芥川龍之介 地獄変⑥

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問題文

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(じゅういちじっさいししょうにころされるということも、まったくないとはもうされません。)

【十一】実際師匠に殺されると云う事も、全くないとは申されません。

(げんにそのばんわざわざでしをよびよせたのでさえ、じつはみみずくをけしかけて、)

現にその晩わざわざ弟子を呼びよせたのでさえ、実は耳木兎を嗾けて、

(でしのにげまわるありさまをうつそうというこんたんらしかったのでございます。)

弟子の逃げまわる有様を写そうと云う魂胆らしかったのでございます。

(でございますから、でしは、ししょうのようすをひとめみるがはやいか、おもわずりょうそでにあたまを)

でございますから、弟子は、師匠の容子を一目見るが早いか、思わず両袖に頭を

(かくしながら、じぶんにもなんといったかわからないようなひめいをあげて、そのまま)

隠しながら、自分にも何と云ったかわからないような悲鳴をあげて、その儘

(へやのすみのやりどのすそへ、いすくまってしまいました。とそのひょうしに、よしひでも)

部屋の隅の遣戸の裾へ、居すくまってしまいました。とその拍子に、良秀も

(なにやらあわてたようなこえをあげて、たちあがったけしきでございましたが、たちまちみみずくの)

何やら慌てたような声をあげて、立上った気色でございましたが、忽ち耳木兎の

(はおとがいっそうまえよりもはげしくなって、もののたおれるおとややぶれるおとが、けたたましく)

羽音が一層前よりもはげしくなって、物の倒れる音や破れる音が、けたたましく

(きこえるではございませんか。これにはでしもにど、どをうしなって、おもわず)

聞えるではございませんか。これには弟子も二度、度を失って、思わず

(かくしていたあたまをあげてみますと、へやのなかはいつかまっくらになっていて、ししょうの)

隠していた頭を上げて見ますと、部屋の中は何時かまっ暗になっていて、師匠の

(でしたちをよびたてるこえが、そのなかでいらだたしそうにしております。)

弟子たちを呼び立てる声が、その中で苛立たしそうにして居ります。

(やがてでしのひとりが、とおくのほうでへんじをして、それからひをかざしながら、)

やがて弟子の一人が、遠くの方で返事をして、それから灯をかざしながら、

(いそいでやってまいりましたが、そのすすくさいあかりでながめますと、ゆいとうだいがたおれたので)

急いでやって参りましたが、その煤臭い明りで眺めますと、結燈台が倒れたので

(ゆかもたたみもいちめんにあぶらだらけになったところへ、さっきのみみずくがかたほうのつばさばかり、)

床も畳も一面に油だらけになった所へ、さっきの耳木兎が片方の翼ばかり、

(くるしそうにはためかしながら、ころげまわっているのでございます。よしひではつくえの)

苦しそうにはためかしながら、転げまわっているのでございます。良秀は机の

(むこうでなかばからだをおこしたまま、さすがにあっけにとられたようなかおをして、なにやらひとには)

向うで半ば体を起した儘、流石に呆気にとられたような顔をして、何やら人には

(わからないことをぶつぶつつぶやいておりました。ーーそれもむりではございません。)

わからない事をぶつぶつ呟いて居りました。ーーそれも無理ではございません。

(あのみみずくのからだには、まっくろなへびがいっぴき、くびからかたほうのつばさへかけて、きりきりと)

あの耳木兎の体には、まっ黒な蛇が一匹、頸から片方の翼へかけて、きりきりと

(まきついているのでございます。おおかたこれはでしがいすくまるひょうしに、)

捲きついているのでございます。大方これは弟子が居すくまる拍子に、

(そこにあったつぼをひっくりかえして、そのなかのへびがはいだしたのを、みみずくが)

そこにあった壺をひっくり返して、その中の蛇が這い出したのを、耳木兎が

など

(なまじいにつかみかかろうとしたばかりに、とうとうこういうおおさわぎが)

なまじいに掴みかかろうとしたばかりに、とうとうこう云う大騒ぎが

(はじまったのでございましょう。ふたりのでしはたがいにめとめとをみあわせて、)

始まったのでございましょう。二人の弟子は互に眼と眼とを見合わせて、

(しばらくはただ、このふしぎなこうけいをぼんやりながめておりましたが、やがてししょうに)

暫くは唯、この不思議な光景をぼんやり眺めて居りましたが、やがて師匠に

(もくれいをして、こそこそへやへひきさがってしまいました。へびとみみずくとがそのご)

黙礼をして、こそこそ部屋へ引き下ってしまいました。蛇と耳木兎とがその後

(どうなったか、それはだれもしっているものはございません。ーー)

どうなったか、それは誰も知っているものはございません。ーー

(こういうたぐいのことは、そのほかまだ、いくつとなくございました。)

こう云う類の事は、その外まだ、幾つとなくございました。

(さきにはもうしおとしましたが、じごくへんのびょうぶをかけというごさたがあったのは、)

前には申し落しましたが、地獄変の屏風を描けと云う御沙汰があったのは、

(あきのはじめでございますから、それいらいふゆのすえまで、よしひでのでしたちは、たえず)

秋の初でございますから、それ以来冬の末まで、良秀の弟子たちは、絶えず

(ししょうのあやしげなふるまいにおびやかされていたわけでございます。が、そのふゆのすえによしひでは)

師匠の怪しげな振舞に脅かされていた訳でございます。が、その冬の末に良秀は

(なにかびょうぶのえで、じゆうにならないことができたのでございましょう、)

何か屏風の絵で、自由にならない事が出来たのでございましょう、

(それまでよりは、いっそうようすもいんきになり、ものいいもめにみえて、あらあらしくなって)

それまでよりは、一層容子も陰気になり、物言いも目に見えて、荒々しくなって

(まいりました。とどうじにまたびょうぶのえも、したえがはちぶとおりできあがったまま、さらにはかどる)

参りました。と同時に又屏風の画も、下画が八分通り出来上った儘、更に捗る

(もようはございません。いや、どうかするといままでにえがいたところさえ、)

模様はございません。いや、どうかすると今までに描いた所さえ、

(ぬりけしてもしまいかねないけしきなのでございます。)

塗り消してもしまい兼ねない気色なのでございます。

(そのくせ、びょうぶのなにがじゆうにならないのだか、それはだれにもわかりません。)

その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。

(また、だれもわかろうとしたものもございますまい。さきのいろいろなできごとに)

又、誰もわかろうとしたものもございますまい。前のいろいろな出来事に

(こりているでしたちは、まるでころうとひとつおりにでもいるようなこころもちで、)

懲りている弟子たちは、まるで虎狼と一つ檻にでもいるような心もちで、

(そのごししょうのみのまわりへは、なるべくちかづかないさんだんをしておりましたから。)

その後師匠の身のまわりへは、成る可く近づかない算段をして居りましたから。

(じゅうにしたがってそのあいだのことについては、べつにとりたててもうしあげるほどのおはなしも)

【十二】従ってその間の事に就いては、別に取り立てて申し上げる程の御話も

(ございません。もししいてもうしあげるといたしましたら、それはあのごうじょうなおやじが)

ございません。もし強いて申し上げると致しましたら、それはあの強情な老爺が

(なぜかみょうになみだもろくなって、ひとのいないところではときどきひとりでないていたという)

何故か妙に涙脆くなって、人のいない所では時々独りで泣いていたと云う

(おはなしくらいなものでございましょう。ことにあるひ、なにかのようででしのひとりが、にわさきへ)

御話位なものでございましょう。殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ

(まいりましたときなぞはろうかにたってぼんやりはるのちかいそらをながめているししょうのめが、)

参りました時なぞは廊下に立ってぼんやり春の近い空を眺めている師匠の眼が、

(なみだでいっぱいになっていたそうでございます。でしはそれをみますと、)

涙で一ぱいになっていたそうでございます。弟子はそれを見ますと、

(かえってこちらがはずかしいようなきがしたので、だまってこそこそひきかえしたと)

反ってこちらが恥しいような気がしたので、黙ってこそこそ引き返したと

(もうすことでございますが、ごしゅしょうじのずをえがくためには、みちばたのしがいさえうつしたと)

申す事でございますが、五趣生死の図を描く為には、道ばたの死骸さえ写したと

(いう、ごうまんなあのおとこが、びょうぶのえがおもうようにえがけないくらいのことで、こどもらしく)

云う、傲慢なあの男が、屏風の画が思うように描けない位の事で、子供らしく

(なきだすなどともうすのは、ずいぶんいなものでございませんか。)

泣き出すなどと申すのは、随分異なものでございませんか。

(ところがいっぽうよしひでがこのように、まるでしょうきのにんげんとはおもわれないほどむちゅうになって、)

所が一方良秀がこのように、まるで正気の人間とは思われない程夢中になって、

(びょうぶのえをかいておりますうちに、またいっぽうではあのむすめが、なぜかだんだん)

屏風の絵を描いて居ります中に、又一方ではあの娘が、何故かだんだん

(きうつになって、わたくしどもにさえなみだをこらえているようすが、めにたってまいりました。)

気鬱になって、私どもにさえ涙を堪えている容子が、眼に立って参りました。

(それががんらいうれいがおの、いろのしろい、つつましやかなおんなだけに、こうなるとなんだか)

それが元来愁い顔の、色の白い、つつましやかな女だけに、こうなると何だか

(まつげがおもくなって、めのまわりにくまがかかったような、よけいさびしいきが)

睫毛が重くなって、眼のまわりに隈がかかったような、余計寂しい気が

(いたすのでございます。はじめはやれちちおもいのせいだの、やれこいわずらいをしているから)

致すのでございます。初はやれ父思いのせいだの、やれ恋煩いをしているから

(だの、いろいろおくそくをいたしたものがございますが、なかごろから、なにあれは)

だの、いろいろ憶測を致したものがございますが、中頃から、なにあれは

(おおとのさまがぎょいにしたがわせようとしていらっしゃるのだというひょうばんがたちはじめて、)

大殿様が御意に従わせようとしていらっしゃるのだと云う評判が立ち始めて、

(それからはだれもわすれたように、ぱったりあのむすめのうわさをしなくなってしまいました。)

それからは誰も忘れた様に、ぱったりあの娘の噂をしなくなって了いました。

(ちょうどそのころのことでございましょう。あるよる、こうがたけてから、わたくしがひとりごろうかを)

丁度その頃の事でございましょう。或夜、更が闌けてから、私が独り御廊下を

(とおりかかりますと、あのさるのよしひでがいきなりどこからかとんでまいりまして、)

通りかかりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んで参りまして、

(わたくしのはかまのすそをしきりにひっぱるのでございます、たしか、もううめのにおいでもいたしそうな、)

私の袴の裾を頻りにひっぱるのでございます、確、もう梅の匂でも致しそうな、

(うすいつきのひかりのさしている、あたたかいよるでございましたが、そのあかりですかして)

うすい月の光のさしている、暖かい夜でございましたが、其明りですかして

(みますと、さるはまっしろなはをむきだしながら、はなのさきへしわをよせて、)

見ますと、猿はまっ白な歯をむき出しながら、鼻の先へ皺をよせて、

(きがちがわないばかりにけたたましくなきたてているではございませんか。)

気が違わないばかりにけたたましく啼き立てているではございませんか。

(わたくしはきみのわるいのがさんぶと、あたらしいはかまをひっぱられるはらだたしさがしちぶとで、)

私は気味の悪いのが三分と、新しい袴をひっぱられる腹立たしさが七分とで、

(さいしょはさるをけはなして、そのままとおりすぎようかともおもいましたが、またおもいかえして)

最初は猿を蹴放して、その儘通りすぎようかとも思いましたが、又思い返して

(みますと、さきにこのさるをせっかんしてわかとのさまのごふきょうをうけたさむらいのれいもございます。)

見ますと、前にこの猿を折檻して若殿様の御不興を受けた侍の例もございます。

(それにさるのふるまいが、どうもただごととはおもわれません。そこでとうとうわたくしも)

それに猿の振舞が、どうも唯事とは思われません。そこでとうとう私も

(おもいきって、そのひっぱるほうへごろっけんあるくともなくあるいてまいりました。)

思い切って、そのひっぱる方へ五六間歩くともなく歩いて参りました。

(するとごろうかがひとまがりまがって、やめにもうすじろいおいけのみずがえだぶりのやさしい)

すると御廊下が一曲り曲って、夜目にもうす白い御池の水が枝ぶりのやさしい

(まつのむこうにひろびろとみわたせる、ちょうどそこまでまいったときのことでございます。)

松の向うにひろびろと見渡せる、丁度そこ迄参った時の事でございます。

(どこかちかくのへやのなかでひとのあらそっているらしいけはいが、あわただしく、またみょうに)

どこか近くの部屋の中で人の争っているらしい気配が、慌しく、又妙に

(ひっそりとわたくしのみみをおびやかしました。あたりはどこもしんとしずまりかえって、つきあかりとも)

ひっそりと私の耳を脅しました。あたりはどこも森と静まり返って、月明りとも

(もやともつかないもののうちで、さかなのはねるおとがするほかは、はなしごえひとつきこえません。)

靄ともつかないものの中で、魚の跳ねる音がする外は、話し声一つ聞えません。

(そこへこのものおとでございますから。わたくしはおもわずたちどまって、もしろうぜきものででも)

そこへこの物音でございますから。私は思わず立止って、もし狼藉者ででも

(あったなら、めにものみせてくれようと、そっとそのやりどのそとへ、)

あったなら、目にもの見せてくれようと、そっとその遣戸の外へ、

(いきをひそめながらみをよせました。)

息をひそめながら身をよせました。

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