パノラマ奇島談_§16
人見は自殺を偽装して、自らは死んだこととし、菰田家のあるM県に向かうと、源三郎の墓を暴いて、死体を隣の墓の下に埋葬しなおし、さも源三郎が息を吹き返したように装って、まんまと菰田家に入り込むことに成功する。人見は菰田家の財産を処分して、M県S郡の南端にある小島・沖の島に長い間、夢見ていた理想郷を建設する。
一方、蘇生後、自分を遠ざけ、それまで興味関心を示さなかった事業に熱中する夫を源三郎の妻・千代子は当惑して見つめていた。千代子に自分が源三郎でないと感付かれたと考えた人見は千代子を、自らが建設した理想郷・パノラマ島に誘う。人見が建設した理想郷とはどのようなものだったのか。そして、千代子の運命は?
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問題文
(もしも、きょうふにいろづけされたとき、びがいっそうふかみをますものとすれば、よにかい)
もしも、恐怖に色付けされた時、美が一層深みを増すものとすれば、世に海
(ていのけしきほどうつくしいものはないでしょう。すくなくとも、ちよこは、このはじめ)
底の景色ほど美しいものはないでしょう。少なくとも、千代子は、この初め
(てのけいけんによって、うまれていらいかつてあじわったことのない、むげんせかいのびに)
ての経験によって、生れて以来かつて味わったことのない、夢幻世界の美に
(せっしたようにかんじたのです。)
接したように感じたのです。
(やみのかなたから、なにかきょだいなもののけはいがして、ふたつのりんこうがうすれるととも)
闇の彼方から、何か巨大なものの気配がして、二つの燐光が薄れるととも
(に、じょじょにでんこうのなかにすがたをあらわしたしまめのあざやかなはたたてだいのゆうしにせっし)
に、徐々に電光の中に姿を現した縞目の鮮やかなハタタテダイの雄姿に接し
(たときなどは、かのじょはおもわずかんたんのこえをはなって、きょうふとかんきのあまり、おっとの)
たときなどは、彼女は思わず感嘆の声を放って、恐怖と歓喜のあまり、夫の
(そでにすがりついたほどでした。)
袖にすがりついたほどでした。
(あおじろくひかった、ほうまんなひしがたのたいくに、きょくじつきのせんじょうのように、ふとくよこざまにふ)
青白く光った、放漫な菱形の体躯に、旭日旗の線条のように、太く横ざまに二
(たはけ、あざやかなかつこくしょくのしまめ、それがでんとうにうつって、ほとんどきんいろにかがやいて)
た刷子、鮮やかな褐黒色の縞目、それが電燈に移って、ほとんど金色に輝いて
(いるのです。ようふのようにすみどった、おおきなめ、つきでたくちびる、そして、せびれの)
いるのです。妖婦のように隅取った、大きな目、突き出た唇、そして、背鰭の
(いっぽんが、せんごくじだいのぶしょうのかざりものににて、めざましくのびているのです。それ)
一本が、戦国時代の武将の飾り物に似て、目覚ましく伸びているのです。それ
(がおおきくからだをうねらせて、がらすいたにちかづき、むきをかえて、がらすいたにそっ)
が大きく体をうねらせて、ガラス板に近づき、向きを変えて、ガラス板に沿っ
(て、それとすれすれに、かのじょのめのまえをおよぎはじめたとき、かのじょはふたたび、かんたんのさけ)
て、それとすれすれに、彼女の目の前を泳ぎ始めた時、彼女は再び、感嘆の叫
(びをあげないではいられませんでした。それがかんヴぁすのうえの、がかのそうさく)
びをあげないではいられませんでした。それがカンヴァスの上の、画家の創作
(になるずあんではなくて、いっぴきのいきものであることが、)
になる図案ではなくて、一匹の生き物であることが、
(かのじょにとってはきょういだったのです。)
彼女にとっては驚異だったのです。
(しかし、すすむにしたがって、かのじょはもはや、いっぴきのさかなにおどろいているよゆうはありま)
しかし、進むにしたがって、彼女は最早、一匹の魚に驚いている余裕はありま
(せんでした。つぎからつぎとがらすいたのそとに、かのじょをそうげいするぎょるいのおびただし)
せんでした。次から次とガラス板の外に、彼女を送迎する魚類のおびただし
(さ、そのあざやかさ、きみわるさ、すずめだい、てんぐだい、たかのはだい、ある)
さ、その鮮やかさ、気味悪さ、スズメダイ、テングダイ、タカノハダイ、ある
(ものは、しきんにひかるしまめ、あるものはえのぐでそめだしたようなはんもん、もしそ)
ものは、紫金に光る縞目、あるものは絵の具で染め出したような斑紋、もしそ
(のようなけいようがゆるされるならば、あくむのうつくしさ、それはじつに、あのせんりつすべき)
のような形容が許されるならば、悪夢の美しさ、それは実に、あの戦慄すべき
(あくむのうつくしさのほかのものではないのでした。)
悪夢の美しさのほかのものではないのでした。
(「まだまだ、わたしがおまえにみせたいものは、これからさきにあるのだよ。わたしがあら)
「まだまだ、私がお前に見せたいものは、これから先にあるのだよ。私があら
(ゆるちゅうげんにみみをかそうともせず、ぜんざいさんをなげうち、いっしょうをぼうにふってはじめた)
ゆる忠言に耳を貸そうともせず、全財産をなげうち、一生を棒に振って始めた
(しごとなのだ。わたしのこしらえあげたげいじゅつひんがどのようにりっぱなものだか、まだすっか)
仕事なのだ。私の拵え上げた芸術品がどのように立派なものだか、まだすっか
(りできあがってはいないのだけれど、だれよりもさきに、まずおまえにみてもらいた)
り出来上がってはいないのだけれど、誰よりも先に、まずお前に見てもらいた
(いのだ。そして、おまえのひひょうがききたいのだ。たぶんおまえにはわたしのしごとのねうち)
いのだ。そして、お前の批評が聞きたいのだ。多分お前には私の仕事の値打ち
(がわかってもらえるとおもうのだが。・・・・・・ほら、ちょっと、ここをのぞいてごら)
がわかってもらえると思うのだが。……ホラ、ちょっと、ここをのぞいてごら
(ん。こうしてみるとうみのなかがまたちがってみえるのだよ」)
ん。こうしてみると海の中がまた違って見えるのだよ」
(ひろすけは、あるかんじょうをこめてささやくのでした。)
広介は、ある感情をこめてささやくのでした。
(かれのゆびさしたかしょをみますと、そこは、がらすいたのかぶがけいさんすんばかりという)
彼の指さした個所を見ますと、そこは、ガラス板の下部が径三寸ばかりという
(もの、みょうなふうにふくれあがって、ちょうどべつのがらすをはめこんだようなかたちな)
もの、妙なふうに膨れ上がって、ちょうど別のガラスをはめ込んだような形な
(のです。すすめられるままに、ちよこはせをかがめて、)
のです。すすめられるままに、千代子は背をかがめて、
(こわごわそこへめをあてました。)
こわごわそこへ目をあてました。
(さいしょはがんかいぜんたいにむらくものようなものがひろがって、なにがなんだかわかりませんで)
最初は眼界全体にむら雲のようなものが広がって、何が何だかわかりませんで
(したが、めのきょりをいろいろかえているうちに、やがて、そのむこうがわに、おそろし)
したが、目の距離を色々変えているうちに、やがて、その向こう側に、恐ろし
(いもののうごめいているのが、はっきりとわかってくるのでした。)
い物のうごめいているのが、ハッキリとわかってくるのでした。
(じゅうろく)
十六
(そこには、ひとかかえもありそうながんせきがごろごろころがっているじめんから、ちょう)
そこには、一抱えもありそうな岩石がゴロゴロ転がっている地面から、ちょう
(どひこうせんのがすのうをたてにしたほどのかっしょくのふくろが、いくつもいくつも、そらざまにうき)
ど飛行船のガス嚢を縦にしたほどの褐色の嚢が、幾つも幾つも、空ざまに浮き
(あがって、それがみずのためにゆらりゆらりとゆらいでいるのです。)
上がって、それが水のためにユラリユラリと揺らいでいるのです。
(あまりのふしぎさに、そのままのぞいていますと、おおぶくろのこうほうのみずがいようにさわぐ)
あまりの不思議さに、そのまま覗いていますと、大嚢の後方の水が異様に騒ぐ
(かとおもうあいだに、ふくろのあいだをかきわけるようにして、えにみるたいこのひりゅうなど)
かと思う間に、嚢のあいだをかき分けるようにして、絵に見る太古の飛竜など
(というせいぶつににた、おそろしくきょだいなものが)
という生物に似た、恐ろしく巨大なものが
(のそりのそりとはいだしてくるのです。)
ノソリノソリと這いだしてくるのです。
(はっとして、なにかじしゃくにすいよせられたかんじで、みをひくちからもなく、とどうじ)
ハッとして、何か磁石に吸い寄せられた感じで、身を引く力もなく、と同時
(に、ことのしだいがすこしずつわかりかけてきたために、いくらかあんずるところもあっ)
に、事の次第が少しずつ分かりかけてきた為に、いくらか安ずるところもあっ
(て、かのじょはそのままみうごきもしないで、ふしぎなものをみつづけていたのです)
て、彼女はそのまま身動きもしないで、不思議なものを見続けていたのです
(が、すると、しょうめんをむいたかおのおおきさが、ひこうせんのきのうのすうばいもあるかいぶつは、)
が、すると、正面を向いた顔の大きさが、飛行船の気嚢の数倍もある怪物は、
(そのかおぜんたいがよこにまっぷたつにさけたほどのきょだいなくちをぱくぱくさせながら、ひ)
その顔全体が横に真っ二つに裂けたほどの巨大な口をパクパクさせながら、飛
(りゅうそのままに、せなかにうずたかくもりあがったすうこのとっきぶつを、ゆらゆらうごか)
竜そのままに、背中にうず高く盛り上がった数個の突起物を、ユラユラ動か
(し、ふしくれだったみじかいあしで、じりじりとこちらへちかづいてくるのです。)
し、節くれ立った短い足で、ジリジリとこちらへ近づいてくるのです。
(そして、それがかのじょのめのまえにせっきんしてきたときのおそろしさ、しょうめんからみれ)
そして、それが彼女の目の前に接近してきたときの恐ろしさ、正面から見れ
(ば、ほとんどかおばかりのけものです。みじかいあしのうえにすぐくちがあき、ぞうのような)
ば、ほとんど顔ばかりのけものです。短い足の上にすぐ口が開き、像のような
(ほそいめがただちにせなかのとっきぶつにせっしています。ひふは、ひじょうにでこぼこのおお)
細い目がただちに背中の突起物に接しています。皮膚は、非常にでこぼこの多
(い、ざらざらしたもので、そのうえにみにくいはんてんがくろくうきだしている、それがお)
い、ざらざらしたもので、その上に醜い斑点が黒く浮き出している、それがお
(そらくこやまのようなおおきさで、まざまざとかのじょのめにうつったのです。)
そらく小山のような大きさで、まざまざと彼女の目に映ったのです。
(「あなた、あなた・・・」)
「あなた、あなた…」
(かのじょはやっとめをはなすと、おそわれたようにおっとのほうをふりむきました。)
彼女はやっと目を離すと、おそわれたように夫の方を振り向きました。
(「なあに、こわいことはないのだよ、それはどのつよいむしめがねなんだ。いまおまえが)
「なあに、こわいことはないのだよ、それはどの強い虫眼鏡なんだ。今お前が
(みたものはね。ほら、こうして、このあたりまえのがらすのところからのぞいてご)
見たものはね。ホラ、こうして、このあたり前のガラスのところから覗いてご
(らん。あんなちっぽけなさかなでしかありゃしない。いざりうおっていうのだよ。)
らん。あんなちっぽけな魚でしかありゃしない。イザリウオっていうのだよ。
(あんこうのるいなのだ。あいつはああして、ひれのへんけいしたあしでもって、うみのそこを)
アンコウの類なのだ。あいつはああして、鰭の変形した足でもって、海の底を
(はうこともできるのだよ。ああ、あのふくろみたいなものかい。あれはみるとおりかい)
這うこともできるのだよ。ああ、あの嚢みたいなものかい。あれは見る通り海
(そうのいっしゅで、わたもっていうんだそうだ。ふくろのかたちをしているんだね。さあ、も)
草の一種で、わたもって言うんだそうだ。嚢の形をしているんだね。さあ、も
(っとむこうのほうへいってみよう。さっきふねのものにいいつけておいたから、う)
っと向こうの方へ行ってみよう。さっき船のものに言いつけておいたから、う
(まくまにあえば、もうすこしいくと、おもしろいものがみられるはずだよ」)
まく間に合えば、もう少し行くと、面白いものが見られるはずだよ」
(ちよこはおっとのせつめいをきいても、こわいもみたさのきみょうなゆうわくにこうしかたくて、ふたた)
千代子は夫の説明を聞いても、こわいも見たさの奇妙な誘惑に抗し難くて、再
(びみたび、このひろすけのいたずらはんぶんのれんずそうちを、)
びみたび、この広介のいたずら半分のレンズ装置を、
(のぞきなおしてみないではいられませんでした。)
のぞき直して見ないではいられませんでした。
(しかし、さいごにかのじょをもっともおどろかせたのは、そのようなこがたなざいくのれんずそうち)
しかし、最後に彼女を最も驚かせたのは、そのような小刀細工のレンズ装置
(や、ありふれたかいそう、ぎょかいのるいではなくて、それらよりはいくそうばいものうえんな、せん)
や、ありふれた海草、魚介の類ではなくて、それらよりは幾層倍も濃艶な、鮮
(れいな、そしてうすきみのわるいあるものだったのです。)
麗な、そして薄気味の悪い或るものだったのです。
(しばらくあるくうちに、かのじょは、はるかずじょうに、かすかなものおとというよりは、いっ)
しばらく歩くうちに、彼女は、はるか頭上に、かすかな物音というよりは、一
(しゅのはどうのようなものをかんじました。そして、なにかのよかんが、ふと、かのじょのあし)
種の波動のようなものを感じました。そして、何かの予感が、ふと、彼女の足
(をとめたのです。すると、ひじょうにおおきなさかなのようなものが、むすうのこまかいあわの)
を止めたのです。すると、非常に大きな魚のようなものが、無数の細かい泡の
(おをひきながら、やみのすいちゅうをくぐって、そのいようになめらかなしろいからだがでんとうのひかり)
尾を引きながら、闇の水中をくぐって、その異様に滑らかな白い体が電燈の光
(にちらとてらされたかとおもうと、おそろしいそくどで、えものほしげにしょくしゅをうごかし)
にチラと照らされたかと思うと、恐ろしい速度で、獲物欲しげに触手を動かし
(ているかいそうのしげみのなかへすがたをぼっしてしまったのです。)
ている海草の茂みの中へ姿を没してしまったのです。
(「あなた・・・」)
「あなた…」
(かのじょはまたしても、おっとのうでにすがりつかないではいられませんでした。)
彼女は又しても、夫の腕にすがりつかないではいられませんでした。
(「みてごらん、あのものところをみてごらん」)
「見てごらん、あの藻のところを見てごらん」
(ひろすけはかのじょをはげますようにささやきました。)
広介は彼女を励ますようにささやきました。
(ほむらのもうせんかとみえるあまのりのゆかが、いっかしょいようにみだれて、しんじゅのようにつやや)
焔の毛氈かと見えるアマノリの床が、一箇所異様に乱れて、真珠のように艶や
(かなすいほうがむすうにたちのぼり、ひとみをこらせば、そのすいほうのたちのぼるあたりに)
かな水泡が無数に立ち昇り、ひとみを凝らせば、その水泡の立ち昇るあたりに
(は、あおじろくなめらかないちぶつが、ひらめのかっこうでかいていにすいついているのです。)
は、青白く滑らかな一物が、ヒラメの格好で海底に吸い付いているのです。
(やがて、こんぶとみまがうくろかみが、もやのように、のろのろとゆらいで、みだれ)
やがて、コンブと見まがう黒髪が、もやのように、のろのろと揺らいで、乱れ
(て、そのしたから、しろいひたいが、ふたつのわらっためが、そして、はをむきだしたあかい)
て、その下から、白い額が、二つの笑った目が、そして、歯をむき出した赤い
(くちびるが、つぎつぎとあらわれ、はらばってかおだけをしょうめんにむけたすがたで、かのじょはじょじょにがらす)
唇が、次々と現れ、腹ばって顔だけを正面に向けた姿で、彼女は徐々にガラス
(いたのほうへちかづいてくるのでした。)
板の方へ近づいてくるのでした。
(「おどろくことはない。あれはわたしのやとっているもぐりのじょうずなおんななのだ。わたしたちをむか)
「驚くことはない。あれは私の雇っている潜りの上手な女なのだ。私たちを迎
(えにきてくれたのだよ」)
えに来てくれたのだよ」
(よろよろとたおれそうになったちよこをだきとめて、ひろすけがせつめいします。ちよこ)
よろよろと倒れそうになった千代子を抱きとめて、広介が説明します。千代子
(はいきをはずませて、こどものようにさけぶのです。)
は息を弾ませて、子供のように叫ぶのです。
(「まあ、びっくりしましたわ。こんなうみのそこににんげんがいるんですもの」)
「まあ、びっくりしましたわ。こんな海の底に人間がいるんですもの」
(かいていのらじょは、がらすいたのところまでくると、うかぶようにふわりとたちあが)
海底の裸女は、ガラス板のところまで来ると、浮かぶようにフワリと立ち上が
(りました。ずじょうにうずまくくろかみ、くるしそうにゆがんだわらいがお、うきあがったちぶさ、)
りました。頭上に渦巻く黒髪、苦しそうに歪んだ笑い顔、浮き上がった乳房、
(からだいちめんにかがやくすいほう、そのすがたでかのじょはうちがわのふたりとならんでがらすへきにてをささえな)
体一面に輝く水泡、その姿で彼女は内側の二人と並んでガラス壁に手を支えな
(がら、そろそろとあるきはじめるのでした。)
がら、そろそろと歩き始めるのでした。