有島武郎 或る女④

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問題文

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(なぜきべはかほどまでじぶんをぶじょくするのだろう。かれはいまでもじぶんをおんなと)

なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女と

(あなどっている。ちっぽけなさいりょくをいまでもたのんでいる。おんなよりもあさましいねつじょうを)

あなどっている。ちっぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を

(はなにかけて、いまでもじぶんのうんめいにさしでがましくたちいろうとしている。あの)

鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの

(じしんのないおくびょうなおとこにじぶんはさっきこびをみせようとしたのだ。そしてかれは)

自信のない臆病な男に自分はさっき媚びを見せようとしたのだ。そして彼は

(じぶんがこれほどまでほこりをすててあたえようとしたとくべつのこういをまなじりをかえして)

自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意を眦を反して

(のけたのだ。やせたきべのちいさなめはいぜんとしてようこをみつめていた。このとき)

退けたのだ。やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。この時

(とつぜんけたたましいわらいごえが、なにかねっしんにはなしあっていたふたりのちゅうねんのしんしの)

突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人の中年の紳士の

(くちからおこった。そのわらいごえとようことなんのかんけいもないことはようこにも)

口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にも

(わかりきっていた。しかしかのじょはそれをきくと、もうよくにもがまんがしきれなく)

わかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなく

(なった。そしてみぎのてをふかぶかとおびのあいだにさしこんだままたちあがりざま、)

なった。そして右の手を深々と帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、

(「きしゃによったんでしょうかしらん、ずつうがするの」とすてるようにことうに)

「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」と捨てるように古藤に

(いいのこして、いきなりくりどをあけてでっきにでた。だいぶたかくなったひのひかりが)

いい残して、いきなり繰り戸をあけてデッキに出た。だいぶ高くなった日の光が

(ぱっとおおもりたんぼにてりわたって、うみがわらいながらひかるのが、なみきのむこうに)

ぱっと大森田圃に照り渡って、海が笑いながら光るのが、並木の向こうに

(ひろすぎるくらいいちどきにめにはいるので、かるいめまいをさえおぼえるほどだった。)

広すぎるくらい一どきに目にはいるので、軽い眩暈をさえ覚えるほどだった。

(てつのてすりにすがってふりむくと、ことうがつづいてでてきたのをしった。そのかおには)

鉄の手欄にすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には

(しんぱいそうなおどろきのいろがあからさまにあらわれていた。「ひどくいたむんですか」)

心配そうな驚きの色が明らさまに現われていた。「ひどく痛むんですか」

(「ええかなりひどく」とこたえたがめんどうだとおもって、「いいからはいって)

「ええかなりひどく」と答えたがめんどうだと思って、「いいからはいって

(いてください。おおげさにみえるといやですから・・・だいじょうぶあぶなか)

いてください。おおげさに見えるといやですから・・・大丈夫あぶなか

(ありませんとも・・・」といいたした。ことうはしいてとめようとはしなかった。)

ありませんとも・・・」といい足した。古藤はしいてとめようとはしなかった。

(そして、「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ・・・ようが)

そして、「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ・・・用が

など

(あったらよんでくださいよ」とだけいってすなおにはいっていった。)

あったら呼んでくださいよ」とだけいって素直にはいって行った。

(「simpleton!」ようこはこころのなかでこうつぶやくと、やきすてたように)

「simpleton!」葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように

(ことうのことなんぞはわすれてしまって、てすりにひじをついたままほうしんして、ばんかの)

古藤の事なんぞは忘れてしまって、手欄に臂をついたまま放心して、晩夏の

(けしきをつつむひきしまったくうきにかおをなぶらした。きべのこともおもわない。みどりや)

景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑や

(あいやきいろのほか、これといってりんかくのはっきりしたしぜんのすがたもめにうつらない。)

藍や黄色のほか、これといって輪郭のはっきりした自然の姿も目に映らない。

(ただすずしいかぜがそよそよとびんのけをそよがしてとおるのをこころよいとおもっていた。)

ただ涼しい風がそよそよと鬢の毛をそよがして通るのを快いと思っていた。

(きしゃはめまぐるしいほどのかいそくりょくではしっていた。ようこのこころはただこんとんとくらく)

汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ渾沌と暗く

(かたまったもののまわりをあきることもなくいくどもいくどもひだりからみぎに、みぎからひだりに)

固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も幾度も左から右に、右から左に

(まわっていた。こうしてようこにとってはながいじかんがすぎさったとおもわれるころ、)

回っていた。こうして葉子にとっては長い時間が過ぎ去ったと思われるころ、

(とつぜんあたまのなかをひっかきまわすようなはげしいおとをたてて、きしゃはろくごうがわのてっきょうを)

突然頭の中を引っかきまわすような激しい音を立てて、汽車は六郷川の鉄橋を

(わたりはじめた。ようこはおもわずぎょっとしてゆめからさめたようにまえをみると、)

渡り始めた。葉子は思わずぎょっとして夢からさめたように前を見ると、

(つりばしのてつざいがくもでになってうえをしたへととびはねるので、ようこはおもわずでっきの)

釣り橋の鉄材が蛛手になって上を下へと飛びはねるので、葉子は思わずデッキの

(ぱんねるにみをひいて、りょうそででかおをおさえてものをねんじるようにした。そうやって)

パンネルに身を退いて、両袖で顔を抑えて物を念じるようにした。そうやって

(きをしずめようとめをつぶっているうちに、まつげをとおしそでをとおしてきべのかおと)

気を静めようと目をつぶっているうちに、まつげを通し袖を通して木部の顔と

(ことにそのかがやくちいさなりょうがんとがまざまざとそうぞうにうかびあがってきた。ようこの)

ことにその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮かび上がって来た。葉子の

(しんけいはじしゃくにすいよせられたさてつのように、かたくこのひとつのげんぞうのうえに)

神経は磁石に吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に

(しゅうちゅうして、しゃないにあったときとどうようなきんちょうしたおそろしいじょうたいにかえった。ていしゃばに)

集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に

(ちかづいたきしゃはだんだんとほどをゆるめていた。たんぼのここかしこに、ぞくあくな)

近づいた汽車はだんだんと歩度をゆるめていた。田圃のここかしこに、俗悪な

(いろでぬりたてたおおきなこうこくかんばんがつらねてたててあった。ようこはそでをかおから)

色で塗り立てた大きな広告看板が連ねて建ててあった。葉子は袖を顔から

(はなして、きもちのわるいげんぞうをはらいのけるように、ひとつひとつそのかんばんをみむかえ)

放して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え

(みおくっていた。ところどころにひがもえるようにそのかんばんはめにうつってきべのすがたはまた)

見送っていた。所々に火が燃えるようにその看板は目に映って木部の姿はまた

(おぼろになっていった。そのかんばんのひとつに、ながいくろかみをさげたひめがきょうかんを)

おぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻を

(もっているのがあった。そのむねにかかれた「ちゅうじょうとう」というもじを、なにげなしに)

持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯」という文字を、何げなしに

(いちじずつよみくだすと、かのじょはとつぜんしせいじのさだこのことをおもいだした。そしてその)

一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその

(ちちなるきべのすがたは、かかるらんざつなれんそうのちゅうしんとなって、またまざまざと)

父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと

(やきつくようにあらわれでた。そのあらわれでたきべのかおを、いわばこころのなかのめで)

焼きつくように現われ出た。その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で

(みつめているうちに、だんだんとそのはなのしたからひげがきえうせていって、かがやく)

見つめているうちに、だんだんとその鼻の下から髭が消えうせて行って、輝く

(ひとみのいろはやさしいにっかんてきなあたたかみをもちだしてきた。きしゃはじょじょにしんこうを)

ひとみの色は優しい肉感的な温かみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行を

(ゆるめていた。ややあれはじめたさんじゅうおとこのひふのつやは、)

ゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢(つや)は、

(しんけいてきなせいねんのあおじろいはだのいろとなって、くろくひかったやわらかいつむりのけが)

神経的な青年の蒼白い膚の色となって、黒く光った軟らかい頭(つむり)の毛が

(きわだってしろいひたいをなでている。それさえがはっきりみえはじめた。)

きわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり見え始めた。

(れっしゃはすでにかわさきていしゃじょうのぷらっとふぉーむにはいってきた。)

列車はすでに川崎停車場のプラットフォームにはいって来た。

(ようこのあたまのなかでは、きしゃがとまりきるまえにしごとをしおおさねばならぬというふうに)

葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をし遂さねばならぬというふうに

(いまみたばかりのきべのすがたがどんどんわかやいでいった。そしてれっしゃがうごかなく)

今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいでいった。そして列車が動かなく

(なったとき、ようこはそのひとのかたわらにでもいるようにうっとりとした)

なった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚(うっとり)とした

(かおつきで、おもわずひだりてをあげてーーこゆびをやさしくおりまげてーーやわらかい)

顔つきで、思わず左手を上げてーー小指を優しく折り曲げてーー軟らかい

(びんのおくれげをかきあげていた。これはようこがひとのちゅういをひこうとするときには)

鬢の後れ毛をかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時には

(いつでもするしなである。このとき、くりどがけたたましくあいたと)

いつでもする姿態(しな)である。この時、繰り戸がけたたましくあいたと

(おもうと、なかからにさんにんのじょうきゃくがどやどやとあらわれでてきた。しかもその)

思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。しかもその

(さいごから、すずしいいろあいのいんばねすをはおったきべがつづくのをかんづいて、)

最後から、涼しい色合いのインバネスを羽織った木部が続くのを感づいて、

(ようこのしんぞうはおもわずはっとしょじょのちをもったようにときめいた。きべがようこの)

葉子の心臓は思わずはっと処女の血を盛ったようにときめいた。木部が葉子の

(まえまできてすれすれにそのそばをとおりぬけようとしたとき、ふたりのめはもういちど)

前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、二人の目はもう一度

(しみじみとであった。きべのめはこういをこめたびしょうにひたされて、ようこの)

しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の

(でようによっては、すぐにもものをいいだしそうにくちびるさえふるえていた。ようこも)

出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。葉子も

(いままでつづけていたかいそうのだりょくにひかされて、おもわずほほえみかけたので)

今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたので

(あったが、そのしゅんかんつばめがえしに、みもしりもせぬろぼうのひとにあたえるような、れいこくな)

あったが、その瞬間燕返しに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷酷な

(きょうまんなひかりをそのひとみからいだしたので、きべのびしょうはあわれにもえだをはなれた)

驕慢な光をそのひとみから射出したので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた

(かれはのように、ふたりのあいだをむなしくひらめいてきえてしまった。ようこはきべの)

枯葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部の

(あわてかたをみると、しゃないでかれからうけたぶじょくにかなりこきみよく)

あわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく

(むくいえたというほこりをかんじて、むねのなかがややすがすがしくなった。きべはやせた)

酬い得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部はやせた

(そのみぎかたをくせのようにいからしながら、いそぎあしにかっぽしてかいさつぐちのところに)

その右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に闊歩して改札口の所に

(ちかづいたが、きっぷをかいちゅうからだすためにたちどまったとき、ふかいかなしみのいろを)

近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を

(まゆのあいだにみなぎらしながら、ふりかえってじっとようこのよこがおにめをそそいだ。ようこは)

眉の間にみなぎらしながら、振り返ってじっと葉子の横顔に目を注いだ。葉子は

(それをしりながらもとよりぶべつのいちべつをもあたえなかった。きべがかいさつぐちをでて)

それを知りながらもとより侮蔑の一瞥をも与えなかった。木部が改札口を出て

(すがたがかくれようとしたとき、こんどはようこのめがじっとそのうしろすがたをおいかけた。)

姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっとその後ろ姿を逐いかけた。

(きべがみえなくなったあとも、ようこのしせんはそこをはなれようとはしなかった。)

木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。

(そしてそのめにはさびしくなみだがたまっていた。「またあうことがあるだろうか」)

そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。「また会う事があるだろうか」

(ようこはそぞろにふしぎなひあいをおぼえながらこころのなかでそういっていたのだった。)

葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。

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