太宰治 姥捨②
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問題文
(すしやをでて、それからまんざいかんにはいった。まんいんですわれなかった。いりぐちから)
すし屋を出て、それから漫才館にはいった。満員で坐れなかった。入口から
(あふれるほどいっぱいのおきゃくがおしあいへしあいしながらたってみていて、)
あふれるほど一ぱいのお客が押し合いへし合いしながら立って見ていて、
(それでも、ときどきあはははとこえをそろえてわらっていた。きゃくたちにもまれもまれて、)
それでも、時々あはははと声をそろえて笑っていた。客たちにもまれもまれて、
(かずえは、かひちのところから、ごけんいじょうもとおくへひきはなされた。かずえは、)
かず枝は、嘉七のところから、五間以上も遠くへ引き離された。かず枝は、
(せがひくいから、おきゃくのかきのあいだからぶたいをのぞきみするのにだいくしんのていであった。)
背が低いから、お客の垣の間から舞台を覗き見するのに大苦心の態であった。
(いなかくさいこおんなにみえた。かひちも、きゃくにもまれながら、ちょいちょいせのび)
田舎くさい小女に見えた。嘉七も、客にもまれながら、ちょいちょい背伸び
(しては、かずえのそのすがたをこころぼそげにおいもとめているのだ。ぶたいよりも、かずえの)
しては、かず枝のその姿を心細げに追い求めているのだ。舞台よりも、かず枝の
(すがたのほうをおおくみていた。くろいふろしきづつみをむねにしっかりだきかかえて、)
姿のほうを多く見ていた。黒い風呂敷包を胸にしっかり抱きかかえて、
(そのおにもつのなかにはやくひんもつつまれてあるのだが、あたまをあちこちうごかしてぶたいの)
そのお荷物の中には薬品も包まれて在るのだが、頭をあちこち動かして舞台の
(げいにんのありさまをみようとあせっているかずえも、ときたまふっとふりかえってかひちの)
芸人の有様を見ようとあせっているかず枝も、ときたまふっと振り返って嘉七の
(すがたをさがしもとめた。ちらとたがいのしせんがあっても、べつだん、ふたりびしょうも)
姿を捜し求めた。ちらと互いの視線が合っても、べつだん、ふたり微笑も
(しなかった。なんでもないかおをしていて、けれども、やはり、あんしんだった。)
しなかった。なんでもない顔をしていて、けれども、やはり、安心だった。
(あのおんなに、おれはずいぶん、おせわになった。それは、わすれてはならぬ。せきにんは)
あの女に、おれはずいぶん、お世話になった。それは、忘れてはならぬ。責任は
(みんなおれにあるのだ。よのなかのひとが、もし、あのひとをしだんするなら、おれは)
みんなおれに在るのだ。世の中のひとが、もし、あの人を指弾するなら、おれは
(どんなにでもして、あのひとをかばわなければならぬ。あのおんなは、いいひとだ。)
どんなにでもして、あのひとをかばわなければならぬ。あの女は、いいひとだ。
(それは、おれがしっている。しんじている。こんどのことは?ああ、いけない、)
それは、おれが知っている。信じている。こんどのことは? ああ、いけない、
(いけない。おれは、わらってすませぬのだ。だめなのだ。あのことだけは、おれは)
いけない。おれは、笑ってすませぬのだ。だめなのだ。あのことだけは、おれは
(へいきでおられぬ。たまらないのだ。ゆるせ。これはおれのさいごのえごいずむだ。)
平気で居られぬ。たまらないのだ。ゆるせ。これはおれの最後のエゴイズムだ。
(りんりは、おれは、こらえることができる。かんかくが、たまらぬのだ。とてもがまんが)
倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。とても我慢が
(できぬのだ。わらいのなみがわっとかんないにひろがった。かひちは、かずえに)
できぬのだ。笑いの波がわっと館内にひろがった。嘉七は、かず枝に
(めくばせしてそとにでた。)
目くばせして外に出た。
(「みなかみにいこう、ね。」そのまえのとしのひとなつを、みなかみえきからとほでいちじかんほど)
「水上に行こう、ね。」その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど
(のぼっていきつけるたにがわおんせんという、やまのなかのおんせんばですごした。しんじつくるしすぎた)
登って行き着ける谷川温泉という、山の中の温泉場で過した。真実くるし過ぎた
(ひとなつではあったが、くるしすぎて、いまではこいしきさいのついたえはがきのように)
一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように
(かんびなおもいでにさえなっていた。しろいゆうだちのふりかかるやま、かわ、)
甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかかる山、川、
(かなしくしねるようにおもわれた。みなかみ、ときいて、かずえのからだはきゅうに)
かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に
(いきいきしてきた。「あ、そんなら、あたし、あまぐりをかっていかなくちゃ。)
生き生きして来た。「あ、そんなら、あたし、甘栗を買って行かなくちゃ。
(おばさんがね、たべたいたべたいいってたの。」そのやどのろうさいに、かずえは)
おばさんがね、たべたいたべたい言ってたの。」その宿の老妻に、かず枝は
(あまえて、また、あいされてもいたようであった。ほとんどしろうとげしゅくのようなやどで、)
甘えて、また、愛されてもいたようであった。ほとんど素人下宿のような宿で、
(へやもみっつしかなかったし、うちゆもなくて、すぐとなりのおおきいりょかんにおゆを)
部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣の大きい旅館にお湯を
(もらいにいくか、あめふってるときにはかさをさし、よるならちょうちんかはだかろうそくもって)
もらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提燈かはだか蝋燭もって
(したのたにがわまでおりていってかわらのちいさいのてんぶろにひたらなければ)
したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければ
(ならなかった。ろうふうふふたりきりでこどももなかったようだし、それでもみっつの)
ならなかった。老夫婦ふたりきりで子供もなかったようだし、それでも三つの
(へやがたまにふさがることもあって、そんなときにはろうふうふてんてこまいで、)
部屋がたまにふさがることもあって、そんなときには老夫婦てんてこまいで、
(かずえもだいどころでてつだいやらじゃまやらしていたようであった。おぜんにも、すじこだの)
かず枝も台所で手伝いやら邪魔やらしていたようであった。お膳にも、筋子だの
(なっとうだのついていて、やどやのりょうりではなかった。かひちにはいごこちよかった。)
納豆だのついていて、宿屋の料理ではなかった。嘉七には居心地よかった。
(ろうさいがしつうをわずらい、みかねてかひちが、あすぴりんをあたえたところ、)
老妻が歯痛をわずらい、見かねて嘉七が、アスピリンを与えたところ、
(ききすぎて、てもなくとろとろねむりこんでしまって、ふだんからろうさいを)
ききすぎて、てもなくとろとろ眠りこんでしまって、ふだんから老妻を
(かわいがっているしゅじんは、しんぱいそうにうろうろして、かずえはおおわらいであった。)
可愛がっている主人は、心配そうにうろうろして、かず枝は大笑いであった。
(いちど、かひちがひとり、あたまをたれてやどちかくのくさむらをふらふらあるきまわって、)
いちど、嘉七がひとり、頭をたれて宿ちかくの草むらをふらふら歩きまわって、
(ふとやどのげんかんのほうをみたら、うすぐらいげんかんのかいだんのしたのいたのまに、ろうさいが)
ふと宿の玄関のほうを見たら、うす暗い玄関の階段の下の板の間に、老妻が
(ぺたんとすわったまま、ぼんやりかひちのすがたをながめていて、それはかひちのたっといひみつの)
ぺたんと坐ったまま、ぼんやり嘉七の姿を眺めていて、それは嘉七の貴い秘密の
(ひとつになった。ろうさいといっても、しじゅうし、ごのふくぶくしいかおのじょうひんに)
ひとつになった。老妻といっても、四十四、五の福々しい顔の上品に
(おっとりしたひとであった。しゅじんは、ようしらしかった。そのろうさいである。)
おっとりしたひとであった。主人は、養子らしかった。その老妻である。
(かずえは、あまぐりをかいもとめた。かひちはすすめて、もすこしおおくかわせた。)
かず枝は、甘栗を買い求めた。嘉七はすすめて、もすこし多く買わせた。
(うえのえきには、ふるさとのにおいがする。だれか、きょうりのひとがいないかと、)
上野駅には、ふるさとのにおいがする。誰か、郷里のひとがいないかと、
(かひちには、いつもおそろしかった。わけてもそのよるは、おたなのてだいとじょちゅうが)
嘉七には、いつもおそろしかった。わけてもその夜は、お店の手代と女中が
(やぶいりでうろつきまわっているようなみなりだったし、ずいぶんひとめが)
藪入りでうろつきまわっているような身なりだったし、ずいぶん人目が
(はばかられた。ばいてんで、かずえはもだんにほんのたんていしょうせつとくしゅうごうをかい、)
はばかられた。売店で、かず枝はモダン日本の探偵小説特輯号を買い、
(かひちは、ういすきいのこびんをかった。にいがたゆき、じゅうじはんのきしゃにのりこんだ。)
嘉七は、ウイスキイの小瓶を買った。新潟行、十時半の汽車に乗りこんだ。
(むかいあってせきにおちついてから、ふたりはかすかにわらった。「ね、あたし、)
向い合って席に落ちついてから、ふたりはかすかに笑った。「ね、あたし、
(こんなかっこうをして、おばさんへんにおもわないかしら。」「かまわないさ。ふたりで)
こんな恰好をして、おばさん変に思わないかしら。」「かまわないさ。ふたりで
(あさくさへかつどうみにいってそのかえりにしゅじんがよっぱらって、みなかみのおばさんとこに)
浅草へ活動見にいってその帰りに主人がよっぱらって、水上のおばさんとこに
(いこうってきかないから、そのままきましたっていえば、それでいい。」)
行こうってきかないから、そのまま来ましたって言えば、それでいい。」
(「それも、そうね。」けろっとしていた。すぐ、またいいだす。「おばさん、)
「それも、そうね。」けろっとしていた。すぐ、また言いだす。「おばさん、
(おどろくでしょうね。」きしゃがはっしゃするまでは、やはりおちつかぬようすであった。)
驚くでしょうね。」汽車が発車するまでは、やはり落ちつかぬ様子であった。
(「よろこぶだろう。きっと。」はっしゃした。かずえは、ふっとこわばったかおになり)
「よろこぶだろう。きっと。」発車した。かず枝は、ふっとこわばった顔になり
(きょろとぷらっとふぉーむをよこめでみて、これでおしまいだ。どきょうがでたのか、)
きょろとプラットフォームを横目で見て、これでおしまいだ。度胸が出たのか、
(ひざのふろしきづつみをほどいてざっしをとりだし、ぺえじをくった。)
膝の風呂敷包をほどいて雑誌を取り出し、ペエジを繰った。
(かひちは、あしがだるく、むねだけふかいにわくわくして、くすりをのむようなきもちで)
嘉七は、脚がだるく、胸だけ不快にわくわくして、薬を飲むような気持で
(ういすきいをくちのみした。かねがあれば、なにもこのおんなをしなせなくてもいいのだ。)
ウイスキイを口のみした。金があれば、何もこの女を死なせなくてもいいのだ。
(あいての、あのおとこが、もすこしはっきりしたおとこだったら、これはまたべつなかたちも)
相手の、あの男が、もすこしはっきりした男だったら、これはまた別な形も
(とれるのだ。みちゃいられぬ。このおんなのじさつは、いみがない。)
執れるのだ。見ちゃ居られぬ。この女の自殺は、意味がない。
(「おい、わたしは、いいこかね。」だしぬけにかひちは、いいだした。)
「おい、私は、いい子かね。」だしぬけに嘉七は、言い出した。
(「じぶんばかり、いいこになろうと、しているのかね。」こえがおおきかったので、)
「自分ばかり、いい子になろうと、しているのかね。」声が大きかったので、
(かずえはあわて、それから、まゆをけわしくしかめておこった。かひちは、きよわく、)
かず枝はあわて、それから、眉をけわしくしかめて怒った。嘉七は、気弱く、
(にやにやわらった。「だけどもね、」おどけて、わざとひつよういじょうにこえをおとして、)
にやにや笑った。「だけどもね、」おどけて、わざと必要以上に声を落して、
(「おまえは、まだ、そんなにふしあわせじゃないのだよ。だって、おまえは、)
「おまえは、まだ、そんなに不仕合せじゃないのだよ。だって、おまえは、
(ふつうのおんなだもの。わるくもなければよくもない。ほんしつから、ふつうのおんなだ。)
ふつうの女だもの。わるくもなければよくもない。本質から、ふつうの女だ。
(けれども、わたしはちがう。たいへんなやつだ。どうやら、これは、ふつういかだ。」)
けれども、私はちがう。たいへんな奴だ。どうやら、これは、ふつう以下だ。」