太宰治 姥捨⑥(終)

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(にどめにめがさめたときには、かたわらのかずえは、ぐうぐうおおきないびきをかいていた。)

二度目に眼がさめたときには、傍のかず枝は、ぐうぐう大きな鼾をかいていた。

(かひちは、それをきいていながら、はずかしいほどであった。じょうぶなやつだ。)

嘉七は、それを聞いていながら、恥かしいほどであった。丈夫なやつだ。

(「おい、かずえ。しっかりしろ。いきちゃった。ふたりとも、いきちゃった。」)

「おい、かず枝。しっかりしろ。生きちゃった。ふたり共、生きちゃった。」

(くしょうしながら、かずえのかたをゆすぶった。)

苦笑しながら、かず枝の肩をゆすぶった。

(かずえは、あんらくそうにねむりこけていた。しんやのやまのすぎのきは、にょきにょき)

かず枝は、安楽そうに眠りこけていた。深夜の山の杉の木は、にょきにょき

(だまってつったって、とがったはりのこずえには、つめたいはんげつがかかっていた。なぜか、)

黙ってつっ立って、尖った針の梢には、冷い半月がかかっていた。なぜか、

(なみだがでた。しくしくおえつをはじめた。おれは、まだまだこどもだ。こどもが、)

涙が出た。しくしく嗚咽をはじめた。おれは、まだまだ子供だ。子供が、

(なんでこんなくろうをしなければならぬのか。)

なんでこんな苦労をしなければならぬのか。

(とつぜん、かたわらのかずえが、さけびだした。「おばさん。いたいよう。むねが、)

突然、傍のかず枝が、叫び出した。「おばさん。いたいよう。胸が、

(いたいよう。」ふえのねににていた。かひちはきょうがくした。こんなおおきなこえをだして、)

いたいよう。」笛の音に似ていた。嘉七は驚駭した。こんな大きな声を出して、

(もし、だれかふもとのみちをとおるひとにでもきかれたら、たまったものでないとおもった。)

もし、誰か麓の路を通るひとにでも聞かれたら、たまったものでないと思った。

(「かずえ、ここは、やどではないんだよ。おばさんなんていないのだよ。」)

「かず枝、ここは、宿ではないんだよ。おばさんなんていないのだよ。」

(わかるはずがなかった。いたいよう、いたいようとさけびながら、からだをくるしげに)

わかる筈がなかった。いたいよう、いたいようと叫びながら、体を苦しげに

(くねくねさせて、そのうちにころころしたにころがっていった。ゆるいこうばいが、)

くねくねさせて、そのうちにころころ下にころがっていった。ゆるい勾配が、

(ふもとのかいどうまでもかずえのからだをころがしていくようにおもわれ、かひちもむりに)

麓の街道までもかず枝のからだをころがして行くように思われ、嘉七も無理に

(じぶんのからだをころがしてそのあとをおった。いっぽんのすぎのきにさえぎとめられ、)

自分のからだをころがしてそのあとを追った。一本の杉の木にさえぎ止められ、

(かずえは、そのみきにまつわりついて、「おばさん、さむいよう。)

かず枝は、その幹にまつわりついて、「おばさん、寒いよう。

(こたつもってきてよう。」とたかくさけんでいた。ちかよって、げっこうにてらされた)

火燵もって来てよう。」と高く叫んでいた。近寄って、月光に照らされた

(かずえをみると、もはや、ひとのすがたではなかった。かみは、ほどけて、)

かず枝を見ると、もはや、人の姿ではなかった。髪は、ほどけて、

(しかもそのかみには、すぎのくちばがいっぱいついて、ししのせいのかみのように、)

しかもその髪には、杉の朽葉が一ぱいついて、獅子の精の髪のように、

など

(やまうばのかみのように、あらくおおきくみだれていた。しっかりしなければ、)

山姥の髪のように、荒く大きく乱れていた。しっかりしなければ、

(おれだけでも、しっかりしなければ。かひちは、よろよろたちあがって、かずえを)

おれだけでも、しっかりしなければ。嘉七は、よろよろ立ちあがって、かず枝を

(だきかかえ、またすぎばやしのおくのほうへひきかえそうとつとめた。つんのめり、)

抱きかかえ、また杉林の奥のほうへ引きかえそうと努めた。つんのめり、

(はいあがり、ずりおち、きのねにすがり、つちをかきかき、すこしずつすこしずつ)

這いあがり、ずり落ち、木の根にすがり、土を掻き掻き、少しずつ少しずつ

(かずえのからだをはやしのおくへひきずりあげた。なんじかん、そのような、むしのどりょくを)

かず枝のからだを林の奥へ引きずりあげた。何時間、そのような、虫の努力を

(つづけていたろう。ああ、もういやだ。このおんなは、おれにはおもすぎる。)

つづけていたろう。ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。

(いいひとだが、おれのてにあまる。おれは、むりょくのにんげんだ。おれはいっしょう、)

いいひとだが、おれの手にあまる。おれは、無力の人間だ。おれは一生、

(このひとのために、こんなくろうをしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。)

このひとの為に、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。

(わかれよう。おれは、おれのちからで、つくせるところまでつくした。そのとき、)

わかれよう。おれは、おれのちからで、尽せるところまで尽した。そのとき、

(はっきりけっしんがついた。このおんなは、だめだ。おれにだけ、むさいげんにたよっている。)

はっきり決心がついた。この女は、だめだ。おれにだけ、無際限に頼っている。

(ひとから、なんといわれたっていい。おれは、このおんなとわかれる。)

ひとから、なんと言われたっていい。おれは、この女とわかれる。

(よあけがちかくなってきた。そらがしろくなりはじめたのである。かずえも、だんだん)

夜明けが近くなって来た。空が白くなりはじめたのである。かず枝も、だんだん

(おとなしくなってきた。あさぎりが、もやもやこだちにじゅうまんしている。)

おとなしくなって来た。朝霧が、もやもや木立に充満している。

(たんじゅんになろう。たんじゅんになろう。おとこらしさ、というこのことばのたんじゅんせいをわらうまい。)

単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。

(にんげんは、そぼくにいきるより、ほかに、いきかたがないものだ。)

人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。

(かたわらにねているかずえのかみの、すぎのくちばを、ひとつひとつたんねんにとってやりながら、)

傍に寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を、一つ一つ丹念に取ってやりながら、

(おれは、このおんなをあいしている。どうしていいか、わからないほどあいしている。)

おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。

(そいつが、おれのくのうのはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、)

そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、

(あいしながらとおざかりうる、なにかしらつよさをえた。いきていくためには、あいをさえ)

愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きていく為には、愛をさえ

(ぎせいにしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。せけんのひとは、)

犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、

(みんなそうしていきている。あたりまえにいきるのだ。いきてゆくには、)

みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、

(それよりほかにしかたがない。おれは、てんさいでない。きちがいじゃない。)

それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない。

(ひるすこしすぎまで、かずえは、たっぷりねむった。そのあいだに、かひちは、)

ひる少し過ぎまで、かず枝は、たっぷり眠った。そのあいだに、嘉七は、

(よろめきながらもじぶんのぬれたきものをぬいで、かわかし、また、かずえのげたを)

よろめきながらも自分の濡れた着物を脱いで、かわかし、また、かず枝の下駄を

(さがしまわったり、やくひんのあきばこをつちにうめたり、かずえのきもののどろをはんけちで)

捜しまわったり、薬品の空箱を土に埋めたり、かず枝の着物の泥をハンケチで

(ふきとったり、そのほかたくさんのしごとをした。かずえは、めをさまして、)

拭きとったり、その他たくさんの仕事をした。かず枝は、目をさまして、

(かひちからさくやのことをいろいろきかされ、「とうさん、すみません。」といって)

嘉七から昨夜のことをいろいろ聞かされ、「とうさん、すみません。」と言って

(ぴょこんとあたまをさげた。かひちは、わらった。)

ぴょこんと頭をさげた。嘉七は、笑った。

(かひちのほうは、もうあるけるようになっていたが、かずえは、だめであった。)

嘉七のほうは、もう歩けるようになっていたが、かず枝は、だめであった。

(しばらく、ふたりはすわったまま、きょうこれからのことをそうだんしあった。おかねは、)

しばらく、ふたりは坐ったまま、今日これからのことを相談し合った。お金は、

(まだじゅうえんちかくのこっていた。かひちは、ふたりいっしょにとうきょうへかえることを)

まだ拾円ちかく残っていた。嘉七は、ふたり一緒に東京へ帰ることを

(しゅちょうしたが、かずえは、きものもひどくよごれているし、とてもこのままではきしゃに)

主張したが、かず枝は、着物もひどく汚れているし、とてもこのままでは汽車に

(のれない、といい、けっきょくかずえは、またじどうしゃでたにがわおんせんへかえり、おばさんに、)

乗れない、と言い、結局かず枝は、また自動車で谷川温泉へ帰り、おばさんに、

(よそのおんせんばでさんぽしてころんできものをよごしたとか、なんとかへたなうそをいって、)

よその温泉場で散歩して転んで着物を汚したとか、なんとか下手な嘘を言って、

(かひちがとうきょうにさきにかえってきがえのきものとおかねをもってまたむかえにくるまで、)

嘉七が東京にさきに帰って着換えの着物とお金を持ってまた迎えに来るまで、

(やどでせいようしている、ということにてはずがきまった。かひちのきものがかわいたので、)

宿で静養している、ということに手筈が決まった。嘉七の着物がかわいたので、

(かひちはひとりすぎばやしからぬけて、みなかみのまちにでて、せんべいときゃらめると、)

嘉七はひとり杉林から脱けて、水上のまちに出て、せんべいとキャラメルと、

(さいだーをかい、またやまにひきかえしてきて、かずえといっしょにたべた。かずえは、)

サイダーを買い、また山に引き返して来て、かず枝と一緒に食べた。かず枝は、

(さいだーをひとくちのんではいた。)

サイダーを一口のんで吐いた。

(くらくなるまで、ふたりでいた。かずえが、やっとどうにかあるけるようになって、)

暗くなるまで、ふたりでいた。かず枝が、やっとどうにか歩けるようになって、

(ふたりこっそりすぎばやしをでた。かずえをじどうしゃにのせてたにがわにやってから、)

ふたりこっそり杉林を出た。かず枝を自動車に乗せて谷川にやってから、

(かひちは、ひとりできしゃでとうきょうにかえった。あとは、かずえのおじにじじょうを)

嘉七は、ひとりで汽車で東京に帰った。あとは、かず枝の叔父に事情を

(うちあけていっさいをたのんだ。むくちなおじは、「ざんねんだなあ。」といかにも、)

打ち明けて一切をたのんだ。無口な叔父は、「残念だなあ。」といかにも、

(ざんねんそうにしていた。おじがかずえをつれてかえって、おじのいえにひきとり、)

残念そうにしていた。叔父がかず枝を連れて帰って、叔父の家にひきとり、

(「かずえのやつ、やどのむすめみたいに、よるねるときは、ていしゅとおかみのあいだにふとん)

「かず枝のやつ、宿の娘みたいに、夜寝るときは、亭主とおかみの間に蒲団

(ひかせて、のんびりねていた。おかしなやつだね。」といって、くびをちぢめて)

ひかせて、のんびり寝ていた。おかしなやつだね。」と言って、首をちぢめて

(わらった。ほかには、なにもいわなかった。このおじは、いいひとだった。かひちが)

笑った。他には、何も言わなかった。この叔父は、いいひとだった。嘉七が

(はっきりかずえとわかれてからも、かひちと、なんのこだわりもなくさけをのんで)

はっきりかず枝とわかれてからも、嘉七と、なんのこだわりもなく酒をのんで

(あそびまわった。それでも、ときおり、「かずえも、かあいそうだね。」と)

遊びまわった。それでも、時おり、「かず枝も、かあいそうだね。」と

(おもいだしたようにふっといい、かひちは、そのつど、こころよわく、こまった。)

思い出したようにふっと言い、嘉七は、その都度、心弱く、困った。

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