有島武郎 或る女⑧

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(こういってるうちにようこは、ふときべとのこいがはかなくやぶれたときの、)

こういってるうちに葉子は、ふと木部との恋がはかなく破れた時の、

(われにもなくみにしみわたるさびしみや、しぬまでひかげものであらねばならぬ)

われにもなく身にしみわたるさびしみや、死ぬまで日陰者であらねばならぬ

(しせいしのさだこのことや、はからずもきょうまのあたりみたきべの、しんから)

私生子の定子の事や、はからずも今日まのあたり見た木部の、心(しん)から

(やつれたおもかげなどをおもいおこした。そしてさらに、ははのしんだよる、ひごろは)

やつれた面影などを思い起こした。そしてさらに、母の死んだ夜、日ごろは

(みむきもしなかったしんるいたちがよりあつまってきて、さつきけにはけのすえほども)

見向きもしなかった親類たちが寄り集まって来て、早月家には毛の末ほども

(どうじょうのないこころで、さつきけのぜんごさくについて、さもじゅうだいらしくかってきままなことを)

同情のない心で、早月家の善後策について、さも重大らしく勝手気ままな事を

(しんせつごかしにしゃべりちらすのをきかされたとき、どうにでもなれというきに)

親切ごかしにしゃべり散らすのを聞かされた時、どうにでもなれという気に

(なって、あばれぬいたことが、じぶんにさえかなしいおもいでとなって、ようこのあたまのなかを)

なって、暴れ抜いた事が、自分にさえ悲しい思い出となって、葉子の頭の中を

(やのようにはやくひらめきとおった。ようこのかおにはひとにゆずってはいないじしんのいろが)

矢のように早くひらめき通った。葉子の顔には人に譲ってはいない自信の色が

(あらわれはじめた。「ははのしょなぬかのときもね、わたしはたてつづけに)

現われ始めた。「母の初七日(しょなぬか)の時もね、わたしはたて続けに

(びーるをなんばいのみましたろう。なんでもびんがそこいらにごろごろころがり)

ビールを何杯飲みましたろう。なんでもびんがそこいらにごろごろころがり

(ました。そしてしまいにはなにがなんだかむちゅうになって、たくにでいりする)

ました。そしてしまいには何がなんだか夢中になって、宅に出入りする

(おいしゃさんのひざをまくらに、なきねいりにねいって、よなかをあなたにじかんのよも)

お医者さんの膝を枕に、泣き寝入りに寝入って、夜中をあなた二時間の余も

(ねつづけてしまいましたわ。しんるいのひとたちはそれをみるとひとりかえりふたりかえりして、)

寝続けてしまいましたわ。親類の人たちはそれを見ると一人帰り二人帰りして、

(そうだんもなにもめちゃくちゃになったんですって。ははのしゃしんをまえにおいといて、)

相談も何もめちゃくちゃになったんですって。母の写真を前に置いといて、

(わたしはそんなことまでするにんげんですの。おあきれになったでしょうね。いやな)

わたしはそんな事までする人間ですの。おあきれになったでしょうね。いやな

(やつでしょう。あなたのようなかたからごらんになったら、さぞいやなきが)

やつでしょう。あなたのような方から御覧になったら、さぞいやな気が

(なさいましょうねえ」「ええ」とことうはめもうごかさずにぶっきらぼうにこたえた。)

なさいましょうねえ」「ええ」と古藤は目も動かさずにぶっきらぼうに答えた。

(「それでもあなた」とようこはせつなさそうになかばおきあがって、「そとつらだけでひとの)

「それでもあなた」と葉子は切なさそうに半ば起き上がって、「外面だけで人の

(することをなんとかおっしゃるのはすこしざんこくですわ。・・・いいえね」とことうのなにか)

する事を何とかおっしゃるのは少し残酷ですわ。・・・いいえね」と古藤の何か

など

(いいだそうとするのをさえぎって、こんどはきっとすわりなおった。「わたしは)

いい出そうとするのをさえぎって、今度はきっとすわり直った。「わたしは

(なきごとをいってたにんさまにもないていただこうなんて、そんなことは)

泣き言をいって他人様(たにんさま)にも泣いていただこうなんて、そんな事は

(これんばかりもおもやしませんとも・・・なるならどこかにおおづつの)

これんばかりも思やしませんとも・・・なるならどこかに大砲(おおづつ)の

(ようなおおきなちからのつよいひとがいて、そのひとがしんけんにおこって、ようこのような)

ような大きな力の強い人がいて、その人が真剣に怒って、葉子のような

(にんぴにんはこうしてやるぞといってわたしをおさえつけてしんぞうでも)

人ぴ人(にんぴにん)はこうしてやるぞといってわたしを押えつけて心臓でも

(あたまでもくだけてとんでしまうほどせっかんをしてくれたらとおもうんですの。)

頭でもくだけて飛んでしまうほど折檻をしてくれたらと思うんですの。

(どのひともどのひともちゃんとじぶんをわすれないで、いいかげんにおこったり、)

どの人もどの人もちゃんと自分を忘れないで、いいかげんに怒ったり、

(いいかげんにないたりしているんですからねえ。なんだってこうなまぬるいんで)

いいかげんに泣いたりしているんですからねえ。なんだってこう生温いんで

(しょう。ぎいちさん(ようこがことうをこうなでよんだのはこのときがはじめてだった))

しょう。義一さん(葉子が古藤をこう名で呼んだのはこの時が始めてだった)

(あなたがけさ、しんのしょうじきななんとかだとおっしゃったきむらにえんづく)

あなたがけさ、心(しん)の正直ななんとかだとおっしゃった木村に縁づく

(ようになったのも、そのばんのことです。いそがわがしんるいじゅうにさんせいさして、)

ようになったのも、その晩の事です。五十川が親類じゅうに賛成さして、

(はれがましくもわたしをみんなのまえにひきだしておいて、ざいにんにでもいうように)

晴れがましくもわたしをみんなの前に引き出しておいて、罪人にでもいうように

(せんこくしてしまったのです。わたしがひとくちでもいおうとすれば、いそがわのいうには)

宣告してしまったのです。わたしが一口でもいおうとすれば、五十川のいうには

(ははのゆいごんですって。しにんにくちなし。ほんとにきむらはあなたがおっしゃったような)

母の遺言ですって。死人に口なし。ほんとに木村はあなたがおっしゃったような

(にんげんね。せんだいであんなことがあったでしょう。あのときちじのおくさんはじめははの)

人間ね。仙台であんなことがあったでしょう。あの時知事の奥さんはじめ母の

(ほうはなんとかしようがむすめのほうはほしょうができないとおっしゃったんですとさ」)

ほうは何とかしようが娘のほうは保証ができないとおっしゃったんですとさ」

(いいしらぬぶべつのいろがようこのかおにみなぎった。「ところがきむらはじぶんのかんがえを)

いい知らぬ侮蔑の色が葉子の顔にみなぎった。「ところが木村は自分の考えを

(おしとおしもしないで、おめおめとしんぶんにはははだけのなをだしてあのこうこくを)

押し通しもしないで、おめおめと新聞には母だけの名を出してあの広告を

(したんですの。ははだけがいいひとになればだれだってわたしを・・・)

したんですの。母だけがいい人になればだれだってわたしを・・・

(そうでしょう。そのあげくにきむらはしゃあしゃあとわたしをつまに)

そうでしょう。そのあげくに木村はしゃあしゃあとわたしを妻に

(したいんですって、ぎいちさん、おとこってそれでもいいものなんですか。)

したいんですって、義一さん、男ってそれでもいいものなんですか。

(まあねもののたとえがですわ。それともことばではなんといってもむだだから、)

まあね物の譬えがですわ。それとも言葉ではなんといってもむだだから、

(じっこうてきにわたしのけっぱくをたててやろうとでもいうんでしょうか」)

実行的にわたしの潔白を立ててやろうとでもいうんでしょうか」

(そういってげきこうしきったようこはかみすてるようにかんだかくほほとわらった。)

そういって激昂しきった葉子はかみ捨てるようにかん高くほほと笑った。

(「いったいわたしはちょっとしたことですききらいのできるわるいたちなんです)

「いったいわたしはちょっとした事で好ききらいのできる悪い質なんです

(からね。といってわたしはあなたのようなきいっぽんでもありませんのよ。ははのゆいごん)

からね。といってわたしはあなたのような生一本でもありませんのよ。母の遺言

(だからきむらとふうふになれ。はやくみをかためてじみちにくらさなければははのめいよを)

だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道に暮らさなければ母の名誉を

(けがすことになる。いもうとだってはだかでおよめいりもできまいといわれれば、わたしりっぱに)

けがす事になる。妹だって裸でお嫁入もできまいといわれれば、わたし立派に

(きむらのつまになってごらんにいれます。そのかわりきむらがすこしつらいだけ。)

木村の妻になって御覧にいれます。その代わり木村が少しつらいだけ。

(こんなことをあなたのまえでいってはさぞきをわるくなさるでしょうが、まっすぐな)

こんな事をあなたの前でいってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、真直な

(あなただとおもいますから、わたしもそのきでなにもかもうちあけてもうしてしまい)

あなただと思いますから、わたしもその気で何もかも打ち明けて申してしまい

(ますのよ。わたしのせいしつやきょうぐうはよくごぞんじですわね。こんなせいしつでこんな)

ますのよ。わたしの性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな

(きょうぐうにいるわたしがこうかんがえるのにもしまちがいがあったら、どうかえんりょなく)

境遇にいるわたしがこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮なく

(おっしゃってください。ああいやだったこと。ぎいちさん、わたしこんなことは)

おっしゃってください。ああいやだった事。義一さん、わたしこんな事は

(おくびにもださずにいまのいままでしっかりむねにしまってがまんしていたのです)

おくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのです

(けれども、きょうはどうしたんでしょう、なんだかとおいたびにでもでたような)

けれども、きょうはどうしたんでしょう、なんだか遠い旅にでも出たような

(さびしいきになってしまって・・・」ゆづるをきってはなしたようにことばをけして)

さびしい気になってしまって・・・」弓弦を切って放したように言葉を消して

(ようこはうつむいてしまった。ひはいつのまにかとっぷりとくれていた。)

葉子はうつむいてしまった。日はいつのまにかとっぷりと暮れていた。

(じめじめとふりつづくあきさめにしめったよかぜがほそぼそとかよってきて、しっけでたるんだ)

じめじめと降り続く秋雨に湿った夜風が細々と通って来て、湿気でたるんだ

(しょうじがみをそっとあおってとおった。ことうはようこのかおをみるのをさけるように、)

障子紙をそっとあおって通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、

(そこらにちらばったふくじやぼうしなどをながめまわして、なんとへんとうをして)

そこらに散らばった服地や帽子などをながめ回して、なんと返答をして

(いいのか、いうべきことははらにあるけれどもことばにはあらわせないふうだった。)

いいのか、いうべき事は腹にあるけれども言葉には現わせないふうだった。

(へやはいきぐるしいほどしんとなった。ようこはじぶんのことばから、そのときのありさま)

部屋は息気苦しいほどしんとなった。葉子は自分の言葉から、その時のありさま

(から、みょうにやるせないさびしいきぶんになっていた。つよいおとこのてでおもいぞんぶん)

から、妙にやる瀬ないさびしい気分になっていた。強い男の手で思い存分

(りょうかたでもだきすくめてほしいようなたよりなさをかんじた。そしてよこばらにふかぶかと)

両肩でも抱きすくめてほしいようなたよりなさを感じた。そして横腹に深々と

(てをやって、さしこむいたみをこらえるらしいすがたをしていた。ことうはややしばらく)

手をやって、さし込む痛みをこらえるらしい姿をしていた。古藤はややしばらく

(してからなにかけっしんしたらしくまともにようこをみようとしたが、ようこの)

してから何か決心したらしくまともに葉子を見ようとしたが、葉子の

(せつなさそうなあわれなようすをみると、おどろいたかおつきをしてわれしらずようこのほうに)

切なさそうな哀れな様子を見ると、驚いた顔つきをしてわれ知らず葉子のほうに

(いざりよった。ようこはすかさずひょうのようになめらかにみをおこしていちはやくも)

いざり寄った。葉子はすかさず豹のようになめらかに身を起していち早くも

(しっかりことうのさしだすてをにぎっていた。そして、「ぎいちさん」とふるえをおびて)

しっかり古藤のさし出す手を握っていた。そして、「義一さん」と震えを帯びて

(いったこえはぞんぶんになみだにぬれているようにひびいた。ことうはこえをわななかして、)

いった声は存分に涙にぬれているように響いた。古藤は声をわななかして、

(「きむらはそんなにんげんじゃありませんよ」とだけいってだまってしまった。)

「木村はそんな人間じゃありませんよ」とだけいって黙ってしまった。

(だめだったとようこはそのとたんにおもった。ようこのこころもちとことうのこころもちとはちぐはぐに)

だめだったと葉子はその途端に思った。葉子の心持と古藤の心持とはちぐはぐに

(なっているのだ。なんというひびきのわるいこころだろうとようこはそれをさげすんだ。)

なっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。

(しかしようすにはそんなこころもちはすこしもみせないで、あたまからかたへかけての)

しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけての

(なよやかなせんをかぜのまえのてっせんのつるのようにふるわせながら、にさんどふかぶかと)

なよやかな線を風の前のてっせんの蔓のように震わせながら、二三度深々と

(うなずいてみせた。しばらくしてからようこはかおをあげたが、なみだはすこしもめに)

うなずいて見せた。しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも目に

(たまってはいなかった。そしていとしいおとうとでもいたわるようにふとんから)

たまってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるようにふとんから

(たちあがりざま、「すみませんでしたこと、ぎいちさん、あなたごはんはまだでした)

立ち上がりざま、「すみませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでした

(のね」といいながら、はらのいたむのをこらえるようなすがたでことうのまえをとおりぬけた。)

のね」といいながら、腹の痛むのをこらえるような姿で古藤の前を通りぬけた。

(ゆでほんのりとあからんだすあしにことうのめがするどくちらっとやどったのをかんじながら、)

湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の目が鋭くちらっと宿ったのを感じながら、

(しょうじをほそめにあけててをならした。)

障子を細目にあけて手をならした。

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