太宰治 姥捨①
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問題文
(そのとき、)
そのとき、
(「いいの。あたしは、きちんとしまついたします。はじめからかくごしていた)
「いいの。あたしは、きちんと仕末いたします。はじめから覚悟していた
(ことなのです。ほんとうに、もう。」かわったこえでつぶやいたので、)
ことなのです。ほんとうに、もう。」変った声で呟いたので、
(「それはいけない。おまえのかくごというのはわたしにはわかっている。ひとりで)
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にはわかっている。ひとりで
(しんでゆくつもりか、でなければ、みひとつでやけくそにおちてゆくか、)
死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、
(そんなところだろうとおもう。おまえには、ちゃんとしたおやもあればおとうともある。)
そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば弟もある。
(わたしは、おまえがそんなきでいるのを、しっていながら、はいそうですかと)
私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかと
(すましてみているわけにゆかない。」などと、ふんべつありげなことを)
すまして見ているわけにゆかない。」などと、ふんべつありげなことを
(いっていながら、かひちも、ふっとしにたくなった。「しのうか。いっしょにしのう。)
言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。「死のうか。一緒に死のう。
(かみさまだってゆるしてくれる。」ふたり、げんしゅくにみじたくをはじめた。)
神様だってゆるして呉れる。」ふたり、厳粛に身支度をはじめた。
(あやまったひとをあいぶしたつまと、つまをそのようなこういにまでおいやるほど、)
あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、
(それほどにちじょうのせいかつをこうはいさせてしまったおっとと、おたがいみのけつまつを)
それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を
(しぬことによってつけようとおもった。そうしゅんのいちにちである。そのつきのせいかつひが)
死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が
(じゅうし、ごえんあった。それを、そっくりけいたいした。そのほか、ふたりのきがえの)
十四、五円あった。それを、そっくり携帯した。そのほか、ふたりの着換えの
(きものありったけ、かひちのどてらと、かずえのあわせいちまい、おびにほん、)
着物ありったけ、嘉七のどてらと、かず枝の袷いちまい、帯二本、
(それだけしかのこってなかった。それをふろしきにつつみ、かずえがかかえて、)
それだけしか残ってなかった。それを風呂敷に包み、かず枝がかかえて、
(ふうふがめずらしくかたをならべてのがいしゅつであった。おっとにはまんとがなかった。)
夫婦が珍しく肩をならべての外出であった。夫にはマントがなかった。
(くるめがすりのきものにはんちんぐ、のうこんのきぬのえりまきをくびにむすんで、げただけは、)
久留米絣の着物にハンチング、濃紺の絹の襟巻を首にむすんで、下駄だけは、
(しろくあたらしかった。つまにもこおとがなかった。はおりもきものもおなじやがすりもようのめいせんで)
白く新しかった。妻にもコオトがなかった。羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙で
(うすあかいがいこくせいのぬのきれのしょおるが、ふにあいにおおきくそのじょうはんしんを)
うすあかい外国製の布切のショオルが、不似合いに大きくその上半身を
(おおっていた。しちやのすこしてまえでふうふはわかれた。まひるのおぎくぼのえきには、)
覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。真昼の荻窪の駅には、
(ひそひそひとがではいりしていた。かひちは、えきのまえにだまってたって)
ひそひそ人が出はいりしていた。嘉七は、駅のまえに黙って立って
(たばこをふかしていた。きょときょとかひちをさがしもとめて、ふいとかひちのすがたを)
煙草をふかしていた。きょときょと嘉七を捜し求めて、ふいと嘉七の姿を
(みとめるや、ほとんどころげるようにかけよってきて、「せいこうよ。だいせいこう。」と)
認めるや、ほとんどころげるように駈け寄って来て、「成功よ。大成功。」と
(はしゃいでいた。「じゅうごえんもかしやがった。ばかねえ。」)
はしゃいでいた。「十五円も貸しやがった。ばかねえ。」
(このおんなはしなぬ。しなせては、いけないひとだ。おれみたいにせいかつに)
この女は死なぬ。死なせては、いけないひとだ。おれみたいに生活に
(おしつぶされていない。まだまだせいかつするちからをのこしている。しぬひとではない。)
圧し潰されていない。まだまだ生活する力を残している。死ぬひとではない。
(しぬことをくわだてたというだけで、このひとのせけんへのもうしわけがたつはずだ。)
死ぬことを企てたというだけで、この人の世間への申しわけが立つ筈だ。
(それだけで、いい。このひとは、ゆるされるだろう。それでいい。おれだけ、)
それだけで、いい。この人は、ゆるされるだろう。それでいい。おれだけ、
(ひとりしのう。「それは、おてがらだ。」とびしょうしてほめてやって、そっとかたを)
ひとり死のう。「それは、お手柄だ。」と微笑してほめてやって、そっと肩を
(たたいてやりたくおもった。「あわせてさんじゅうえんじゃないか。ちょっとしたりょこうが)
叩いてやりたく思った。「あわせて三十円じゃないか。ちょっとした旅行が
(できるね。」)
できるね。」
(しんじゅくまでのきっぷをかった。しんじゅくでおりて、それからくすりやにはしった。そこで)
新宿までの切符を買った。新宿で降りて、それから薬屋に走った。そこで
(さいみんざいのおおばこをいっこかい、それからほかのくすりやにいってべっしゅのさいみんざいをひとはこ)
催眠剤の大箱を一個買い、それからほかの薬屋に行って別種の催眠剤を一箱
(かった。かずえをみせのそとにまたせておいて、かひちはわらいながらそのやくひんを)
買った。かず枝を店の外に待たせて置いて、嘉七は笑いながらその薬品を
(かいもとめたので、べつだん、くすりやにあやしまれることはなかった。さいごに)
買い求めたので、別段、薬屋にあやしまれることはなかった。さいごに
(みつこしにはいり、やくひんぶにいき、みせのざっとうゆえにすこしだいたんになり、おおばこをふたつ)
三越にはいり、薬品部に行き、店の雑沓ゆえに少し大胆になり、大箱を二つ
(もとめた。くろめがち、まじめそうなほそおもてのじょてんいんが、ちらとこぎのしわをみけんに)
求めた。黒眼がち、真面目そうな細面の女店員が、ちらと狐疑の皺を眉間に
(うかべた。いやなかおをしたのだ。かひちも、はっ、となった。きゅうにはびしょうも、)
浮べた。いやな顔をしたのだ。嘉七も、はっ、となった。急には微笑も、
(つくれなかった。やくひんは、つめたくてわたされた。おれたちのうしろすがたを、せのびして)
つくれなかった。薬品は、冷く手渡された。おれたちのうしろ姿を、背伸びして
(みている。それをしっていながら、かひちは、わざとかずえにぴったりよりそうて)
見ている。それを知っていながら、嘉七は、わざとかず枝にぴったり寄り添うて
(ひとごみのなかをあるいた。じしんこんなにへいきであるいていても、やはりひとからみると、)
人ごみの中を歩いた。自身こんなに平気で歩いていても、やはり人から見ると、
(どこかいようなかげがあるのだ。かひちは、かなしいとおもった。みつこしでは、それから)
どこか異様な影があるのだ。嘉七は、かなしいと思った。三越では、それから
(かずえは、とくばいじょうでしろたびをいっそくかい、かひちはじょうとうのがいこくたばこをかって、)
かず枝は、特売場で白足袋を一足買い、嘉七は上等の外国煙草を買って、
(そとへでた。じてんしゃにのり、あさくさへいった。かつどうかんへはいって、そこではこうじょうのつき)
外へ出た。自転車に乗り、浅草へ行った。活動館へはいって、そこでは荒城の月
(というえいがをやっていた。さいしょいなかのしょうがっこうのやねやさくがうつされて、)
という映画をやっていた。さいしょ田舎の小学校の屋根や柵が映されて、
(こどものしょうかがきこえてきた。かひちは、それになかされた。)
小供の唱歌が聞えて来た。嘉七は、それに泣かされた。
(「こいびとどうしはね、」かひちはくらやみのなかでわらいながらつまにはなしかけた。「こうして)
「恋人どうしはね、」嘉七は暗闇の中で笑いながら妻に話しかけた。「こうして
(かつどうをみていながら、こうやっててをにぎりあっているものだそうだ。」)
活動を見ていながら、こうやって手を握り合っているものだそうだ。」
(ふびんさに、みぎてでもってかずえのひだりてをたぐりよせ、そのうえにかひちの)
ふびんさに、右手でもってかず枝の左手をたぐり寄せ、そのうえに嘉七の
(はんちんぐをかぶせてかくし、かずえのちいさいてをぐっとにぎってみたが、)
ハンチングをかぶせてかくし、かず枝の小さい手をぐっと握ってみたが、
(さすがにかかるくるしいたちばにおかれてあるふうふのあいだでは、それはふけつにかんじられ、)
流石にかかる苦しい立場に置かれて在る夫婦の間では、それは不潔に感じられ、
(おそろしくなって、かひちは、そっとてをはなした。かずえは、ひくくわらった。)
おそろしくなって、嘉七は、そっと手を離した。かず枝は、ひくく笑った。
(かひちのぶきようなじょうだんにわらったのではなく、えいがのつまらぬぎゃぐに)
嘉七の不器用な冗談に笑ったのではなく、映画のつまらぬギャグに
(わらいきょうじていたのだ。このひとは、えいがをみていてこうふくになれるつつましい、)
笑い興じていたのだ。このひとは、映画を見ていて幸福になれるつつましい、
(いいおんなだ。このひとを、ころしてはいけない。こんなひとがしぬなんて、)
いい女だ。このひとを、ころしてはいけない。こんなひとが死ぬなんて、
(まちがいだ。「しぬの、よさないか?」「ええ、どうぞ。」うっとりとえいがを)
間違いだ。「死ぬの、よさないか?」「ええ、どうぞ。」うっとりと映画を
(みつづけながら、ちゃんとこたえた。「あたし、ひとりでしぬつもり)
見つづけながら、ちゃんと答えた。「あたし、ひとりで死ぬつもり
(なんですから。」)
なんですから。」
(かひちは、にょたいのふしぎをかんじた。かつどうかんをでたときには、ひがくれていた。)
嘉七は、女体の不思議を感じた。活動館を出たときには、日が暮れていた。
(かずえは、すしをくいたい、といいだした。かひちは、すしはなまぐさくてすきでは)
かず枝は、すしを食いたい、と言いだした。嘉七は、すしは生臭くて好きでは
(なかった。それにこんやは、もすこしこうかなものをくいたかった。)
なかった。それに今夜は、も少し高価なものを食いたかった。
(「すしは、こまるな。」「でも、あたしは、たべたい。」かずえに、わがままの)
「すしは、困るな。」「でも、あたしは、たべたい。」かず枝に、わがままの
(びとくをおしえたのは、とうのかひちであった、にんじゅうのすましがおのふじゅんをれいしょうして)
美徳を教えたのは、とうの嘉七であった、忍従のすまし顔の不純を例証して
(いばっておしえた。みんなおれにはねかえってくる。)
威張って教えた。みんなおれにはねかえって来る。
(すしやですこしおさけをのんだ。かひちはかきのふらいをたのんだ。これがとうきょうでの)
すし屋で少しお酒を呑んだ。嘉七は牡蠣のフライをたのんだ。これが東京での
(さいごのたべものになるのだ、とじぶんにいいきかせてみて、さすがにくしょうであった。)
最後のたべものになるのだ、と自分に言い聞かせてみて、流石に苦笑であった。
(つまは、てっかをたべていた。「おいしいか。」「まずい。」しんから)
妻は、てっかをたべていた。「おいしいか。」「まずい。」しんから
(にくにくしそうにそういって、またひとつほおばり、「ああまずい。」)
憎々しそうにそう言って、また一つ頬張り、「ああまずい。」
(ふたりとも、あまりくちをきかなかった。)
ふたりとも、あまり口をきかなかった。