有島武郎 或る女⑥

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(こういうことがあってからいつかとたたぬうちに、ようこのかていすなわち)

こういう事があってから五日とたたぬうちに、葉子の家庭すなわち

(さつきけはすなのうえのとうのようにもろくもくずれてしまった。)

早月家(さつきけ)は砂の上の塔のようにもろくもくずれてしまった。

(おやさはことにれいせいなそこきみわるいたいどでふうふのべっきょをしゅちょうした。そしてひごろの)

親佐はことに冷静な底気味悪い態度で夫婦の別居を主張した。そして日ごろの

(にゅうわににず、きずついたおうしのようにもとどおりのせいかつをかいふくしようとひしめく)

柔和に似ず、傷ついた牡牛のように元どおりの生活を回復しようとひしめく

(おっとや、なかにはいっていろいろいいなそうとしたしんるいたちのことばを、きっぱりと)

良人や、中にはいっていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きっぱりと

(しりぞけてしまって、おっとをくぎだなのだだっぴろいじゅうたくにたったひとり)

しりぞけてしまって、良人を釘店(くぎだな)のだだっ広い住宅にたった一人

(のこしたまま、ようことともにさんにんのむすめをつれて、おやさはせんだいにたちのいて)

残したまま、葉子とともに三人の娘を連れて、親佐は仙台に立ちのいて

(しまった。きべのゆうじんたちがようこのふにんじょうをおこって、きべのとめるのも)

しまった。木部の友人たちが葉子の不人情を怒って、木部のとめるのも

(きかずに、しゃかいからほうむってしまえとひしめいているのをようこはききしっていた)

きかずに、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていた

(から、ふだんならばいちもにもなくちちをかばってははにたてをつくべきところを、)

から、ふだんならば一も二もなく父をかばって母に楯をつくべきところを、

(すなおにははのするとおりになって、ようこはははとともにせんだいにうずもれにいった。)

素直に母のするとおりになって、葉子は母と共に仙台に埋もれに行った。

(はははははで、じぶんのかていからようこのようなむすめのでたことを、できるだけせけんに)

母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出た事を、できるだけ世間に

(しられまいとした。じょしきょういくとか、かていのくんとうとかいうことをおりあるごとにくちに)

知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫陶とかいう事をおりあるごとに口に

(していたおやさは、そのことばにたいしてきょぎというりしをはらわねばならなかった。)

していた親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばならなかった。

(いっぽうをもみけすためにはいっぽうにどんとひのてをあげるひつようがある。さつきおやこが)

一方をもみ消すためには一方にどんと火の手を上げる必要がある。早月母子が

(とうきょうをさるとまもなく、あるしんぶんはさつきどくとるのじょせいにかんするふしだらを)

東京を去るとまもなく、ある新聞は早月ドクトルの女性に関するふしだらを

(かきたてて、それにつけてのおやさのくしんとていそうとをふいちょうしたついでに、おやさが)

書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを吹聴したついでに、親佐が

(とうきょうをさるようになったのは、ねつれつなしんこうからくるぎふんと、あいじをちちの)

東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の

(あくかんかからすくおうとするははらしいどりょくにもとづくものだ。そのためにかのじょは)

悪感化から救おうとする母らしい努力に基づくものだ。そのために彼女は

(きりすときょうふじんどうめいのふくかいちょうというけんようないちさえなげすてたのだとかき)

キリスト教婦人同盟の副会長という顕要な位置さえ投げすてたのだと書き

など

(そえた。せんだいにおけるさつきおやさはしばらくのあいだはふかくちんもくをまもっていたが、)

添えた。仙台における早月親佐はしばらくの間は深く沈黙を守っていたが、

(みるみるしゅういにひとをあつめてはなばなしくかつどうをしはじめた。そのきゃくまはわかいしんじゃや、)

見る見る周囲に人を集めて華々しく活動をし始めた。その客間は若い信者や、

(じぜんかや、げいじゅつかたちのさろんとなって、そこからりばいばるや、じぜんいちや、)

慈善家や、芸術家たちのサロンとなって、そこからリバイバルや、慈善市や、

(おんがくかいというようなものがかたちをとってうまれでた。ことにおやさがせんだいしぶちょうと)

音楽界というようなものが形を取って生まれ出た。ことに親佐が仙台支部長と

(してはたらきだしたきりすときょうふじんどうめいのうんどうは、そのとうじのびのようないきおいで)

して働き出したキリスト教婦人同盟の運動は、その当時野火のような勢いで

(ぜんこくにひろがりはじめたせきじゅうじしゃのせいりょくにもおさおさおとらないほどのせいきょうをていした。)

全国に広がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らない程の盛況を呈した。

(ちじれいふじんも、なだたるそほうかのおくさんたちもそのしゅうかいにはれっせきした。そして)

知事令夫人も、名だたる素封家の奥さんたちもその集会には列席した。そして

(さんかねんのつきひはさつきおやさをせんだいにはなくてはならぬめいぶつのひとつにしてしまった。)

三か年の月日は早月親佐を仙台にはなくてはならぬ名物の一つにしてしまった。

(せいしつがははおやとどこかにすぎているためか、にたようにみえてひとちょうしちがっている)

性質が母親とどこか似すぎているためか、似たように見えて一調子違っている

(ためか、それともじぶんをつつしむためであったか、はたのひとにはわからなかったが、)

ためか、それとも自分を慎むためであったか、はたの人にはわからなかったが、

(とにかくようこはそんなはなやかなふんいきにつつまれながら、ふしぎなほどちんもくを)

とにかく葉子はそんなはなやかな雰囲気に包まれながら、不思議なほど沈黙を

(まもって、ろくろくはれのざなどにはすがたをあらわさないでいた。それにもかかわらず)

守って、ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。それにもかかわらず

(おやさのきゃくまにすいよせられるわかいひとびとのたすうはようこにすいよせられているの)

親佐の客間に吸い寄せられる若い人々の多数は葉子に吸い寄せられているの

(だった。ようこのひかえめなしおらしいようすがいやがうえにもひとのうわさをひくたねと)

だった。葉子の控え目なしおらしい様子がいやが上にも人のうわさを引く種と

(なって、ようこというなは、たさいで、じょうちょのこまやかな、うつくしいはくめいじをだれにでも)

なって、葉子という名は、多才で、情緒の細やかな、美しい薄命児をだれにでも

(おもいおこさせた。かのじょのたちすぐれたみめかたちはかりゅうのひとたちさえうらやまし)

思い起こさせた。彼女の立ちすぐれた眉目形は花柳の人たちさえうらやまし

(がらせた。そしていろいろなふうぶんが、せいきょうとふうにしっそなさつきのわびずまいのしゅういを)

がらせた。そしていろいろな風聞が、清教徒風に質素な早月の佗住居の周囲を

(かすみのようにとりまきはじめた。とつぜんちいさなせんだいしはかみなりにでもうたれたようにある)

霞のように取り巻き始めた。突然小さな仙台市は雷にでも打たれたようにある

(あさのしんぶんきじにちゅういをむけた。それはそのしんぶんのしょうばいがたきであるあるしんぶんの)

朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売がたきである或る新聞の

(しゃしゅでありしゅひつであるなにがしが、おやさとようことのふたりにどうじにいんぎんをつうじていると)

社主であり主筆である某が、親佐と葉子との二人に同時に慇懃を通じていると

(いうぜんしにわたったふりんきわまるきじだった。だれもいがいなようなかおをしながら)

いう全紙にわたった不倫きわまる記事だった。だれも意外なような顔をしながら

(こころのなかではそれをしんじようとした。このひかみのけのこい、くちのおおきい、いろじろな)

心の中ではそれを信じようとした。この日髪の毛の濃い、口の大きい、色白な

(ひとりのせいねんをのせたじんりきしゃが、せんだいのまちなかをせわしくかけまわったのをちゅういしたひとは)

一人の青年を乗せた人力車が、仙台の町中を忙しく駆け回ったのを注意した人は

(おそらくなかったろうが、そのせいねんはなをきむらといって、ひごろからかいかつな)

おそらくなかったろうが、その青年は名を木村といって、日ごろから快活な

(かつどうずきなひととしてしられたおとこで、そのねっしんなほんそうのけっか、よくじつのしんぶんしの)

活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の

(こうこくらんには、にだんぬきで、ちじれいふじんいかじゅうしごめいのきふじんのれんめいでさつきおやさの)

広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四五名の貴婦人の連名で早月親佐の

(えんざいがすすがれることになった。このけうのおおげさなこうこくがまたちいさなせんだいのしちゅうを)

冤罪が雪がれる事になった。この稀有の大げさな広告がまた小さな仙台の市中を

(どよめきわたらした。しかしきむらのねっしんもこうべんもようこのなをこうこくのなかにいれることは)

どよめき渡らした。しかし木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れる事は

(できなかった。こんなさわぎがもちあがってからさつきおやさのせんだいにおけるいままでの)

できなかった。こんな騒ぎが持ち上がってから早月親佐の仙台における今までの

(せいぼうはきゅうになくなってしまった。そのころちょうどとうきょうにいのこっていたさつきが)

声望は急に無くなってしまった。そのころちょうど東京に居残っていた早月が

(びょうきにかかってくすりにしたしむみとなったので、それをしおにおやさはこどもをつれて)

病気にかかって薬に親しむ身となったので、それをしおに親佐は子供を連れて

(せんだいをきりあげることになった。きむらはそのあとすぐさつきおやこをおってとうきょうにでて)

仙台を切り上げる事になった。木村はその後すぐ早月母子を追って東京に出て

(きた。そしてまいにちいりびたるようにさつきけにでいりして、ことにおやさのきにいる)

来た。そして毎日入りびたるように早月家に出入りして、ことに親佐の気に入る

(ようになった。おやさがびょうきになってきとくにおちいったとき、きむらはいっしょうのねがいとして)

ようになった。親佐が病気になって危篤に陥った時、木村は一生の願いとして

(ようことのけっこんをもうしでた。おやさはやはりははだった。しきをまえにひかえて、いちばん)

葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、いちばん

(きにせずにいられないものは、ようこのしょうらいだった。きむらならばあのわがままな、)

気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあのわがままな、

(おとこをおとこともおもわぬようこにつかえるようにしていくことができるとおもった。そして)

男を男とも思わぬ葉子に仕えるようにして行く事ができると思った。そして

(きりすときょうふじんどうめいのかいちょうをしているいそがわじょしにこうじをたくしてしんだ。)

キリスト教婦人同盟の会長をしている五十川女史に後事を託して死んだ。

(このいそがわじょしのまあまあというようなふしぎなあいまいなきりもりで、)

この五十川女史のまあまあというような不思議なあいまいな切り盛りで、

(きむらは、どこかふかくじつではあるが、ともかくようこをつまとしうるほしょうをにぎった)

木村は、どこか不確実ではあるが、ともかく葉子を妻としうる保障を握った

(のだった。)

のだった。

(ごゆうせんがいしゃのながたはゆうがたでなければかいしゃからひけまいというので、)

【五】 郵船会社の永田は夕方でなければ会社から退けまいというので、

(ようこはやどやにせいようぶつてんのものをよんで、ひつようなかいものをすることになった。ことうは)

葉子は宿屋に西洋物店のものを呼んで、必要な買い物をする事になった。古藤は

(そんならそこらをほっつきあるいてくるといって、れいのむぎわらぼうしをぼうしかけから)

そんならそこらをほっつき歩いて来るといって、例の麦稈帽子を帽子掛けから

(とってたちあがった。ようこはおもいだしたようにかたごしにふりかえって、「あなた)

取って立ち上がった。葉子は思い出したように肩越しに振り返って、「あなた

(さっきぱらそるはほねがごほんのがいいとおっしゃってね」といった。ことうはれいたんな)

さっきパラソルは骨が五本のがいいとおっしゃってね」といった。古藤は冷淡な

(ちょうしで、「そういったようでしたね」とこたえながら、なにかほかのことでもかんがえている)

調子で、「そういったようでしたね」と答えながら、何か他の事でも考えている

(らしかった。「まあそんなにとぼけて・・・なぜごほんのがおすき?」「ぼくがすき)

らしかった。「まあそんなにとぼけて・・・なぜ五本のがお好き?」「僕が好き

(というんじゃないけれども、あなたはなんでもひととちがったものがすきなんだと)

というんじゃないけれども、あなたはなんでも人と違ったものが好きなんだと

(おもったんですよ」「どこまでもひとをおからかいなさる・・・ひどいこと・・・)

思ったんですよ」「どこまでも人をおからかいなさる・・・ひどい事・・・

(いっていらっしゃいまし」とじょうをおさえるようにいってむきなおってしまった。)

行っていらっしゃいまし」と情を抑えるようにいって向き直ってしまった。

(ことうがえんがわにでるとまたとつぜんよびとめた。しょうじにはっきりたちすがたをうつしたまま)

古藤が縁側に出るとまた突然呼びとめた。障子にはっきり立ち姿をうつしたまま

(「なんです」といってことうはたちもどるようすがなかった。ようこはいたずらものらしい)

「なんです」といって古藤は立ち戻る様子がなかった。葉子はいたずら者らしい

(わらいをくちのあたりにうかべていた。「あなたはきむらとがっこうがおなじでいらしった)

笑いを口のあたりに浮かべていた。「あなたは木村と学校が同じでいらしった

(のね」「そうですよ、きゅうはきむらの・・・きむらくんのほうがふたつもうえでしたがね」)

のね」「そうですよ、級は木村の・・・木村君のほうが二つも上でしたがね」

(「あなたはあのひとをどうおおもいになって」まるでしょうじょのようなむじゃきなちょうし)

「あなたはあの人をどうお思いになって」まるで少女のような無邪気な調子

(だった。ことうはほほえんだらしいごきで、「そんなことはもうあなたのほうが)

だった。古藤はほほえんだらしい語気で、「そんな事はもうあなたのほうが

(くわしいはずじゃありませんか・・・しんのいいかつどうかですよ」)

くわしいはずじゃありませんか・・・心(しん)のいい活動家ですよ」

(「あなたは?」ようこはぽんとたかびしゃにでた。そしてにやりとしながらがっくりと)

「あなたは?」葉子はぽんと高飛車に出た。そしてにやりとしながらがっくりと

(かおをうわむきにはねて、とこのまのいっちょうのひどいまがいものをみやっていた。ことうが)

顔を上向きにはねて、床の間の一蝶のひどい偽い物を見やっていた。古藤が

(とっさのへんじにきゅうして、すこしむっとしたようすでこたえしぶっているのをみてとると、)

とっさの返事に窮して、少しむっとした様子で答え渋っているのを見て取ると、

(ようこはこんどはこえのちょうしをおとして、いかにもたよりないというふうに、)

葉子は今度は声の調子を落として、いかにもたよりないというふうに、

(「ひざかりはあついからどこぞでおやすみなさいましね。・・・なるたけはやくかえって)

「日盛りは暑いからどこぞでお休みなさいましね。・・・なるたけ早く帰って

(きてくださいまし。もしかして、びょうきでもわるくなると、こんなところでこころぼそう)

来てくださいまし。もしかして、病気でも悪くなると、こんな所で心細う

(ござんすから・・・よくって」ことうはなにかへいぼんなへんじをして、えんいたを)

ござんすから・・・よくって」古藤は何か平凡な返事をして、縁板を

(ふみならしながらでていってしまった。)

踏みならしながら出て行ってしまった。

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