それでも私ははっきりと見た。
(いっぽんのうでが、ーーじょせいのうでがーー、はのあいだからさっとでてきた。)
一本の腕が、 ―― 女性の腕が ―― 、葉の間からさっと出てきた。
(どうじに、だんしゃくがおそろしいさけびごえをあげた、ーーわたしのきおくのなかでえいきゅうに)
同時に、男爵が恐ろしい叫び声をあげた、 ―― 私の記憶の中で永久に
(なりつづけるだろうさけびごえを。かれはりょうてでかおをさっとおさえ、)
鳴り続けるだろう叫び声を。彼は両手で顔をさっと押さえ、
(へやのなかをはしりまわり、あたまをおそろしくかべにたたきつけた。それからかれはじゅうたんのうえに)
部屋の中を走り回り、頭を恐ろしく壁に叩きつけた。それから彼は絨毯の上に
(たおれ、ころげまわり、みをよじり、いえじゅうにとどろきわたるさけびごえをつぎつぎとあげた。)
倒れ、転げ回り、身をよじり、家中にとどろき渡る叫び声を次々とあげた。
(「みず!たのむ、みず!」かれはさけんだ。わたしはさいどてーぶるのうえのみずさしをつかんで、)
「水!頼む、水!」彼は叫んだ。私はサイドテーブルの上の水差しをつかんで、
(かれをたすけるためにかけよった。どうじに、しつじとなんにんかのげぼくがげんかんほーるから)
彼を助けるために駆け寄った。同時に、執事と何人かの下僕が玄関ホールから
(かけこんできた。わたしがけがにんのそばにひざまずきおそろしいかおをらんぷのひかりのほうに)
駆け込んできた。私が怪我人の側にひざまずき恐ろしい顔をランプの光の方に
(むけたとき、かれらのひとりがきぜつしたことをおぼえている。りゅうさんがかおぜんたいをふしょくさせ、)
向けた時、彼らの一人が気絶した事を覚えている。硫酸が顔全体を腐食させ、
(みみとあごからしたたりおちていた。かためはすでにしろくなりにごっていた。もうかたほうの)
耳とあごから滴り落ちていた。片目はすでに白くなりにごっていた。もう片方の
(めはまっかでえんしょうをおこしていた。わたしがすうふんまえにしょうさんしたかおだちは、いまや)
目は真っ赤で炎症を起こしていた。私が数分前に賞賛した顔立ちは、いまや
(うつくしいかいがのうえをさくしゃがぬれたきたないすぽんじですったようになっていた。)
美しい絵画の上を作者が濡れた汚いスポンジで擦ったようになっていた。
(それは、よごれ、へんしょくし、かいぶつのようにおそろしかった。)
それは、汚れ、変色し、怪物のように恐ろしかった。
(わたしはりゅうさんのしゅうげきにかんけいするはんいないで、なにがおきたかをせいかくにみじかいことばで)
私は硫酸の襲撃に関係する範囲内で、何が起きたかを正確に短い言葉で
(せつめいした。なんにんかがまどからでて、ほかのものはしばふのうえをかけだした。しかしそとは)
説明した。何人かが窓から出て、他の者は芝生の上を駆け出した。しかし外は
(くらくあめがふりだしていた。さけびごえのあいだにけがにんはふくしゅうしゃにたいしていかり)
暗く雨が降り出していた。叫び声の間に怪我人は復讐者に対して怒り
(わめきちらしていた。「あのあばずれ、きてぃ・うぃんたー!」かれはさけんだ。)
わめき散らしていた。「あのあばずれ、キティ・ウィンター!」彼は叫んだ。
(「ああ、しょうわるおんな!このむくいはぜったいうけるぞ!むくいをうけろ!)
「ああ、性悪女!この報いは絶対受けるぞ!報いを受けろ!
(ああ、なんということだ、いたくてがまんできん!」わたしはかれのかおにあぶらをぬり、)
ああ、なんということだ、痛くて我慢できん!」私は彼の顔に油を塗り、
(むきだしのはだにだっしめんをあて、もるひねのひかちゅうしゃをした。このしょうげきのまえでは、)
むき出しの肌に脱脂綿を当て、モルヒネの皮下注射をした。この衝撃の前では、
(あらゆるぎねんがこころからきえうせ、かれはわたしのてにしがみついた。あたかもわたしが)
あらゆる疑念が心から消え失せ、彼は私の手にしがみついた。あたかも私が
(すくうちからをもっているかのように、よくみえないしんださかなのようなめで)
救う力をもっているかのように、良く見えない死んだ魚のような目で
(わたしをみあげていた。わたしは、かれのはずべきじんせいがこのおそろしいへんかのげんいんだと)
私を見上げていた。私は、彼の恥ずべき人生がこの恐ろしい変化の原因だと
(はっきりきいていなかったらこのはめつになみだしたかもしれなかった。わたしは、かれが)
はっきり聞いていなかったらこの破滅に涙したかもしれなかった。私は、彼が
(やけつくてでわたしにふれているのをかんじてぞっとしたので、かれのしゅじいと)
焼け付く手で私に触れているのを感じてぞっとしたので、彼の主治医と
(そのすぐあとにせんもんいがきて、わたしのしごとをひきついでくれたときはほっとした。)
そのすぐ後に専門医が来て、私の仕事を引き継いでくれた時はほっとした。
(けいさつのそうさかんもとうちゃくし、わたしはほんとうのめいしをてわたした。)
警察の捜査官も到着し、私は本当の名刺を手渡した。
(わたしはほーむずとほぼおなじくらいろんどんけいしちょうにはかおをしられていたので、)
私はホームズとほぼ同じくらいロンドン警視庁には顔を知られていたので、
(にせのめいしをわたすのはいみがないばかりではなくおろかなことだっただろう。そして)
偽の名刺を渡すのは意味がないばかりではなく愚かなことだっただろう。そして
(わたしはくらいきょうふのいえをあとにした。いちじかんとたたずにわたしはべーかーがいにもどった。)
私は暗い恐怖の家を後にした。一時間と経たずに私はベーカー街に戻った。
(ほーむずはひじょうにあおざめ、ひろうこんぱいしたようすでいつものいすにすわっていた。)
ホームズは非常に青ざめ、疲労困憊した様子でいつもの椅子に座っていた。
(じぶんのきずはべつにしても、このよるのできごとはほーむずのてつのしんけいにさえ)
自分の傷は別にしても、この夜の出来事はホームズの鉄の神経にさえ
(しょうげきをあたえた。そしてかれはだんしゃくのへんぼうにかんするわたしのせつめいをきょうふのおももちで)
衝撃を与えた。そして彼は男爵の変貌に関する私の説明を恐怖の面持ちで
(ききいっていた。「つみのむくいだな、わとそん、・・・・つみのむくいだ!」)
聞き入っていた。「罪の報いだな、ワトソン、・・・・罪の報いだ!」
(かれはいった。「はやかれおそかれつみのむくいはさけられないのだ。)
彼は言った。「早かれ遅かれ罪の報いは避けられないのだ。
(それにみあうつみをおかしたかどうかのはんていはかみのみぞしるだ」かれはつけくわえた。)
それに見合う罪を犯したかどうかの判定は神のみぞ知るだ」彼は付け加えた。
(かれは、てーぶるからちゃいろのてちょうをとりあげた。「これがあのおんながいっていた)
彼は、テーブルから茶色の手帳を取り上げた。「これがあの女が言っていた
(てちょうだ。もしこれではだんにならないなら、なにをやってもだめだろう。)
手帳だ。もしこれで破談にならないなら、何をやっても駄目だろう。
(だがこれはきっときく、わとそん。ぜったいにきく。)
だがこれはきっと効く、ワトソン。絶対に効く。
(じそんしんのあるじょせいならだれでもがまんできるものではない」)
自尊心のある女性なら誰でも我慢できるものではない」
(「それはかれのあいのにっしか?」)
「それは彼の愛の日誌か?」
(「しきよくにっきかもしらんな。なんとよんでもかまわんが。あのおんながはなしたしゅんかん、)
「色欲日記かもしらんな。何と呼んでも構わんが。あの女が話した瞬間、
(もしそれをにゅうしゅさえできれば、ぼくはとんでもないぶきになることにきづいた。)
もしそれを入手さえ出来れば、僕はとんでもない武器になることに気づいた。
(このじょせいがそれをもらすきけんせいがあったので、ぼくはあのときじぶんのかんがえを)
この女性がそれを漏らす危険性があったので、僕はあの時自分の考えを
(おもてにださなかった。しかしぼくはずっとそのかんがえをあたためていた。)
表に出さなかった。しかし僕はずっとその考えを暖めていた。
(そのご、このぼくへのしゅうげきで、だんしゃくはぼくにたいしてようじんするひつようがなくなったと)
その後、この僕への襲撃で、男爵は僕に対して用心する必要がなくなったと
(おもうことになった。これはかんぜんにこうつごうだった。)
思うことになった。これは完全に好都合だった。
(もうすこしまちたいところだったが、かれがあめりかにいくというのでやむを)
もう少し待ちたいところだったが、彼がアメリカに行くというのでやむを
(えなかった。かれはこんなにもたいめんをけがすぶんしょをのこしていくはずがなかった。)
えなかった。彼はこんなにも体面を汚す文書を残していくはずがなかった。
(だからわれわれはすぐにこうどうをおこすひつようがあった。よるのあいだにおしいることは)
だから我々はすぐに行動を起こす必要があった。夜の間に押し入る事は
(ふかのうだった。かれはようじんをしていた。しかしもしかくじつに)
不可能だった。彼は用心をしていた。しかしもし確実に
(かれのちゅういをそらすことができるなら、ゆうがたにはちゃんすがあった。)
彼の注意をそらす事ができるなら、夕方にはチャンスがあった。
(きみとせいじのつけこむすきはそこにあった。しかしぼくはてちょうのばしょを)
君と青磁の付け込む隙はそこにあった。しかし僕は手帳の場所を
(はっきりさせるひつようがあったし、こうどうするじかんがほんのすうふんしかないことを)
はっきりさせる必要があったし、行動する時間がほんの数分しかないことを
(しっていた。ぼくのじかんはきみのちゅうごくとうじきのちしきによってせいげんされていたからね。)
知っていた。僕の時間は君の中国陶磁器の知識によって制限されていたからね。
(だからぼくはあのじょせいをさいごのしゅんかんにまねきよせたのだ。)
だから僕はあの女性を最後の瞬間に招き寄せたのだ。
(かのじょがまんとのしたであれほどしんちょうにはこんでいたちいさなつつみがなんだったかなど、)
彼女がマントの下であれほど慎重に運んでいた小さな包みが何だったかなど、
(どうしてぼくにそうぞうができただろう。かのじょはかんぜんにぼくのようけんできたと)
どうして僕に想像ができただろう。彼女は完全に僕の用件で来たと
(おもっていたが、かのじょにはなにかじぶんのようがあったようだな」)
思っていたが、彼女には何か自分の用があったようだな」
(「かれはわたしがきみのししゃだとかんづいたよ」「そうなるんじゃないかとおもっていた。)
「彼は私が君の使者だと感づいたよ」「そうなるんじゃないかと思っていた。
(しかしきみはちょうどほんをうばえるあいだ、かれをひきつけておいた、)
しかし君はちょうど本を奪える間、彼を引き付けておいた、
(ーーみられずににげられるほどのながさではなかったがね。)
―― 見られずに逃げられるほどの長さではなかったがね。
(ああ、さー・じぇいむず、おこしいただけてひじょうにこうえいです!」)
ああ、サー・ジェイムズ、お越しいただけて非常に光栄です!」
(まえもってよばれていたさー・じぇいむず・だむりーがあらわれた。)
前もって呼ばれていたサー・ジェイムズ・ダムリーが現れた。
(かれはなにがおきたかというほーむずのせつめいに、じっとききいっていた。)
彼は何が起きたかというホームズの説明に、じっと聞き入っていた。
(「あなたはおどろくべきことをやりとげましたね、・・・・おどろくべきことを!」)
「あなたは驚くべき事をやり遂げましたね、・・・・驚くべき事を!」
(かれははなしをききおえてさけんだ。「しかし、だんしゃくがわとそんはかせのおっしゃるような)
彼は話を聞き終えて叫んだ。「しかし、男爵がワトソン博士のおっしゃるような
(おそろしいきずをおったのなら、そのいまわしいてちょうをつかわなくても、)
恐ろしい傷を負ったのなら、その忌まわしい手帳を使わなくても、
(けっこんをはばむというもくてきはじゅうぶんたっせいできるのではないでしょうか」)
結婚を阻むという目的は十分達成できるのではないでしょうか」
(ほーむずはくびをふった。「ど・めるヴぃるのようなじょせいはそうはいきません。)
ホームズは首を振った。「ド・メルヴィルのような女性はそうはいきません。
(かれをきずつけられたじゅんきょうしゃとみなして、ますますあいするでしょう。だめです。)
彼を傷つけられた殉教者とみなして、ますます愛するでしょう。だめです。
(はめつさせなければならないのはかれのにくたいではなくせいしんです。このてちょうで)
破滅させなければならないのは彼の肉体ではなく精神です。この手帳で
(かのじょはめがさめるでしょう・・・・これいがいではふかのうだとわかっています。)
彼女は目が覚めるでしょう・・・・これ以外では不可能だと分かっています。
(これはかれじしんのひっせきでかかれています。むしできるはずがありません」)
これは彼自身の筆跡で書かれています。無視できるはずがありません」
(さー・じぇいむずはてちょうときちょうなさらをいっしょにもちかえった。)
サー・ジェイムズは手帳と貴重な皿を一緒に持ち帰った。
(おそくなっていたので、わたしもかれといっしょにとおりにまでおりていった。)
遅くなっていたので、私も彼と一緒に通りにまで下りて行った。
(よんりんばしゃがまっていた。かれはとびのり、こけーどをつけたぎょしゃに)
四輪馬車が待っていた。彼は飛び乗り、コケードをつけた御者に
(いそいでいくようにつげ、すばやくはしりさった。)
急いで行くように告げ、素早く走り去った。
(かれはぱねるにあったもんしょうをかくすためにこーとをはんぶんまどのそとにたらしていた。)
彼はパネルにあった紋章を隠すためにコートを半分窓の外に垂らしていた。
(しかしそれでもげんかんのあかりでもんしょうがめにはいった。わたしはおどろきにいきをのんだ。)
しかしそれでも玄関の明かりで紋章が目に入った。私は驚きに息を飲んだ。
(それからわたしはひきかえしほーむずのへやまでかいだんをかけあがった。)
それから私は引き返しホームズの部屋まで階段を駆け上がった。
(「いらいにんがだれかわかったぞ」わたしはたいへんなじじつをしって、)
「依頼人が誰か分かったぞ」私は大変な事実を知って、
(はちきれそうになりながらさけんだ。「なんと、ほーむず、それは・・・」)
はちきれそうになりながら叫んだ。「なんと、ホームズ、それは・・・」
(「それは、ちゅうじつなゆうじんでありこうけつなしんし」ほーむずはわたしをたしなめるように)
「それは、忠実な友人であり高潔な紳士」ホームズは私をたしなめるように
(てをあげていった。「われわれにとって、げんざいもしょうらいもそういうことにしておこう」)
手を上げて言った。「我々にとって、現在も将来もそういうことにしておこう」
(だんしゃくのつみをばくろするあのてちょうがどのようにつかわれたか、わたしはしらされていない。)
男爵の罪を暴露するあの手帳がどのように使われたか、私は知らされていない。
(さー・じぇいむずがことをはこんだのかもしれない。しかし、これほどまでに)
サー・ジェイムズが事を運んだのかもしれない。しかし、これほどまでに
(でりけーとなしごとはわかいじょせいのちちおやにゆだねられたかのうせいがたかいだろう。)
デリケートな仕事は若い女性の父親に委ねられた可能性が高いだろう。
(どちらにしても、そのこうかはかんぜんにきたいどおりだった。みっかご、)
どちらにしても、その効果は完全に期待通りだった。三日後、
(もーにんぐぽすとに、あでるばーと・ぐらなーだんしゃくとみす・ヴぁいおれっと・)
モーニングポストに、アデルバート・グラナー男爵とミス・ヴァイオレット・
(ど・めるヴぃるのけっこんは、なくなったもようだというきじがのった。)
ド・メルヴィルの結婚は、無くなった模様だという記事が載った。
(おなじしんぶんに、りゅうさんをあびせるというじゅうだいなけんぎできそされた、)
同じ新聞に、硫酸を浴びせるという重大な嫌疑で起訴された、
(みす・きてぃ・うぃんたーのちょうもんにかんするきじがあった。おおきなざいじょうけいげんじゆうが)
ミス・キティ・ウィンターの聴聞に関する記事があった。大きな罪状軽減事由が
(ほうていにていしゅつされたので、はんけつは、ーーこれはきおくにのこるだろうがーー、)
法廷に提出されたので、判決は、 ―― これは記憶に残るだろうが ―― 、
(このようなはんざいにたいしてもっともかるいものとなった。しゃーろっくほーむずは)
このような犯罪に対して最も軽いものとなった。シャーロックホームズは
(せっとうできそされるおそれがあったが、もくてきがせいとうでいらいにんがじゅうぶんにこうめいなばあい、)
窃盗で起訴される恐れがあったが、目的が正当で依頼人が十分に高名な場合、
(げんかくないぎりすけんさつもおもいやりとじゅうなんせいをみせた。)
厳格なイギリス検察も思いやりと柔軟性を見せた。
(わがゆうじんはいまだにひこくだいにはたたされていない。)
わが友人はいまだに被告台には立たされていない。