有島武郎 或る女⑨
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問題文
(ようこはそのばんふしぎにあくまじみたゆうわくをことうにかんじた。どうていでむけいけんでこいの)
葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の
(たわむれにはなんのおもしろみもなさそうなことう、きむらにたいしてといわず、ともだちに)
戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してといわず、友だちに
(たいしてかたくるしいぎむかんねんのつよいことう、そういうおとこにたいしてようこはいままでなんの)
対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの
(きょうみをもかんじなかったばかりか、はたらきのないわからずやと)
興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢(わからずや)と
(みかぎって、くちさきばかりでにんげんなみのあしらいをしていたのだ。しかしそのばんの)
見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩の
(ようこはこのしょうねんのようなこころをもってにくのじゅくしたことうにつみをおかさせてみたくって)
葉子はこの少年のような心をもって肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくって
(たまらなくなった。ことうのどうていをやぶるてをほかのおんなにまかせるのがねたましくて)
たまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくて
(たまらなくなった。いくまいもかわをかぶったことうのこころのどんぞこにかくれているよくねんを)
たまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を
(ようこのちゃーむでほりおこしてみたくってたまらなくなった。)
葉子の蠱惑力(チャーム)で掘り起こして見たくってたまらなくなった。
(けどられないはんいでようこがあらんかぎりのなぞをあたえたにもかかわらず、ことうが)
気取られない範囲で葉子があらん限りの謎を与えたにもかかわらず、古藤が
(かたくなってしまってそれにおうずるけしきのないのをみるとようこはますます)
堅くなってしまってそれに応ずるけしきのないのを見ると葉子はますます
(いらだった。そしてそのばんははらがいたんでどうしてもとうきょうにかえれないから、)
いらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、
(いやでもよこはまにとまってくれといいだした。しかしことうはがんとしてきかなかった。)
いやでも横浜に宿ってくれといい出した。しかし古藤は頑としてきかなかった。
(ようこはとうとうがをおってさいしゅうれっしゃでとうきょうにかえることにした。いっとうのきゃくしゃには)
葉子はとうとう我を折って最終列車で東京に帰る事にした。一等の客車には
(ふたりのほかにじょうきゃくはなかった。ようこはふとしたできごころからことうをおとしいれ)
二人のほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれ
(ようとしたもくろみにしっぱいして、じぶんのせいふくりょくにたいするかすかなしつぼうと、ぞんぶんの)
ようとした目論見に失敗して、自分の制服力に対するかすかな失望と、存分の
(ふかいとをかんじていた。きゃくしゃのなかではまたいろいろとはなそうといっておきながら、)
不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといって置きながら、
(きしゃがうごきだすとすぐ、ことうのひざのそばでもうふにくるまったまましんばしまで)
汽車が動き出すとすぐ、古藤の膝のそばで毛布にくるまったまま新橋まで
(ねとおしてしまった。しんばしについてからことうがふねのきっぷをようこにわたしてじんりきしゃを)
寝通してしまった。新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を
(にだいやとって、そのひとつにのると、ようこはそれにかけよってかいちゅうからとりだした)
二台傭って、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した
(かみいれをことうのひざにほうりだして、ひだりのびんをやさしくかきあげながら、)
紙入れを古藤の膝にほうり出して、左の鬢をやさしくかき上げながら、
(「きょうのおたてかえをどうぞそのなかから・・・あすはきっといらしって)
「きょうのお立て替えをどうぞその中から・・・あすはきっといらしって
(くださいましね・・・おまちもうしますことよ・・・さようなら」といってじぶんも)
くださいましね・・・お待ち申しますことよ・・・さようなら」といって自分も
(もうひとつのくるまにのった。ようこのかみいれのなかにはしょうきんぎんこうからうけとった)
もう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った
(ごじゅうえんきんかはちまいがはいっている。そしてようこはことうがそれをくずしてたてかえを)
五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立て替えを
(とるきづかいのないのをしょうちしていた。)
取る気づかいのないのを承知していた。
(ろくようこがべいこくにしゅっぱつするくがつにじゅうごにちはあすにせまった。にひゃくにじゅうにちの)
【六】 葉子が米国に出発する九月二十五日はあすに迫った。二百二十日の
(あれそこねたそのとしのてんきは、いつまでたってもさだまらないで、きちがいびよりとも)
荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和とも
(いうべきてりふりのらんざつなそらあいがつづきとおしていた。ようこはそのあさくらいうちに)
いうべき照り降りの乱雑な空あいが続き通していた。葉子はその朝暗いうちに
(とこをはなれて、くらのかげになったじぶんのこべやにはいって、まえまえからかたづけかけて)
床を離れて、蔵の陰になった自分の小部屋にはいって、前々から片づけかけて
(いたいるいのしまつをしはじめた。もようやしまのはでなのはかたはしからほどいてまるめて、)
いた衣類の始末をし始めた。模様や縞の派手なのは片はしからほどいて丸めて、
(つぎのいもうとのあいこにやるようにとかたすみにかさねたが、そのなかにはじゅうさんになるすえのいもうとの)
次の妹の愛子にやるようにと片すみに重ねたが、その中には十三になる末の妹の
(さだよにきせてもにあわしそうなおおがらなものもあった。ようこはてばやくそれを)
貞世に着せても似合わしそうな大柄なものもあった。葉子は手早くそれを
(えりわけてみた。そしてこんどはふねにもちこむしきのはれぎを、とこのまのまえにある)
えり分けて見た。そして今度は船に持ち込む四季の晴れ着を、床の間の前にある
(まっくろにふるぼけたとらんくのところまでもっていって、ふたをあけようとしたが、)
まっ黒に古ぼけたトランクの所まで持って行って、ふたをあけようとしたが、
(ふとそのふたのまんなかにかいてあるy・kというしろもじをみてせわしくてを)
ふとそのふたのまん中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙しく手を
(ひかえた。これはきのうことうがあぶらえのぐとがひつとをもってきてかいてくれたので、)
控えた。これはきのう古藤が油絵の具と画筆とを持って来て書いてくれたので、
(かわききらないてれびんのかおりがまだかすかにのこっていた。ことうは、ようこ・さつきの)
かわききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の
(かしらもじy・sとかいてくれとおりいってようこのたのんだのをわらいながらしりぞけて、)
頭文字Y・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、
(ようこ・きむらのかしらもじy・kとかくまえに、s・kとあるじをないふのさきでていねいに)
葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に
(けずったのだった。s・kとはきむらさだいちのいにしゃるで、そのとらんくはきむらの)
削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の
(ちちがおうべいをまんゆうしたときつかったものなのだ。そのふるいいろをみると、きむらのちちの)
父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の
(ふとっぱらなするどいせいかくと、はらんのおおいしょうがいのごくいんがすわっているようにみえた。)
太っ腹な鋭い性格と、波瀾の多い生涯の極印がすわっているように見えた。
(きむらはそれをようこのようにとのこしていったのだった。きむらのおもかげはふとようこの)
木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の
(あたまのなかをぬけてとおった。くうそうできむらをえがくことは、きむらとかおをみあわすときほどの)
頭の中を抜けて通った。空想で木村を描く事は、木村と顔を見合わす時ほどの
(いとわしいおもいをようこにおこさせなかった。くろいかみのけをぴったりときれいに)
厭わしい思いを葉子に起させなかった。黒い髪の毛をぴったりときれいに
(わけて、さかしいなかだかのほそおもてに、けんこうらしいばらいろをおびたようぼうや、あますぎる)
分けて、怜かしい中高の細面に、健康らしいばら色を帯びた容貌や、甘すぎる
(くらいにんじょうにおぼれやすいじゅんじょうてきなせいかくは、ようこにいっしゅのなつかしさをさえ)
くらい人情におぼれやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ
(かんぜしめた。しかしじっさいかおとかおとをむかいあわせると、ふたりはみょうにかいわさえ)
感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向かい合わせると、二人は妙に会話さえ
(はずまなくなるのだった。そのさかしいのがいやだった。にゅうわなのがきに)
はずまなくなるのだった。その怜かしいのがいやだった。柔和なのが気に
(さわった。じゅんじょうてきなくせにおそろしくかんじょうだかいのがたまらなかった。せいねんらしく)
さわった。殉情的なくせに恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく
(どひょうぎわまでふみこんでじぎょうをたのしむというちちににたせいかくさえこましゃくれて)
土俵ぎわまで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえこましゃくれて
(みえた。ことにとうきょううまれといってもいいくらいとなれたことばやみのこなしの)
見えた。ことに東京生まれといってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの
(あいだに、ふととうほくのきょうどのにおいをかぎだしたときにはかんですてたいようなはんかんに)
間に、ふと東北の郷土の香いをかぎ出した時にはかんで捨てたいような反感に
(おそわれた。ようこのこころはいま、おぼろげなかいそうから、じっさいひざつきあわせたときに)
襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際膝つき合わせた時に
(いやだとおもったいんしょうにうつっていった。そしててにもったはれぎをとらんくに)
いやだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴れ着をトランクに
(いれるのをひかえてしまった。ながくなりはじめたよるもそのころにはようやくしらみ)
入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやく白み
(はじめて、ろうそくのきいろいほのおがひかりのなきがらのように、ゆるぎもせずにともっていた。)
始めて、蝋燭の黄色い焔が光の亡骸のように、ゆるぎもせずにともっていた。
(よるのあいだしずまっていたにしかぜがおもいだしたようにしょうじにぶつかって、)
夜の間静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、
(くぎだなのせまいとおりを、かしでしだしをしたわかいものが、おおきなかけごえで)
釘店(くぎだな)の狭い通りを、河岸で仕出しをした若い者が、大きな掛け声で
(がらがらとくるまをひきながらとおるのがきこえだした。ようこはきょういちにちに)
がらがらと車を引きながら通るのが聞こえ出した。葉子はきょう一日に
(めまぐるしいほどあるたくさんのようじをちょっとむねのなかでかぞえてみて、おおいそぎで)
目まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えて見て、大急ぎで
(そこらをかたづけて、じょうをおろすものにはじょうをおろしきって、あまどをいちまいくって、)
そこらを片づけて、錠をおろすものには錠をおろし切って、雨戸を一枚繰って、
(そこからさしこむひかりでおおきなてぶんこからぎっしりつまったおとこもじのてがみをひき)
そこからさし込む光で大きな手文庫からぎっしりつまった男文字の手紙を引き
(だすとふろしきにつつみこんだ。そしてそれをかかえて、てしょくをふきけしながら)
出すと風呂敷に包み込んだ。そしてそれをかかえて、手燭を吹き消しながら
(へやをでようとすると、ろうかにおばがつったっていた。「もうおきたんですね)
部屋を出ようとすると、廊下に叔母が突っ立っていた。「もう起きたんですね
(・・・かたづいたかい」とあいさつしてまだなにかいいたそうであった。りょうしんを)
・・・片づいたかい」と挨拶してまだ何かいいたそうであった。両親を
(うしなってからこのおばふうふと、ろくさいになるはくちのひとりむすことがうつってきてどうきょする)
失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白ちの一人息子とが移って来て同居する
(ことになったのだ。ようこのははが、どこかおもおもしくっておおしいふうさいをしていたのに)
事になったのだ。葉子の母が、どこか重々しくって男々しい風采をしていたのに
(ひきかえ、おばはかみのけのうすい、どこまでもひんそうにみえるおんなだった。ようこのめは)
引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、どこまでも貧相に見える女だった。葉子の目は
(そのおびしろはだかな、にくのうすいむねのあたりをちらっとかすめた。「おやおはよう)
その帯しろ裸な、肉の薄い胸のあたりをちらっとかすめた。「おやお早う
(ございます・・・あらかたかたづきました」といってそのままにかいにいこうと)
ございます・・・あらかた片づきました」といってそのまま二階に行こうと
(すると、おばはつめにいっぱいあかのたまったりょうてをもやもやとむねのところでふり)
すると、叔母は爪にいっぱい垢のたまった両手をもやもやと胸の所でふり
(ながら、さえぎるようにたちはだかって、「あのおまえさんがかたづけるときにと)
ながら、さえぎるように立ちはだかって、「あのお前さんが片づける時にと
(おもっていたんだがね。あすのおみおくりにわたしはきていくものがないんだよ。)
思っていたんだがね。あすのお見送りに私は着て行くものが無いんだよ。
(おかあさんのものでまにあうのはないだろうかしらん。あすだけかりればあとは)
おかあさんのもので間に合うのは無いだろうかしらん。あすだけ借りればあとは
(ちゃんとしまつをしておくんだからちょっとみておくれでないか」ようこはまたかと)
ちゃんと始末をして置くんだからちょっと見ておくれでないか」葉子はまたかと
(おもった。はたらきのないおっとにつれそって、じゅうごねんのあいだまるおびひとつかってもらえ)
思った。働きのない良人に連れ添って、十五年の間丸帯一つ買ってもらえ
(なかったおばのくんれんのないよわいせいかくが、こうさもしくなるのをあわれまないでも)
なかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのをあわれまないでも
(なかったが、ものおじしながら、それでいて、よくにかかるとずうずうしい、ひとの)
なかったが、物怯じしながら、それでいて、欲にかかるとずうずうしい、人の
(すきばかりつけねらうしうちをみると、むしずがはしるほどにくかった。しかしこんな)
すきばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫唾が走るほど憎かった。しかしこんな
(おもいをするのもきょうだけだとおもってへやのなかにあんないした。おばはそらぞらしく)
思いをするのもきょうだけだと思って部屋の中に案内した。叔母は空々しく
(きのどくだとかすまないとかいいつづけながらじょうをおろしたたんすをいちいちあけさせて、)
気の毒だとかすまないとかいい続けながら錠をおろした箪笥を一々あけさせて、
(いろいろとかってにこのみをいったすえに、りゅうとしたひとそろえをかることにして、)
いろいろと勝手に好みをいった末に、りゅうとした一揃えを借る事にして、
(それからようこのいるいまでをとやかくいいながらさりがてにいじくりまわした。)
それから葉子の衣類までをとやかくいいながら去りがてにいじくり回した。
(だいどころからは、みそしるのにおいがして、はくちのこがだらしなくなきつづけるこえと、)
台所からは、みそ汁の香いがして、白ちの子がだらしなく泣き続ける声と、
(おじがおばをよびたてるこえとが、すがすがしいあさのくうきをにごすようにきこえて)
叔父が叔母を呼び立てる声とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて
(きた。ようこはおばにいいかげんなへんじをしながらそのこえにみみをかたむけていた。)
来た。葉子は叔母にいいかげんな返事をしながらその声に耳を傾けていた。
(そしてさつきけのさいごのりさんということをしみじみとかんじたのであった。)
そして早月家の最後の離散という事をしみじみと感じたのであった。