有島武郎 或る女⑬

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問題文

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(そしてもんをでてひだりにまがろうとしてふとみちばたのすていしにけつまずいて、)

そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、

(はっとめがさめたようにあたりをみまわした。やはりにじゅうごのようこである。)

はっと目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。

(いいえむかしたしかにいちどけつまずいたことがあった。そうおもってようこはめいしんかの)

いいえ昔たしかに一度けつまずいたことがあった。そう思って葉子は迷信家の

(ようにもういちどふりかえってすていしをみた。そのときにひは・・・やはりしょくぶつえんの)

ようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は・・・やはり植物園の

(もりのあのへんにあった。そしてみちのくらさもこのくらいだった。じぶんはそのとき、)

森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、

(うちだのおくさんにうちだのわるくちをいって、ぺてろときりすととのあいだにとりかわされた)

内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた

(かんじょにたいするもんどうをれいにひいた。いいえ、それはきょうしたことだった。きょう)

寛恕に対する問答を例に引いた。いいえ、それはきょうした事だった。きょう

(いみのないなみだをおくさんがこぼしたように、そのときもおくさんはいみのないなみだを)

意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙を

(こぼした。そのときにもじぶんはにじゅうご・・・そんなことはない。そんなことのあろう)

こぼした。その時にも自分は二十五・・・そんな事はない。そんな事のあろう

(はずがない・・・へんな・・・。それにしてもあのすていしにはおぼえがある。あれは)

はずがない・・・変な・・・。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは

(むかしからあすこにちゃんとあった。こうおもいつづけてくると、ようこは、いつかははと)

昔からあすこにちゃんとあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と

(あそびにきたとき、なにかいかってそのすていしにかじりついてうごかなかったことを)

遊びに来た時、何か怒ってその捨て石にかじり付いて動かなかった事を

(まざまざとこころにうかべた。そのときはおおきないしだとおもっていたのにこれんぼっちの)

まざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの

(いしなのか。ははがとうわくしてたったすがたがはっきりめさきにあらわれた。とおもうとやがて)

石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがて

(そのりんかくがかがやきだして、めもむけられないほどかがやいたが、すっとおしげもなく)

その輪郭が輝きだして、目も向けられないほど輝いたが、すっと惜しげもなく

(きえてしまって、ようこはじぶんのからだがちゅううからどっしりだいちにおりたった)

消えてしまって、葉子は自分のからだが中有からどっしり大地におり立った

(ようなかんじをうけた。どうじにはなぢがどくどくくちからあごをつたってむねのあわせめを)

ような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口から顎を伝って胸の合わせ目を

(よごした。おどろいてはんけちをたもとからさぐりだそうとしたとき、「どうかなさい)

よごした。驚いてハンケチを袂から探り出そうとした時、「どうかなさい

(ましたか」というこえにおどろかされて、ようこははじめてじぶんのあとにじんりきしゃがついて)

ましたか」という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて

(きていたのにきがついた。みるとすていしのあるところはもうはちきゅうちょううしろになって)

来ていたのに気がついた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになって

など

(いた。「はなぢなの」とこたえながらようこははじめてのようにあたりをみた。そこには)

いた。「鼻血なの」と応えながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには

(こんのれんをところせまくかけわたしたかみやのしょうてんがあった。ようこはとりあえずそこに)

紺暖簾を所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子はとりあえずそこに

(はいって、ひとめをさけながらかおをあらわしてもらおうとした。しじゅうかっこうのこくめい)

はいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。四十格好の克明

(らしいかみさんがわがことのようにかなだらいにみずをうつしてもってきて)

らしい内儀(かみ)さんがわが事のように金盥に水を移して持って来て

(くれた。ようこはそれでおしろいけのないかおをおもうぞんぶんにひやした。そしてすこし)

くれた。葉子はそれで白粉気のない顔を思う存分に冷やした。そして少し

(ひとごこちがついたので、おびのあいだからかいちゅうかがみをとりだしてかおをなおそうとすると、)

人心地がついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、

(かがみがいつのまにかまふたつにわれていた。せんこくけつまずいたひょうしにわれたの)

鏡がいつのまにかま二つに破(わ)れていた。先刻けつまずいた拍子に破れたの

(かしらんとおもってみたが、それくらいでわれるはずはない。いかりにまかせてむねが)

かしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸が

(かっとなったとき、われたのだろうか。なんだかそうらしくもおもえた。それとも)

かっとなった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それとも

(あすのふなでのふきつをつげるなにかのごうかもしれない。きむらとのゆくすえのはめつを)

あすの船出の不吉を告げる何かの業かもしれない。木村との行く末の破滅を

(しらせるわるいつじうらかもしれない。またそうおもうとようこはえりもとにこおったはりでも)

知らせる悪い辻占かもしれない。またそう思うと葉子は襟元に凍った針でも

(さされるように、ぞくぞくとわけのわからないみぶるいをした。いったいじぶんは)

刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分は

(どうなっていくのだろう。ようこはこれまでのみきわめられないふしぎなじぶんの)

どうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の

(うんめいをおもうにつけ、これからさきのうんめいがそらおそろしくこころにえがかれた。ようこはふあんな)

運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な

(ゆううつなめつきをしてみせをみまわした。ちょうばにすわりこんだかみさんのひざに)

悒鬱な目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ内儀さんの膝に

(もたれて、ななつほどのしょうじょが、じっとようこのめをむかえてようこをみつめていた。)

もたれて、七つほどの少女が、じっと葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。

(やせぎすで、いたいたしいほどめのおおきな、そのくせくろめのちいさな、あおじろいかおが、)

やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、

(うすぐらいみせのおくから、こうりょうやせっけんのかおりにつつまれて、ぼんやりうきでたように)

薄暗い店の奥から、香料や石鹸の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように

(みえるのが、なにかかがみのわれたのとえんでもあるらしくながめられた。ようこの)

見えるのが、何か鏡の破(わ)れたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の

(こころはまったくふだんのおちつきをうしなってしまったようにわくわくして、たっても)

心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわくわくして、立っても

(すわってもいられないようになった。ばかなとおもいながらこわいものにでもおい)

すわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追い

(すがられるようだった。しばらくのあいだようこはこのきかいなこころのどうようのためにみせを)

すがられるようだった。しばらくの間葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を

(たちさることもしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれというすてばちな)

立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな

(きになってげんきをとりなおしながら、いくらかのれいをしてそこをでた。でるには)

気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには

(でたが、もうくるまにのるきにもなれなかった。これからさだこにあいにいって)

出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行って

(よそながらわかれをおしもうとおもっていたそのこころぐみさえものうかった。さだこに)

よそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂かった。定子に

(あったところがどうなるものか。じぶんのことすらつぎのしゅんかんにはとりとめもない)

会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもない

(ものを、たにんのことーーそれはよしじぶんのちをわけたたいせつなひとりごであろうともーー)

ものを、他人の事ーーそれはよし自分の血を分けた大切な独子であろうともーー

(などをかんがえるだけがばかなことだとおもった。そしてもういちどそこのみせからまきがみを)

などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙を

(かって、すずりばこをかりて、おとこはずかしいひっせきで、しゅっぱつまえにもういちどうばをおとずれる)

買って、硯箱を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れる

(つもりだったが、それができなくなったから、このごともさだこをよろしくたのむ。)

つもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。

(とうざのひようとしてかねをすこしおくっておくといういみをかんたんにしたためて、ながたから)

当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から

(おくってよこしたかわせのかねをふうにゅうして、そのみせをでた。そしていきなりそこに)

送ってよこした為替の金を封入して、その店を出た。そしていきなりそこに

(まちあわしていたじんりきしゃのうえのひざかけをはぐって、けこみにうちつけてある)

待ち合わしていた人力車の上の膝掛けをはぐって、蹴込みに打ち付けてある

(かんさつにしっかりめをとおしておいて、「わたしはこれからあるいていくから、この)

鑑札にしっかり目を通しておいて、「わたしはこれから歩いて行くから、この

(てがみをここへとどけておくれ、へんじはいらないのだから・・・おかねですよ、すこし)

手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから・・・お金ですよ、少し

(どっさりあるからだいじにしてね」としゃふにいいつけた。しゃふはろくにみしりも)

どっさりあるから大事にしてね」と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りも

(ないものにたいきんをわたしてへいきでいるおんなのかおをいまさらのようにきょときょとと)

ないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょときょとと

(みやりながらからぐるまをひいてたちさった。だいはちぐるまがつづけさまにいなかにむいてかえって)

見やりながら空俥を引いて立ち去った。大八車が続けさまに田舎に向いて帰って

(いくこいしかわのゆうぐれのなかを、ようこはかさをつえにしながらおもいにふけってあるいて)

行く小石川の夕暮れの中を、葉子は傘を杖にしながら思いにふけって歩いて

(いった。こもったあいしゅうが、はっしないさけのように、ようこのこめかみをちかちかと)

行った。こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと

(いためた。ようこはじんりきしゃのゆくえをみうしなっていた。そしてじぶんではまっすぐに)

痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに

(くぎだなのほうにいそぐつもりでいた。ところがじっさいはめにみえぬちからでじんりきしゃにむすび)

釘店のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び

(つけられでもしたように、しらずしらずじんりきしゃのとおったとおりのみちをあるいて、)

付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、

(はっときがついたときにはいつのまにか、うばがすむしたやいけのはたのあるまがりかどに)

はっと気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷池の端の或る曲がり角に

(きてたっていた。そこでようこはぎょっとしてたちどまってしまった。みじかくなり)

来て立っていた。そこで葉子はぎょっとして立ちどまってしまった。短くなり

(まさったひはほんごうのたかだいにかくれて、おうらいにはくりやのけむりともゆうもやともつかぬうすいきりが)

まさった日は本郷の高台に隠れて、往来には厨の煙とも夕靄ともつかぬ薄い霧が

(ただよって、がいとうのらんぷのひがことにあかくちらほらちらほらとともっていた。)

ただよって、街頭のランプの灯がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。

(とおりなれたこのかいわいのくうきはとくべつなしたしみをもってようこのひふをなでた。)

通り慣れたこの界隈の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。

(こころよりもにくたいのほうがよけいにさだこのいるところにひきつけられるようにさえ)

心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ

(おもえた。ようこのくちびるはあたたかいもものかわのようなさだこのほおのはだざわりに)

思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬の膚ざわりに

(あこがれた。ようこのてはもうめれんすのだんりょくのあるやわらかいしょっかんをかんじていた。)

あこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のある軟らかい触感を感じていた。

(ようこのひざはふうわりとしたかるいおもみをおぼえていた。みみにはこどものあくせんとが)

葉子の膝はふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが

(やきついた。めには、まがりかどのくちかかったくろいたべいをとおして、きべからうけた)

焼き付いた。目には、曲がり角の朽ちかかった黒板塀を透して、木部から稟けた

(えくぼのできるえがおがいやおうなしにすいついてきた。・・・ちぶさはくすむった)

笑窪のできる笑顔が否応なしに吸い付いて来た。・・・乳房はくすむった

(かった。ようこはおもわずかたほおにびしょうをうかべてあたりをぬすむようにみまわした。)

かった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。

(とちょうどそこをとおりかかったかみさんが、なにかをまえかけのしたにかくしながら)

とちょうどそこを通りかかった内儀さんが、何かを前掛けの下に隠しながら

(じっとようこのたちすがたをふりかえってまでみてとおるのにきがついた。ようこはあくじでも)

じっと葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。葉子は悪事でも

(はたらいていたひとのように、きゅうにえがおをひっこめてしまった。そしてこそこそと)

働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそこそと

(そこをたちのいてしのばずのいけにでた。そしてかこもみらいももたないひとのように、)

そこを立ちのいて不忍池に出た。そして過去も未来も持たない人のように、

(いけのはたにつくねんとつったったまま、いけのなかのはすのみのひとつにめをさだめて、)

池の端につくねんと突っ立ったまま、池の中の蓮の実の一つに目を定めて、

(みうごきもせずにこはんときたちつくしていた。)

身動きもせずに小半時立ち尽くしていた。

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